長崎県平戸市生月町博物館「島の館」

平戸史再考No.013港市平戸、栄光の百年

平戸史再考:港市平戸、栄光の百年

 前々回の終わりに取り上げた文明・明応の争乱は、少弐氏の没落で勝者である峯昌が後ろ盾を失った結果、明応6年(1497)に大内義興の調停を受け入れざるを得なくなる。その調停によって松浦弘定は峯昌の長子(興信)を娘の婿に迎え、松浦氏の家督を嗣がせる事になったが、こうして平戸松浦氏と田平は一体となり、平戸瀬戸も完全に松浦氏が掌握する事になり、港市平戸の脅威も消滅する。弘定は文明・明応の争乱後、敵対近隣勢力への反攻を進め、明応7年(1498)には相神浦松浦氏の居城・大智庵城を攻め、永正5年(1508)には山代氏から鷹島を奪っている。次代の興信も田平の南の江迎、鹿町を併合するなど北松半島の領土を拡大している。興信はその後の再婚で上松浦党の領域の覇者となり壱岐を領した波多氏から妻を迎えているが、この婚姻で生まれたのが最盛期を迎えた港市平戸を統治した松浦隆信(道可)である。隆信から鎮信(法印)、久信(泰岳)、隆信(宗陽)に至る、西暦では1540年から1640年にかけての100年が、港市平戸が最も隆盛を極めた「栄光の百年」である。

16世紀初頭までの大洋路の貿易は、日明間の公貿易である勘合貿易が担っていた。文明・明応の争乱で平戸松浦氏を援け峯氏との手打ちを仲立ちした大内氏は、大永3年(1523)に同氏が派遣した遣明使節が寧波で対立する細川氏が派遣した使節と争いを起こして(寧波の乱)以降、勘合貿易を独占する事になる。しかし勘合貿易の前提となっていた明の民間商人の貿易関与を禁じた海禁政策は、公貿易で動く商品の量を遙かに超える貿易への欲求によって破綻を来していく。明は遊牧民族の脅威に対抗するため帝国北辺に大軍を配置していたが、その状況が引き起こした戦時景気を背景に、貨幣としての銀の重要性が高まるが、国内での銀の産出が少なかったため、海外銀に対する要求が高まっていった。

おりしも日本では大永6年(1526)博多商人の神屋寿禎が大内氏領国内の岩見で銀山を発見し、天文2年(1533)に新たな精錬法である灰吹精錬法が導入された事で銀の生産量が増大している。この日本銀を求め、明の浙江・福建地方から私貿易商人が国禁を犯して日本に大挙渡航するようになる。その活動は1540~50年代にピークを迎え、私貿易船(ジャンク)は日本や琉球、朝鮮方面に来航しているが、この状況を荒野泰典氏は「倭寇的状況」と呼んでいる。従来の日宋・日元貿易では中国商船の寄港地は大洋路沿岸に概ね限られたが、この時期の明の私貿易船は大洋路以外の九州沿岸から太平洋岸、日本海沿岸の港まで渡航しており、史料で確認できる港には平戸、豊後神宮寺浦・同佐伯浦、阿久根、天草、伊勢、摂津、越前三国港などがある。この状況の背景には、この時代に日本の周辺航路でも大型の帆走和船が航海する沖乗り航路が発達して、その航路をジャンクが利用できた事が考えられる。また日本の遣明船がもたらす商品も1538年までには大半が銀となり、「倭銀流布して市てんに充つ」と記される状況になっている。なお1542年頃には、日本銀を積んで平戸から漳州に向かった船が洋上でイスラム教徒に略奪されるという事件も起きていて、平戸が日本銀の積み出し港になっている状況が確認できる。また銀は大内氏が管理する博多から、朝鮮海峡横断航路を経由して朝鮮半島(李氏朝鮮)にも持ち込まれていて、1543年には偽日本国使が8万両もの銀を朝鮮国内に持ち込む事件も起きている。しかし朝鮮国内には充分な銀需要が無く、持ち込まれた銀は朝鮮を中継して中国沿岸(遼東)に密輸出されている。朝鮮沿岸でも1544~47年には「荒唐船」と呼ばれる不審な唐船が多数目撃されているが、これらも朝鮮にもたらされた日本産銀の入手のため渡来した可能性がある。さらに『朝鮮中宗実録』の1541年の記事には、倭人(日本人)達が、中国南方で銀を売った方が利益を得られるので、銀を朝鮮から買い戻しているという記述がある。

