長崎県平戸市生月町博物館「島の館」

平戸史再考No.006 準構造船の航路と信仰

準構造船の航路と信仰

 

 3世紀前期における日本周辺の国際情勢を見ると、漢の滅亡後に華北を支配した魏が東北部を支配していた公孫氏を破り、朝鮮半島北東部の楽浪郡とその南に位置し山東半島と対峙する位置にある帯方郡を支配下に置き、朝鮮半島と日本列島に向けた外交の窓口としている。「魏志」東夷伝・倭人の項には邪馬台国と女王・卑弥呼が登場するが、そこに記された邪馬台国までの行程の解釈を巡り、邪馬台国九州説と畿内説が論争を繰り広げてきた。邪馬臺国は景初3年(239)6月に難升米を使節として帯方郡に送り、12月には卑弥呼が魏の皇帝から親魏倭王に任命されている。3世紀前~中期には、奈良平野の纏向に諸国の土器が集まる巨大な集落(町)が作られ、全長270㍍の巨大な前方後円墳・箸墓が造営されている。恐らくはこの時期、纏向を都として西日本から近畿、北陸、中部、東海地方を統合した大和朝廷が成立し、「魏志」に邪馬臺(ヤマト)国と記載されたと思われる。この国家がどのような経緯を経て成立したのかについてはよく分かっていないが、単に渡来人が主体をなす国家というだけなら、文化・技術の供給元である朝鮮や中国大陸に近い北部九州に都を設けた方が良さそうに思う。それをわざわざ奥まった所に都を設けたのには、朝鮮や中国大陸で何らかの抗争に関わった勢力が、抗争に破れるか避けるかして渡来し、抗争地からなるべく離れた場所に平和な国家を築こうとしたように思える。

大和朝廷が大陸の玄関口である北部九州と畿内との一体化を維持するためには、なにより瀬戸内海を経由する那津~墨江航路の安定的支配が重要で、その点で大和朝廷は同航路を基盤とした国家だと言っても過言では無い。大和朝廷が同航路を重視していた証拠として記紀(古事記、日本書紀)の国生みの記述がある。伊邪那伎命が黄泉国から帰った時、穢れを祓う禊ぎをするが、その際に綿津見神と筒之男神が各三柱のセットで生まれている。綿津見神は博多湾口の志賀島、筒之男神は難波の住吉神社に祀られているが、両神は那津~墨江航路の両端にあって航路を守護しているのである。航路両端に航路を守護する神を祀るという形は、同一勢力や協調関係にある複数勢力の圏内にある航路の神的守護の形と考えられるが、中世以降の大洋路において航路の発着地や沿線に密教や禅宗の寺院が造られるのもこうした意識による事が考えられる。なお日本海航路も、瀬戸内海航路が反乱などで機能不全に陥った時の予備ルートとして重視されたと考えられる。

大和朝廷は各地の豪族を支配に置くための施策として、帰属した豪族に対し、纏向周辺でいち早く造営された墳丘形式である前方後円墳の使用を認めていくが、国家成立間もない古墳時代前期(3世紀後半~4世紀後半)頃の築造場所には、豪族の本拠地の他に、各豪族が支配する領域を縦貫する川の河口付近がよく選ばれている。例えば福岡平野の旧奴国地域では当時の那珂川河口域に那珂八幡古墳が、唐津平野の旧末蘆国地域では同じく松浦川河口域に久里双水古墳が、伊万里地域では有田川河口域に杢路寺古墳が造営されている。渡来人を起源とする住民達にとって、川はクニの柱、河口はその基点と認識されていたのだろう。

しかし中期(4世紀後半~5世紀後半)頃になると、航路沿いの海から見える場所に前方後円墳が築かれるようになる。例えば大和の外港・難波への入口にあたる明石海峡南岸には、葺石が見事に復元されている五色塚古墳が存在し、明石海峡を往来する船から眺める事ができる。九州北西部の唐津地方では鏡山西側にあって外港と想定される鏡地区に島田塚古墳が、壱岐に渡る航路に面した東松浦半島先端の加部島の崖上には瓢塚が、伊万里湾西岸の小島には小島古墳が造営されているが、小島古墳の存在は、伊万里湾域の準構造船の航海が湾口を横断する形ではなく湾岸に沿うように航海した事を示している。そして伊万里湾岸を辿った航路が平戸瀬戸に達する直前の、平戸市田平町の釜田湾に面した岬上には岳崎古墳が存在する。同古墳は、当地にあった里田原の水田地帯を支配する豪族が、平戸瀬戸の潮待ち港である釜田湾を意識して造営したと思われる。

