平戸史再考No.011 勘合貿易と箕坪合戦
- 2021/02/01 10:28
- カテゴリー:平戸史再考
勘合貿易と箕坪合戦
元寇以降の御家人の経済的困窮と、勢力を拡大する得宗家への反感は、最終的に後醍醐天皇の勢力による元弘3年(1333)の鎌倉幕府滅亡と、建武政権の樹立へと繋がっていく。だが建武政権の王朝復古的な政策は武家層の反発を招き、結果的に足利尊氏を征夷大将軍とする室町幕府が樹立される事となる。朝廷も、尊氏が擁する持明院統系統の天皇による北朝と、後醍醐天皇が連なる大覚寺統系統の天皇による南朝が両立する事となり、南北朝の時代が招来する。それに加え、足利氏の身内人である高氏と尊氏の弟・直義の対立や、尊氏の庶子・直冬の九州方面での台頭といった状況が複雑な政治・軍事的構図を生じさせていく。こうした国内の混乱に加え14世紀には周辺国の元朝や高麗が衰亡を続けており、中国大陸では元朝が1368年に滅亡して明が建国され、朝鮮半島では高麗が1392年に滅亡して李氏朝鮮が建国される。このように14世紀の東シナ海沿岸地域は総じて政情不安で、それに互して経済活動も低調となり、大洋路などで9世紀以来盛んにおこなわれてきた民間貿易も沈滞せざるを得なかった。なお14世紀は、10世紀頃から続いた中世温暖期が寒冷化に向かい19世紀なかばまで続く小氷期に移行した時期にあたり、気候変動による農業生産の停滞が、各国の国家運営に影響を与えた可能性も存在する。
九州では元弘3年(1333)に菊池氏、阿蘇氏が後醍醐天皇の皇子・護良親王の令旨を奉じていち早く兵を起こし、3月に博多の鎮西探題館を攻めるが敗北する。その後足利尊氏の参戦などの状況が起きたことで九州でも少弐、大友、島津などの有力御家人が倒幕に転じ、5月には鎮西探題・北条英時を攻撃して滅ぼしているが、その戦いに松浦地方からも斑島氏、相知氏などが参陣している。なお建武政権下の建武2年(1335)には、山代亀鶴丸に宇野御厨内の地頭職が雑訴決断所牒として出されている(『松浦党関係史料集』第3巻464、以下3:464と記す)。
しかし建武2年(1335)には、朝廷と足利氏の亀裂か決定的となり、朝廷が鎌倉の足利尊氏の追討を決した事を受けて尊氏軍が京都に攻め上るが、北畠顕家らの攻撃で京都を追われ九州に落ちのびる。延元元年(1336)2月に赤間関(下関)で筑前守護の少弐頼尚と合流した尊氏軍は、多々良浜(福岡市東区)で菊池武敏ら九州勢の大軍を破って九州を制圧すると、反転東上し湊川で楠木正成・新田義貞の軍を破って京都を制圧し、暦応元・延元3年(1338)には尊氏が征夷大将軍となって室町幕府を開く。
九州では尊氏麾下の一色範氏が九州探題として経営にあたるが、その権力は弱体だった。そうしたなか、感応元・正平5年(1350)3月には日本人禅僧が乗った元の商船が博多に到着し、一色氏の代官とみられる人物が一色直氏を介して幕府に報告している。この事からこの時期には大洋路の民間交易が継続していて、室町幕府が一応貿易を管掌していた事が確認できる。
他方この時期の高麗では倭寇の侵攻が頻発している。『高麗史』によると忠定王2年(1350)4月、倭船百余艘が順天府を襲い、南原、求礼、霊光、長興からの漕船(租税の米麦を運ぶ船)を拿捕している。恭愍王3年(1353)4月にも倭(船)が全羅道を襲い漕船40余艘を拿捕している。翌4年(1354)4月にも全羅道の漕船200余艘が拿捕され、同7年(1357)3月にも角山戌を襲い300余艘の船を焼いている。なお同年7月には倭(船)が黔毛浦を襲撃し全羅道の漕船を焼いているが、倭寇のために漕運が不通となったため、高麗政府は漢人張仁甫ら6人を都綱という役職に付け、各々に唐船1艘と戦卒150人を付けて全羅道の租税運搬の護衛に当たらせたが、倭賊は風に乗じて火をつけたため、高麗水軍側は負け続け死傷者を多く出したとされる。