平戸市再考No.008 大洋路の成立とジャンク
- 2020/11/03 10:51
- カテゴリー:平戸史再考
大洋路の成立とジャンク
寛平6年(894)に遣唐使の派遣が菅原道真の建議によって廃止される。筆者が中学校の頃に学んだ歴史の授業では、これによって日本は外国との交流が中断され、平安時代の国風文化が花開いたという説明がされていた。遣唐使の主な役目は①国家間の儀礼的訪問や通信の送達にあったのだが、それ以外に②国家運営に必要な人材を確保するための留学生の送迎や先進国の優秀な人材を連れ帰る事、③自国の産品を運んで販売し相手国の産品を購入して持ち帰る貿易の側面も存在し、②や③の役割も決して低くないばかりか、自国の国情が安定した状況では①よりも②③の方が比重が大きくなった。遣唐使廃止期の日本もまさにそのような状況だったので、国同士の使節のやりとりは中断しても(外国の)民間商船による交易活動は却って盛んになっている。9世紀中頃に始まる日中間の民間交易は、その後中国側の国が変わっても延々と続いていくが、その中では中国華中の明州、のちに慶元、寧波とも呼ばれる港と日本の博多を結ぶ航路「大洋路」が、途中の舟山諸島や平戸などを終着点とする形も含め、17世紀中頃に至るまでの800年もの間、継続して利用される。
このような環シナ海世界における民間交易に先鞭を付けたのは、前回の承和遣唐使の帰国時にも登場した新羅の商人達だった。『日本後記』 弘仁5年(814)10月丙辰13日の条には、新羅商人31人が長門国豊浦郡に漂着した記事があるが、商人とある事から国家使節ではなく、単に交易のみを求めてきた民間人だった事が分かる。『続日本後記』承和元年(834)2月2日の条には、新羅人たちが遠く滄波を渡って太宰府に来ているが、百姓たちが弓で射て怪我を負わせたので手当をしたという記事がある。何故弓で射られたのかについては記されていないが、同承和2年(835)3月14日の条には、壱岐から近年新羅商人の来航が絶えないので、島の傜人330人を武装して14箇所の要害に詰めさせたという記事がある。このように各所に兵を分散配置するのは明らかに海賊の急襲を警戒するためで、新羅船が海賊行為も行っていた事が推測されるが、実際に『三代実録』貞観11年(869)6月15日の条には、5月22日に新羅海賊が2艘の船に乗って博多津に来て、豊前国の年貢の絹綿を載せた船を襲撃して逃走したという記事がある。ただ当然の事だが全ての新羅船が海賊行為を働いていた訳では無く、例えば第15回遣唐使一行の送還に便宜を図ったような者達もいた。承和6年(839)に遣唐使一行が帰国する際立ち寄った山東半島の赤山浦は、新羅商人の中国における拠点だったが、彼らの活動をバックアップしたのは新羅出身で唐の武将となった張宝高(中国名・張弓福)で、赤山には張の荘園もあった。彼は朝鮮帰国後の828年頃、新羅と唐を結ぶ航路の要衝である朝鮮半島西南端の莞島に置かれた清海鎮の大使に任命された事で、新羅商人の環シナ海貿易を掌握する事となった。
新羅商人の活動を支えたのが新羅船である。『続日本後記』承和7年(840)9月15日の太宰府からの連絡には、対馬島司から、海峡を横断する海は風波が激しく、貢調や文書を運ぶ船はよく漂没するが、聞くところによると新羅船はよく風波をしのいで航海できるという事なので、新羅船6隻のうちの1隻を給わりたいと話があり許可したという話が出ており、新羅船の性能が評価されていた事が分かる。なおこの新羅船は先に述べた遣唐使使節の送還に用いたものである可能性がある。新羅船も遣唐使船のモデルとなった百済船と同じ船体構造をしていたと思われるが、第15回遣唐使の復路では遣唐使船2隻分の乗員や荷物を新羅船9隻に分乗させている事から、遣唐使船の4分の1程度の積載量で全長20㍍弱程の比較的小降りの船だったと思われ、風波をしのぐ航海をしている事から、真横風程度なら帆走可能な帆(おそらくは網代帆)を装備していたと思われる。このように遣唐使船のモデルである百済船と新羅船は構造的には近いが、帆走艤装の違いから大きな性能差が生じていたのではないかと推測する。