大和朝廷にとって、瀬戸内海航路と連結し、北部九州と朝鮮半島南部を結ぶ朝鮮海峡横断航路は、権力の生命線と言ってもいい重要な航路だったが、同航路は朝鮮半島を海北と呼んだ事に因んで「海北道」と呼ばれた。大和朝廷の支配層は朝鮮、中国からの渡来人の子孫で構成されていたが、特に朝鮮半島南部の加耶地方との結びつきが強く、同地方には日本列島出身の倭人も多く住み、鉄その他の資源の供給地としても重要だった。加耶地方には多くの小国が存在したが、西隣には百済、東隣には新羅が建国され、また朝鮮半島北部には漢や魏が設置・維持した楽浪郡、帯方郡を排して成立した高句麗が勢力を拡大しており、大和朝廷はそれらの国々から加耶諸国を守るために軍事支援を続けていた。こうした朝鮮半島南部との交易や軍事活動を支えたのが海北道を航海する準構造船だったが、例えば天智天皇2年(663)に百済を救援するために朝廷から派遣された安曇比羅夫らが指揮する軍は、千隻を越える船を有していたとされる。

古墳時代の準構造船の航海について記した同時代の史料は無いが、少し後の奈良時代については『万葉集』の歌や付記に多くの事例がある。※以下( )内の数字は、新編日本古典文学全集『万葉集』(小学館)記載の歌の番号である。例えば663年の白村江の敗戦後に北部九州に配置された防人は、各地で招集された後、難波の海に集結し、そこから船団を組んで西海の任地に向かっていて、「難波の御津に 大船にま櫂しじ貫き 朝なぎに水手整へ 夕潮に梶引き折り率ひて 漕ぎ行く君は 波の間を い行きさぐくみま辛くも 早く至りて」(4331)という歌から分かるように、大船に乗船して櫂を漕いで任地に赴いている。

対馬の防人に関しては、太宰府から兵糧を送る船の舵師(船頭)に関する一連の歌がある(3860-69)。それによるとこの航海は当初、宗像郡の百姓宗形部津麻呂が太宰府から任を受けていたが、自分は老いているので滓屋郡志賀村の白水郎・荒雄に代役を依頼している。荒雄は快諾し「鴨」という名の船で松浦郡美祢良久の崎から対馬を目指すが、暴風雨で遭難してしまう。なお『続日本記』宝亀3年(772)12月の項には、壱岐嶋掾・従六位上の上村主墨縄らが年間の食料を対馬に輸送する時、急に逆風に遭って船は難破し人々は溺死し、米穀も波間に漂失したため、太宰府が失った米穀の扱いを評議するという報告があり、『日本後記』の延暦23年(804)の項にも壱岐島の防人の穀は筑前から送っているが、運送が難しくよく漂失しているという記述がある。海北道は航路になってはいたが、それでも大海を渡る航海は準構造船にとっては危険なものだったのである。

また『万葉集』には、百済を滅ぼして朝鮮半島を統一した新羅に派遣される遣新羅使について詠んだ一連の歌があって、瀬戸内海と朝鮮海峡横断(海北道)の両航路の状況を窺い知る事ができる。『続日本記』によると天平8年(736)遣新羅使・阿倍継麻呂は4月17日、出発に際し聖武天皇に拝謁している。継麻呂の使節船には「大船に真梶しじ貫き」(3611)とある事から大船(準構造船)を用いている事が分かるが、瀬戸内海では武庫の浦(尼崎市武庫川、3678)、藤江の浦(明石市藤江、3607)、大伴の御津(たつの市御津、3593)、玉の浦(玉野市玉、3627)、安胡の浦(浅口市安倉か、3610)、備後国水調郡長井の浦(三原市糸崎、3612)、風早の浦(東広島市、3615)、安芸国長門島(倉橋島、3617)、周防国玖河郡麻里布浦(岩国市、3630)、大島の鳴門(柳井市、3638)、可太の大島(周防大島か、3634)、熊毛の浦(上関町付近、3640)、伊波比島(祝島、3636)、豊前国分間の浦(中津市)などの場所を寄港・通過している。これから分かるのは、使節船が瀬戸内海の北岸沿いを這うように航海したという事実である。また瀬戸内海の航海の終わりには海を横断して豊前分間浦に到着して、そこで歌を8首詠んでいるが、その後関門海峡や北九州沿岸についての歌は無いまま筑紫の館に到着している。そのため使節一行は豊前で下船して陸路で太宰府に向かい、船だけが関門海峡を越えて博多湾に向かった事が考えられる。