この頃の中国の海民の間では、航海神として媽祖が信仰されている。媽祖は元々、福建省甫田市湄洲島で信仰されていた女神で、宋の時代に島にいた娘が航海に出ていた兄弟を助けるなどの奇跡を起こし、死後、航海神として祀られるようになったとされる。媽祖は元朝で「天妃」という称号を受け、明・清代になると盛んに信仰されるようになる。ジャンク船では船頭の部屋に祭壇を設けて媽祖像を祀り、港に到着すると船から像を上げて出港まで廟や寺院に安置している。ザビエル神父は1549年にマラッカから鹿児島に向かうジャンクに乗船した際、船員が「船に運び込んだ偶像を船長や異教徒たちが絶えず熱心に崇拝し、生贄を捧げている」のを目撃しているが〔ザビエル書簡90〕、これも媽祖神の祭祀と思われる。媽祖像を船から陸に上げる行事を「菩薩あげ」と言い、現在では長崎ランタンフェスタの時に行事が再現されている。媽祖像は平戸の最教寺にも残されており、16~17世紀平戸に来航したジャンク船が祀っていたものだと考えられる。

日本側では、応仁元年(1467)に始まる応仁の乱以降、室町幕府の権威が衰え、地方に割拠する大名が勢力を増して互いに争う状況(戦国時代)となる。勘合貿易の実権も幕府から守護大名に移るが、従来大洋路の日本側終着点だった博多も、大内氏、少弐氏、大友氏による抗争で何度も兵火に遭い、安定した貿易拠点としての機能の低下は避け難かった。そのなかで平戸は、日明間の主要な貿易ルートである大洋路と、薩南の硫黄を運ぶルートでもあった九州西岸航路の結節点という地理上の利点に加え、文明・明応の争乱以後、平戸瀬戸両岸と周辺地域が平戸松浦氏によって制圧された事で、港市平戸の安全性も担保される事になり、加えて遣明使節の正式出発地である博多が持つ公的な立場に対し、それに縛られない自由さを持ち合わせた事によって、明の私貿易商人の受け入れ港として好適な場所となっていたのである。

中国側でも、日民間の公貿易の受け入れ港だった寧波を避け、沖合にある舟山列島が私貿易の拠点となっている。なおこうした私貿易に従事した者を明側では「倭寇」と呼んだが、文字が示す意味とは異なり日本人は少数で、殆どが中国人からなっていた。1540年には倭寇の頭目であった許棟とその配下の王直が、当時東シナ海に登場していたポルトガル人を自分達の拠点としていた舟山列島の双嶼(リャンポー)に招聘している。1543年(あるいは42年)には種子島にポルトガル人が初めて現れた「鉄砲伝来」が起こるが、彼らを乗せてきた船は「五峯(王直)」の船だとされる。

しかし1548年には、双嶼の拠点が明軍に攻撃されて壊滅している。この原因はポルトガル人と中国商人の間の金銭トラブルに起因する乱暴狼藉だとされるが、事件によって許棟らの頭目も逮捕・処刑されたため、王直が私貿易集団の頭目となっている。王直は拠点を舟山列島金塘島の烈港に移すが、ここも1553年に明軍の攻撃を受けて陥落している。そのため王直は、明の官憲の手が届かない日本側の平戸に拠点を移す。なお王直は五島列島(福江)にも拠点を置いたとされており、大洋路を掌握して日中間の貿易活動を支配したのであろう。「大曲覚書」には「平戸津へ大唐より五峰と申す人罷着て、今の印山寺屋敷に唐様に屋形を立て居住申しければ、夫をとりへにして大唐の商船絶えず、剰さへ南蛮の黒船とて始めて平戸津へ罷着ければ、唐南蛮の珍物は年々満々と参候間、京堺の商人諸国皆集り候間、西の都とぞ人は申しける」と当時の様子を記している。

 明人・鄭舜功が1550年代の日本の様子を記した『日本一鑑』には、平戸では島民に殺害されて祟りをなした福建商人の霊を慰める目的で「大唐厲鬼祠」という祀堂が建立され、中国商人に対して優遇が施されたと記されているが、おそらくは信仰の自由と来航者の保護が、港市の支配者である平戸松浦氏によって中国人に与えられている状況を背景にしていると思われる。そして1550年代になるとこうした状況にポルトガル人が参入してくる。

