長崎県平戸市生月町博物館「島の館」

平戸市再考No.014平戸のキリシタン

平戸市再考:平戸のキリシタン

これまで船と航海について話してきた中にも、様々な宗教や信仰が登場してきた。海という自然界を航海する以上、危険を伴う場合もある事を考えると、自然を統御出来る超越的な存在(神)にすがる必要があるのも当然である。また船で商品を携え、着いた所で交換を行う場合にも、交換する同士が信頼関係を持つ事が前提となる。信頼には互いに同じ道徳を有する必要があり、そのため貿易に伴って同じ宗教への帰依が進んだ部分もあったと考えられ、日本における仏教や、インドや東南アジア世界でのイスラム教の伝播なども、そうした脈絡で捉える事ができる。宗教と貿易は別だというオランダなどプロテスタント諸国のあり方は、資本主義がスタンダードとなった今日では当たり前のように思われるが、17世紀初頭頃には却って異質なあり方だった。また貿易という活動の本質を考えた時、より小さく軽い品物がより高い価値を有するのが効率的な事を突き詰めていくと、無(存在しないもの)なのに価値が有るというものを売るのが究極的理想だと言える。一見そんな事は無いと思われるかも知れないが、現代社会においては既に実現していて、音楽、映像、ネット小説、システムソフト、株式などは既に物がない「商品」となっている。そうした脈絡で考えると、実は宗教というのも、そのような「無なのに価値がある」貿易品だと言えない事もない。

港市平戸の栄光の百年を彩った宗教がキリシタンである。キリシタンとは16~17世紀初頭にヨーロッパ人によって日本国内で布教が行われたカトリック教を、日本人が受容して成立した信仰および信者の事をさす。当時日本における布教を主導したのは、1540年に設立された修道会イエズス会である。ポルトガル人は1517年頃には中国に到達し、東シナ海海域で活動する中国人私貿易商のネットワークに参入していたが、イエズス会の創設者の一人であるザビエル神父はアジアでの布教を志し、インド洋世界とシナ海域世界の接点であるマラッカに到着する。そこでヤジロウという日本人に出会って日本布教を志し、天文18年(1549)トルレス神父、ジョアン・フェルナンデス修道士とともに中国人所有のジャンク船に乗って鹿児島に上陸する。同地で布教中、天文19年(1550)には平戸港にポルトガル船が入港したという情報に接し、10月頃に平戸を訪れている〔トルレス1551〕。その時の状況をザビエルは次のように書き残している。「われわれが出かけた別の土地で、平戸というところでは、そこの領主がわれわれを非常な好意と歓待をもって迎えてくれた。すでに日本語をどうにか話すことができるようになったイルマン、ジョアン・フェルナンデスが人々に説教を行い、また日本語に訳した書物を彼らに読んでやった結果、およそ百人の者がキリスト教に改宗した。平戸は肥前の国にある島で、その領主はわれわれの間における伯爵ないし侯爵のようなものである。」〔『日本教会史』〕。当時平戸は松浦隆信(道可)が治めていた。

ザビエル自身は平戸に20日間程滞在した後、フェルナンデスを伴って京都を目指す布教の旅に出る。トルレスはそのまま平戸に残って布教に努め、4カ月後にザビエル達が帰還するまでに宿主の谷口トメの親族らを改宗している〔日本史1.4〕。その後ザビエルはインドに帰還し、残ったトルレス、フェルナンデスは豊後と山口で布教に努めている。

  天文22年(1553)9月、トルレスの布教でキリシタンになった者と、同年平戸に入港したポルトガル船の船員の要望で、前年豊後に上陸していたガーゴ神父とフェルナンデス、日本人キリシタンの説教師パウロが平戸を訪れる。その時のガーゴの平戸滞在は僅か15日間だったが、多くの者と共に「三人の主だった貴人」が入信しており〔アルカソヴァ1554〕、そのうちの二人は生月島南部、度島、平戸島西岸に領地を持つ籠手田安経(ドン・アントニオ)と、その実弟で生月島北部と平戸島西岸に領地を持つ一部氏に婿養子に入っていた勘解由(ドン・ジュアン)だった〔ガーゴ1559〕。

