平戸史再考No.009 平氏政権と硫黄
- 2020/11/26 15:25
- カテゴリー:平戸史再考
平氏政権と硫黄
唐の商人が日本に来航するようになる9世紀、大陸では各地で反乱が起きて唐の国力が弱体化し、最終的には874年から始まる黄巣の乱などの拡大によって唐は907年に滅びる。泉州などにいたイスラム商人達は黄巣の乱の混乱を避けて東南アジアまで後退したため、空白となった東南アジア~中国間の貿易に中国人海商が進出する。一つの推測だが、この中国人海商の東南アジア方面への進出に際し、泉州や広州でダウの船体構造を真似て、竜骨を有して横断面が尖った形状の鳥船型ジャンクが成立・普及した可能性がある。その後中原では5つの王朝が短い期間に興り、周辺でも地方軍閥が10余の国を興すが(五代十国時代)、その時代にも明州を支配した呉越国は盛んに海上貿易を行っている。960年には後周の親衛軍長官・趙匡胤が幼帝から禅譲の形で権力を掌握して宋を建国、地方諸国を征服して中国を再統一する。宋は科挙による役人の登用と中央集権的な官僚制度を確立して軍事力の掌握を進め、貴族や地方軍閥の台頭を封じていく。また民間貿易を重視し、杭州、明州(寧波)、泉州、広州に市舶司という貿易を管理する役所を設け、日本、朝鮮、東南アジア、インド洋諸国との貿易を盛んに行っている。
日宋間には博多と明州(寧波)を結ぶ大洋路を中国人海商の貿易船(ジャンク)が頻繁に往来するようになる。博多や箱崎には宋人が多勢居住し、陶磁器、錦(絹織物)、香薬、染料、書物など宋船が運んできた商品の販売と、木材、硫黄、金などの輸出品の購入を行った。最も重要な輸入品に大量の銅銭があり、平安初頭に貨幣の鋳造が停止され物々交換の経済に戻っていた日本で貨幣として普及していったが、おそらくは貿易品の決済に用いた事がきっかけになったと思われる。「玉葉」によると、平氏政権が大洋路貿易を掌握していた治承3年(1179)に、京都では「銭病」という流行病が拡がり、銅銭の京都への流入が朝廷で問題とされる程になっている。
貿易相手先地域に中国人海商が居住して貿易活動に従事する形は住蕃貿易といい、琉球や東南アジアでも取られているが、大洋路関係の宋人居住地(唐房)は中継港にあたる平戸にも存在したと思われる。戦国時代の平戸で交易品の取引が行われた場所である宮の前に祀られていた七郎宮の祭神は、宋元代の中国で信仰されていた航海神・招宝七郎である事が二階堂善弘氏の調査で明らかになっている。招宝七郎は、寧波から海に出る地点にある招宝山に祀られ、右手を顔の前にかざして遠くを仰ぎ見るような姿をしている。この神が中世平戸の中心地に祀られているという事は、平戸に大洋路の貿易に関与する多くの宋人が居た事を示している。なお招宝七郎はその後禅宗寺院の伽藍神に取り入れられている。
博多と明州を往復するジャンクは、玄界灘では志賀島、神集島、呼子などを停泊地に利用している。神集島や、呼子の沖の加部島に鎮座する田島神社には、ジャンクが用いた巨大な碇石が残る。大洋路は平戸島近海では北岸と南岸の2航路に分かれており、そのうち北岸航路は平戸島の北を通過して薄香湾や、的山大島の的山、平戸島南端の宮ノ浦を停泊地として利用したと考えられる。宮ノ浦では碇石が見つかっている他、薄香湾には平安後期に渡宋した栄西が上陸したとされる伝説や、中国人が五貫の銭を出して買ったとされる五貫島などがある。なお的山港の背後に聳える山は天童山と呼ばれているが、従来言われてきたように朝鮮半島起源の古代信仰である天童神に由来するのではなく、大洋路との関係から寧波にある天童寺に関した命名だと思われる。これについては呼子加部島南部の天童岳についても同様である。一方、南岸航路の方は平戸瀬戸を通過し、平戸口、平戸、川内、生向湾などを停泊地に利用したと思われる。ずっと後になるが天文8年(1539)に博多を出発した遣明船は、往路は博多から志賀島、的山浦、平戸、川内浦、奈留島に停泊したのち台州(寧波の近隣)に到達し、復路では五島西岸に到達して日ノ島、那摩(中通島)、生月島西沖、馬渡島、呼子などに停泊している。このように往路では平戸島南岸航路を用い五島灘を抜けて奈留島に達し、復路では五島列島西岸に達した後、平戸島北岸航路を通っており、往路と復路で南北の航路を使い分けている。