 この時代のポルトガル人の交易活動はよく「大航海時代」という言葉で要約されるが、背景には長い時代にわたるヨーロッパの造船・航海技術の発達の歴史がある。山舩晃太郎氏のHP「Hi-Story of the Seven Seas」その他を参考にして歴史を概観すると、紀元前3000年頃のエジプトでは、細縄で板同士を縫合して外板を形成し、横帆や櫂を用いた船が使用しされていたが、それらの技術が地中海沿岸に伝わり、前2000年頃には地中海東岸のフェニキア、北東岸のギリシャなどでも帆走商船や櫂走のガレー軍船が建造されるようになる。これらの船は船底のキールという柱材の前後に船首、船尾材を付け、舷側は板の側面に「ほぞ穴」を彫り、そこに板状の「だぼ」を挿し込み木製のピンを通してだぼを固定し板同士を繋げる方法で外板を作り、外板の内側に肋材を付けて補強している。紀元前27年に成立したローマ帝国では、ローマと地中海沿岸に広がる属州との物資輸送は、主檣に大きな横帆(四角帆)前檣に小さな横帆を張ったコビタや、前檣と主檣に大きな横帆を、後檣に小さな横帆を張り、船首底部が突出した船体のポンタが担い、その活動範囲は大西洋のライン川以西付近まで拡大している。

 また地中海では1世紀頃に外板を肋材に金属釘で留める方法が、3世紀頃に縦帆のラテンセイル(三角帆)が使われるようになる。なお前述した細縄で板同士を縫合する外板形成の船体にラテンセイルを導入したダウ船がインド洋交易で活躍し、8世紀には中国に到達した事についてはジャンクの回に述べた通りである。地中海海域の船の外板の強度保持の重点は次第に外板から肋材に移り、11世紀頃までにはキールや肋材で構成したフレームに外板を張って船体を作るフレーム構造の船が作られるようになる。

一方北ヨーロッパの北海、バルト海沿岸では8世紀頃からスカンディナビア半島周辺を本拠地とするヴァイキングの活動が盛んになる。彼らが用いた船は外板の板を一部重ねて釘で繋げる鎧張りにして強度を上げている。交易にはクナールという一本帆柱の横帆船が、戦闘にはロングシップという櫂走と横帆を併用する船を用いたが、10世紀頃からは沖合航行に適し積載量も大きなコグが登場し、北海やバルト海の海運に使用されるようになる。コグには防御用の船楼も設けられ、北海・バルト海沿岸のハンザ同盟都市間の貿易で活躍している。

中世後期の地中海世界では、戦闘は相変わらずガレー船が担っていたが、ヴェネチアやジェノバを始めとするイタリアの海洋都市国家では、平張り外板でフレーム構造の船体に船首尾に船楼と帆柱を2~3本設け、横帆(四角帆)と三角帆を装備した大型帆船カラックが用いられるようになる。カラックはこれらの帆を用いて風上側へのまぎり走りもできた。こうした地中海船の技術は大西洋側にもたらされてコグの構造と融合し、15世紀から始まる大西洋の南と西に向けた航路開拓には小型で扱いやすいカラベルやカラック(ナウ)が用いられている。こうしたフレーム構造を持つ頑丈なヨーロッパ船は、15世紀頃から始まる大砲搭載に際し、大砲の大型化や多数砲の搭載にも適応し、ヨーロッパ船が世界各地に進出した際、敵対勢力を攻撃するのに絶大な効果を発揮する。

