長崎県平戸市生月町博物館「島の館」

平戸史再考No.012北松城郭考

北松城郭考

 

 昨年4月に始めた「平戸史再考」も早や一年が経ち、時代も室町の終わりから戦国時代に到達した。この時代になると戦が増えてくるが、戦となると「城」がつきものである。思い返せばこの連載の第一回には平戸城をネタにいろいろ物申したが、1年の間に航路や船に依ったこの地域の歴史を縷々語ってきた事で、北松地方の城についても理解しやすくなったのではないかと思う。

城というと姫路城のように石垣に囲まれて天守閣(本丸天守)が建つ姿を想像しがちだが、北松地方でそのような城は平戸城と、松浦市にある梶谷城くらいしかない。しかしこの地域には他にも多くの城がある。それらの殆どには石垣は無く建物すら無かった城も多い。城とは敵の武力攻撃に対して何らかの防御設備を以て味方を保護する空間(城内空間)を持つ施設の事だが、山なども峻険な自然地形で城的な役割を果たす場合があり、鎌倉時代には山の尾根筋に堀切という人工の溝を設けて保護空間を作った原初的な山城が登場する。なお城の内部空間にあって、侵入しようとする敵を弓矢や槍など攻撃する場所にもなる平地の事を曲輪(くるわ)という。

志佐を領有した志佐氏の居城とされる直谷城(佐世保市吉井町)は、北松半島の南北にある志佐地方(松浦市)と佐々地方(佐々町)を結ぶ街道沿いにあるが、河谷沿いにある断崖が囲んだ独立丘陵上をそのまま曲輪にしていて、自然の崖が充分防御力を有しているため、人工的な防御設備は設けられていない。一方、曲輪の南側にあって登攀路で曲輪と連絡している谷には、谷口側に設けた土塁と空堀で遮断された平地が2つあり、そこに平時領主などが居住する屋形が置かれていたと思われる。

しかし崖に囲まれた地形が都合よくどこにでもある訳ではない。生月島南部の舘浦(平戸市)は宣教師報告に「館の浜」と記される海民の集落で、戦国時代には平戸松浦氏の家臣・籠手田氏の本拠地だったが、その舘浦の北西背後にドノヤマ(殿山)と呼ばれる標高30㍍程の舌状丘陵があり、側前面は登攀が厳しい急斜面である。現在は丘陵上の標高が異なる3つの小平地に寺院(明法院)、墓地、大魚藍観音が立地し、観音の北側は館浦から山田集落に抜ける切り通しの道路となっている。『生月村郷土誌』には「翌(寛永)三年、如何ナル理由ナリシニヤ(井上)八郎兵衛ハ遂ニ殿山ノ城ヲ捨テ、平戸ニ轉住セリ」と、殿山に城があったとしており、上部の小平地を曲輪とし、丘陵基部側にあって現在道路となっている所が堀切で、曲輪の周囲を急斜面で防御する形だったと思われる。なお舘浦集落の「舘(タチ)」は領主の館(屋形)に由来すると思われる事から、館の背後に殿山(城)がある、後述する青方城と同じ位置関係だった事が想定される。

五島中通島(新上五島町)の青方は、有名な中世文書の「青方文書」を残した青方氏の本拠地だが、ここに殿山城が残る。青方村城跡の絵図を見ると、山麓に青方氏の屋形があり、背後の殿山と呼ばれる丘陵の尾根線に3本の堀切を設けて攻撃を遮断し、丘陵先端に曲輪を設けている。長崎県教委が制作した縄張図では、丘陵先端の二つの頂部とその中間の平場の三カ所に曲輪を設け、曲輪の周囲は急斜面に加え「切岸」と呼ばれる人工的な急斜面を作って防御している。

