平戸史再考No.010 松浦党と大洋路
- 2021/01/05 08:54
- カテゴリー:平戸史再考
松浦党と大洋路
既に述べてきたように、九州北西沿岸地域では縄文時代から人々が居住し、漁労や朝鮮海峡を横断する交易などに従事してきた。弥生時代になると大陸から渡来人が朝鮮海峡を渡って北部九州に定住し、唐津、糸島、福岡、筑紫平野などでは各所に大規模な集落を作って稲作や鉄器を用いた暮らしを始め、クニと呼べる統治者を擁した集落の集合体も出現している。北西九州ではクニは朝鮮海峡を横断する航路沿いに存在したが、それより西にはクニと呼べる規模の人口の集住は概ね無かったと考えられる。
その中で田平の里田原には、弥生時代からある程度の水田を持つ集落が存在した。北松浦半島には水田を拓くのに適した平地がある大きな河川として佐々川や相浦川などがあるのに、わざわざ小盆地の里田原に水田を拓いているのは、この地が伊万里湾から五島灘に抜ける沿岸航路の要衝である平戸瀬戸に近接するという点に意味があったと思われる。その後の古墳時代、里田原に北松地域で唯一前方後円墳が築造された事も同じ意味合いで捉える事ができる。しかし田平の首長が平戸島を含む北松地方全体を統治していたかと言うと、そこまではと言い切れない所がある。
北西九州の沿岸地域では弥生時代に、渡来系弥生人とは異なる形質を持つ縄文系弥生人が活動しており、平戸島の根獅子や東松浦半島先端の大友などで海岸砂丘を選んで箱式石棺などによる墓地を設けている。古墳時代には田平の前方後円墳以外に、生月島の富永古墳、上骨棒古墳、的山大島の前平岳の下古墳、同的山川内の勝負田古墳、平戸島北部の田助古墳など各地に小円墳が造営されているが、特に松浦市の小島古墳群や的山大島の曲崎、五島小値賀島神ノ崎など、極めて海に近い場所に小古墳や積石塚の群集が見られる。また呼子沖の加部島や度島など比較的平坦な島に多くの古墳が造営されている状況も認められる。東松北松両半島と平戸島、五島列島からなる松浦地方には総じて古墳の築造が少ないなか、海際を選んで多くの古墳が造営されている状況は特徴的であり、そこに弥生時代の海岸砂丘に墓を設ける志向との連続性が感じられる。こうした志向には、以前述べたような原始海人が持つ海への親和性と陸地に対する異海意識が感じられ、陸地で最も海に近い場所を埋葬地に選んだ事が考えられる。
大宝元年(701)の大宝律令で国郡里制が成立すると、現在の佐賀県と長崎県のうち壱岐、対馬を除く範囲は肥前国に属し、そのうち前述した松浦地方の範囲は松浦郡に属する事になる。壱岐と対馬が肥前国から独立した区域(島)であるのは、日鮮間を結ぶ航路(海北道)の中継地として朝廷が重視したからに他ならないが、国郡里制の成立段階には東シナ海を横断する航路(大洋路)は未だ確立しておらず(遣唐使船による開拓段階)、松浦郡は海北道の基点以上の意味は持ち得なかった。肥前国の国司が赴任する国衙は嘉瀬川が山地から佐賀平野に出た場所にあり、穀倉地である佐賀平野の方が中心と認識されていた。松浦郡の行政上の統治機関である郡衙の正確な位置は不明だが、原始の末廬国以来、海北道の基点となった唐津平野にあったと推測されている。かたや北松浦半島や五島列島については『肥前国風土記(風土記)』の松浦郡の項に次のような記録があるだけである。