五島列島では、文献史料の記述や考古史料の出土状況から、宇久島や小値賀島(前方湾)、日ノ島、奈留島が停泊地として利用された事が確認できる。宇久島南西部の海域は南の寺島が風波を防ぐ天然の防波堤の役割を果たしてジャンクの理想的な停泊環境を整えているが、そこに面した西泊遺跡や領主の館跡とされる山本遺跡からは11世紀後半~14世紀の中国陶磁器が大量に出土している。また小値賀島東岸の前方湾では水中調査で碇石や中国陶磁器が見つかっており、ジャンクの停泊地だったと思われるが、小値賀諸島で発見された碇石は合計14本にものぼる。宇久島が近世大名・五島氏の、小値賀島が平戸松浦氏の起源地である背景には、大洋路において両島が占める役割があった。
大洋路がもたらす唐物は藤原氏を頂点とする貴族社会で尊重されたが、12世紀に入ると、大洋路の交易活動を政権基盤とする勢力が登場する。平氏である。桓武天皇を祖に持つ伊勢平氏の嫡流である平忠盛は、永久2年(1114)に父・正盛が仕えていた白川院の寵姫・祇園女御に仕え、西海(瀬戸内海)南海(九州)の海賊討伐の任に就く。これによって平氏は西国の海運と接点を持つ事となる。また保安元年(1120)に忠盛は越前守に補任された事で敦賀港の日本海海運について理解を深め、海外貿易にも関心を抱くようになったと考えられている(『武士の王・平清盛』)。当時大洋路の日本側窓口である博多を管轄していたのは太宰府だったが、その長官である太宰権帥には公卿でなければなれなかったため、公卿でない忠盛は鳥羽院の荘園があった肥前国神崎庄の管理を願い出て許され、そこを拠点に博多の宋船貿易に関わるようになる。そして忠盛の嫡男・清盛は保元、平治の大乱で勝利を収める事で権力を掌握し、父の海外貿易重視政策を継承していく。
平氏政権の貿易政策では日宋貿易の動脈である大洋路の掌握が図られていく。その中で日本側の窓口である博多が掌握されたのは当然の事だが、大洋路沿岸に割拠する豪族の集団である松浦党も平氏政権によって掌握されていったと思われ、源平合戦最後の戦いである壇ノ浦の戦いで松浦党の兵船が平氏方で参戦しているのはその反映と見なされる。また五島列島で宋船の寄港地となった宇久島の西泊・山本遺跡の盛期は平氏の隆盛期と重なる12~13世紀とされている。さらに宇久島南西部の神浦には厳島神社が祀られ、7月には海中に竹棚を投じるヒヨヒヨ祭が行われているが、この行事は宮島の厳島神社の管弦祭と類似しており、航海神である厳島神社の勧請に平氏が関係した可能性がある。既述したように近世に五島列島の大半を統治した五島氏の起源地は宇久島だが、同氏が平清盛の異母弟である平家盛(実際には家盛は久安3年・1147に京都周辺で死亡)を始祖とするのも、宇久(五島)氏が平氏政権のもと日宋貿易に関与した事を窺わせる。
一方で平氏政権は、博多に揚がった外国商品を京都に送る輸送する路である瀬戸内海航路の掌握整備にも力を注いでいる。清盛による大輪田泊の開港と承安3年(1173)に同泊沖に建設された経が島もその一つである。大輪田泊の開港は宋船(ジャンク)を直接そこに迎えるためと言われるが、大型構造船であるジャンクの停泊地は、岬に遮られた水深がある入江が好適である(例えば長崎港など)。大輪田泊はこんにちの神戸市兵庫区沿岸にあったとされ、南に突き出た和田岬が波浪を避ける良泊地だとされるが、基本的なあり方は東に向けて開けた海岸で、周囲に山も無いため風に対する備えは弱く、東風や「六甲おろし」と呼ばれる六甲山地から吹き下ろす北風に対しては無防備である。それでも準構造船や小船なら浜に引き上げて守る事ができるが、海に係留するジャンクの保護は難しい。