丘陵の条件が悪ければさらに防御設備を設ける必要が生じる。針尾島東部(佐世保市指方町)にある大刀洗城は針尾氏の支城とされるが、40㍍程度の丘陵頂部から南西に伸びた谷地に屋形があったと推測され、その西側にある舌状丘陵の先端に東西15㍍、南北30㍍程の楕円形の曲輪があり、丘陵のやや広い基部側を土塁と呼ばれる線状の土盛りと、堀切よりも長い空堀(横堀)で遮断している。なお長崎県の報告書では丘陵頂部にも曲輪があったが削平で失われたと推測しているが、屋形の者が立て籠もるのには西側の曲輪で十分なので、あえて斜面が緩やかで防御に不向きな頂部に曲輪を設ける必要は無い。山城だから必ず山頂に曲輪を設けたと考えるのは誤りである。

 北松浦半島内陸の佐々川中流域にある野寄城(佐々町)は、文明11年(1479)に死亡した松浦豊久が野寄で没したとされる事から、豊久の隠居屋形に伴う城だと推測されているが、もともと佐々川沿いの交通路を把する目的で設けた城だと思われる。段丘崖に面した丘陵の根元側(東側)は広くなっているため、そこには横堀を長く半円形に巡らして防御し、内側に土塁を持つ単廓の曲輪を設けている。一方、西側の段丘端の麓は比較的急斜面だが、曲輪に近い頂部では傾斜が緩くなっているため、曲輪の周囲に切岸を設けて防御力を高めている。なお切岸の下は切岸を造成した事によって平坦地となっており、『佐々町郷土誌』ではそこを「二の丸」と表記しているが、この平坦地の外側は緩斜面になっている上、背面側にある横堀底とも繋がっているため、そこに拠って敵兵を防ぐのは難しい。城の研究書などでもそうした平地を曲輪(帯曲輪、腰曲輪とされる場合がある)としている例があるが、実際には切岸の造成によって生じた副次的な平地であり、上ってきた敵兵を上の曲輪から弓矢や槍で狙うための殲滅面と捉えられるが、守備側の拠点となる曲輪とは別扱いをする必要がある。

 以上紹介してきた城は、天然の防御となる崖や急斜面を有する独立丘陵や舌状丘陵を利用し、必要に応じて丘陵根部に堀切や横堀、土塁を設け、周囲の斜面にも必要に応じて切岸を設けて防御力を強化し、防御設備の内側に一つないし少数の曲輪を設けている。筆者はこうした城を「(丘陵)先端郭型城」と呼ぶが、平地に設けた日常生活する屋形(居館)の背後に設けられた城は、屋形が攻撃を受けた時、直ちに逃げ込んで安全を確保する「逃げ城」の役割を果たすのが第一の目的だが、同時に城が屋形の背後を防御する役割を担ったり、屋形が敵に占拠された場合に背後の城から屋形の敵を弓矢などで攻撃して排除する役割なども考えられ、敵方からすると背後の城を意識して屋形の攻撃も躊躇せざるを得ないという状況もあったと思われる。

 しかし舌状台地のように、天然地形や、若干の堀切、切岸などの作事で防御力を高められるような地形が得られない場所にも、状況によっては城を作らねばならない場合がある。そうした緩斜面で構成された丘陵上に城を設ける場合に、円形に土塁と堀を巡らせて防御し、内側に多く円形の曲輪を設けた例が、北松、壱岐、西杵地方などで特徴的に見られ、壱岐勝本の高津城、生池城、同郷ノ浦の帯田城、五島小値賀島の膳所城、佐世保市の井手平城(南郭)、西海市小迎の天狗山城、北松田平の籠手田城などが(部分的な場合も含め)そうした特徴を有している。筆者はこうした横堀と土塁で囲んで防御する形状の城を「囲郭型城」と呼ぶ。

平地に近い地形上に横堀や土塁で囲んで城を作る技術は、弥生時代の環濠集落や奈良時代の多賀城などに起源を持ち、鎌倉~室町時代には地方領主の屋形として方形城館が全国各地で数多く作られている。戦国時代にも山城の一部や平地の城に用いられ、例えば織田信長が桶狭間の戦い(1560年)の直前に今川方の大高城を包囲するため丘陵上に作った善照寺砦は、一辺50㍍程の横堀と土塁に囲まれた方形の城である。九州でも、戦国時代に武雄地方を支配した後藤氏の居城となった住吉城は、丘陵上に設けた一辺100㍍程の横堀と土塁に囲まれた不定四角形の城である。このように囲郭型城のオーソドックスな形は平面が四角形の(隅角がある)プランだが、北松、壱岐、西杵地方に存在する囲郭型城は円形や楕円形の(角が無い)平面プランで、比較的小規模な事も特徴で、過去には「松浦型城郭」という呼び方もされている。