松浦郡の西にある大家島の項には、土蜘蛛という人々が住む村があり大身という者がいたが、景行天皇に誅滅され、その後は白水郎が島に家を造っていたとする記述がある。また値嘉島には小近と大近という島があり、大耳と垂耳という土蜘蛛がいたが、景行天皇に降伏して鮑を奉納したとされる。『風土記』には土蜘蛛と白水郎(あま)という二つの集団が登場し、白水郎は船に乗って海に生きる人々だと想像されるが、大家島では陸地に家を作っている。一方の土蜘蛛は陸地民かと思いきや、鮑を奉納している事からやはり海と関わりを持っている事が窺える。強いて特徴を捉えると、土蜘蛛は朝廷の支配に属さなかった土着の集団で、白水郎は朝廷とも繋がりがある海人集団のようにも思え、北松・平戸・五島地方の古墳に比較的内陸に設けたものと、海岸際や平坦な島に設けたものがあるのは、土蜘蛛と白水郎に対応したものかも知れない。また白水郎は古代、鮑に産した真珠や鮑熨斗を生産した可能性があるが、宇久島宮ノ首遺跡、壱岐島ミルメ浦遺跡、小川島貝塚(唐津市)など鮑殻が多数出土する遺跡は、白水郎の真珠や熨斗の生産拠点であった可能性がある。
7世紀に遣唐使船の航路として使用され始めた、東シナ海を横断して中国に向かう航路(南路)は、9世紀に入って中国商人が運用するジャンクが航行する事で本格的な航路(大洋路)として確立する。ジャンクが装備した網代帆(縦帆)は真横や斜め前からの風も利用できるので、ジャンクは帆走でピンポイントに目指した場所に向かって航行する事ができ、出発港と到着港の間を、途中必要に応じて中継港に寄港しながら安全に航海する事ができるようになった。大洋路の成立によって、航路沿岸に位置する東松浦と北松浦半島、五島列島は、航路の維持に関わって重要な役割を果たすようになるが、こうした役割を果たす集団として登場したのが、後世に松浦党と呼ばれる中小領主達であった。
松浦党の出自について『平家物語』は、東北の蝦夷の首領である安部宗任が前九年の役(1051~62)で源頼義に破れて捕らえられ、筑紫に流されて後松浦党の祖になったとしており、その説が鎌倉後期以降流布しているものの根拠には乏しい。
もう一つは嵯峨天皇末孫説で、南北朝〜室町期に成立した『尊卑分脈』によると、嵯峨天皇の皇子で左大臣となった源融(とおる)は臣籍に降り、融の子孫の源(渡辺)綱が摂津源氏である源敦の養子となる。綱は源頼光に仕えて大江山の鬼・酒呑童子征伐にも従事したとされるが、綱の子孫が率いる渡辺党は瀬戸内海の水軍として活躍している。その綱の子の源久は「鎮西松浦」と記されているが、「石志文書」によると源久は康和4年(1102)9月13日当時、宇野御厨検校職であった事が確認されており、実在が確認されている。なお宇野御厨とは、現在の五島列島や東松浦郡、北松浦郡を包む広大な地域(松浦郡、値賀郡)に平安時代の中頃に置かれた荘園だが、御厨とは天皇家または伊勢神宮などの神社で用いる供物を納めた地域の事である。
平戸松浦氏の史書『松浦家世伝(家世伝)』では、源久が11世紀に肥前国松浦郡今福に下向土着した後、その子孫が松浦郡各地に広がり松浦党諸氏になったとする。例えば久の子直は松浦氏、持は波多氏、勝は石志氏、聞は新久田氏、広は神田氏、調は佐志氏の祖となり、さらに直の子孫から松浦(御厨)清、有田栄、大河野遊、峯披、八並彊、値賀連などが出たとされている。ただこの系譜については、江戸時代に平戸松浦氏の家系を整える目的のために『尊卑分脈』の記述を利用して形作られた部分もあるとされる。また松浦党諸氏の中には大島の大江氏のように源久の系統に属さない家も存在する。