たとえ沖合に経が島を築造したとしても、若干の波を遮る役には立つだろうが、ジャンクの停泊にはまだ難がある。経が島の築造は、小船(単材刳船)や大船(準構造船)を浜から海に下ろしたり浜に上げたりする時や、これらの船から荷物や人を上げ下ろしする時に必要な、波の影響が小さい静水面を確保するために設けられたと考える方が理に叶う。この点は南側に大きく開けた鎌倉の由比ヶ浜に築造された和賀江島についても同様だが、例えば江戸~明治期に生月島で築造された長さ50㍍弱程度の石造波戸の目的も実は同じである。船が停泊できる静水面を確保するために波戸を築くというのは近代以降の建築思想である。さらに清盛が瀬戸内海で行った後述する二つの事業も、沖を帆走するジャンクのためには意味をなさず、沿岸を航行する準構造船の利便に関係するものである事が明らかである。清盛が開削したとされる音戸瀬戸は、地乗り航路を行く準構造船が倉橋島の沖を回って航海する危険を回避するために設けられたと考えられる。また仁安3年(1168)頃に平清盛が社殿を造営した厳島神社も、宗像三女神の市杵島姫を祀っている事から航海安全の意味がある事が直ぐに理解できるが、神社がある宮島と本土の間の海峡が、準構造船が航行する地乗り航路である事を前提に捉える必要がある。音戸瀬戸も厳島も広島湾に入り込んでいる点でジャンクの航海に適した沖乗り航路の海域からは外れている。清盛が宋船(ジャンク)を福原に回航した事については、『山槐記』治承3年(1179)6月22日の項に、8日に厳島神社の参詣のため「入道被乗唐船」とあり、同治承4年(1180)10月10日の項にも「自去十六日唐船着輪田泊、今日遣侍男令交易薬種」とあるように事実と思われる。しかしこれらは平氏政権(清盛)が海外貿易を掌握した事を朝廷や貴族にアピールするために行われた特別な事例であって、博多~大輪田泊間の物資の運送は基本的には準構造船の運行に委ねられていたのである。
加えて平氏政権は、日宋貿易の輸出品である硫黄の確保にも力を注いでいる。当時硫黄は宋で火薬の原料として重視されたが、それは北方の遊牧国家との戦いに火薬を用いた様々な兵器を大量に投入していたからだ。例えば宋では元豊7年(1084)明州知事が海商を募集して日本に派遣し、50万斤(約300㌧)の硫黄を5綱(5人の商人=5隻の船)に分けて購入する事を献策しているが、それに対応するように『朝野群載』応徳2年(1085)10月29日の項には、大宰府から大宋国の商客王瑞、柳忿、丁載ほか2人が参来した記録がある。当時日本での硫黄は薩摩半島の沖にある鬼界が島(硫黄島)で採掘されていたが、これについては『平家物語』で安元3年(1177)に平氏打倒を画策した鹿ヶ谷の陰謀に加わって鬼界が島に流された僧俊寛が硫黄の採掘をさせられている事からも知る事ができる。以前高校の古文で習った時には、俊寛はただ京都から遠く離れた絶海の孤島に流されたという悲惨なイメージしかなかったが、そこが日宋貿易で最重要の輸出品を採掘する島だという事になると、僻遠ではあるがあくまで平氏の目がとどく場所に置かれた事が理解できる。鬼界が島を含む薩南十二島は薩摩国河辺郡に属し、平貞時を祖とする河邊氏が支配したが、鎌倉幕府成立後の承久3年(1221)に起きた承久の乱後は関東御領(幕府領)になったと推測され、十二島の地頭職は嘉禄3年(1227)に島津忠勝に安堵され、河辺郡司職は北条得宗家被官の千竈氏が弘安2年(1279)頃までに入手し、さらに千竈氏は得宗家から地頭代官職に任じられている。戦国の雄・島津氏も始まりには硫黄貿易に関与していた事も興味深いが、鬼界が島の硫黄は鎌倉幕府や得宗家にとっても魅力的な収入源だったのである。なお『平家物語』には、平教盛の荘園だった肥前国鹿(嘉)瀬庄から鬼界が島の流人達に衣食を送る話が出てくる。