ポルトガルのカラックやカラベルは1498年にアフリカ南端の喜望峰を経由してインド洋に進出するが、当時インド洋世界で使用されていたダウは縄縫合外板で、大砲発射の反動に耐えられず搭載が出来なかったため太刀打ちできなかった。そのためヴェネチアが支配する地中海航路と連絡する事でインドの貿易で利益を上げていたマムルーク朝エジプトは、ヴェネチアの仲介でオスマントルコ帝国から入手した地中海の大砲搭載のガレー船をインド洋に持ち込み組み立てて対抗する。しかし1509年にインドのディ-ウ沖でエジプトとグシャラート・カリカットの連合艦隊はポルトガル艦隊と戦って敗北する。また日本でも永禄8年(1565)に平戸の松浦隆信の艦隊がポルトガル船と西彼杵半島西岸の福田で戦い、平戸勢が敗北している。平戸勢は堺商人から募った8~10隻の大型和船と70艘の小型和船からなり、ポルトガル側はカラック1隻、小型ガレオン1隻と中国船(ジャンク)数隻からなっていたが、ポルトガル側は錨泊している船を一まとめにして防御体勢を取ったのに対し、平戸勢は8隻の大船で定航船を包囲し、鉄砲や堺で製作された大筒(大口径銃)で狙撃する戦法を取り、ポルトガル側は砲術長など数人の死者を出している。さらに平戸勢の一部は渡り板を用いて船尾から船内に突入したが撃退されている。一方でポルトガル側では小型ガレオン船が活躍し、大砲を駆使して堺の大型船を3隻撃破するなどの戦果を上げたため、平戸勢は最終的に退却を余儀なくされ、最終的にポルトガル側は8人の戦死者、平戸側は80人の戦死者と120人の負傷者を出している〔日本史1.63〕。なおガレオンは、カラックより船体比を伸ばし、操船に不自由だった船首楼を小さくし、船尾楼を長く取って速度と操縦性を増した船で、16世紀後半以降、軍艦や商船の中心となった船種である。おそらくは福田浦海戦や、ヨーロッパでおこなわれたレパントの海戦(1571年)などの情報が、織田信長の木津川河口の戦い(1578年)における鉄甲船の投入や、九州征伐(1587年)時の豊臣秀吉のフスタ船に対する関心などに繋がっていると思われる。

ポルトガルの船団は1509年にインド洋世界とアジア世界の結節点であるマラッカに到達し(11年に占領)、1513年には中国海域に進出している。しかし当時明が取っていた海禁・朝貢政策のため、明政府を相手にした貿易交渉では充分な拡大は望めず、当時活発化した中国人の私貿易活動に参入していく。1540年代にポルトガル人は中国人私貿易商の本拠地・双嶼に拠点を置くが、これによって中国のみらなず大洋路などを通じて入手される日本産品を入手し、マラッカに送る事が可能になるのと同時に、対日貿易に参入する足掛かりも得ることになった。天文19年(1550)のポルトガル船の平戸来航はまさに大洋路を利用した日本進出だったが、この時期にはまだ王直の勢力下における活動である事に留意する必要がある。

16世紀のスペイン・ポルトガルは、アメリカ大陸では在地権力(例えばアステカやインカなど)の征服・植民地化に続き、植民地で生産される貴金属とヨーロッパの産物の貿易をおこなったが、アジア海域でポルトガル商人が扱う産品は、モルッカ諸島の香辛料や日本銀のヨーロッパへの輸出を除くと、概ねアジア域内の産品の運搬に留まり、ヨーロッパからアジアにもたらされる重要な交易品は無かった。アジア海域に進出したポルトガル商人は(そして後のオランダ商人も)既存のアジア海域の海上交易活動に参入してシェアを拡大していく形を取った。そのため陸上領土の獲得は、貿易活動に必要な若干の港市(マラッカ、マカオ、長崎など)に留まっていた。

  平戸は1550年代を通してポルトガル船が来航する主要港市として機能する。次回紹介する平戸のキリシタンの布教については、港市に来航する外国人の宗教を保護する港市の支配者の義務に従った動きと捉えられるが、天文22年(1553)に松浦氏の重臣である籠手田安経・一部勘解由がキリシタンに入信した事や、1555年に松浦隆信がイエズス会のインド管区長に宛てた書簡の中で「予がキリシタンになるのも目前のことである」と記した事などは、ポルトガル船による貿易活動の将来性を鑑み、貿易相手と同じ価値観(キリスト教)を持つ事を考えたからと思われる。但し弘末雅士氏が東南アジアの港市について指摘しているように、布教を含めた外国人の活動が許されるのはあくまで港市周辺に限られ、内陸部まで及ぶものではなかった(『東南アジアの港市世界』)。だが永禄元年(1558)にヴィレラ神父が籠手田領(度島、生月島南部、平戸島西岸)の一斉改宗を、永禄8年(1565)にカブラル神父が一部領の一斉改宗をおこない、その過程で在来の仏教を排除したのは、明らかに港市の範囲を越えた松浦氏の領主権力を侵害する行為だった。おそらくは1557年までは、ポルトガル勢力とイエズス会は、港市平戸を支配する平戸松浦氏の権力に加えて、東アジア海域の航路を支配する王直に従属していたが、57年に王直が明に投降した事でその支配力が消滅し、ポルトガル勢力が航路に対する支配力を強化するなかで、イエズス会の布教活動も活発化したと捉えられる。