 「大曲覚書」には「又御親類衆の事、籠手田榮法名は榮正と申候。是は弘定の三番目の御舎弟也。生月の山田殿の跡、田平の籠手田知行也。又多久(度)島は山代殿の一跡、大野右馬助殿の一跡を御知行被成候」とあり、籠手田家は平戸松浦氏の一族だと紹介している。また『日本史』には「彼(松浦隆信)は、ドン・アントニオ(籠手田安経)に多大の恩義を蒙っていることを念頭に置いていた。すなわち彼は、父が死去した時にはまだ子供であり、家臣たちは、彼の親族にあたる別人を殿にしようと望んだが、ドン・アントニオの父ドン・ジェロニモ(籠手田安昌)はその連中を制し、そして彼を育ててその位につけるまでにしたのであった」とあり〔日本史1.18〕、籠手田家が松浦隆信の家督継承の後ろ盾になった事で、影響力を持った事が分かる。なお「生月人文発達史」では、松浦豊久(天翁)の子・栄が、寛正年間に現田平町の籠手田、荻田、伊吉、梶野村の火立浦などを領した田平氏の婿養子となり、応仁年間に籠手田以外の所領を兄の峰昌に譲り、籠手田姓を名乗るようになるが、さらに子が無い山田四郎景貞の跡目を継ぎ、同氏の所領である生月島南部の山田村を領したとされている。

なお「三光譜録」40には、「エキレンシヤ(宣教師)の云ふ此大業(石火矢)望あらば我宗旨に成給ふべし、無たには教がたしと申ければ、頓て籠手田左衛門、一部勘解由を御名代として南蛮の宗門にぞ被成ける。依之ハラカンの射法不残傳へしかば、日本一の火業御代々平戸へ傳はり今御重宝の第一とぞ成ける」とあり、籠手田安経らの入信は石火矢(大砲)の技術習得が目的だったとしているが、同史料が後世(禁教以降)に書かている事から、幕府の禁教政策に配慮して、純粋な宗教的意図では無く、実利を勘案した便宜的な改宗だったように脚色された説明だと思われる。

なお当時の港市平戸における布教の様子については次のような記述がある。「私が日本の平戸と称する港にいた時、ガスパル・ヴィレラ師はギリェルメ修道士に鈴を持たせて街路に派遣し、彼ら・日本人・の言葉で教理を説かせた。キリシタンとともに多数の異教徒の子供が集まったところ、はなはだ幼い一人の男児が教会に行き、己れをキリシタンにするよう司祭に求めた。司祭はその子が非常に幼く、また異教徒である父親を憐れんだので、教えを学べば直にキリシタンとなすであろうと言うと、その男児はキリシタンにしてくれるまで、この場を離れぬと答えた。司祭は子供のいとも善き決心を知ったのでキリシタンにしたところ、早速、父母に教えを説きに行った。我らの主(なるデウス)が嘉し給うて、その両親と兄弟、姉妹をことごとくキリシタンになし給うた。」〔Gフェルナンデス1560〕。これによると港市平戸の布教では、辻説法を交えた個別布教の形を取っていて、入信は個人の意思に拠って行われていた事が分かる。

  ガーゴは、ポルトガル船が入港した弘治元年(1555)にも平戸を訪れて布教を行っており、同年9月には信者は500人を数えている〔ガーゴ1555〕。この時、松浦隆信はインドの管区長に宛てた手紙を定航船にことづけており、その中で「予がキリシタンになるのも目前のこと」とまで書いて、布教を容認する姿勢をみせている〔平戸国主1555〕。