こうした松浦式囲郭型城の代表例の一つが田平地方を治めていた峯氏の城と考えられている籠手田城(平戸市田平町)である。同城は釜田川に面した平地の背後にある標高30㍍程度の緩斜面を持つ丘陵の先端部上に径30㍍程の土塁と堀を円形に設け、丘陵基部側にも土塁を設けて防衛力を強化している。おそらくは城がある丘陵の北側下の、蛇行して流れる釜田川に囲まれた平地に屋形があり、川も防御に利用した事が考えられる。

高津城(壱岐市勝本町)は、15世紀に壱岐に進出した佐志氏が拠点を置いた場所とされ、東に延びた緩やかな斜面を持つ舌状丘陵の先端に、土塁と堀を円形に巡らした中に東西30㍍、南北22㍍の円形の曲輪があり、東側に堀をまたぐ土橋を持つ。城の北東側丘陵下に屋形があったと思われる。同じ勝本町にある生池城は、標高110㍍程の緩斜面を持つ独立丘陵の頂部にあり、楕円形の三重の土塁と二重の空堀に囲まれた中に南北80㍍、東西40㍍程の広い曲輪がある。

このような松浦式囲郭型城についても先端廓型と同様、近傍にある屋形の防御を担いながら、いざという時には逃げ城として機能した事が考えられ、プランが円形であるのは、比較的少人数の守り手でも周囲によく目を配り守りやすい事が考えられるが、大型のものについても、こうした城造りの技術伝統の延長上で作られた事が考えられる。こうした先端郭・松浦式囲郭型の城の作り手は、松浦党の諸氏に名を連ねた地方領主だと思われる。

 なおこうした先端郭型、囲郭型の城の応用例もある。大村氏の外港の役割を果たした針尾島の小鯛浦を領する針尾氏の拠点・針尾城(佐世保市)では、海岸に面した丘陵前面の急斜面を防御に利用し、上面の丘陵端部に曲輪を設けているが、その左右と背後に広がる斜面上の平地には、曲輪を半円形に囲んで二重の土塁と堀を巡らして防御している。基本的なあり方は先端郭型だが、背後の防御には半円形に土塁や横堀を展開させて防御する松浦式囲郭型の技術を用いている。

また平戸松浦氏が北松浦半島域を制圧した後、隣国・大村氏との国境に設けた井手平城(佐世保市)では、城域南側の丘陵に松浦式囲郭型による曲輪を設け、北側には舌状丘陵の基部を二重の堀切を作って先端郭型の技術で曲輪を設けていて、松浦氏が両型を二つの曲輪にそれぞれ用いて中規模の城を整備した事が分かる。

しかしこうした応用形を除いた殆どの先端郭型や囲郭型の城は、比較的低い丘陵上に単郭~少数の曲輪を設けた比較的小規模な砦であり、内部に井戸や兵糧を備蓄できる建物を設ける事ができる広い空間(曲輪)を持たない事から、ごく短期間籠もる事を想定した城だと想像される。そしてこれについては当時松浦党諸氏の多くがおこなっていた戦闘パターンに対応したものだったと考えられる。

例えば永禄9年(1566)に平戸松浦氏の軍勢が五島氏の領地(五島列島)を攻撃した際には、平戸松浦氏の軍勢が200艘の船で渡海しているが、情報が事前に伝わったため五島領の住民は食料を携えて高山に逃れ、仮屋を設けて戦闘を避けている。一方で五島氏は城に守備兵を置いて侵攻軍に対峙しているが、平戸勢は敢えて城攻めはおこなわず、集落の放火と船を略奪して25日程で引き上げている〔1566アルメイダ〕。兵力二千に達する(この地方では)大軍を擁しながら、城攻めを避けて短期間で撤兵している所を見ると、この侵攻では当初から野戦軍の大軍同士の交戦や、長期の城攻め、占領地の支配などは想定されておらず、奇襲による短期の襲撃戦だったと考えられる(もし奇襲が成功した場合には、多少の糧食を確保して駐留が若干延びた可能性もあるが)。なお事前に攻撃の情報が得られた場合には、安全な奥山に避難すれば良く、屋形の脇の城は、敵の奇襲が成功した時に、短期間で避難するための施設であった事が考えられる。