博多港を出航した使節船は韓亭(福岡市西区唐泊)で3日停泊しているが(3668)、そこでは対岸に見える「能許(能古島)の浦波」の立ち方で出航を決め(3670)、糸島半島沿岸を航行して引津に入港する(3674)。しかしそこからは「沖つ波高く立つ日に遭へりきと」(3675)「大船にま梶しじ貫き時待つと我は思へど月そ経にける」(3679)とあるようになかなか出港できなかった。ようやく出航して肥前国狛島の亭(唐津市神集島)に入港しているが(3681)、引津-神集島という行程から唐津湾岸に沿って航海した事が考えられる。そこからはいよいよ海北道である。最初に壱岐水道を横断して壱岐に到着するが(3688)、当時壱岐は「昔より言ひけることの韓国の辛くもここに別れするかも」(3695)と詠まれるように国の果て、別れを惜しむ場所と認識され、「新羅へか家にか帰る壱岐の島」(3696)と、行くか戻るか決断する場所でもあった。またそうした場所柄からか壱岐の海人によって亀の甲羅を焼く占いも行われている(3694)。さらに壱岐を出航して東水道を渡り対馬の浅茅の浦に至るが、ここには「百船の泊つる対馬の浅茅山」(3697)とあるように、おそらくは金田城に駐屯する防人が用いる船舶や彼らに補給する船の停泊地があったと思われるのだが、かつて朝鮮半島に出征する船団が集結した記憶が使節の人達に共有されていたのかも知れない。彼らは更に竹敷浦まで航行し(3700)ここで歌は終わるが、船はその後西水道に乗り出して朝鮮半島に到着している。『続日本記』天平9年(737)1月27日の項には使節で大判官を勤めた壬生使主宇太麻呂らが帰国・入京した記事があるが、正使の継麻呂は帰路、対馬で病没している。

 さて単材刳船を用いる海人は、海を俗界、陸地を異界と認識した上で、陸地の山をカミとして信仰する意識があった事を前々回に述べた。先の志賀の荒雄のように、準構造船の建造技術は渡来人がもたらしたが、船の運用についてはもとから居た海人も関わるようになっていた事が分かるが、一方で新たな海の神の祭祀の形も登場している。

博多湾東方の宗像地方には古墳時代から胸形(宗像)氏という豪族が居り、宗像神という海神を祀っている。記紀によると宗像神は天照大神と素戔嗚尊が天安河原で行った剣珠の誓約で生まれてきた田心姫、湍津姫、市杵島姫の三女神で、筑紫の胸肩君(宗像氏)が祭る神だとされている。また『日本書紀』には「一書に曰く」として遠宮(おきつみや)、中宮(なかつみや)、海浜(へつのみや)に坐すとしているが、これは玄海灘のただ中にある沖ノ島にある沖津宮、地先の大島にある中津宮、本土にある辺津宮に対応している。この三社も以前紹介した海人の山への信仰と同じく、神(神域)に対する三所からなる祭祀の形があり、記紀ではその三所にそれぞれ神格を持たせたと考えられるのだが、宗像は志々伎山とは逆に、陸地が俗界、海が異界という認識に拠っている。宗像神信仰の最古態は大海の中央にある絶海の孤島自体を神か神の坐所とみなす信仰だったと思われるが、宗像氏による祭祀のあり方は、俗界である本土に日常の祭場を、陸と海の境界である地先の島にマツリの祭場を置き、神域である海の中心にある絶海の孤島に神域内の供献場を置く形であった。その場合の人の居所は陸上であり、宗像氏による宗像神の信仰は陸地民による海神信仰だと捉える事ができる。宗像神の祭祀者である宗像氏は海人を統率してはいるものの、あくまで陸地を治める豪族であり、その活動基盤は陸地民が海を利用する交易活動だった事が考えられるのである。

『日本書紀』には「一書に曰く」として、三女神は「海北道(海の北の道の中)」に坐す「道主貫(みちぬしのむち)」すなわち尊い道の主だとされる。海北は朝鮮半島とされる事から、海北道は日本から朝鮮半島に渡る航路と考えられるが、この航路が那津~墨江航路と異なるのは、航路の一端は自勢力の圏外にある事である。そのため航路を行く船や人は自己の勢力圏側からの祭祀のみで守護せねばならないジレンマがあり、そうしたあり方の中で航海守護の祈願を委ねられた神こそが宗像神だったのである。