 港市平戸にはポルトガル商人の貿易活動を保護・支援する商館が置かれた訳ではなく、ポルトガル商人の活動を支援したのは現地人が経営する「船宿」だった。船宿は来航する内外の商人達の宿泊所だったが、彼らの保護もおこなっている。永禄元年(1558)にポルトガル人と日本人の間で取引上の諍いが起きた時、平戸在住の日本人キリスト教徒がポルトガル人の保護のために集合したため事件が沈静化しているが、安野眞幸氏はその時のキリスト教徒達はポルトガル人の船宿の主人だと推測している(『港市論』)。

一方、永禄4年(1561)にもポルトガル船5隻が平戸に入港して活発に商取引がおこなわれているが、平戸で商取引の場所となっていた七郎宮の前で、綿布の商取引のこじれが原因で起きたポルトガル人と日本人の間で喧嘩が起き、ポルトガル船の司令官フェルナン・デ・ソウサ以下13人のポルトガル人が殺害されている。これが「宮の前事件」という出来事だが、残りの船に逃げ帰ったポルトガル人を、集まった平戸の侍達が襲おうとしているのを、松浦氏が派遣した家来が次のように言って取りなしている。

「港を頼みて来りける船を、情けなくせんずる事、異国の聞えも然るべからず、ただ喧嘩を留まれ、しきりに進めたらんものは、名字けつたいたるべし」

この文句からも、港市の領主である松浦隆信が守るべき来航者の安全や財産を守る義務が見て取れる。この義務の中には信教の自由も含まれていると思われるが、今回はその義務が守られなかったために、翌年のポルトガル船は大村領の横瀬浦に入港する事になる。ポルトガル船の寄港地は一旦平戸に戻るが、その後大村領の福田や有馬領の口之津、天草氏領の志岐などに移っていく。これらの港は各大名領における外港の役割を果たすと同時に、九州西岸航路の中継港でもあり、先行する1540年代の中国船の大量渡航の際の寄港地にもなったと思われるが、大型航洋商船の入港に対する機能をある程度有していた事が、ポルトガル船の寄港地となった理由だろう。

なお大村領で最初のポルトガル船寄港地となった横瀬浦は永禄6年(1563)に対岸の針尾島の小鯛浦を拠点とする針尾氏の襲撃によって壊滅しているが、針尾氏自体の港が針尾瀬戸を挟んだ対岸にあった事から、貿易権益を巡る争いが背景にあったと考えられる。

平戸松浦氏は前述したように永禄8年(1565)夏、大村領福田浦に入港したポルトガル船を攻撃する福田浦海戦を起こし、ポルトガル勢力やイエズス会との対立を決定的にするが、この翌年の永禄9年(1566)には、籠手田氏、一部氏を含む平戸松浦氏の軍勢が、北松半島南部を支配していた相神浦松浦氏が拠る飯盛城を攻略して同氏を降伏させている。これで北松地域における平戸松浦氏の覇権が確立するが、前年の福田浦の敗戦以降、同氏が港市の支配者より領国の支配を志向していった可能性がある。

  中国沿岸におけるポルトガルの拠点は、前述した双嶼、烈港、広州近郊の浪白澳(ランカバウ)を経て、1557年頃マカオに落ち着く。日本側でも元亀2年(1571)長崎にポルトガル船が来航し、岬の上に六町が開かれて以降、同港がマカオから来航するポルトガル船の恒常的な寄港地となっていく。このマカオ~長崎航路が、生糸を中心とする中国産品と銀などの日本産品を運ぶ主要航路となっていくが、その航路を担ったのがカラック、ガレオンなどの船種だった。これらの船は帆走性能、船体強度、積載量、武装でジャンクや和船に勝り、六分儀や磁石などの位置測定技術も優れていたため、目的地まで無寄港で航行することが可能だった。16世紀後半にはガレオンが軍船、商船とも主体となるが、1590年代にマニラとアカプルコを結ぶ太平洋横断航路に就航したスペインのガレオン船は総トン数2000㌧に達する巨船だった。ちなみに同航路の航海では貿易風を利用するため日本列島東岸沖を金華山付近まで北上してから太平洋に乗り出し、カリフォルニア付近に到達した後、北米西岸を南下してアカプルコに到着した。