なお承和の遣唐使使節に加わって入唐した円仁は、一行から離れて修行した後、(中国暦)会昌7年(847)7月20日、唐人江長、新羅人金子白、欽良暉、金珍らの込む蘇州船に乗って帰国しており、その航海は『入唐求法巡礼行記』に詳しく紹介されている。円仁乗船の蘇州船は9月2日に山東半島南岸の赤山浦を発し、南岸沿いに東に向かっている。そしてそのまま北風に乗って黄海を東に横断し、3日には遠くに朝鮮半島西岸を望見し、4日暁には熊州(公州)付近に達している。そこからは半島西岸を南下したと思われるが、5日には当初、南東風のため出港できず、西北風を得てから出港している。6日には武州南界黄茅島泥浦に入港し、山上から遙かに躭羅島(済州島)を眺めている。しかしその後無風が続き、8日には鏡を捨てて神を祀ったり、僧が土地神などに念誦して無事な航海を祈願している。すると港を出た所で西風を得て半島南岸沖を航海し、9月巳時(10時)には鴈島(巨文島)に到り、午後にはそこを出港して朝鮮海峡を南下し、10日には東に対馬を見、その日の午時(12時)には前方東から西南にかけて日本本土の山を見ている。そして夜の初めに肥前国松浦郡の北界である鹿島(小値賀島と推測される)に到着・停泊している。その後九州北岸沖を西に向かい15日には橘浦に到り、17日には博多湾に入って能挙島(能古島)のほとりに船を停め、9月18日には鴻臚館に到着している。なおこの円仁の帰国については『続日本後記』承和14年10月2日の条にも記述があるが、蘇州船入港の記録は無い。
この蘇州船の航路は、遣唐使船の航海で言うところの北路で、承和の遣唐使の復路で新羅船が使用した航路と大凡同じである。また黄海を東に横断する際に真横の北風を受けている事や、航路上の港に頻繁に寄港している事などから、網代帆を装備していた事が推測される。さらにこの蘇州船には大勢の新羅人が乗り組んでいる事から、新羅商人の北路を利用した環シナ海通商に中国の商人や商船が相乗りする形で参入していた事が考えられる。なおこうした状況は以前からあり、『入唐求法巡礼行記』開成4年1月4日の条には、弘仁10年(819)に唐人張覚済、新羅人王請が乗った船が出羽国に漂着した出来事が紹介されている(『日本紀略』には弘仁11年の事とある)。ずっと降る時代だが、18世紀の中国船などを描いた松浦史料博物館の『唐船之図』の中に「南京船」と呼ばれる中国船(ジャンク)が登場するが、同船は網代帆を持ちながら船底は平底、船首尾は板壁(戸立)造りで、船体側面から大きな板を水中に下ろして横風や斜め前を受けた帆走時の横流れを防いだ。ヨットのセンターボードと同じ役割をするこの板は、平底船で網代帆を用いる時には必要不可欠の装置だったが、こうした形状・装備の船は「沙船」と呼ばれていた。沙船は、揚子江などの河川を航行するために平底になっていたが、南京は揚子江の中流域、蘇州も同じ揚子江の下流域のデルタ地帯にあたる事から、9世紀の蘇州船も沙船と同じ船体構造や網代帆を有していた可能性が高い。しかしさらに考えを進めると、平底で船首尾が板壁、横隔壁を多く備え、網代帆を装備した沙船の船形が中国(唐)で当初のジャンクの形態として成立し、その帆走艤装が新羅船にも導入された可能性がある。