外山幹夫氏は、『小右記』の長和5年(1016)4月28・29日の条に登場する「肥前守源聞」や、寛仁3年(1019)に起きた刀伊の賊(ツングース系民族)の北部九州来襲に際して防戦にあたった「前肥前介源知」など、松浦党諸氏と同じく一字名を名乗る源姓の官人の存在に注目し、彼らは嵯峨源氏の出で肥前国司等を務めた後そのまま土着し、源知の功績に見られるように軍事力も有し、後の源久に繋がった可能性を想定されている(『肥前松浦一族』)。そうして嵯峨源氏系統の惣領のもと形成された武士団が松浦党の原形をなしたが、その後総領制は解体に向かったとしている。このように実際には松浦党を形成する諸氏の多くは、松浦郡各地に割拠した在地の集団が下向した在庁官人(下級軍事貴族)と結びつきながら武士団を形成していったものだと思われる。
彼らの存立基盤となったのは、ジャンク船の航路として運用された沖乗り航路の大洋路と、それと並行して準構造船が利用した沿岸の地乗り航路である九州西岸航路に関係した交易活動への、様々な形で関与する事だったと思われる。大洋路を行くジャンク船は博多を出発した後、東松浦半島先端の神集島や呼子湾に泊まり、さらに北松浦半島先端の平戸瀬戸を通過する際に平戸などに入港し、五島灘を通過して奈留島に到着し、そこから東シナ海に出て一路明州(寧波)を目指した。一方明州を発した船は五島西岸に達した後北上して宇久島南西岸や小値賀島東岸の前方湾に停泊し、そこから東に向かって平戸島北側を抜け、博多湾に入港した。このように大洋路においてジャンクは帆走が容易な沖合を航行するため、寄港地は自然、半島先端部や島嶼部に偏る事になる。一方、準構造船は基本的には沿岸伝いに航行するため、博多湾、糸島半島、唐津湾、東松浦半島、伊万里湾の沿岸を進み、平戸瀬戸を抜けて北松浦半島の沿岸を南下したり、平戸島東岸を南下してその先端から五島列島北部に渡って列島両岸を南下する航路を採った。広大な宇野御厨の各所で取れる海産物や牛はこの地乗り航路を利用して運搬されたが、大洋路を往来するジャンク船に積み込む商品や、ジャンク船の運航に必要な様々な資材を中継港に集積する任務を果たしたのも、沿岸航路を行く準構造船だった。
こうした準構造船の運行や、航行する船に必要な食料や物資の供給に当たった人々が「海夫」と呼ばれる人々であり、彼らを統率して船の運航や港の管理を行った領主が、「松浦党」と呼ばれる武士団を構成していたのである。例えば具体的に地乗り航路の中継港を挙げていくと、唐津(神田氏、石志氏)、佐志(佐志氏)、外津(値賀氏)、波多津(波多氏)、山代(山代氏)、御厨(御厨氏)、志佐(志佐氏)、紐差(紐差氏)、前津吉(津吉氏)、志々伎(志々伎氏)、小佐々(小佐々氏)、佐々(佐々氏)、相浦(相神浦氏)と、港に結びついて松浦党諸氏が展開している事が分かる。一方で大洋路の中継港にも、呼子(呼子氏)、平戸・田平(峯氏)、宇久島(宇久氏)、小値賀島(峯氏)、青方(青方氏)、奈留島(奈留氏)の展開が見られる。なお松浦党の中で、北松浦半島から平戸、五島にかけて広がる宇野御厨の範囲に展開した領主達を下松浦党、東松浦半島から唐津、糸島にかけて広がる荘園・松浦庄の範囲に展開した領主達を上松浦党と称したが、上松浦党は朝鮮に渡る海北道の交易にも多く関与していく。
彼ら領主集団が「松浦党」という名で呼ばれるようになるのは平氏政権下の事だと考えられるが、最初に登場するのは治承・寿永の乱(源平合戦)の壇ノ浦の戦(寿永4.1185)の際、平氏方に属する水軍としてである。この戦いについては前回詳しく述べたが、松浦党が平氏方に参戦したという事実は、平氏政権の貿易政策に松浦党の領主達が深く関与していた事を示している。恐らくは平氏が掌握した大洋路貿易を円滑に進めるため、松浦地方の領主達が組織されて様々な役割を担ったものと思われるが、そういう意味で松浦党という括りは、それを運用した平氏政権によって作り出された可能性がある。