唐船(ジャンク)と唐人を漕船の護衛に投入しているのは、朝鮮船よりもジャンクの方が風を使った操船に優れているからだと考えられるが、半島南岸の多島海では却って櫓漕ぎを多用する倭船(準構造船)の方が有利で、せいぜい漕船の拿捕を妨げる程度だったようだ。恭愍王13年(1363)3月には、全羅道の漕船は倭に阻まれて航行不通になっていたので、王命で京畿道の右道兵馬辺光秀・左道兵馬使李善が阻害海域に行って漕船を護衛した所、倭賊の方は大敗したという。これ以降も倭賊の侵攻は続くが、応永26年(1419)朝鮮軍17000人、兵船227隻による倭寇の出撃拠点とされた対馬の攻撃(応永の外寇)や、中国遼東の望海堝で倭寇が大敗北した事で鎮静化に向かい、貿易活動に切り替わっていく。
1350年代の高麗での倭寇活動の背景には、同時期の朝鮮海峡航路や大洋路においての貿易活動の不振があったと思われ、その原因には博多や、日本側輸出品の生産地でありまた輸入品の消費地でもあった畿内の戦乱が影響していると考えられる。貿易の不振は、沿岸で貿易活動に関与していた松浦党諸氏を経済的困窮に陥れ、耕地が乏しい地域に居住する松浦党諸氏は、本来漁業や貿易に関与して得た利益で九州本土などから穀物を輸入していたと思われるが、高麗で租税の穀物を運送する漕船を拿捕した背景には本拠地の穀物不足があったと考えられる。また松浦党諸氏が朝鮮半島に侵攻する大義名分には、やはり文永・弘安の役(元寇)における高麗軍の日本侵攻があったのではないだろうか。倭寇の根拠地である対馬、壱岐、松浦地方は元寇の戦場となった地域であり、14世紀は肉親を殺されたり地域が荒廃した記憶も今だ強烈に記憶・伝承されていた時期である。被害を蒙った側の「恨」の記憶が歴史に与える影響について、加害側は心しておく必要がある。
松浦党諸氏が倭寇に用いた船は、当時の日本で兵船に用いていた準構造船と考えられる。同船の航行には横帆による帆走も用いられたが、戦闘時には専ら櫓走を用いたと思われる。単独領主が有する船や兵力は多くないので、1350年代のような大規模な略奪を実行するためには、多数の領主が連合して船や人数を集める必要があるが、特に朝鮮側の記録にあるように多数の拿捕船を処理するためには、大勢の回航要員を乗せる必要もある。また個々の集団の安全や成果の確保のためには、朝鮮側の防衛状況や略奪対象、地勢などの情報を相互に交換する連携も必要だったと思われる。
一方国内では、康永元・興国3年(1343)に後醍醐天皇の皇子・懐良親王が九州に入り、菊池を中心に南朝勢力の挽回を図った結果、康安元・正平16年(1361)には太宰府を制圧し征西府が置かれる。その後10年間南朝は九州で優位に立ち、大洋路の発着港である博多を支配するが、その間の応安元・正平24年(1369)には、1368年に建国した明の使節が博多に来訪して朝貢と倭寇禁圧を要請している。しかし征西府はその使者を殺して交渉を行わなかった。しかし応安3・建徳元年(1370)に来航した明使(趙秩)は迎え入れ、懐良親王は家臣・祖来を返使として明に送っている。これによって南朝の征西府は中国(明朝)から正式な日本の統治者として承認されるという、室町幕府にとっては由々しき事態が生じる事となった。なお「青方文書」には貞治2・正平18年(1363)に征西府が下松浦党一族中に文永・弘安(元寇)・元弘(鎌倉倒幕)の勲功に応じて領地を安堵した令旨案があり(3:742)、征西府が松浦地方-大洋路の掌握を図っている事が分かるが、明使船が博多に到達しているのもこうした状況の反映と捉えられる。