 日本の海事能力も戦国末期の戦いの中で向上している。平安、鎌倉期に水軍の中核をなした準構造船は、戦国時代には構造船化し「小早」という船種に継承される。準構造船では加子(櫓の押し手)が舷側の外側に張り出した板の上で櫓を押すため無防備で、壇ノ浦の戦いでは源氏が平氏の軍船の加子を狙い撃ちして行動不能に陥れたとされる。『蒙古襲来絵詞』の日本側軍船の櫓の押し手が鎧を着ているのも、武者がにわか仕立ての押し手になった可能性の外に、元軍の弓射からの防御のために加子が鎧を着た可能性がある。戦国時代になると火縄銃の導入によって加子や戦闘員は遠方から狙撃される危険が増している。そのため大型船の周囲に盾板を巡らして加子や戦闘員を保護するのと同時に、自らも火縄銃や弓で武装し、盾板に設けた狭間から敵船を攻撃するようになる。そのように縦板を巡らした矢倉を設けた船が「関船」で、それをさらに大型化し矢倉の上に高櫓を設けた「安宅船」も登場する。但しこれらの船は大洋を航海する能力を有した船ではなく、戦闘時には櫓走を主とした沿岸部での戦闘を想定した軍船である事に留意する必要がある。織田信長や豊臣秀吉と周辺勢力との戦いでは、これらの軍船も含め数百隻の船が戦闘や輸送に動員されているが、こうした日本の海事能力が頂点に達したのが、文禄元年(1591)から慶長3年(1598)にかけての文禄・慶長の役である。同戦役では二十万を越える軍勢が朝鮮海峡航路を経由して朝鮮半島に輸送された他、軍勢を支える兵糧、火薬、兵器などの物資が大型和船で運ばれた。また九鬼氏や村上氏などの大名が安宅船、関船、小早などで編成された水軍を率いて渡海し、朝鮮半島南岸で制海権の掌握を期して朝鮮水軍と戦闘を交えているが、朝鮮水軍の大砲を装備した重防御の軍船や、地の利を得た戦術のため、制海権を掌握するには至らなかった。

慶長5年(1600)には関ヶ原の戦いが起き、戦いに勝った徳川家康が権力を掌握しているが、対外関係ではこの年オランダ船リーフデ号が豊後に漂着し、従来のカトリック教国に加えて北西ヨーロッパの国々がアジアの海上貿易に参入している。1602年にはオランダで、アジアとの貿易を独占的におこなう連合東インド会社(VOC)が設立される。従来は出資と配当金の支払いが一航海に対するものであったのに対し、同社は会社がおこなう恒常的な貿易活動に対する投資を募り、定款では貿易の正味利益の5%を株主に支払う事が決められていた。同社の設立こそが資本主義ひいては近代世界経済システムの出発点となったのである。同社のアジア展開も大筋ではポルトガル商人と同様、既存のアジア海域の海上交易活動に参入してシェアを拡大していく形だったが、当初はポルトガル船を拿捕して商品を確保する形を取った。また後にはインドネシアで植民地経営をおこなっていくが、もう一つの特徴として、ヨーロッパ諸国で唯一、管理貿易政策を取った徳川政権下の日本と通商関係を維持し続けている。

慶長14年(1609)には平戸にオランダ東インド会社船2隻が来航したが、ポルトガル船の寄港地である長崎に匹敵する港として慶長17年(1612)に平戸が商館建設の場所として選ばれている。当時のオランダ船(スヒップ、フライト、ヤハト)はポルトガルのカラックやガレオンより航行性能、搭載能力、操船に必要な人員の少なさなどで優れていた。オランダ船は当初、ポルトガル船等を襲撃して貿易品を確保していたが、1624年には台湾に拠点を設け、ここを基点に中国や東南アジア産品を確保して平戸商館で売買する貿易スタイルを確立し、1633年以降、貿易量を飛躍的に増大させていく。このオランダ商館の貿易活動に対応するように、日本各地から商人が平戸に出向いていて輸入品の購入や、輸出品の売り込みをするようになるが、特に地元の平戸商人は商館とのパイプを活かし売買に重要な役割を果たす。こうしてこの時期の平戸には莫大な資本が集中する事になるが、平戸の商人も取引を通じてオランダ東インド会社の資本主義的思想や、複式簿記会計などの優れた経理・事務に触れる機会もあったと思われる。例えば平戸オランダ商館が活動していた時期に平戸商人達が捕鯨業に参入していった背景にも、資本(商館との商取引で得たもの)と、捕鯨による油生産・販売というアイデア(これにもオランダ人が関与している可能性がある)、新規事業を合理的に経営していく経営思想(オランダ東インド会社から影響を受けた)の存在が想定される。この平戸の捕鯨業については後日詳しく検証したい。