しかし壇ノ浦の戦いが始まった段階で、平氏は唐物の消費地である都や畿内と、そこまでの輸送ルートである瀬戸内海の支配を失っており、平氏がいくら大洋路を押さえた所で、彼らの貿易システムは機能不全に陥っていたと言わざるを得ない。『平家物語』の中で松浦党の源氏への寝返りが再々取り上げられている事や、戦後の古文書を見ても松浦党諸氏は平氏側についたという理由で罪に問われておらず、平氏の滅亡後早々に頼朝や北条氏から所領を安堵されている状況(『松浦党関係史料集』第1、21、22、25、以下1:21・22・25と記す)を見ると、彼らは情勢を判断して戦闘開始早々平氏を見限ったのではないかと思える。
一方で領主達の恩恵は、彼らが支配した場所に左右される部分もあったと思われる。例えば領主の多くは準構造船が航行する沿岸航路沿いに割拠しているが、その働きは九州西岸航路への関与を主としながら、大洋路の海外貿易への関与は間接的な域を出なかった。他方、北松浦半島先端や平戸、五島列島の島々には大洋路を航海するジャンクが寄港するため、津料の徴収や物資の供給、商品の売買でより大きな利益を見込めた。文書から確認できる所領相続の争いの大きな理由も、大洋路の中継港という役割から得られる様々な権益だった事が考えられる。例えば『青方文書』に記された小値賀島の所領を巡る争論などはその代表的事例である。仁平元年(1151)頃小値賀島は清原是包(これかね)が知行していたが、高麗船を略奪するなどの乱暴が目立ったため、領家から荘官職を剥奪され、弁済氏に任じられた御厨源四郎直(なおす)が知行する事になった。直は『家世伝』では源久の嫡子だとされるが、有浦文書では久の三男荒(新)久田聞の三男(御厨四郎太夫直)になっていて(1:68)、是包の姪・三子を娶っている。この時点で直は沿岸航路沿いの御厨の他に、大洋路沿いの小値賀島を勢力下に置いている事が分かる。小値賀島の重要性は前知行主の是包が高麗船(外国船)襲撃事件を起こしている事でも明らかだが、その是包が同じく大洋路沿いの中継港・平戸で殺害されているのも意味深である。その後の争論は、是包の甥の(青方)尋覚と直の継子である(値賀)連の間で争われるが、興味深いのは、直は三子と離縁後、平戸にいた宋人蘇船頭の後家を後妻に娶り、後妻の連れ子の連に小値賀島の知行を相続させている事である(1:41)。この記述から鎌倉時代、平戸に宋船頭という貿易に関わる可能性が高い中国人が居住していた事が分かるが、直が大洋路貿易の要地である小値賀島の知行を、自らとは直接血の繋がりは無いが、ジャンクを扱うスペシャリストである宋船頭の血を引く継子に委ねている点は意図的なものを感じる。元久2年(1205)頃には直の子(山代)囲(かこい)、是包の姪で直の前妻・三子とその子供・松法師も争論に加わるが、建永2年(1207)には鎌倉幕府が尋覚に所領を安堵したため、尋覚は小値賀島を(藤原)通高に、浦部島(中通島)を(青方)家高に譲り、さらに通高は連とその甥(峯)持(たもつ)に所領を譲与している。一方で山代囲は幕府から小値賀島の地頭職を安堵されていて、それを子の固(かたし)に譲るが、最終的に幕府は証拠書類と当知行(実質的な統治)を根拠に(峯)持の権利を認めている。
直の子で持の父である披(ひらく)は峯氏の祖で、壇ノ浦海戦時の当主でもあるが、建久3年(1192)には平戸島紐差の地頭職を安堵され(1:22)、建保6年(1218)には伊万里浦、福島、楠泊、屋武、田平内粟崎の他、海夫(五島党々)、蒲田網片手の権利の相続を認められている(1:33)。この事から峯氏は伊万里湾内や平戸島東岸に所領を有し、沿岸航路の交易への関与や漁業から利益を得ている事が分かるが、五島の海夫を従えている事からその権益を五島まで伸ばしていた事も窺える。平戸(松浦)氏の系図を見ると、披の子の持が平戸松浦氏を、同じく馴が峯氏を相続したとあり、前者は持-繁-湛-答-定と続き、後者は馴-省-通-湛-答-定と続いているが、湛-答-定と同じ名前の連続が認められる点が気になる。峯氏と平戸氏は鎌倉末から南北朝期には明確に分化しておらず、平戸の支配権もまだ確立できてなかった可能性がある。
