長崎県平戸市生月町博物館「島の館」

生月学講座No.210「古式捕鯨の幕末期不漁の原因」

生月学講座 古式捕鯨の幕末期不漁の原因

 昨年(令和2年)12月20日に、生月町開発総合センターを会場にして「古式捕鯨とはなにか」というシンポジウムを開催しました。各地で様々な角度から古式捕鯨を研究する4名の方に参加いただき、報告とディスカッションを行いましたが、古式捕鯨にテーマを絞ったシンポはこれまであまり無かったので、非常に面白い試みとなりました。
 報告の詳細な内容は、今春刊行の報告書などをご覧いただければと思いますが、今回はディスカッションの際に話題となった、日本の古式捕鯨業が幕末期に不漁になった原因について、補足的な見解を交えつつ紹介したいと思います。この問題について以前の生月学講座(欧米捕鯨業と益冨組)で少し触れた事もありますが、大凡弘化年間(1844~48)の中頃から日本各地の鯨組が不漁に見舞われていき、その後も状況が改善せずに古式捕鯨業が沈滞した状況が明治後期まで続いています。
 この不漁の原因については、従来1820年代頃から始まった欧米の捕鯨(母工)船による日本近海での操業が影響している可能性が指摘されてきました。今回も殆どの先生方がその可能性について言及されましたが、一方で日本の古式捕鯨業ついても、ローテクなので資源量の減少に繋がる程の負荷は掛からなかったという古賀康士さん(九州産業大)の見解がある一方、例えば春の上り鯨の捕獲時に、取り易くまた税金も掛からなかった「白子」と呼ばれる、母鯨と一緒に行動する幼い鯨を好んで取った事が、欧米捕鯨による不漁時に余計に負荷を掛けた可能性を指摘した末田智樹さん(中部大学)の見解もありました。私も、一つには日本でも突取法が専ら行われた17世紀の段階には、取り漏らした鯨が2/3に達し、それらの多くも銛傷で死んだとする『西海鯨鯢記』の記述や、突組の操業では一漁場に集中して乱獲のような状況が生じていた事から、日本の古式捕鯨もおしなべて捕獲負荷が低かった訳ではなく、網掛突取法の発明・普及によって結果的にそうなったと思われますが、他方、網掛突取法でも長年の継続で相応の捕獲圧が掛かり続けた事で、19世紀前期には鯨の成熟が早くなり結果的に鯨体が小さくなっていた可能性が史料等で確認でき、そうした状況の中で欧米捕鯨の操業が始まった事で、一気にバランスが崩れた可能性もあるのではないかと考えています。
 また櫻井敬人さん(太地町歴史資料室)は、当時の欧米捕鯨の進出については当時の状況をもっと多面的に捉えて検討していく必要があるのではないかと問題提起をされました。確かに、アメリカが原因だとするようなナショナリズム的な議論では何の解決にもなりません。例えば幕末の欧米による日本近海の捕鯨と、戦後の日本を含めた各国による南極海操業とでは、漁法は違っても(母工船型突取法、工船型ノルウェー式砲殺法)同じ乱獲という状況を生じさせた訳ですが、両者の共通の背景は資本主義自由経済の存在です(※後者には社会主義国も関与していましたが)。この経済システムでは資源の有限性や環境保護という視点が薄弱だったが故に、乱獲という状況を回避できなかった事は明白です(※この点は社会主義、共産主義も同様でした)。問題はそうした視点が日本の古式捕鯨業に存在していて何らかの抑制効果を果たしていたかどうかですが、その辺りについては今後の研究が負う所になりそうです。
 




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