弘治3年(1557)9月、平戸に入港した2隻のポルトガル船の船員に対する聖務を行うガーゴ神父を助けるため、豊後からヴィレラ神父とギリエルメ修道士が平戸に到着する。ヴィレラはゴアでイエズス会に入会し、日本に来た時はまだ6カ月しか経っていなかったが、博多に赴任するガーゴに代わって平戸地方の布教の責を担う事になる。「彼(ヴィレラ)の(人々の)霊魂を改宗させたいとの熱意は非常なもの」だったとされるが〔日本史1.18〕、熱意ゆえ他の宗教に対しては否定的な認識を強く持っていたと考えられる。

永禄元年(1558)頃、ヴィレラは籠手田安経に諮って籠手田領の一斉改宗を行う。改宗が行われた地名として度島、生月、獅子、飯良、春日などが挙げられ〔日本史1.18〕、2カ月間で計1,300人が入信している〔ヴィレラ1559〕。しかしその際、既存の寺院から仏像を取出して教会に転用し、像は火をかけて焼き払う過激な行為があり〔ガーゴ1559〕、浄土宗のある僧侶はキリシタンに宗論を挑んでいる〔Gフェルナンデス1560〕。当時、平戸地方で大きな影響力を持っていた安満岳、志々伎山の仏教勢力も反発勢力を糾合し、松浦隆信にヴィレラの処罰を要求し、叶わない場合には反乱が起こる恐れがあると脅迫している。隆信はそれを容れ、その年の定航船の出港後にヴィレラを博多に追放し教会を閉鎖するが、仏教勢力が要求した教会の焼却と信者の棄教には踏み込んでおらず〔日本史1.18〕、キリシタン勢力との決定的な対立を回避しようとする隆信の姿勢がうかがえる。この籠手田領の一斉改宗は、日本国内で行われた一斉改宗の中でも最初の事例だが、これ以降、平戸地方におけるキリシタンと非キリシタンの対立が顕在化し、十字架の引き抜きやキリシタン信者の領外脱出などが頻発する事になる〔Jフェルナンデス1559〕〔Gフェルナンデス1560〕。

この改宗で住民がキリシタンになった集落には、十字架と教会が設けられている。生月島南部の山田には、寺院を教会に改造した600人を収容できる大きな教会が設けられているが〔アルメイダ1561〕、これは現在、山田小学校南側の墓地の場所にあった常楽寺の場所にあったと推測される。また山田の海から見える高地には十字架と信者専用の墓地が設けられているが〔アルメイダ1561〕、そこは1609年に西玄可が処刑された黒瀬ノ辻である。

信者は、教会を管理し信仰を維持していくために「慈悲の組」という集落単位の組を組織し、有為の信者が任期制で務める「慈悲役」という役職を複数置いて葬儀や洗礼に当たっている。慈悲の組(ミゼリコルディア)は、ヨーロッパにおいては小教区のような教会に所属する信者で組織されたフォーマルな組ではなく、信者が信仰活動のために任意に組織した信心会(コンフラリア)の一種とされるが、教区制が未発達だった当時の日本では、小教区の役割を担う組として布教当初から組織されている。行事としては、教会や十字架で宣教師が主導して行われるミサの他、慈悲の組が主体の農業にかかわる行事も行われ、その際には信者が暗記していたオラショという祈りが唱えられた。四旬節には信者によって鞭打ち苦行がおこなわれているが、それに用いる鞭は身体から悪いもの(カゼ)を追い出すという認識もあり、様々な祓いにも用いられた。また慈悲の組の下部組織で「小組(コンパンヤ)」と呼ばれる数軒単位の組も組織され、日曜日毎に集会が持たれた。小組では、マリアの生涯を15の場面で表す十五玄義に対応した木札を不足しているロザリオの代わりに用いて、祈りか何らかの信仰行為が行われたと推測される。信者は聖別された聖水を鶴首の油瓶に入れて保管し、信仰対象にするとともに、病気の際には薬として飲んでいた。聖水は集落域内にある特定の湧水で採取されたが、生月島では洗礼者ヨハネへの信仰と結びつき、東の沖合にある小島をサンジュワン様と呼んで聖地として信仰し、そこで聖水を採取するようになっている。