なお平戸勢はこの侵攻で100艘もの船を略奪しているが、敵の船を奪うという行為は、同じ時期に大村純忠が西彼杵半島西岸の反乱領主を攻撃した際にも確認でき、遡ると14世紀に松浦党諸氏が参加した倭寇が朝鮮を襲撃した時にも、漕船の拿捕や焼去をおこなった記録がある。船は奇襲的な襲撃戦をおこなう際の移動手段でもあるので、船の略奪は敵の侵攻を妨げる有効な手段であるのと同時に、自軍の侵攻能力の増強にも役立ったと思われる。

これらの事から、松浦党諸氏は14世紀の倭寇の侵攻で船を用いた急襲戦という戦法を身に付け、15世紀以降激化した北松地方内の戦闘でもこの戦法を多用した結果、この戦法に対応した先端郭や松浦式囲郭型の城が設けられるようになった事が考えられる。

しかし北松地方の外では15世紀以降、ある程度の比高差を持つ山の頂部に複数の曲輪と切岸、堀切、縦堀などの防御設備を持つ山城が多く作られるようになる。こうした山城は南北朝期に発生したと考えられていて、当初は山岳寺院などを屯所にしながら、周囲の尾根線に曲輪(郭)を連続させ、要所を堀切などで防御する線的な防衛を行い、防衛側が不利になると尾根伝いに後方に撤収する「悪党」の戦闘法を反映していた。

角田誠氏によると、こうした戦闘法の防御に対して、攻撃側は山城に近接する尾根筋などに付城を設け、長期の攻城戦をおこなうようになっていった事で、山城側も線から面に曲輪を展開する形に発達していったとされる。尾根筋に線的に展開する山城では、逃走方向とされる背後(搦手)の防衛は貧弱なため、搦手からの攻撃や、搦手と正面からの挟撃(包囲)という戦闘状況になった時には脆弱性が露呈するため、必然的に全包囲に耐えられる全方面防御を指向した山城が求められ、そうした防御に適した孤山の山頂部を主郭とし、周囲の尾根や斜面に複数の曲輪を配置し、堀切や縦堀、切岸や後には石垣で防御を施した本格的な山城が成立していったのである。16世紀の筑紫平野や筑豊の山城では、緩斜面に縦堀を並べた畝状縦堀を多用してより堅固な防御をおこなうようになるが、北松地方にはこの技術は導入されず、ある程度本格的な山城に近い規模や形態を有したのは、半島南部にある相神浦松浦氏の居城・武辺城やこれから紹介する箕坪城など少数に留まる。