第三代将軍・足利義満はこの状況を覆すため、応安4・建徳2年(1371)今川了俊を九州探題として九州に向かわせる。了俊率いる幕府軍は翌応安5・建徳3年(1372)8月に太宰府を陥落させて征西府の機能を停止させ、南朝方を南九州まで後退させている。なお了俊は南朝方を菊池に追撃した水島の戦いの際(天授元・永和元年、1375)に少弐冬資を謀殺しており、結果的に少弐氏を南朝方に走らせる事になるが、少弐氏が所持してきた筑前守護職と太宰府での外交権は了俊が継承する事になる。こうした状況下の応安5・建徳3年(1372)懐良親王が明に送った使節に対応し、明から親王を日本国王(良懐)に封じる冊封使・仲猷、無逸が博多に到着している。しかし博多は今川勢によって奪還された後で、使節は了俊によって拘留されるが、その後使節は上京して北朝・室町幕府との交渉を行っていく。なお明では1380年に洪武帝が左丞胡惟庸とその一党を謀反の罪で粛正するが、6年後に胡党の林賢が「日本国王」を謀反に荷担させようとした陰謀が明るみに出ており、日本側交渉相手の変更は明側に取っても都合が良い事となった。
この状況で注目されるのは、今川了俊の九州進出に先行する形で応安4・建徳2年(1371)了俊の弟・今川仲秋が呼子に上陸している事だ。この動きは松浦党を幕府方に引き入れる目的があったからとされるが、背景には松浦党が管掌している大洋路を幕府が掌握し、博多の征西府と明の連絡を遮断する意図があったと思われる。
松浦党内では永徳4年(1384)に「下松浦住人等一揆契諾状」が46名により結ばれており(3:842)約定に「公方」という表記が出てくる事から、室町幕府への忠誠を基盤に置いたものである事が分かる。46名の冒頭には「ひらと源湛」の名があり、平戸を治める平戸松浦(峯)氏の優越性が見て取れるが、それに続いて「たひら駿河守定」(田平(峯)氏)「やましろ遠江守栄」(山代氏)、「おうしま伯耆守徳」(大島氏)などが花押を書く形で名を連ねるなど下松浦党の有力諸氏が一揆に加わっており、他に宇久、有川、青方、奈留などの五島の諸氏も名を連ね、大洋路の沿岸地域の領主を網羅している事が分かる。応永4年(1397)には足利義満が明に使節を派遣していて、幕府としては一揆契諾に明への本格通交に向けた大洋路の安全確保という役割を期待したように思える。また一揆内における犯罪行為の禁止など域内の平和についての条項もあるが、松浦党諸氏が幕府軍に加わって国内各地で転戦した事を示す感状が多く残っており、一揆の参加者側としては、遠征戦に参加するために近隣領主の侵攻の停止を保証する必要がある事から、一揆契諾による安全保障が必要だった事が考えられる。
足利義満は応永8年(1401)にも建文帝治下の明に使節を送り、翌年2月には義満を「日本国王」に冊封する勅書を携えた使節が明から渡来し、8月には使節が京都に到達して義満が勅書を受領している。翌応永9年(1402)に義満は「日本国王臣源」の名で表文を持たせた謝恩使を帰国する明使に同行させたが、明では靖難の変で建文帝の叔父・朱棣(しゅてい、燕王)が建文帝を打倒して永楽帝が即位しており、表文は永楽帝に上表されている。永楽帝は直ちに義満を「日本国王」に封じ、正式な朝貢使節である事を証明する勘合符100道を使節に持たしている。これによって勘合符を所持した朝貢使節(遣明使)が儀礼に付随して貿易をおこなう勘合貿易がスタートする。明では宋元代に行われてきた民間貿易は禁じられた(海禁)ため、日中間の大洋路を介した直接貿易は勘合貿易のみとなったが、日本からの遣明使の派遣は応永8年(1401)から天文18年(1549)の約150年の間に20回程度おこなわれている。明による朝貢体制と海禁は、約500前の唐代の制度の復活という時代錯誤的な政策であるが、明にとっては先代の元が海外貿易に関連する経済混乱で弱体化した事への反省もあった。かたや日本側では唐代でも日本は冊封を受けず対等外交であった事や、朝廷を差し置いて幕府が冊封を受けた事への批判もあったが、義満は、明の海禁体制下で日本の貴族や武家層の威信材である「唐物」を入手する唯一の機会である遣明使節の派遣権を将軍家が掌握し、幕府の権威付けに利用するために、明の時代錯誤的な朝貢という「茶番」に付き合ったと思われる。