 ヴィレラの布教で多くの信者が生じたにも拘わらず、その後暫く平戸地方には宣教師が居ない状態が続く。そうした中、永禄2年(1559)6月に平戸に来航したポルトガル人の船は、司祭が放逐され教会が閉鎖されている状況を聞き、ガーゴを博多から召還しない限り入港しない姿勢を取る。その結果ガーゴとギリエルメ修道士が平戸に来る事になるが、閉鎖された教会に留まる事は許されず、ドン・ジョアン(一部勘解由)の家に滞在してポルトガル人にミサを行った後、平戸を後にしている〔日本史1.18〕。

 永禄4年(1561)には5隻のポルトガル船が平戸に入港する。7月には博多からアルメイダ修道士が度島に入り、当時500人程の島民のうち最後の8人に洗礼を授けて度島の改宗を完了している。アルメイダは引き続き生月島と平戸を巡回するが、生月島では未改宗の一部領を含む島民2,500人のなかで800人がキリシタンだったとしていて、この時アルメイダは生月島の堺目、平戸島西岸の獅子、飯良、春日などに教会を建設している。しかし平戸では松浦隆信から教会を建てる許可を得られなかったため、定航船に聖画を飾って信者に見学させたり、信者から提供された家屋を仮教会にして聖務をおこなっている〔アルメイダ1561〕。しかしこの年、平戸ではポルトガル人が大勢殺傷される宮の前事件が起きたため、翌年のポルトガル船は大村領の横瀬浦に入港し、1563年8月の横瀬浦焼亡まで平戸にはポルトガル船が入港しない状態となる。

  永禄6年(1563)6月末頃、横瀬浦に入港した定航船で来日したフロイス神父は、横瀬浦焼亡後、度島で宣教に従事するが、永禄7年(1564)7月にポルトガル船やポルトガル人が派遣したジャンク船が平戸に来航した際、両船の船長が神父の許可無く入港することを望まなかったため、フロイスが松浦隆信と交渉し、入港条件として神父が平戸に入る事と、自分達の費用で城下に教会を建設する事を認めさせている。聖バルトロメオの祝日(8月24日)、フロイスとフェルナンデスは平戸に到着し、ポルトガル関係船からの寄付金を用いて教会建設に取り掛かり、聖母生誕の祝日(9月8日)には完成してミサが行われた。この教会は御受胎の聖母マリアに捧げられたが、非キリシタンの日本人は「天国の門」という意味の天門寺と呼んだ〔フロイス1564〕。

 永禄7年(1564)末、平戸地方にはコスタ神父、カブラル神父、ゴンサルヴェス修道士、ジョアン・フェルナンデス修道士が滞在していた。12月にはカブラルとゴンサルヴェスが生月島に赴き、一部氏の奥方(一部勘解由の姑)と勘解由の孫娘を入信させ、翌正月には一部領である生月島北部と平戸島西岸の根獅子で一斉改宗が行われている。なお翌永禄8年(1565)春には平戸で慈悲の組の組頭が4名選ばれた記録があるが〔Jフェルナンデス1565〕、これは平戸の天門寺を中心に組織された慈悲の組の役職者(慈悲役)だと思われる。

しかし平戸松浦氏のキリシタンに対する姿勢は依然、信頼に足るものとは言えず、大村から平戸に船で向かっていたポルトガル人とキリシタンが惨殺されたり、隆信の嫡男・鎮信が神父の従僕が掛けていたメダイを押しつぶす狼藉を行ったりしている〔日本史1.63〕。こうした姿勢は定航船に対する神父の勧告にも影響し、コスタは永禄8年夏に来航したポルトガル船が入港する前に書簡を送り、松浦鎮信の狼藉を知らせた上で定航船を平戸に入港させないように勧告する。司令官はそれに従い、大村領の新しい港である福田に船を入港させる。福田にはさらに別のガレオン船も入港したため、当期は平戸にポルトガル船が1隻も入港しない事態となる〔Jフェルナンデス1565〕。これに怒った松浦隆信は福田のポルトガル船を攻撃するが敗北している(福田浦海戦)。これによって平戸松浦氏とイエズス会は断絶状態となるが、この状況下でも平戸や籠手田・一部領では活発に布教活動が行われ、降誕祭の1月前(11月)にはコスタによって平戸で告解が行われ、永禄9年(1566)1~2月(四旬節前)にはコスタが生月島や平戸島西岸を巡回している。