 箕坪城は、平戸島中部西岸にある標高288㍍の城山(じょうやま)の山頂に築かれた山城である。城山は四方が急峻な斜面となっている独立峰で、北麓は海に面し、西麓には主師集落がある谷、南麓から東麓にかけては箕坪川の峡谷(現箕坪ダム湖)が巡る。比較的山頂に近い麓は両方の谷が交わる南西部で、そこが登山口となっており、往古の大手道だと思われる。山頂には北西と東を両端にしてL字状に尾根が伸びるが、ちょうどLの屈折点にあたる所が15㍍程低い谷間平地(谷間曲輪)となっていて、そこを挟んで東西に頂部が存在してそれぞれ主郭曲輪に利用されている。さらに谷間平地から南西に30㍍程下った所に南西方向に突出した尾根(南西尾根)がある。登山口からつづれ織りの登山道を登るとこの南西尾根に達するが、この細長い尾根上を平坦に造成して出曲輪としておりここから登山道への攻撃が可能である。また出曲輪と山頂尾根の間には大堀切とその両末端に縦堀が伸び、山頂の曲輪群への接近を阻んでいる。出曲輪から大堀切を越えて10㍍程斜面を登った地点には、堅固な石垣と石塁に囲まれた大手曲輪がある。この曲輪は背後にある谷間曲輪の防御を強化する目的で16世紀後期に設けられたと思われ、そこから出曲輪を進む敵や堀切に降りた敵を弓や鉄砲で掃射する事が可能である。そこを登ると尾根間の谷間平地に設けた幅40㍍奥行10㍍の曲輪に至るが、その前面にも石垣を設けて防御している。谷間曲輪から東に60㍍程尾根を登ると(この部分も細長い曲輪となっていて外側に石垣がある)東尾根に至り、最高所には櫓台様の高まりがあり、それを囲むように尾根方向60㍍、幅30㍍程の東曲輪があって周囲を石垣で囲んでいる。さらにその先にも尾根方向35㍍、幅15㍍程の曲輪があり、敵に面する南東側は石垣で、この2つの曲輪の石垣の高さは1.5㍍程度である。一方、谷間曲輪の北西側にある西尾根にも尾根方向90㍍、幅15㍍程の西曲輪が設けられ、外側(西側)には石垣が築かれている。また谷間曲輪の北側(海側)にある谷筋にも曲輪が設けられ、海に面した側は石塁となっていて内側には貯水用の池が設けられている。城山は全山安山岩の岩塊で表土はそれほど厚くないため常時流れがある川は存在せず、水を得るための井戸の掘削も困難と思われる事から、貯水池の設置は必要だったと思われる。池の先の谷はそのまま急角度で海まで下っているが、搦手口を想定できるような道や船着き場は確認できない。

箕坪城の位置は、平戸島内を南北に繋ぐ街道(東岸沿い、中央部の下方街道)から遠く、箕坪城から下方街道を監視しようにも、前に垣ノ岳などの山があって用をなさないため、中南部の掌握という目的には不向きである。また城に近接して城下町や農耕を展開する広い平地がある訳でもない。城の麓に若干の平地が存在するのは西側の主師だが、集落は斜面地に存在していて城下町には不向きで、かつて城下町(麓集落)があったような地割や遺構も確認されていない。箕坪城から山一つ越えた中野には盆地状の平野が広がり、ある程度纏まった田地が存在するが、城を支える規模とは言えない。なお中世の平戸松浦氏が大洋路の貿易活動に関与する事で勢力を拡大した事を考えると、平戸島西岸沖を通る航路を監視・掌握する目的で築城された可能性も想定されるが、箕坪城の城域には船着場などの遺構は確認できず、城外東側(箕坪河口)と西側(主師)にある入江が船着場に利用できるものの、包囲戦を仕掛けられれば使用は困難である。箕坪城が航路の掌握のために設けられたという想定も難しいと言わざるを得ない。

箕坪城に関する記録は前回紹介した明応3年(1494)の箕坪合戦時のものしか無いが、その時には箕坪城が存在した事は確かである。その理由として箕坪城地は表土が薄く、水の確保が極めて難しい事がある。籠城勢に供給する水が確保できなければ、百日におよぶ長期の籠城は不可能であり、水の手に設けた貯水池が籠城時には存在し、水も貯まった状態になっていた事が考えられる。貯水池を含めた箕坪城の築城の記録も無いが、恐らくは永享6年(1434)の宇久、生月、津吉、下方の連合軍による平戸攻撃の後、平戸松浦氏によって整備された事が確かだが、特に文明18年(1486)の峰昌の亡命以降、有馬氏(少弐氏)の大軍の侵攻が現実となり、これまでの松浦党諸氏間の戦いでは見ないような長期間の陸戦が想定されるなかで整備された可能性が高い。地形以外は山城の立地に向かない点については、永享6年の平戸攻撃の際に周辺の軍勢を防ぎきれず松浦勝、芳が敗死した失敗から平戸松浦氏に、たとえ立地が不便であろうと攻め落とされない城を持ちたいという願望があった事が考えられる。