従来の研究では、沖ノ島が信仰の島となっているのは、宗像から沖ノ島を経由して対馬に渡る航路の安寧を祈願するためと解釈される傾向があった。そうなると海北道は沖ノ島経由の航路という事になるが、既に述べてきたように準構造船の航海は同船の構造・水密の脆弱性から考えると、天候に恵まれた状況下での緊急の航海や、安全な航路が何らかの事情(戦争など)で使用できないなどの特別の場合を除き、荷物や人員を確実に送るためには可能な限り沿岸に沿って航行し、大海の横断は最も短くなる形で行ったと考えられる。この原則に従うと、沖ノ島を経由して朝鮮海峡を横断する航海は途中に避難する陸地が沖ノ島しか無いのでリスクがあり過ぎ、他方、壱岐、対馬を統べる勢力と宗像氏が対立した状況も確認されない事から、海北道とはやはり、縄文時代から用いられ遣新羅使も用いた壱岐、対馬を経由する航路である事は間違いない。では何故、宗像神が海北道の道の主とされたかだが、沖ノ島は宗像、糸島、東松浦、壱岐、対馬など海北道の航路筋からおしなべて遠望できる事から、島自身ないしは島に坐す神が航路を見守る存在と認識された事が考えられる。おそらくは元々宗像氏が祀っていた地方神を、大和朝廷が国家維持の要たる海北道を守護する重要な神と位置づけ国家祭祀を行うようになったと考えられ、記紀における宗像神のポジションも同神が守護する海北道の重要性に対応したものだと言える。

海北道における宗像神の役割について考える時、壱岐に渡海する出発点となる東松浦半島先端の加部島に宗像三女神を祀る式内社・田島神社が鎮座し、沖合の小川島にも田島神社が鎮座する点は重要である。草場佩川が文政3年(1820)に見聞した記事を纏めた『松浦古跡 付 捕鯨記事』には、玄界灘に浮かぶ沖ノ島を「沖ノ隠神(ヲンカウ)」と称したのに対し小川島の事を「地ノ隠神」と称したという記述があり、かつては加部島の田島神社、小川島の田島神社、沖ノ島を結んだ三社の形が存在した可能性もあり、海北道における宗像神信仰の展開を窺わせる。

宗像神も志々伎神同様、具体的な自然存在(島)を崇拝するプリミティブな海人の信仰から始まったと考えられるが、女神という属性には、船乗りが航海安全を祈願する儀礼的行為が下敷きになっている可能性がある。宗像神は航路の一端側からのみ航海守護の祈願を行う形に適合した霊力を供えた神でなければならなかったが、その事と女神である事の関係を窺い知る事ができるのが松浦佐用姫の伝説である。

 松浦佐用姫は唐津地方に伝わる伝説の主人公で、朝鮮半島に派遣される将軍・大伴狭手彦と恋に落ち、渡海する狭手彦の船を鏡山から褶(ひれ)を振って見送るが、その後石になったともされる。この伝説の起源は『肥前国風土記』(以下『風土記』と略す)に記された鏡の渡、褶振の峯の解説文の中に登場する、弟日姫子(以下「姫子」と略す)と大伴狭手彦の物語である。風土記には①姫子が狭手彦から別離に際して貰った鏡を栗川を渡る際に落とした話、②渡海する狭手彦の船を姫子が褶振の峯から褶を振って見送る話、③独りになった姫子の元を狭手彦の姿をした蛇が夜這い、蛇と共に失踪したとおぼしき姫子の死体が沼底から発見されるという話が掲載されている。この中で中心となるのは②の話で、『万葉集』の歌にも詠まれた情感溢れる場面だが、日野一雄氏は「作用姫伝説の研究」で「英雄貴紳が戦争や行旅の途次、処々に仮の妻をよびひ住んだ事は上代の記録によって察することができる」と、狭手彦と姫子の交わりは旅にまつわる習慣的なものと規定した上で、褶振を「離れゆく夫をここに引きもどさんとするマジック的行為」と捉えていて、筆者もその意見に概ね賛同する。

吉本隆明氏は『共同幻想論』で、性的な関係を持つ男女の間には「対幻想」が存在するとしたが、筆者は対になった男女間の引き合う力を呪術に援用し、航海で旅立つ男が女と儀礼的な交合を行う事で引き合う力を生じさせ、女が旅立つ男を無事に帰還するよう守護する呪術的力場を発揮するために、褶を振るという儀礼的送別が行われたのではないかと考える。鏡山の麓の鏡地区は、現在虹の松原がある砂丘の内側にあるラグーン(内潟)に面し、いにしえの末廬国の外港であったが、多数の船が安全に停泊でき、食料の補給にも便利な泊地として、朝鮮半島に出発する船団の集結地となっていたと考えられる。そのため鏡に鎮座する鏡社に祀られる鏡、蛇を媒介とした水神は同時に航海神としても祀られ、儀礼的交合やひれ振りはそれらの神に因んだ儀礼だった事が推測される。

宗像神については『日本書紀』雄略天皇9年(465)の項に、新羅遠征の神託を得るため朝廷から遣わされた凡河内直香賜が、神前の壇所で采女を犯したという事件が記されているが、筆者はこれも航海神である宗像神の祭祀に伴う儀礼的交合の可能性があると考える。女神である宗像神が航路を守護する海神として祀られた背景には、佐用姫説話で窺えるような男女間の精神的力場の認識があったのではないだろうか。 

                            (2020.9 中園記)




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