  永禄10年(1567)平戸地方にはコスタ神父、ゴンサルヴェス修道士、ジョアン・フェルナンデス修道士らが駐在していたが、布教当初から活動してきた古参のフェルナンデスは6月に平戸で、多くの人に惜しまれながら亡くなっている。またこの頃根獅子の元僧侶で指導的な信者となっていたトメは、婚姻問題が原因で領主の婦人(一部勘解由の義母と思われる)の命令で処刑されている〔ゴンサルヴェス1567〕。永禄12年(1569)平戸地方にはコスタ神父とサンシェス修道士が駐在しているが〔ヴァス1569〕、聖ペテロとパウロの祝日の前夜(6月28日)に定航船が福田に入港した際、天草の志岐にいるトルレス神父が各地から神父を集めた時には、平戸からはコスタが出席している〔某ポルトガル人1569〕。翌元亀元年(1570)にはアルメイダ修道士が20日間ほど滞在して説教を行っている〔アルメイダ1570〕。

  しかし1570年代に入ると、宣教師報告の平戸地方の記事は少なくなる。元亀2年(1571)当時、平戸地方には5,000のキリシタンと14の教会が存在していた〔ヴィレラ1571a〕。天正4年(1576)にはゴンサルヴェス神父とサンシェス修道師が駐在しているが〔フェゲイレド1576〕、天正5年(1577)頃にはゴンサルヴェスによって一部領の猪渡谷で布教が行われ〔ゴンサルヴェス1577〕、ロペス神父が新たに到着している。天正6年(1578)には4人の神父が乗船したポルトガル船が壱岐に入港し、ゴンサルヴェスが接触している〔プレネスティーノ1578〕。この時期、既改宗地では「司祭2人が駐在し、ほとんど絶え間なく同地の島々を巡ってキリシタンを尋ね、告白を聴き、少数とはいえ新たに洗礼を授けている」〔フロイス1578〕と、成熟した宣教活動が行われている事が分かるが、平戸地方全体では「この領主(松浦隆信)は我らの教えに反対しているから、同地では改宗するものがきわめて少なく、司祭らも教えを説いてキリシタンを保ち、忍耐しつつ時を待つより外にすることがない」〔1579年度年報〕とあり、布教は頭打ちになっている。

  天正9年(1581)の降誕祭を間近に控えた頃(12月)籠手田安経が扁桃腺炎で死亡する。「彼の死はキリシタンならびに異教徒の双方から惜しまれただけでなく、彼がキリシタンであることを喜ばなかったが、その勇気と智慮により非常な好意を寄せていた平戸の領主からも惜しまれた。そして彼および平戸のキリシタンならびに異教徒の貴人が皆葬儀に列席し非常に荘厳であった」〔1581年度年報〕。また籠手田安経の実弟でもう1人の有力なキリシタン領主である一部勘解由も、兄の死後から1585年までの間に死亡している〔1585年度年報〕。

  天正12年(1584)8月、スペイン領フィリピンのマニラからマカオに行く途中のポルトガル人所有のジャンク船が平戸に入港すると、松浦鎮信はスペインをポルトガルに代わる貿易相手として期待し大いに歓待している。同船にはアウグスティノ会のマンリッケ神父とロドリゲス修道士、フランシスコ会のポーブレ、ベルナール修道士が乗り込んでいたが、鎮信はフィリピン長官宛に毎年商船を派遣し、宣教師を派遣するよう書簡を託している。しかし結果的にフィリピンからスペイン船が来航することはなかった(松浦史料博物館1962:92-93)。