山代固は、伊万里湾奥西岸にある山代を本拠地とする山代氏の主である。山代の海岸にある小島には、古代の回で紹介したように小島古墳という前方後円墳が築造されている事から、山代が古く伊万里湾岸の沿岸航路の港だった事が確認できる。山代固は安貞2年(1228)に値賀五島惣追捕使を命じられており(1:42)、山代氏も沿岸航路の港の支配を足がかりに大洋路の権益に手を伸ばしている事が見て取れるが、のちの建武2年(1335)には山代亀鶴丸(弘)が建武政権から山代の他、多久(度)島、船木(平戸島南部東岸)、東島等の地頭職を安堵されている事から(3:464)、平戸島周辺にある大洋路沿岸地の権益も確保している事が分かる。
肥前国の在庁官人出身と思われる大江氏(通頼)は、室町時代に的山大島を統治した大島氏の祖と考えられるが、寛喜3年(1231)には宇野御厨内の保々木(宝亀)、紐差、池浦、大島の地頭職と神官検非違所、海夫の支配を認められている(1:45)。保々木、紐差は平戸島南岸の、的山大島は同北岸の地だが、池浦はおそらくは平戸瀬戸の田平側にある生(池)向湾の事と推測され、同湾の上には熊野神社や薩摩塔が確認されている。これらの場所の領有は海夫の支配と合わせ、大洋路の権益に関係したものと考えられる。
上松浦党に属する佐志氏は源久の子・調を祖とし、唐津湾西岸にある沿岸航路の港で海北道とも接続する佐志を本拠にしているが、佐志川の河口には砂州が延び、その内側が準構造船などの港に利用されたと考えられ、発掘調査で船の荷の揚げ降ろしに利用された築出(つきだし)の遺構や中国・朝鮮の陶磁器が確認されている(「中世松浦地方の港湾地と領主拠点」)。康永元年(1342)の佐志勤から男子6人、女子1人、女房への譲状には塩津留、有浦、三留賀志、保志賀(星賀)、大浦、中浦、満越など、東松浦半島全域の地名が登場する。一方で佐志氏は壱岐に進出しており、そこを拠点に嘉吉2年(1442)から文亀3年(1503)の間に18回も朝鮮通交を行っている。室町時代の壱岐には他に志佐、呼子、鴨打、塩津留氏も進出しているが、志佐氏を除くと上松浦党であり、上松浦党諸氏は壱岐を足がかりに朝鮮との通交を行っていた事が分かる。
寄港地の権益は交易船の入港に伴う津銭のような税金や、食料、物資等の補給品の売り上げがあった他、交易品の一部を陸揚げして商いを行う事も行われていた。延久4年(1072)に僧・成尋(じょうじん)が密かに宋に向かう際、呼子湾に浮かぶ壁島(唐津市呼子町加部島)に停泊する宋船に乗り込むが、その時「海辺の人」「海辺の男女」が頻繁に来て船上の人と売買を行っている(『参天台五臺山記』)。また遭難した交易船の搭載品や船体も航路沿岸住民の取得物となっており、永仁6年(1298)4月に青方氏所領の海俣島(若松島)を出発して中国に向かった北条氏肝入りの交易船が樋島(日ノ島)付近で破損した際、樋島の在津人、百姓や周辺の島の船党達が船を漕ぎ寄せて積荷を運び去るという事件が起きている(1:206)。幕府は積荷の返却を命じているが、積荷は戻らなかったようである。