この事から鹿(嘉)瀬庄や神崎庄が面した有明海側から九州西岸を南下し薩南の鬼界が島に至る航路があった事が推測されるが、鬼界が島で産出した硫黄は準構造船に搭載して九州西岸を北上した他、そのまま外洋沿岸を通って平戸瀬戸に達する航路以外に、有明海から諫早地峡経由で大村湾の内海航路に乗せ換えて平戸瀬戸に達して平戸や博多に送られたり、有明海を北上して神埼から陸路博多に運ばれたものと思われる。なお平戸瀬戸田平側の海寺跡や、生向湾を上った下寺に後述する薩摩塔を伴う形で熊野神社が鎮座する点や、田平の中心地である里田原に宗像神社が鎮座する点は、平氏が熊野神や宗像神(厳島神社)と深い関係にある事が背景にあると思われ、田平地域を支配した峯氏が大洋路・九州西岸航路の要衝である平戸瀬戸を掌握する事で、平氏の海外貿易で重要な役割を果たしていた事の裏付けになる。
薩南の硫黄について説明したので、次に薩摩塔という石塔について紹介したい。この塔は四天王を浮き彫りにした高欄付きの須弥壇の上に、本尊を浮き彫りにした仏龕を付けた壺形塔身を載せ、上に屋根を載せた構成となっている。薩摩塔という名称は研究者が付けたもので、当初、薩摩半島南部の坊津で見つかった事から付いた名前だが、その後博多や平戸周辺にも多く存在する事が分かってきた。当初はどこで製作されたのかも分かっていなかったが、2000年代以降、石材の分析によって寧波(明州)近傍で産出する梅園石で製作された事が明らかになった。この梅園石では宋風狛犬という狛犬も製作されている他、宋や元の船(ジャンク)に搭載された碇石もこの石で製作されている。
平戸周辺地域に薩摩塔が多く存在するのは、比較的近年(1990年代以降)になって分かってきた事である。石塔の存在自体は以前から知られていたが、他の所に存在している事も分からず、五輪塔や宝篋印塔に比べて細工が込んでいる特徴から、当初は近世に製作された変わりだねの石塔だと考えられた。安満岳には山頂部に中世、仏教寺院が存在した事が確認されているが、山頂にある白山神社の裏手の奥の院と呼ばれる区画にも1基の薩摩塔が存在する。田平でも、平戸瀬戸の最狭部に面した斜面上に海寺という寺がかつて存在し(現在は熊野神社がある)薩摩塔と宋風獅子が存在した。さらに平戸瀬戸の南側にある池向湾の上にある熊野神社の近傍にも薩摩塔が1基ある。平戸の市街地でも是興寺跡や御舘の下、誓願寺、戸石川で薩摩塔が確認されているが、特に多数存在しているのが平戸島南端の志々伎山である。同山中腹には中都宮とかつて円満寺という寺院が存在し、付近の墓所とおぼしき場所に2基の薩摩塔が認められる。そのうちの一基には「元□三□□八月□」の紀年があり、元亨3年(1323)と推定されている。また志々伎神社の沖都宮がある沖ノ島には宋風獅子とともに復元高3㍍と推定される石塔が破損した状態で存在する。この塔は、四天王を浮き彫りにした高欄付き六角須弥壇の上に仏龕を備えている点は薩摩塔と同じ構成だが、壺形塔身の内側を刳り貫いて本尊を安置する形態になっている。この塔の位置づけを薩摩塔類と、あくまで薩摩塔をオーソドックスとした上でその亜種のような扱いをしている研究者もいるが、この沖ノ島塔と同じ形の塔は中国浙江省麗水市の霊鷲寺に存在しており、南宋時代の13世紀初頭の紀年銘がある。どちらかというとこの霊鷲寺塔や沖ノ島塔がオリジナルの宝塔で、薩摩塔はその塔の奉納用の簡略縮小型のような存在だと捉えられる。
日本における宋風石造物の導入に熱心だったのは鎌倉時代に東大寺大勧進職として東大寺の再建を主導した俊乗坊重源である。「東大寺造立供養記」によると重源は宋人石工六郎を宋から招いて建久7年(1196)に東大寺南大門の石獅子を作らせている。なお宋の皇帝陵にある同型の石獅子はただの平石に乗っているが、南大門の石獅子は須弥壇に乗っていて、日本で石獅子が仏教的要素とされた結果の造作と思われる。なお石獅子の石材は梅園石に近いがやや粗い石で製作されているという。