遣明使節の船団は複数船で編成され、最大の宝徳度使節は10隻で編成されたが、多くは3隻程度の編成である。遣明船は「公方船」と呼ばれる将軍家派遣船の他、有力寺院や大名が派遣する船で編成されたが、派遣主には帰航持、乗船する商人達から3000~5000貫文(輸入価の1割)の抽分銭が納入されている。各船には操船にあたる乗組員の他、使節関係者や大勢の商人が乗り込んでいる。明との交易は①「進貢」と呼ばれる明皇帝への進物とそれに対する皇帝からの回賜のやりとり、②「公貿易」という明政府による輸出品の買い上げ、③「私貿易」という民間貿易で、明の商人への輸出品の販売と、明商人からの商品購入活動からなるが、①では概ね進物より大きい価格の品物が回賜されていて、全体の貿易利潤は往復で輸出品総額の4~5倍に達したという。
なお南北朝初頭までの日元貿易にはジャンクが使用された事が、新安沈船の発掘などから確認できるが、遣明船には日本船が用いられた事が定説となっている。例えば応仁度遣明使(1467年寧波着)の記録である『戊子入明記』には、門司の和泉丸(2500石積)、寺丸(1800石積)、宮丸(1200石積)が選ばれている。これら室町期の大型商船が日本で建造された和船である点については研究者の意見は一致している。おそらくは9世紀以来中国系商人によって運用されてきたジャンク船を運用する交易システムが、元寇によって中国系商人を排除する方向に向かって破綻した事で、ジャンク船の運用が出来なくなった事が考えられる。しかしその大型和船については、船底部に刳船構造を残す準構造船だとする意見と(安達裕之『日本の船』)、加工された板材と柱材のみで建造された構造船とする意見(石井謙治『日本の船を復元する』)がある。これについては後ほど詳しく検討するが、留意しておかねばならないのは、和船の大型化には広くて長大な船板の製作が必要だという点である。
日本における大型構造船の建造は、7世紀の百済船由来の遣唐使船の建造まで遡れるが、当時は鋸が伝来しておらず、チョウナやヤリガンナなどを使って板材や柱材を作っていたため時間やコストがかかるものだったと思われる。その後9世紀に唐でジャンクが使用されるようになった時、五島や神集島で中国人によってジャンクが建造された事は以前述べたが、さらにその後の日宋・日元貿易でも、博多などに居住する中国商人が木材の入手が容易にできる日本側の寄港地でジャンクを建造し、大洋路の交易に投入する事もあったのではないかと想像される。しかし同時期の日本船にジャンクの建造技術が影響を与えた状況が確認できず、ようやく鎌倉末から室町前期にかけての時期に、鋸の伝来・普及が板柱材の生産を向上させ、大型和船の量産が始まったと考えられる。
一方、遣明船の帆装についてだが、大永4年(1524)制作の『真如堂縁起絵巻』に描かれた唐から帰国する円仁を乗せた船は、16世紀初頭に使われた遣明船がモデルだとされているが、船首近くと中央部に2本の帆柱を持ち、筵で作られた横帆を張っていて、ジャンクのような網代帆(縦帆)ではない。そうなると遣唐使船同様、斜め前からの風を利用した間切り走り(風上にジクザグに進む航法)は難しいが、断面が尖った船底と舵を有していれば真横風程度の航行なら可能だったと思われる。
『戊子入明記』に記された応仁度遣明船の参加候補船の船籍地を見ると、豊前国門司、周防国冨田・上関・深溝・柳井、備後国鞆・尾道・田島・因島、備前国牛窓などが挙げられている。この事から、大洋路での航海が可能な大型和船が瀬戸内海航路でも使用されていた事が分かるが、そうなると瀬戸内海でも、陸岸伝いに航行する準構造船の地乗り航路とは別に、帆走の障害となる陸地から離れた海域を、寄港地を少なくして帆走航行する沖乗り航路が開拓・使用されるようになっていた事が想像される。但しそうした沖乗り航路でも瀬戸内海にはやむを得ず島や半島に挟まれた海峡を通過せねばならない場所があり、室町~戦国時代にそうした場所である芸予諸島の海峡に接して村上氏が城を築き、様々な通行利権を得る事で海賊衆として勢力を拡大したのは必然であった。