松浦党については倭寇と関連づけて語られる事が多いが、『明月記』には嘉禄2年(1226)に高麗の別島に鎮西の凶党等が数十艘の兵船で行って合戦したという記事があり、凶党の記述の下には「号松浦党」とわざわざ書かれている。『吾妻鏡』にも貞永元年(1232)に鏡社の住人が高麗に渡り夜討を企て多くの珍宝を盗んだという記事がある。鏡社は唐津の鏡山西麓にあり、前面の松浦潟は古代には海北道を渡って朝鮮半島に向かう準構造船の停泊地だった事から、こうした海賊行為は海北道を経由して朝鮮に渡海し、使用した船舶も彼らが乗り慣れた準構造船だったと思われる。なお『明月記』の作者の藤原定家は、日本に来た宋船は必ず高麗にも寄るので、我が国の賊が高麗で海賊を働くことは宋船の航行にも悪影響を与えかねないと心配しているが、私はこれらの海賊行為は、大洋路の権益から外れた上松浦党諸氏が起こしていた可能性を考える。
文永11年(1274)と弘安4年(1281)に起きた元寇は、本拠地である松浦地方が戦場になった事は勿論の事、彼らが関与した航路の交易活動の一時的な停止をもたらした点で、松浦党諸氏に深刻な影響を与えたと思われる。蒙古は1279年以前には南宋と敵対関係にあり、高麗の服属(1259年)も南宋包囲網の一環だったが、文永10年(1273)には南宋防衛の要・襄陽が陥落しており、南宋滅亡は間近に迫っていた。日本は大洋路を介して南宋と貿易を行い、火薬の原料である硫黄や木材を輸出して南宋の継戦に力を貸す存在となっていた。そのため南宋の継戦能力を低下させるという戦略的目的のために、元は使節を派遣する一方、高麗に軍船の建造を命じて文永11年(1274)に壱岐、対馬を経て博多に来襲している。『元史』によると文永役の元軍は蒙古や漢(中国華北)、高麗の連合軍1万5千人と、本船の千料船と、それに搭載された上陸用の抜都魯軽疾舟、水汲小舟が各300艘とされているが、服部英雄氏は本船の船数112艘、参加人員1万2千人程度と推測している(『蒙古襲来』)。この本船(千料船)は莞島で出土したような網代帆を装備した朝鮮船だと思われる。
文永の元軍は10月3日に朝鮮合浦を出発し、同3~5日に対馬、同13日壱岐、同20日に博多湾内の早良に上陸しており、古くからの朝鮮海峡横断航路(海北道)を利用して博多に侵攻している。その間の戦闘は対馬、壱岐や博多の赤坂、鳥飼、祖原の戦いなど殆ど陸戦に終始しており、松浦党諸氏も博多に参集した軍勢に加わっていたと思われるが、彼らが大規模に船戦を展開する場面は無かった。なお佐志留・房は文永の役の合戦で戦死している(1:127)。
なお『勘仲記』11月6日の条によると、文永の役の元軍は俄に逆風が吹いたため、本国に吹き帰ったとある。この逆風の解釈は難しいが(何を主体としての逆風かが不明)、北部九州では盆過ぎから十月頃までアゴ風(北東風)が、冬季にはアナゼ(北西風)がよく吹く事を考えると、反対の南風を逆風と捉え、その風に乗って撤退した事が考えられる。もとより文永の役は砲艦外交か威力偵察か、せいぜい急襲による短期決戦を目指していて、相手が相当の軍勢を揃えていた場合には、遠征軍の不利を考えて早期に退却する段取りだった事が考えられる。博多に侵攻した理由も大洋路の日本側終着港である博多を機能不全に陥れ、日宋貿易の中断(硫黄入手ルートの遮断)を企図した事が考えられる。
文永の役後、鎌倉幕府は再侵攻を想定して、博多湾沿岸に石築地(石塁)を九州諸国に分担して築かせるとともに、御家人に交代で博多周辺に詰めて警護に当たらせる異国警護番役を設けている。松浦党諸氏も各自これに参加したようで、健治3年(1277)4月1日付けて肥前国守護少弐径資から斑(馬渡)島右衛門三郎に異国警護番役を勤め終えた勘状が出されている(1:124)。