なお慶長18年(1613)にはイギリス船が平戸に来航し、商館が設けられるが、商館が置かれた場所は李旦という中国貿易商の頭目の屋敷を借りている事から、イギリス人は李旦が保持していた台湾海峡付近と平戸・長崎を結ぶ貿易ルートへの参入を構想していたと考えられる。その李旦は頻繁に五島に出かけたり連絡したりしている事が『イギリス商館日記』から確認でき、かつての大洋路を部分的に利用していた事が推測される。しかしイギリス商館の貿易活動は、リーフデ号の航海士として日本に到着し、徳川家康の信任も得ていたウィリアム・アダムス(三浦按針)の力を借りても零細な規模に留まり、元和9年(1923)には商館を閉鎖して撤退している。

オランダ、イギリスに共通するのは非カトリックのキリスト教国である点である。オランダの国民は16世紀ルターやカルヴァンによって始まった宗教改革の動きのなか起こったプロテスタントの信者が多く、イギリス国民は国王ヘンリー八世がカトリックと断絶した事によって成立した国教会やプロテスタントの信者が多かった。そして両国ともヨーロッパにおいてはカトリック教国であるポルトガルやスペインと交戦状態にあった。オランダ(ネーデルランド)はもともとスペインの領国だったが、1568年から独立をかけた戦争を戦っていた。イギリスはカリブ海などのスペイン領に進出して海賊や密貿易を盛んにおこなった結果スペインと戦争状態となり、1588年には遠征してきたスペインの無敵艦隊と戦って撃破している。両国ともスペイン・ポルトガルの海洋支配を乗り越えるべくアジアに進出してきたのだが、彼らの貿易活動にはスペイン・ポルトガルと異なる点があった。それは貿易と宗教を分けて捉えていた点で、フェアな貿易が出来さえすればこちらの宗教を強いて広めたり、相手の宗教を否定する事は無かったのである。その点でこの時点での彼らのキリスト教は唯一神教と言うより、拝一神教の捉え方に近いものだと言える。

一方、江戸時代に入ると日本人の中からも、貿易船を仕立てて東南アジアに出向き、貿易をおこなおうとする者が出てくる。彼らは徳川将軍が許可した事を示す朱印状という渡航許可書を所持して渡航したので、彼らの船は朱印船と呼ばれる。後には老中による許可証である奉書という書類に変わったため奉書船と呼ばれるようにもなるが、両者を併せて慶長9年(1604)から寛永12年(1635)の間に350隻以上が長崎から東南アジアに向かったとされる。朱印船が輸出したのは主に銀、銅、銅銭などの貴金属で、また表向き禁止されていた日本刀などの武器も輸出されていた。一方輸入品は、中国から東南アジアに輸出された生糸や絹、蘇木、鮫皮、香料、鹿皮などの東南アジアの産物であった。

平戸関係で朱印船貿易に携わった人物としては、松浦鎮信(法印)が慶長9年(1604)に朱印状を受け、シャム、ルソン、ベトナムに船を派遣している。その他三浦按針(ウイリアム・アダムス)、李旦、助大夫、木田理衛門、伝介、小川理右衛門らも朱印船貿易に関与している。朱印船にはジャンクやミツスィツ造りの船が使用されているが、ミツスィツ造りとは船体は洋船造り、帆走は網代帆と西洋横帆の組み合わせで、優れた帆走能力を有していた。石井謙治氏によるとミツスィツとはメスチーソ(混血)の訛りであり、まさに西洋船とジャンクの混血という意味である。

 しかし日本の対外貿易はキリシタン禁制の影響で縮小の途を辿る。朱印船の活動は寛永12年(1635)に日本人の海外渡航が禁止された事で終焉を迎える。なお寛永14(1637)から翌年にかけて、島原半島と上天草ではキリシタン信者の蜂起(天草・島原一揆)が起きているが、平戸オランダ商館はフライト船レイプ号を原城沖に派遣して一揆勢を艦載砲で砲撃した他、陸上に設けた砲台に陸揚げした艦載砲や、平戸藩が所有する12ポンド青銅砲や5ポンドの鉄製砲で砲撃をおこなっている。こうした状況から平戸オランダ商館や平戸藩の大砲の戦力は、幕閣に強く印象づけられたと思われる。天草・島原一揆によってキリシタンの脅威を再認識した幕府は、寛永16年(1639)ポルトガル人の来航、国内居住を禁止する事で、マカオ~長崎間の貿易も停止され、マカオ市は大きな経済的打撃を受ける。