さて再度、遣明船の船体構造の問題に戻りたい。前述したように石井謙治氏は遣明船を構造船と判断したが、その根拠として『浜松図屏風』(15世紀末)や『真如堂縁起』(16世紀初頭)に描かれた遣明船をモデルにした可能性がある大型船の船体幅の広さに注目し、これだけの幅を得るには刳船を船底材とする準構造船では難しいと結論づけた。一方、安達裕之氏は『神功皇后縁起』(15世紀前期)や『真如堂縁起』に描かれた大型船の船底の黒く塗られた材を刳船材と推定し、恐らくは船底材の上に配する舷側材「棚板」を寝かせる(緩やかな斜めに取り付ける)事で幅を確保したと推測されている。この問題についてはもとよりにわかに判断できるものではないが、一つ注目したいのは、江戸時代の大型廻船(和船の構造船)の船底は、比較的狭い航(かわら)という船底材の両側に立つ(上斜めに取り付けた)形の短い根棚が付く構造(航-根棚構造)になっていて、その根棚に寝かせた形の幅広の中棚が付き、その端から上に立つ形で上棚が付いているが、この船底の「航-根棚構造」は準構造船の船底の刳船部分を板材で再現したものだと思われる事だ。これについては大型船が多数建造されるようになった状況下で、船底の刳船部が作れる用材が不足した結果、航-根棚構造が考案され普及した事が考えられる。この航-根棚構造の部分は西洋船のキールやジャンクの竜骨のように帆走時の横流れを防ぐ用途も担っている事から、真横や斜め前方から吹く風を利用するような航海がおこなわれるようになった状況下で、航-根棚構造が普及した事も考えられる。もう一つ重要な点は舷側の大型化である。ヨーロッパの構造船の弦側は、キールの左右に付けた肋材に狭い板を張る方法を取ったが、日本の構造船では、まず複数の板を並べ釘を打って繋げて幅広の板材を作り(ハギ合わせ)、その板を横方向と上下方向に配して角度を付けて繋げて形成する方法を取っている。このハギ合わせという技術が確立して初めて和船の大型化が成ったのである。
この室町期の大型和船の船体構造の問題は、当時の流通や生産の状況と絡めて考える必要があるように思う。例えば大型和船が構造船化していたという石井説に従うと、構造船建造技術が中国からもたらされたことによって和船の大型化が図られ、それによって流通が活発化し各地の生産も活性化するという流れが想定されるが、準構造船の大型化が先行したとする安達説に従うと、流通や生産が活発化したため、必要に応じて既存の準構造船の大型化が進んだ事になる。平安末から鎌倉、室町期にかけては、各地で様々な作物や工芸品(例えば陶器など)の生産が活発化していくので、その過程で準構造船の大型化が、ハギ合わせ技術により上棚・中棚に幅広の複合材を導入する事によって進み、それと横帆による真横走りまでを可能とする帆走技術の向上―帆走の多用による輸送経費の削減―が同時に進行し、その後船の大型化や大型建築物の増大に伴って顕在化した刳船船底材に適した大型木材の不足に対応した形で、刳船船底材を航-根棚構造で代用する構造船の導入が図られていった事が考えられる。
他方、日本海沿岸では江戸時代前半頃まで、舷側は棚板構造だが船底は航でなく、刳船を左右に裁断し、その間に板材(丁板)を挟んで船底を構成したオモキ造りという構造の大型船が「北国船」「ハガセ船」の名称で用いられていた事が知られている。既に鎌倉後期には、後醍醐天皇の忠臣で伯耆国を根拠とした名和氏が家紋に帆船を描いているように、単調な海岸線が延びる日本海沿岸航路は、瀬戸内海と異なり帆走航海が多用される海域だった事が考えられる。オモキとは左右に裁断された刳船部材の事だが、前述した瀬戸内海の大型和船のような横に寝かせた中棚で船幅を拡大するのではなく、船底を広げる事で船幅の拡大を図っている。オモキ造りの船底では平底になるため帆走時の横流れが危惧されるが、北国船の図に櫓などの漕走装置が多く確認できるのは限定された帆走性能に対応するためとも思われる。