さて最後の遣唐使である承和の遣唐使の派遣時期頃になると、唐の商人も日本を訪れるようになる。『入唐求法巡礼行記』会昌5年7月5日の条には(中国暦)会昌2年(842)に僧恵萼が李隣徳の船で日本に戻った記事があり、また「安祥寺伽藍縁起資材帳」によると承和9年(842)には唐商李処人が肥前遠値賀島の那留(奈留)浦で船を建造しており、僧慧運はこの船に乗って唐の温州に到着し、承和14年(847)には唐人張友信・元静の船に乗って明州を発して奈留浦に帰着している。奈留島は600年後の遣明船でも寄港地となっているが、奈留浦は五島灘に面している事から、網代帆を装備したジャンクは中国に向かう際には海象が穏やかな五島灘を航路として利用した事が考えられる。また張友信は『続日本後記』7月8日の条によると彼を含む37名が乗船した船で恐らくは博多津に来着している。また貞観3年(861)に平城天皇の皇子・真如(高岳)親王が渡唐を志した際には、難波から太宰府鴻臚館、壱岐、斑(馬渡)島を経て柏島(唐津市神集島)に移動した後、張友信に船の建造を命じている。そして翌年5月には船が完成し、7月中旬には友信ら3人が柂師を勤めて鴻臚館を発し、8月19日に遠値嘉島(五島)に到達、9月3日に同地を発して7日に明州(舟山島)に到着している(『国際交易の古代列島』)。神集島は前々回に紹介した遣新羅使・阿部継麻呂の使船の寄港地だが、大洋路を利用する唐商人の寄港地としても利用されている事が分かる。また明州は承和14年(847)に慧運が乗った唐船が出航した場所でもあるが、杭州湾の南に注ぐ甬江を遡った位置にあり、長く大洋路の中国側基点となる港町である。なお『三代実録』貞観7年(865)7月27日の項には、大唐商人の李延孝ら63人が乗り組んだ船一艘が博多湾に来着したので、鴻臚館に収容して食を供給したという記事がある。鴻臚館は先に真如親王が渡唐の際にも利用した施設で、博多湾岸の丘陵上(こんにち平和台と呼ばれている福岡城跡)に建物があった。本来は外国使節を収容・歓待する施設だが、9世紀以降、来日する新羅や唐の商人の宿泊にも使われた。
さて『類聚国史』貞観18年(876)3月9日の条には、唐人が値嘉島(平戸島)に来て勝手に香薬や奇石を採取するため、管理を強化するために上近郡と下近郡を設置し、それらを併せた値嘉島に島司を置いて管轄させる建議がなされた事を記している。平戸島の海岸からは実際にメノウやヒスイの原石が見つかっていて、これを採取するために当時、唐人が上陸していた事が分かるが、平戸島もまたジャンク船の寄港地となっている事から、島司職の設置も唐人対策も含めた大洋路掌握政策の一環である事が考えられる。
このように唐の商人の来航が盛んになる9世紀には、朝廷によって大洋路周辺に鎮座する神の位階が引き上げられるという事が起きている。平戸島南端にある志々伎山は、原始から海人の信仰対象になっていた事については以前に述べたが、『延喜式』神名帳にも「志々伎神」の記載がある。『三代実録』によると志々支(岐)神の位階が貞観15年(873)に従五位上から正五位下に引き上げられているが、この時には他に田嶋神(唐津市呼子)、豫等比咩(淀姫)神(佐賀市)、宗形神(宗像市)なども引き上げられており、豫等比咩神以外は九州北西の航路筋の神社である。さらに『類聚国史』貞観18年(876)6月8日の項を見ると、この時にも田嶋神、志々岐神とともに神嶋神(五島野崎島・小値賀島)、鳴神(五島奈留島)の位階が引き上げられており、まさに大洋路沿いの神社が対象になっている事が分かる。志々伎神が鎮座する値嘉島(平戸島)では前述したように貞観18年3月に唐人が活動している事が報告されているが、奈留島についても前述したように唐船の頻繁な寄港が起き、船の建造まで行われている事から、貞観18年6月の大洋路沿いなどの神々の位階引き上げは、異国人から国土の安全を守るという意図があるように思える。
志々伎神などの地方神が記紀や神名帳に記載されたり位階を贈られる事は、信仰面での朝廷による地方統制だと捉えられるが、加えて呼子沖の田島神社に景行天皇の皇孫である稚武王が、志々伎神社に同じく十城別王が祀られたとされる事は、皇孫神の配置で朝廷がより強固に航路を掌握する事を企図したのではないかと思える。
