長崎県平戸市生月町博物館「島の館」

生月学講座No.207「櫓漕ぎの習得」 

生月学講座 櫓漕ぎの習得

  今年はコロナの影響で舘浦競漕船(セリブネ)大会も中止となり、寂しい夏になりました。平成8年(1996)に第1回大会が行われた当時は一般、漁船団(第9回まで)、地区の3種目でしたが、平成10年(1998)の第3回大会から女性と中学生のレースが始まり、平成28年(2016)の第20回大会には高校生レース(後に中断)が、平成29年(2017)の第21回大会からは小学生レースが設けられています。
 各種目で熱戦が繰り広げられる競漕船大会は、漁業の島・生月の夏の風物詩として定着した観がありますが、単なるイベントとは別の大きな成果も感じます。それは「櫓漕ぎ」という日本の伝統的な船の推進法を女性や子供まで数百人の人が習得しているという「事実」です。江戸時代後期までの船は、人の手で櫓や櫂などを操るか、帆を張って風の力で進むかしかなく、生月島で捕鯨に用いられた鯨船(勢子船)も8挺の櫓を12人で漕いでいました。幕末には蒸気船が導入されますが、漁船にエンジンが付くようになるのは明治の終わり頃で、生月島で動力まき網船が登場するのは昭和初期以降、沿岸の小型漁船の動力化は昭和40年代以降の事でした。秋に行われるアゴ網も昭和30年代頃までは2艘の木造のテント船を漕いで、現在のように網を曳き回すのでなく、囲むように網を張る二艘船引網の形態でした。しかし小型漁船の動力化以降は、櫓漕ぎは定置網の作業で副次的に用いられる以外は殆ど行われなくなっていました。そのため競漕船大会も、開始当初は定置網関係者や年配者のチームが有利でしたが、その後は青壮年で編成されたチームがどんどん力を付けていき、また女性チームも練習でめきめきと上達し、常連チームの中には男性チームと互角に渡り合える程の練度を有している所も出てきています。
 大会前の練習を見ていると、小中学生のチームも、乗り出しこそインストラクターの艫櫓の働きで何とか離岸するような感じですが、最初の1時間の練習が終わる頃には子供達だけでどうにか前に進めるようになり、練習を2~3回終える頃には、艫櫓も子供が漕いで仮設の周回ブイを回れるようになっています。そして大会本番でも概ね漂流する事なく、100㍍×往復コースをそこそこのタイムで戻って来ます。
 その事で思い出したのは、服部英雄氏が書かれた『蒙古襲来』という本の記述でした。その本では元寇での元・高麗の軍と日本の侍達の戦いを描いた『蒙古襲来絵詞』という絵巻物を史料として用いていますが、その中の船戦の場面に、日本側の水主(漕ぎ手)が兵船の櫓を漕ぐ描写があります。その漕ぎ手の中に鎧を着ている者が描かれているのを服部氏は、鎧は後の加筆で「海・船・潮の知識と技術を欠く兵士が水手に替わって櫓漕ぎをすることはなかった」と解釈されています。しかし競漕船の練習風景を見る限り、櫓漕ぎは進むだけなら短期間でも習得可能であり、まして沿岸部出身の武者や従者ならば、日常的に櫓漕ぎを体験する機会もあったと考えます。舘浦の小野和勝さんも終戦直後の小学校高学年の頃、祖父に連れられて伝馬船で夜イカ釣りに行き、その道ずがら櫓漕ぎを習って直ぐに覚え、その後は友達たちだけで中江ノ島や対岸の白石に櫓を漕いでサザエ取りに出かけていたそうです。元寇当時の日本の兵船では、航行の指揮を取る艫櫓は熟練の海民が引き受け、漕ぎ手には腕に覚えのある兵卒も充てて、我先に蒙古船に向かっていった状況があったのではないかと思います。
 




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