なおこの船底を板で広げる構造は以前紹介した朝鮮船の中世期の船底構造でも認められるが、朝鮮船の場合、舷側は狭い板を接合する方法を取っている点が、ハギ合わせの棚板を用いるオモキ造りの日本海型大型和船と異なる点である。その事から同船の朝鮮起源説には疑問符が付けられているが、例えば1350年代に倭寇によって大量に拿捕された朝鮮の漕船が日本海に回航され、穀物を降ろした後、帆走船の航海に利がある日本海の海運に転用されるなかで、船底構造がアイデア的に影響を与えた可能性などは無いだろうか。いずれにせよオモキ造りの船を効率的に造るためにも、船底のオモキ材と板材の接合を隙間無くおこなうための鋸の使用が不可欠である。
朝鮮半島では1392年に高麗が滅亡して李氏朝鮮が建国されるが、15世紀前半頃から李朝の世宗は、倭寇懐柔策として日本との間の公貿易を再開する。そして松浦党諸氏の多くが朝鮮貿易に関わっていくが、特に佐志氏、田平(峯)氏、志佐氏が多く行っている。『李朝実録』では田平氏は「田平殿」「駿州太守」と記され、応永11年(1404)から同24年(1417)までの14年間に「田平殿」が13回も通交し、応永27年(1420)から同30年(1423)までの3年間にも「肥前州田平寓鎮駿州収田平源省」が5回通交している。さらに享徳3年(1454)には「肥前州田平寓鎮源朝臣弾正少弼弘」が5回も通交し、以後永正5年(1504)までの50年間に52回も交通している。大洋路の通交が朝貢貿易の形となり、頻繁なものでは無くなった中で、それから概ね排除される事となった松浦党諸氏にとって朝鮮貿易は、主体的に交易に関われる活動として重要な意味を持ったであろうことが想像される。壱岐は、朝鮮半島における倭寇活動や通交船の派遣の発進・中継地として好個の位置を占めていたため、室町時代には志佐、佐志、呼子、鴨打、塩津留などの松浦党諸氏によって分割統治されていた事が『海東諸国記』の記述から確認されている。なお外山幹夫氏は対朝通交に関する記述に松浦平戸氏(平戸松浦氏)があまり登場しない事に注目し、当時の平戸氏は松浦党諸氏の中で突出した優位を持つ状況でなかったと推測されている。平戸(松浦)氏は峯氏の系統で、鎌倉時代に当主だった持(たもつ)が平戸松浦氏の祖とされる。しかし前回述べたように、鎌倉後期から室町初頭の平戸氏と峯氏には同名の当主が存在し(湛-答-定)両家はまだ明確に分化していなかった可能性があり、そうだとすると平戸氏が朝鮮貿易に登場しないのも、田平(峯)氏として交易していたのだとすれば納得できる。
『三光譜録』によると室町時代初頭の国司興栄公勝(すぐる)の時、肥前守に任じられ、平戸津を領したとされるが、その時には平戸から川内にかけて領した大渡長者という人物から領地を譲られたとされる。大渡長者については、元は貧しい塩売り商人だったが、毎日川内に塩を売りに行く途中、川内峠の道端の石に一つまみの塩を供え、安満岳の白山権現に「一生のうちに、九十九島の数ほどの船を持つ身分になれますように」と大成を祈願して精励した所、祈願が叶ったという伝説があり、現在最教寺奥の院裏手には大渡長者の墓とされる巨大な五輪塔がある。『三光譜録』にある大渡長者の実在やこの伝説をそのまま史実と認める訳にはいかないが、少なくとも峯氏が当初から平戸を支配していた訳ではなく、後発的に入手した事実を反映している可能性は高い。また「大渡」という名称からは中国との貿易に関わった商人だった可能性が考えられる事から、平戸は平安時代以降、大洋路の貿易活動に従事する中国系商人が支配的勢力をなす港町だったのが、元寇以降、博多でも確認されているように中国系住人の勢力が後退し、その機に対岸を支配する峯氏が進出した事が考えられる。