一方、平戸オランダ商館は新兵器の臼砲を平戸で鋳造し、幕府へ納入をおこなっている。当時の臼砲は大口径で砲身長が短い大砲で、高い仰角で導火線付きの炸裂弾を発射する。高い弾道で弾丸を放つため要塞攻撃に適していた臼砲は、原城戦の反省から導入が企図されたと思われるが、幕府が臼砲を持つ事で、諸藩の近世城郭の防御力は大きく削減される事にもなった。

幕府とも良好な関係を保つ平戸オランダ商館の貿易活動は1630年代後半には最盛期を迎え、タイオワン(台湾)を中継地にした絹など中国産品や、蘇木、鹿皮、鮫皮などの東南アジア産品が平戸に大量にもたらされている。そのため寛永14年(1637)と16年(1639)には大型の石造倉庫が新造されている。寛永17年(1640)には9隻のオランダ船が平戸に入港しているが、同年11月に井上筑後守は石造倉庫を含む西暦年号を記した建物の破却を命じている。さらに寛永18年(1641)にはオランダ商館自体も長崎に移される事となり、平戸とオランダ東インド会社との貿易も終焉を迎える。この事は海外貿易港市平戸の「栄光の百年」の終焉であるのと同時に、9世紀中頃の唐商人のジャンク船の往来以来800年にわたって続いた大洋路の港市としての歴史の終わりでもあった。その後も平戸は琉球を含めた九州西岸航路の中継港として機能していくが、江戸時代を通して城下町としての性格を次第に強くしていくなかで、中継港(風待ち、潮待ちの港)としての機能は瀬戸の北側にある田助に移っていく。

オランダ商館の長崎移転には、幕府直轄地である長崎の、ポルトガル船の渡航禁止によって低下した海外貿易機能の補完とともに、幕府主導による海外貿易管理という方針で実行された事が考えられるが、オランダ商館員ルメールの日記(1641.5.12)には「(商館施設の破壊と移転には)最近有馬で様な反乱が、再び外国人の援助によって起るのを防ぐためである」という意見があった事が記されている。この事について少し深堀りしてみたいと思う。寛永14~15年(1637~38)の島原・天草一揆では最終的に12万の軍勢が諸藩から動員されて2万の一揆勢の鎮圧に当たっているが、幕府軍に対する軍需物資や兵糧補給は、諸藩の領地と戦地を結ぶ九州西岸(沖乗り)航路によってなされたと推測される。そして平戸瀬戸は同航路を把する戦略的要地であり、大砲などを用いた同海峡の封鎖が可能だった日の岳城は慶長18年(1613)に鎮信によって自焼された可能性がある事については前回述べた。そして平戸の港口にあって平戸瀬戸に面していた平戸オランダ商館も、商業活動の拡大と共に施設が拡充され、大きな石造倉庫も相次いで建設されている。また平戸瀬戸を挟んだ対岸にある横島には製綱所が建設され(おそらくは火薬庫も置かれたと思われる)、平戸瀬戸の南側の川内には大砲を搭載したオランダ船が停泊する停泊地などの施設が設けられている。石造倉庫はヨーロッパの同様の建物を見慣れた人なら単なる倉庫にしか見えなかっただろうが、木造の建物しか見慣れていない日本人に取ってはさながら城や要塞のように見えた可能性がある。また平戸瀬戸に面した商館本体と横島、川内などの商館施設は、さながら平戸瀬戸を包囲するように配置されている。

もしオランダ人が平戸瀬戸を陸上や船に搭載した大砲で封鎖したら、島原半島のキリシタンや、九州南部の島津氏との戦いを想定した場合、幕府軍は兵站を断ち切られた上、後方を脅かされる事になって戦線が崩壊する危険があった。それを考えると、平戸瀬戸に面して建つオランダ商館は、航路の保持という戦略的な観点からみても排除する必然性が存在したのである。                (2021、4、1中園記)

 




長崎県平戸市生月町博物館「島の館」

〒859-5706 長崎県平戸市生月町南免4289番地1
TEL:0950-53-3000 FAX:0950-53-3032