 天正14年(1586)3月、イエズス会副管区長コエリヨ神父が平戸を訪れた時、同地にはバプティスタ神父とサンチェス神父が駐在していたが、予想に反して松浦隆信は副管区長を歓迎し、彼の乗船に税を課さずに通過させている〔フロイス1586〕。その姿勢が影響してか、この年21年振りに平戸に定航船が入港するが、皮肉にも戦乱(九州征伐)のため商品が売り捌けないまま冬を越すことになる〔フロイス1588〕。この定航船の平戸入港は、長崎に入港させようとするイエズス会の意向を司令官ドミンゴス・モンテイロが無視したものだった。しかし折しも進行していた松浦氏と大村氏の和睦協議の中で、この定航船の関税等の利益で勢いを得た松浦氏が、占領していた大村領の返還をしぶり、そのまま合意になったとされ、またこの時の協定で両氏の間で婚姻が取り決められ、翌天正15年(1587)に大村純忠の娘(洗礼名メンシア)が松浦鎮信の長子・久信に入嫁している。なお87年9月の聖母生誕日(8日)の前夜、平戸ではバプティスタ神父が惜しまれつつ亡くなっている〔フロイス1588〕。

  天正15年(1587)博多に入った副管区長コエリヨは、九州征伐で同地に滞在していた関白・豊臣秀吉と会う。この時秀吉は、自分の目でポルトガル船を見たいと欲し、平戸に入港している定航船の博多回航をコエリヨに要請する。そのため定航船の司令官(モンテイロ)が博多にやって来るが、定航船自体は航海の危険等があって回航できない旨を弁明する。秀吉はこれを聞き入れ、司令官に対しサンティアゴの祝日(7月25日)前日に船(平戸)に戻る許可を与える。しかしその夜、宣教師やキリシタン達を絶望に陥れた法令-伴天連追放令-が発令される〔フロイス1588〕。この中でキリシタンに直接関係する条項を掲げる。

「一.日本は神国たる処、きりしたん国より邪法を授け候儀太だ以て然るべからず候事

 一.其の国郡の者を近付け門徒になし、神社仏閣を打破るの由、前代未聞に候。国郡在所知行等給人に下され候儀は当座の事に候。天下よりの御法度を相守り、諸事其意を得べき処、下々として猥なる義 曲事の事

 一.伴天連、其の知恵の法を以て、心ざし次第に檀那を持ち候と思し召され候へば、右の如く日域の仏法を相破る事曲事に候の条、伴天連の儀、日本の地にはおかせられ間敷候間、今日より廿日の間に用意仕り帰国すべく候

 一.黒船の儀は商売の事に候間、各別に候の条、年月を経、諸事売買致すべき事

 一.自今以後、仏法のさまたげをなさざる輩は、商人の儀は申すに及ばす、いずれにてもきりしたん国より往還くるしからず候条、其意を成すべき事已上

   天正十五年六月十九日    (松浦家文書)」

  これらの法令の要点は、国内でのキリシタンの布教を禁じ、宣教師は20日以内に日本を去るように命じたものである。法令を受けたコエリヨは、定航船はこの先6ヶ月は出帆せず、船が無ければ退去出来ない旨を弁明したため、秀吉は、船が入る平戸に司祭全員が集合し、船が出帆するまでの間そこに留まる許可を与えた。コエリヨは司令官と平戸に戻り、そこから全国の宣教師宛に秀吉の命令を伝え、善後策を協議するため平戸に集まる事を促す手紙を発送している。殆どの宣教師はこの指示に従い、在地の教会財産を信頼できる信者や秀吉から派遣された者に引渡して平戸に集結している。