15世紀前期に平戸氏の当主だった義(よろし)は当初・峯氏に入り後嗣となるが、その後平戸氏に戻って嗣いだとされる。永享6年(1434)には宇久、生月、津吉、下方の連合軍が平戸を攻撃し、平戸側は大島氏の援軍を受けたものの白狐山で義の先代の芳(よし)、先々代の勝(すぐる)が敗死するという事件が起きる。実はこの時期には足利義教が久しぶりに遣明使を送っている。遣明使の派遣は義満の次代の(第4代)足利義持が中断させているが、正長2年(1429)に就任した(第6代)足利義教が復活させ、永享4年度(1432)に5隻、永享6年度(1434)に6隻とたてつづけに遣使を行っている。実は義は後述するように義教に誼を通じているが、先の周辺諸氏による平戸攻撃は、義教による遣明船の派遣に伴う権益が寄港地である平戸に集中し、その恩恵に浴する事がなかった周辺勢力からの反発だった事が考えられる。しかしその後平戸氏は勘合貿易に関わる事で得た経済的優位によって武力を充実させ、周辺諸氏の制圧を進めていく事になり、それによって平戸(松浦)氏は戦国大名化の途を辿る事になる。
『家世伝』によると、義は永享9年(1437)に足利義教が石清水八幡宮に参詣した際の道路警固で、目立つように赤い烏帽子を被って出仕し、これが義教の目に留まったことから好を通じることとなり、肥前守の受領、鞍覆・白傘袋・錦の半袴等を許され、御伴衆に列したとされる。義の永享10年(1438)の賛がある肖像画が残されているが、画像の右上の足利義教の花押が入っており義教との親密さが窺える。なお義教は嘉吉元年(1441)に赤松氏に暗殺されているが、義は義教の菩提を弔うため普門寺を建立している。義教と義の関係は個人的なものに止まらず、遣明船派遣の安全や権益の確保に関した現実的な側面も有していたものと思われる。
遣明船の出航地だった博多の権益は、鎌倉時代には筑前守護である少弐氏に握られていたが、前述したように天授元・永和元年(1375)に少弐冬資が今川了俊に謀殺された事で少弐氏の勢力は退勢に向かい、中央で起きた康暦の政変(1379)の影響で今川了俊が応永2年(1395)に九州探題を解任された後は、長門・周防・豊前・和泉の守護職を務めた大内義弘が対外交渉と貿易を掌握している。応永6年(1399)の応永の乱で義弘は敗死するが、大内氏はその後も博多への進出を企図し続けている。応仁の乱(1467~78)で大内政弘は山名宗全が率いる西軍に加わり、大軍を率いて上洛し畿内を転戦している。一方、少弐教頼・政尚父子は大内氏と対抗して細川氏の東軍に加わり、応仁2年(1468)に対馬宗氏の支援を受け、大内政弘上洛の隙を衝き太宰府を攻撃するが失敗し、大内方の反撃を受けた教頼は怡土郡高祖城で自決する。その後文明元年(1469)には少弐政尚が宗氏の支援を受けて数百艘の軍船で博多に侵攻し、太宰府を確保してのち政資と改名している。その後大内氏と少弐氏によって北部九州の覇権を巡る戦いが続くが、その間平戸では文明18年(1486)頃に松浦弘定と峯昌の間で家督についての争いが起きている。争いの発端は松浦弘定が実兄である松浦豊久の長男の昌が養子に入っていた峯氏の相続に介入した事にあり、弘定は波多氏、大島氏とともに田平に攻め入る。昌は里城に籠り迎撃しようとするが、配下に説得されて島原半島の有馬氏を頼って落ちのびる。江戸時代の史料『壺陽録』によると、昌は延徳3年(1491)に有馬、大村、相神浦氏、佐々氏、西郷氏などの支援を得て平戸に侵攻したとされる。しかし『歴代鎮西志』明応3年(1494)の項を見ると、少弐政資が有馬氏などの軍勢を率いて平戸に侵攻したとある。つまり平戸侵攻戦は単なる峯氏の家督争いへの介入ではなく、少弐政資(その背後には細川氏がいるのだが)による対大内氏戦略の一環だったのである。なお『壺陽録』と『歴代鎮西志』の戦いの時期には3年の差があるが、私は後者の明応3年(1494)説を採りたい(理由については後述する)。