弘安4年(1281)の弘安の役では、1279年に滅亡した南宋の軍も加わり、朝鮮海峡横断航路を行く東路軍と、大洋路を行く江南軍に分かれて侵攻している。東路軍は文永の役の遠征軍が殆ど無傷で帰国している事から、その軍と同規模の兵力、装備だと思われる。一方江南軍は、侵攻した元軍に降伏した旧南宋軍が主体で『高麗史』には戦艦3500艘、10余万とされているが、実際はその1/3程度と推測されている。弘安の役の時点では南宋は滅亡しているので、戦役に対南宋の戦略的意味はもはや存在しない。そうなると皇帝フビライの威信という事になるが、それまでのモンゴルの対外姿勢を見ても、初代チンギス・ハン以来一貫して周辺国の侵略征服を進めてきているので、その方針に沿って外交関係すら結ばない日本の征服に乗りだしたとしても不自然ではない。ところが一方で元は、文永、弘安の戦間期にあたり南宋滅亡直前の弘安元年(1278)慶元(寧波)に入港した日本からの貿易船に対して交易を許しており、翌2年に入港した4隻にも交易を許している(『元史』)。日本側も南宋行きという事で船を出したのかも知れないが、弘安2年の船は入港前に明らかに相手が元に変わった事を分かっていた筈である。そのあたり、日宋貿易の主体は寧波や博多に居住する(帰化した者も含めた)宋人で、彼らは幕府の思惑の外で活動している感じがする。一方の元側も、攻める方が攻められる方より無感覚からかもしれないが、再度の日本侵攻に旧南宋が関わるという意識がまだ無かったのかも知れない。
弘安の役は5月3日の東路軍の合浦出航で始まり、服部英雄氏によると5月21日には世界島(志賀島)に到着している。6月8日には日本側が海の中道側と海側(船)から島と船上の元軍を攻撃している。一方江南軍は6月中旬に慶元を出航し、6月下旬に平戸や伊万里湾に到達している。6月29日から7月初頭にかけては壱岐で東路軍と戦っているが、文永の役とは異なり志賀島や伊万里湾で船戦が行われ、有名な『蒙古襲来絵詞』にもその様子が描かれている。その場面を見ると準構造船の兵船に乗った日本側の軍勢が元の軍船に向かっているが、櫓走で向かっているのに舵が舵床に差してあるなど若干の不明点がある。また船首から中央にかけては鎧兜をつけた武者が座り、船尾側では水主が櫓を押している。水主は着物の片袖をはだけさせている者も居れば、腹巻と草摺のみを付けた者もいる。絶対数が不足したとされる兵船や水主の状況から、身に覚えのある武者が櫓を押した可能性もあるが、壇ノ浦の戦いの際に水主を射て船の動きを封じる策が取られた事を鑑み、水主も鎧を着て防御した可能性もある。なお伊万里湾岸にも防御用の石塁を築いたとする説があるが、後の戦国時代まで含めても、松浦地方の戦闘で海岸に防御を施し上陸を阻止するような戦闘が行われた例は無く、山上に設ける当時の城郭のあり方からも外れていて、そもそも設営による戦術・戦略的意図が説明できない虚説である。
弘安の役は鷹島周辺で暴風による元の船団の壊滅と残敵掃討戦で終わる。元の船団に占拠されたと思われる平戸や五島の戦災については記録が無いが、相当の被害はあったものと推測される。一方で平戸に存在したと思われる宋人街が江南軍の襲来や敗戦によって、どのような影響(ダメージ)を被ったかも気になる。
さて日本側の勝利にもかかわらず防衛戦のため恩賞の領地を得られなかった御家人の不平は、一方で得宗(執権北条氏)の専制に対する不平にも繋がり、不安定化した鎌倉幕府は最終的に元弘3年(1333)後醍醐天皇に呼応した軍勢に倒される事になるが、この政変後の情勢は松浦党にも大きな影響を与える事になるものである。
(2020、1、1 中園記)