平安時代に入ると、そうした神社の場所に密教などの寺院が建立されるようになる。志々伎山には天台宗の円満寺が建立され、以後、明治初頭の神仏分離令まで僧侶が神社も併せて管掌する神仏習合の形を取っている。平戸島中部西岸にそびえる安満岳も、北方海上から秀麗な山容を眺める事ができる事から、古くからの海人の聖山だと思われるが、この山の頂部にも遅くとも13世紀には寺院が建てられていた事が、戦国時代の宣教師の報告から確認される。安満岳の山頂には白山神社が祀られているが、神社の後方には自然石の石祠とともに薩摩塔という特異な形状の石塔が奉納されている。この中国寧波由来の塔については次回詳しく紹介するが、これらの要素の組み合わせは福岡平野近郊久山町の首羅山にもあり、中世寺院の遺構と白山神社、薩摩塔が確認されている。首羅山にあった寺院は調査で博多に居住した中国人商人がパトロンとなって建立されたとされるが、問題は白山神である。これについては、従来は石川県の白山権現が勧請されたものと考えられてきたが、首羅山の寺院が中国人との結びつきがある事を考えると、中国寧波の天童寺に祀られる太白山龍王に関係する可能性を考える必要がある。安満岳も、薩摩塔という寧波由来の塔が存在し、大洋路沿岸に所在する以上、太白山龍王に起源する可能性は否定できない。加えて平戸島最北端にあり、周辺海域からコニーデ型の秀麗な山容が視認できる白岳についても、やはり太白山龍王との関係を考える必要がある。
中国商人の来航は、彼らが操る船であるジャンクの存在抜きには成り立ち得ない。風を利用して進む帆船というと、現代の日本人は西洋の帆船をイメージし勝ちだが、中国で誕生したジャンクは西洋の帆船と同等かそれ以上の大きさで、帆走能力も遜色無かった。そしてジャンクは、平戸を中継港として博多と寧波を結んだ大洋路八百年の歴史を支えた帆船でもあった。
中国技術史の権威、ジョセフ・ニーダムはその著書『中国の科学と文明』の中に、特に一巻(11巻)を割いてジャンクの紹介に充てている。その中でニーダムはジャンクの船体の特徴を竹に例えているが、それはとても的を得た表現である。ジャンクは狭い幅の板材で作られた船底材と左右の舷側材で構成された船体の内部に横方向の隔壁を多数並べて、竹のように連続的な箱構造を作る事で強固な船体構造を実現している。船首尾も隔壁同様、横方向に並べて接合した板壁(戸立)となっている。この構造ならば構造船化した和船のように、複数の板を予め接合させて作った広い板材(棚)を外板に用いる必要は無く、比較的狭い幅の板でも建造可能である。
なお18世紀の『唐船之図』には既述した平底の沙船と別の構造を持つ寧波船や広東船が紹介されていて、こちらは「鳥船」と呼ばれている。鳥船も網代帆で、船首尾は同じ板壁(戸立)で多数の横隔壁を擁しているが、船体横断面は逆三角形で最底部に竜骨という縦通材があり、沙船のように舷側から出す板は無い。断面が尖った船底は風を真横や斜め前から受けた場合の横流れが少なく、より外洋航海向きである。ニーダムはジャンクの起源を竹筏に求めているが、筆者は準構造船の回で述べたように、内陸水域で用いた筏を原形として平底船底が成立し、それに船首尾を板壁で形作った長原高廻型の準構造船の構造などが影響して、始めに平底船形の構造船が登場し、それが9世紀初頭までに網代帆を装備するようになり、その後に沙船タイプのジャンクが成立したと考える。
ジャンクのもう一つの特徴は「網代帆」という帆装である。これは竹を割いて作った薄板を格子に編んで帆にしたものである。その帆には多数の横桁が付いていて、後方や斜め後方の風を受けて走る横帆の用途に加え、縦帆の機能も果たせるようになっている。縦帆とは、帆を船体縦軸と近い方向に展開する事で、真横や斜め前方の風も利用して航行することが出来る帆で、今日のヨットの三角帆が代表的な縦帆である。真横や斜め前方の風を前進力に変えるためには、帆面が弓なりに撓んでいる必要があり、風がその撓みを流れる事によって生じる揚力が撓みの奥側に押す力となる。これはベールヌイの定理と呼ばれる原理で、飛行機や凧が浮かぶのもこの理屈による。これにより縦帆を装備する船は風上の斜め前方まで進むことができるので、途中で帆の開きを変えて船の針路をジグザグに取る(ヨットでは「タック」という)事で風の方向にも向かう事ができるのである。しかし真横や斜め前からの風を受けた時には船を風下側に横滑りさせる力も生じるため、縦帆装船は船底を鋭角にするか、平底の場合には大きな板を水中に突き出して横流れを止める必要があった。