 なお永享合戦いの際に平戸松浦氏が籠もった白狐山(標高67㍍)も『平戸市史』など既存書では城とされているが、地形や遺構から見る限りは難しい。山体は比較的緩かな斜面が頂上まで続き、切岸などの遺構も無く、平坦な頂部にも横堀、土塁などの防御設備は無い。唯一遺構とされるのは北側の丘陵地帯との間を遮断する位置にある二本の長大な堀とされる道(肥前堀、筑後堀)である。しかしこれを防御設備とした場合、堀の内側に敵を攻撃するための曲輪が必要だが、緩やかな斜面があるだけなので防御設備の態をなしていない。永享合戦で平戸松浦氏の軍勢が屋形から「背戸の山」(屋敷背後の山)の白狐山に退き戦った可能性を否定するものではないが、城とする認識は後世に付会された可能性がある。

 かたや箕坪城については、このような本格的山城をどうして平戸松浦氏が作れたのかという疑問がある。北松地方には従来こうした本格的山城は存在していなかったからである。そのためこうした山城の築城技術を有する勢力が築城指導をした事が考えられるが、技術面や平戸松浦氏との関係を考えると大内氏が指導した可能性が高い。

 大内氏は応仁の乱に大軍を派遣しており、乱後も中国方面で尼子氏や、九州方面で小弐氏や大友氏と対峙する中で多くの山城を設けている。前述の史料で記したように、箕坪脱出後の松浦弘定は大内義興を頼っているが、遣明船貿易に深く関与していた大内氏が貿易の円滑な運営を期して大洋路沿いの秩序の安定を図り、平戸松浦氏を支援した事が考えられる。

 しかし箕坪城に籠城する場合、平時に平戸松浦氏が屋形を置く平戸から2里程離れているため、逃げ込む前に敵襲を受けるリスクがある。加えて籠城出来たとしても遣明船の寄港地だった重要港市の平戸は放棄するしかなく、結果的に細川氏が掌握する遣明船の平戸通交を許す事になったのは前回述べた通りである。平戸松浦氏にとって自己の権力の中枢である港市平戸及び平戸瀬戸を掌握する位置に城を設ける事は悲願であり、その夢を叶えた城こそが、慶長4年(1599)に亀岡半島に築かれた日の岳城だったのである。

16世紀中頃以降、畿内方面では切岸に代わって石垣を築いて防御を高め、それによって堅固となった曲輪上に櫓などの建築物を設けるようになる。また守りの弱点となる城内への出入り口(虎口)も通路を曲げるなどして防御を高めるようになる。これらの防御技術を多用した城作りは織田信長や豊臣秀吉の配下の武将が盛んにおこなったが、そうして作られた城は織豊型城郭と呼ばれる。

日の岳城は松浦鎮信(法印)によって築かれた、織豊系城郭の特徴である石垣や枡形虎口などを採り入れた近世城郭である。同城は慶長18年(1613)に焼失した後、宝永4年(1707)に再築されている(再築時の名称は「亀岡城」)。現在も石垣や虎口、空堀などが残るが、慶長当初の遺構か宝永の再築時の遺構かは見極めが難しい状態である。そのため現在の城については「平戸城」と称しておき、慶長築の城を日の岳城、宝永築の城を亀岡城と整理したい。

平戸城の城域は亀岡半島全域に展開し、南北480㍍、東西410㍍の規模がある。亀岡半島の西側は平戸湾に、北から東にかけては平戸瀬戸に、南側は現在陸地になっているがかつては海(白浜湾)に面していた。平戸城(亀岡城)の現大手口は南西側の半島の付け根にあるが、現在国道が通る切通しもかつての堀切と思われ、さらにその東の大手口前面にも南北両斜面に縦堀を設けて尾根筋の土橋で大手口と結んでいる。大手口を通って二重の虎口を抜けると、東西200㍍南北最大100㍍の広い二ノ郭に出る。ここは現在、亀岡神社や公園になっているが、亀岡城当時は藩主の居所(御殿)が設けられていた。山麓の沿岸部の西側から北側にかけて(外廓)と、南側に海を埋め立てた(白浜郭)二カ所には腰曲輪があり、中腹にも二ノ郭の西側に三ノ郭が、南側の白浜郭上に曲輪が存在し、それらに対応するように二ノ郭の北、北西、南に桝形や食い違いの虎口が存在する。また曲輪の各所にはかつて櫓が建っていた櫓台が残り、大手口の虎口と小曲輪、二ノ郭の南側から東側にかけては石垣が巡るが、大手口から北口の間には斜面のみが残る。