九州南部にも多くの薩摩塔、宋風獅子が存在するが、分布の中心は薩摩半島南西部の万之瀬川流域である。旧河口付近に「当(唐)房通」という地名があり、中国人居留地の存在が推定されているが、そこからも薩摩塔の須弥壇部が出土している。万之瀬川流域の穀倉地帯は、桓武平氏末流の河邊氏が、鬼界が島(硫黄島)の硫黄鉱山を運営する上での補給基地、後方基地だったと考えられる。
福岡平野における代表的な薩摩塔所在地としては首羅山があげられるが、この山には平安後~鎌倉時代に寺院が存在した事が発掘調査で確認されている。山頂には白山神社があり、薩摩塔、宋風獅子が各一対奉納されている。宋風獅子の製作は13世紀半ばと推定される事から、これらの石造物は鎌倉時代に中国からもたらされたものと考えられている。首羅山にあった寺院は、博多に居住した中国人海商によって建立されその庇護を受けたと考えられているが、同寺院は15世紀に廃絶し以降は再建されていない。これについては、元寇によって博多に居住していた中国人海商が退去する事となり、従来の住蛮貿易の形態が変化した事が背景にあると考えられている。
薩摩塔は福岡平野、平戸、薩摩に偏って存在している事から、僧侶が主体で建立したとは考えにくく、中国人海商が寄進したものと考えられているが、例えば平戸島で薩摩塔が奉納されている安満岳に寺院が建立されたのも12世紀頃だと考えられている。戦国時代の1571年に安満岳の寺院について記述したヴィレラ神父の記述には、創建からおよそ400年を経たとある。同様に薩摩塔が確認される志々伎山にも寺院の存在が確認されているが、これらの寺院は平氏政権当時に活発化した大洋路貿易の影響下で創建されたものと思われる。
多くの国の国司を一族が務め、日宋貿易の利益も独占した平氏の繁栄も、治承5年(1181)の清盛の死によって陰りが出、最終的には寿永4年(1185)に関門海峡で繰り広げられた壇之浦の戦いにおける平氏の滅亡で終わる。『吾妻鏡』によると、この最後の戦いに平氏方は500艘の軍船で臨み、源氏方の850艘の軍船を迎え撃っており、『吾妻鏡』元暦2年(1185)3月24日の条には「平家五百余艘分三手、以山峨兵藤次秀遠並松浦党等、為大将軍、挑戦干源氏之将帥」とある。なお『平家物語』では平氏の総数は千余艘とした上で、山賀(鹿)兵藤次秀遠が500余艘、松浦党300余艘、平家の君達200余艘としている(源氏は三千艘)。これらの軍船は地乗り航路で貨物や人を運んでいた準構造船に、矢を避ける楯などを装備して軍兵が乗り込んだもので、『平家物語』で源氏方が水主や舵取りを殺傷している事から、櫓走で航行した事が分かる。なお平氏方は博多から唐船(ジャンク)を連れてきており、それを安徳天皇の座所と捉えて源氏方が寄せて来るのを包囲する作戦を立てていたとされる。確かに乾舷が高いジャンクは防御には有利だが、帆船であるため狭い海峡での海戦には不利で、大砲のような攻撃兵器が無ければ準構造船の軍船の撃破も期待できない。なお平氏方のうち山鹿氏は遠賀川河口の山鹿を本拠に関門海峡から博多に至る北部九州沿岸の地乗り航路を掌握していたと考えられ、松浦党は博多から明州(寧波)に至る大洋路の沿岸である松浦地方に割拠する領主(武士)勢力であった。彼らは平氏政権が推進してきた海外貿易に関与して恩恵を被ってきたため、平氏方で参戦した事が推測されるが(但し最後まで善戦したのかは分からない)、唐船といい松浦党や山鹿氏の参戦といい、壇ノ浦戦時の平氏の要素は、彼らが支配した貿易の構成要素が表出しているのが興味深い。
唐や宋の海商が確立させた大洋路の貿易活動は、平氏が己の政権基盤に組み込む事で強固なシステムとして確立する事になった。しかし対外交渉を掌握した利点を軍事力の強化(例えば海上輸送による兵站確保や火薬兵器の導入など)に上手く転換できず貴族化した事に平氏の限界があった。次回は松浦地方に割拠した小領主(武士)の集団である松浦党が、航路や貿易との関わりの中でどのような歴史を辿っていったのかについて述べる。
(2020.12.1中園記)









