生月学講座No.206「生月がんどう」
- 2020/08/28 09:07
- カテゴリー:生月学講座
生月学講座 生月がんどう
生月島で昔から言われてきた「壱州とんびに大島がらす、生月がんどうに物言うな」という俚言があります。「壱州」とは壱岐の事で、そこの人はとんびの様に他人の功を横から掠め取るのを得意とするという意味です。次の「大島」は的山大島の事で、烏のようによく騒ぐが行動は伴わないという意味です。
最後の生月の人は「がんどう」と呼ばれていますが、元々この言葉は盗賊(強盗)の事を指す言葉です。『綜合日本民俗語彙』を紐解くと、福井県にはガンドウダニという地名があり、そこは昔、盗賊が村をなしていた谷だといいます。岩手県にもガンドウヤシキというのがあり、やはり盗賊の根拠地になっていたそうです。盗賊は人の物を盗るくらいだから強欲に違いなく、生月弁の「がんどう」は盗賊くらい強欲という意味で使われていたと思われます。しかしそれが生月人全体のパーソナリティーと見なされていた訳です。大正11年(1922)山田尋常小学校に建立された「本川先生君功之碑」の碑文には「古来「生月がんどう」ト侮レタ暗イ島影ニ」という一節があり、この言葉に対する当時の生月人の心情を伺い知る事ができます。
しかし同様の俚言は他地方にも存在しており、例えば壱岐では「芦辺烏に瀬戸トンビ、印通寺ボトケに油断をするな」というのがあります。壱岐の人に伺うと、芦辺は祭り好きで鯨が捕れた時などわーわー騒ぐ。しかし瀬戸の人は上の方から見下ろすばかりで(お高くとまって)何もしない。最後の印通寺の人は、最後に利を確認して取っていくまで(仏像のように黙って)ものを言わないという意味だそうです。昔現地で教員だった人は、芦辺の子供はすぐ馴れ馴れしく寄ってきて話し、授業でもきっかけを与えれば直ぐに取り組むが、印通寺の子供は口が重い上、こっちが話を振ってもなかなか取り組まなかった印象があったそうで、こうした俚言もある程度は土地の性格を言い当てているのではないかという印象を話されていました。ならばどうして生月人は「がんどう」と呼ばれるようになったのでしょうか。
江戸時代に佐賀県の呼子で中尾組という鯨組の総監督を務めた藤松甚次郎が残した『鯨組方一件』という文書には、「平戸御領生月組、法令正しく諸事取り締まり方、至極厳しく致し候。故に、いずれ方の組請け(入漁)候ても、生月組はがんどふ組と相唱え、浦人共、大いに相憎しみ候」という一文があります。これが生月と「がんどう」を結びつける、確認できる中で最古の記述ですが、生月組(益冨組)は規則に則って厳正に鯨組を経営して、出漁先の住民のカンダラ(盗み魚)や地元従業員らによる横流しなどを許さなかったので、出漁先の住民から「がんどう組」-漁の利益を独占し、地元に十分に還元しない強盗のような組-と呼ばれたとされています。しかし筆者の藤松甚次郎は生月組のこの姿勢を批判しておらず、却って経営者たるもの、情や私欲に囚われず、組織の経営を成り立たせる事を専一に考えなければ、潰れて元も子も無くなってしまうのだと評価しています。そういった意味では「生月がんどう」はけなし言葉というより、むしろ褒め言葉だと言えるのかも知れません。