亀岡半島の最高所は二ノ郭北東隅にある小山で(標高35㍍)そこに東西60㍍南北30㍍の本丸曲輪があり、南側から枡形虎口を通って入るようになっている。本丸曲輪の東端には沖見櫓があったが、天守が設けられたような櫓台の遺構は無い。本丸曲輪は全周を石垣で囲み、二ノ郭と連続する形で海側の防御線を構成している。

現存する遺構の全てが日の岳城段階のものでは無いと思うが、宝永改修前に制作された『再築願用亀岡古城図』(元禄16年・1703、以下『古城図』と略)を見る限り、亀岡城の基本的な縄張りプランは日の岳城のものを継承していると思われる。

遺構のうち石垣や枡形虎口などは織豊系城郭の構成要素だが、松浦鎮信が豊臣秀吉に臣従し、文禄・慶長の役に従軍する中で、国内や朝鮮半島(倭城)の織豊系城郭を見聞したり築城に参加して知見を得、築城技術者を雇って作った事が考えられる。『古城図』を見ると、亀岡半島の付け根を横断するように石垣が設けられていて、陸側からの攻撃を防ぐために南西側の防御に重きを置いた事が分かる。しかし白浜湾に面した南側も、海岸際の腰曲輪(白浜郭)や同側の二ノ郭に石塁・石垣を設けて防御を固めている。また平戸瀬戸に面した東側も、二ノ郭東側に石垣、本丸も全周石垣を巡らせるなどしていて防備厳重な印象がある。一方、平戸湾や平戸の町に面した西側には、海際の腰曲輪には護岸の石垣があり、三ノ郭西側や二ノ郭の北虎口周辺には石垣があるものの、二ノ郭の西側は斜面だけの表記になっていて、防御が若干薄い印象は拭えない。次に虎口を見ると、現在の平戸城(亀岡城)で最も防備が厳重なのは二ノ郭に上る南西口で、枡形と食い違いからなる二重の虎口が設けられているが、『古城図』では食い違い虎口が一つあるだけである。現在の南西口は防御の規模からして大手口であるのは確かだが、『史都平戸』によると亀岡修築時に大手口になったとされる。そうすると日の岳城段階の大手口が何処なのかが問題になるが、『古城図』の石垣や虎口、施設の配置を見ると南側だった可能性がある。その場合には、半島付け根の南側山裾から食い違い虎口を通って白浜郭に入り、山を登って南虎口(食い違い虎口)を経て二ノ郭に入ったと考えられる。白浜郭には長大な馬場があるが、例えば御館にも大手の階段下に馬場が設けられており、行事等の必要で設けられていたと考えられる。また白浜郭には船を出す虎口も設けられ、ここから直ちに平戸瀬戸に出航する事ができた。

南西口が日の岳城の大手口では無かった事については、先端郭型城の尾根線方向は専ら堀切で遮断されるが、その外側に主要な連絡線を設けていない事も根拠の一つである。南西大手口の先、国道の切り通しを越えて南西側に延びる道を大手口と連続する道と捉えられなくも無いが、下方(平戸島南部)に延びるこの道は平戸に行く道としては収まりが悪く、大手口の先にある割には鍵型に曲げるなどの防御の痕跡もない。南西大手口は道との連絡等を考えて必然的にそこに作ったというより、二重の虎口など厳重そうに見える入口を作るためわざわざ設けたような印象がある。

 既述してきたように、日の岳城には石垣や虎口などの織豊系城郭の構成要素が確かに認められるものの、一方で在地性を感じる要素も存在する。一つは縦堀や堀切で丘陵付け根を遮断する方法で、これは既述してきたように松浦党諸氏が用いた先端廓型城で見られ、丘陵先端に曲輪を設ける際に、丘陵根本側を遮断するのに堀切を設けた形に起源が求められる。日の岳城の主体部は広大な平地を持つ二ノ郭だが、ここを丘陵先端の曲輪と捉えると、先端廓型城のプランそのものだと言える。