問題はこの縦帆の技術がどこから入ったかである。ニーダムは太平洋地域のカヌーの帆装に起源を求めているが、8世紀に中国海域に到達していたアラビアやペルシャの商人船「ダウ」が影響を与えているのは間違いない。8世紀後半からホラーサーンなど各地の鉱山から大量の銀が供給され、アラブの商業活動の拡大に繋がったとされるが(『海人の伝統』)、森克已氏によるとアラブやペルシャの商人はペルシャ湾のシラフやホルムズを発してインド洋を横断してインドに達し、さらにベンガル湾を横断してマレー半島を迂回し、南シナ海を北上して広州、揚州に達している。スマトラ島南東部のゲラサ海峡の海底で発見された9世紀のダウからは、唐からの金、銀、陶磁器が6万点も発見されている(『海を渡った人類の遙かな歴史』)。8世紀の揚州には大食(タージー)人と呼ばれるアラビア人やペルシャ人が蕃坊という彼らの居留地に数千人居城していたとされる。
ダウはキールという船底材と外板材を縄で括って固定し、肋材と梁で形を保たせていた。2013年にはタイのバノム・スリンで9世紀のペルシャ商人の全長25㍍の貿易船が出土しているが、外板は椰子の繊維を撚った縄で縫合されていた。この縄による外板縫合は、遙かに紀元前二千年頃のエジプト船でも確認される技術だが、金属が完全消費財(釘)に使用できる程生産されない時代・地域で発達した造船技術と思われる。ダウの帆装は三角帆(ラテンセール)という縦帆で、帆柱に斜めに帆桁をかけ、三角の帆を、帆桁に長辺を付ける形で取り付けている。そして三角帆の桁に当たっていない角に付けたロープを引く事で、様々な角度やはらみ方で帆を張れ、反対舷側に張り変える時には一旦帆桁を下ろして張り直したが、そうする事で、斜め前方の風の場合は、風上方向にジグザグに走って上る事が出来た。三角帆は紀元前1世紀頃の地中海で用いられ、1世紀なかばには地中海の帆装は横帆から三角帆に移行したとされる(『海を渡った人類の遙かな歴史』)。恐らくは地中海の三角帆がインド洋に伝わり、ダウ船の帆装に導入されたものと思われる。
ただダウ船は外板を綱で結び合わせて固着する方法を取っているため、構造が柔軟な分、大型化には限度があり、また重量物の搭載能力も低かった。15世紀末にポルトガル船がインド洋に進出した際、ダウ船には大砲を装備出来なかったので、わざわざ地中海のガレー船や帆船を分解してスエズ地峡を運び、紅海沿岸で再び組み立て直して大砲を搭載した事があった程である。
中国人は、自前で発明した横隔壁を多用した強固な船体構造と、鋸の使用で大量に供給される板材、製鉄所が供給する鉄で大量に生産された釘を用いた外板接合技術を使って強固な船体を作る事が出来たが、その船体にダウの三角帆の縦帆というアイデアを、豊富な竹材を用いた網代帆に移し替えて装備する事で、遅くとも9世紀初頭にはジャンク(沙船型)を完成させたと考えられる。一方、横断面形が尖った鳥船型のジャンク船については、次回述べるように9世紀末に、インド洋に後退したイスラム商人の空白を埋めるべく華南の中国商人が東南アジアに進出するようになった時期に、ダウの船形を参考にして生み出されたものと推測する。
平和台の鴻臚館跡からは、8世紀末から11世紀前半にかけての層から大量の貿易陶磁器が出土しているが、おもに新羅や唐の商人の活動でもたらされたものだと考えられている。しかし11世紀中頃以降、博多湾における貿易窓口は、こんにちの那珂川と石堂川に挟まれた地域にあった中世都市・博多に移る。次回はジャンクの貿易が盛んに行われた宋の時代と、日宋貿易を政権基盤に据えた平氏政権について述べる。
(2020.11.1中園記)