戦いの経緯を『三光譜録』に即して記すと、まず峰昌方の連合軍は弘定の留守(御厨にいた)に乗じ、船隊に兵員を乗せて直接平戸を攻略しようとする。しかし伊東四郎左衛門が指揮する平戸方の船隊が、潮行きが早い平戸瀬戸で迎撃して阻止している。
平戸瀬戸は、遣明船が中国に向かう航路である大洋路と、九州西岸航路が通る交通の要衝であり、同時にこれらの航路の中継港である平戸を海からの攻撃から守る防衛線でもある。潮流が早い同海峡の一番の防備は、海域の特性を知り尽くした地元の海民だった。そのため連合軍は、陸地を進んできた本隊を平戸瀬戸の沿岸に展開させ、船隊を着岸させて(初手で瀬戸の突破に失敗しているので、最狭部より南側であろう)上陸の機を窺う事になる。かりにそれを阻止するために平戸の船隊を南に進出させると、海象を熟知した平戸側水軍の利点は失われ、単に数のみの勝負となる。また平戸島東岸には各所に上陸可能地があることから、海岸で邀撃を試みても兵力の分散は避け難く、大軍を擁する敵に対しての勝利は難しい。さらに大規模な陸戦になると、永享6年(1434)の白狐山城の戦いのように周囲に防御適地を持たない港市・平戸の防衛は難しい。そうした判断で弘定は防御が堅い箕坪城への撤退・籠城を決めたと思われ、津吉、下方、生月、大島の諸将の兵も弘定に従い同城に籠っている。なおこの箕坪城の選地については次回詳しく検討したい。
連合軍は川内から上陸して進軍し、箕坪城がある城山を囲む山々や谷間に陣城(砦)を築き、城の北の海にも船隊を遊弋させ、海からの兵糧・兵員の支援も断っている。城の堅固な守りを見越して、兵糧攻めの戦略を採ったのだろうが、特に海上封鎖は、大島や生月島などからの補給を期待する籠城側にとって痛手だっただろう。それでも堅固な城の守りに頼った平戸方の籠城は百日に及び、包囲側(連合軍)の思惑通り兵糧が欠乏したため、弘定は搦め手(城の裏手の海岸)から船で博多箱崎に脱出して大内氏を頼り、残った城兵はその後開城を余儀なくされている。『壺陽録』によると弘定は延徳4年(1492)に大内義興の調停を得て平戸に帰還し、昌の子興信を弘定の娘に配して嗣子とする事で事態は収まったとされる。一方『歴代鎮西志』によると、明応6年(1497)に少弐政資は大内義興の大軍に攻められ太宰府を追われ肥前に落ち延びるが、4月に政資・高経父子が敗死した事で、九州における少弐氏の退勢が決定付けられている。もし『壺陽録』の記述に従うと弘定の箕坪脱出・箱崎到着、大内氏の調停は延徳3〜4年(1491〜92)の事になるが、『歴代鎮西志』によると、その頃の博多は少弐氏の勢力下で、平戸も少弐氏側の占領下にあるので大内氏の調停が効力を発したとは考えにくい。そのため時期を5年程度遅らせて、少弐方の平戸攻撃を明応3年(1494)、弘定の箕坪脱出(但し博多でなく大内氏勢力圏に逃走)を明応4年(1495)、大内氏による調停を明応6年(1497)とすると矛盾は無くなる。
さらに掘り下げると、この戦いの背景にも遣明船が絡んでいる可能性が高い。明応4年(1495)に寧波に到着した明応度遣明使の船団は3隻で編成されていたが、1隻は公方船、2隻は細川船で構成されていて、大内氏が排除されている状況が確認できる。この船団は明応2年(1493)に堺を発した後、南海路と呼ばれる四国南沖を回って日向国に到達し、明応4年まで同地に逗留した後、同年8月に寧波に到着している。日向に明応4年まで逗留しているのは、平戸か五島列島から大洋路に入る際に、平戸が大内氏の影響から脱した事を確認してから出港した事が考えられないか。なお同船団は明応5年(1495)に寧波を発って帰国の途についているが、未だ平戸、博多は少弐氏の勢力下にあり、無事南海路を通って堺に到着している。細川政元は、大内義興を排して遣明船の利益を独占するために、少弐政資を支援し、遣明船の発着港である博多と、大洋路の中継港である平戸を制圧させて、大内氏による障害を排除したと考えると理に叶っているのである。
(2021、2、1中園記)
(2021、5、15修正)