一方で、御殿がある二ノ郭を平時の居館(屋形)と捉えた場合、隣接する北側丘陵の上にある本丸曲輪は、屋形に隣接して設けたかつての松浦党諸氏の逃げ城の位置関係そのものである。本丸曲輪周囲の石垣も、かつての切岸の技術的発展形と捉えられるが、本丸曲輪が石垣で囲まれている所などは、土塁と堀でぐるりと囲んだ囲郭型城の、土塁と堀を石垣に置き換えた形だとも言える。このように見ると日の岳城は、松浦党諸氏が設けた在来の城の構成を活かしながら、石垣や虎口などの織豊系城郭の築城技術を導入して防衛力を高めた城だと言える。

しかし日の岳城は石垣や虎口などの防御設備に加え、その広い廓内面積からして、かつての松浦諸氏の城とは異なり、短期の襲撃戦への備えに止まらず、長期の攻城戦に備えた城である事は間違いない。その意味で日の岳城は箕坪城の意図を継承した城でもある。しかもそれに加えて日の岳城は、その選地から直下の港市平戸の掌握を意図した城だと言えるが、同城の最も重要な戦略的意図は、(心理的な側面も含めて)平戸瀬戸を制圧する事にあったと推測する。

日中間の主要航路である大洋路や、九州西岸航路が通る平戸瀬戸は、中世以来、内外の海運のチョークポイントとして機能してきた。平戸松浦氏はまさにその要衝を押さえ、平戸港を経営する事によって、松浦党諸氏中の一家から近世大名まで成長する事ができたのである。その平戸松浦氏が亀岡半島に城を築いたのは、万一陸上からの攻撃で籠城する事になっても、平戸瀬戸のコントロールを失わない事を期したと考えられるが、例えば二ノ郭の瀬戸に面した地区(現在相撲場がある区画)に大砲を据えて海峡を行く船を砲撃する事や、南郭から船を出撃させて船を攻撃する事も想定されたと思われる。平時においても平戸城の偉容は、平戸瀬戸を通過する船舶から海峡(航路)の掌握者としての松浦氏の存在を強く印象づけるものだった。

海峡に設けた城で舟運をコントロールするという思想は、瀬戸内海に展開した村上水軍の諸城や針尾城などにも窺えるが、松浦鎮信が海峡を抑える城の認識を強く持ったのは、朝鮮の役への従軍だったのではないかと推測する。朝鮮の役では朝鮮水軍の活動によって制海権を奪われたことで、日本軍が劣勢に追い込まれているが、慶長の役の際には多島海である半島南岸の制海権を確保するため各地に倭城が設けられている。例えば巨済島と本土の間にある幅500㍍程の見乃梁水道を臨む島側には倭城洞城が設けられているが、ここに大砲を据えれば海峡を行く敵船を撃破でき、城下から出動した船で襲撃もできる。つまり倭城洞城の築城意図は海峡舟交の封鎖を含めた舟運のコントロールにあり、ここを扼する事ができれば巨済島以東の海域―この海域に釜山と九州本土を結ぶ日本軍の補給航路もある―の制海権を維持する事ができたのである。

日の岳城については関ヶ原戦後、徳川家から西軍寄りの姿勢を疑われ、松浦鎮信が自ら火を放って破壊したという伝説が伝わる。松浦氏が中国やポルトガル・スペインなどの海外勢力と地理的にも歴史的にも深い結びつきがあった点は看過できないが、徳川勢が秀吉恩顧の大名が多い九州中南部を制圧しようとした時、軍勢への補給路となる九州西岸航路を平戸瀬戸で封鎖されると、軍事上の劣勢に陥る危険が存在した。伝説の有無はさておき、松浦鎮信が海峡(航路)掌握の意図をむき出しにした日の岳城の存在が、徳川家の注意を引いたのではないだろうか。(2021、3、1中園記)




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