  受け入れ先の平戸地方では、籠手田安経の息子の安一(ドン・ジェロニモ)と、一部勘解由の息子達の籠手田一部正冶(ドン・バルタザル)が後を嗣いでいた。「ドン・アントニオの子であるドン・ジェロニモ(籠手田安一)は、その兄弟と共に、平戸において、少なからぬ努力と信仰心を示した。この場合は、息子たちの方であるが、彼らは平戸の領主が、関白殿の迫害と布告を利用して、ドン・ジェロニモがその領内に有していた教会を取り壊し、その非常に古いキリシタン宗団を消そうと企てているのを知り、平戸にすべての親類、家臣を、そこに持っていた三百は超える多数の兵と共に公然と集め、全員が我らの主イエズス・キリストへの信仰のため死ぬこと、この地の教会とキリシタン宗団をつぶそうとするものに抵抗することを誓った。これにより平戸の領主も拘束され、まったくこれに手をつけることも住民に介入することもできず、司祭や修道士たちが平戸で集まっていた間、先方の大部分の者は、あちらの領内に引っ込んでいたのである」〔フロイス1588〕。この記述から籠手田・一部領は平戸松浦氏の領国内ではあるが松浦氏の権限が及ばない独立領のような状態だった事が分かるが、それは当時まだ平戸松浦氏の家臣が保持していた独立性に起因する部分が大きいと思われる。

 なお司祭や修道士の大半はドン・ジェロニモ(籠手田安一)領の一島(生月島)に渡り、藁葺きの一教会に落ち着き、山田にあったとされるその教会の一部を学院に、他の一部を修練院にあて、ドン・ジェロニモの娘婿ドン・バルタザルの領内で山田の教会から一里あまり距てた壱部までのところにある別の教会(堺目の教会と推測される)に都の神学校を置き、そこから来た司祭や修道士がそこに居たとされる〔日本史2.108〕。このように司祭や修道士の滞在場所や教育施設の移転先に生月島が選ばれたのは、ポルトガル船が入港する平戸に近く、キリシタン領主が支配し住民も殆どがキリシタンであるから安全だと考えられたからだろう。

宣教師達の協議の結果、暴君の残酷な脅迫と禁令が発せられた今こそ、宣布する律法が真実である事を証明するのにふさわしい時であり、不信心者を納得せしめ、宗門の根を十分おろせるようにするために、イエズス会員は出国しない事が決定される〔1588年度年報〕。これに従って宣教師達は、当座平戸や生月島に身を置いた後、担当地区に戻っている。なお伴天連追放令の発令後、籠手田安一は何びとかがキリシタンに暴力を振ったり教会や十字架に無礼を働くならば、自分も兄弟、親族もこぞってこれに抗し、信仰の証しとして生命を擲つであろうと覚悟を述べ、平戸が司祭たちや教会や秘蹟から見放される悲しみに接しないため、たとえ封禄や所領を失っても、司祭たちとともにシナ(マカオ)へ赴く決意がある事を述べている〔日本史2.99〕。これはその後慶長4年に起きた籠手田・一部氏の退去を考える上でも意味がある発言である。

  しかし伴天連追放令はその後空文化し、宣教師も従前通りの活動を続けていく。平戸領にも4人の神父が残るが、ポルトガル船出港後の平戸では、イエズス会の住院と教会堂、十字架が破壊され、改宗もまったく行なわれない状態になっている〔1590年度年報〕。そうしたなか天正18年(1590)7月23日にはカリオン神父が生月で急死し、一緒にいたマンテレス神父も解毒剤を飲んだが回復せぬままマラッカで死亡し、天正20年(1592)年5月5日にもカルヴァリャール神父が病没し〔1591.92年度年報〕、同時期にフォルナレッティ神父も体調を崩して翌年死亡したとされ、相次ぐ神父の死亡に平戸松浦氏による毒殺の疑いが持たれている(近藤1939)(チースリク1981:114)。しかし籠手田安一は自領内の神父達を保護し、五島から追放された神父達の受け入れを考えている〔1591.92年度年報〕。文禄5年(1596)には平戸地方に神父1、修道士1が駐在し、3,370名前後の信者の告白がなされている〔1596年度年報〕。

 慶長4年(1599)に起きた籠手田氏・一部氏の平戸地方退去については、次回の禁教の項で紹介するが、この直後に導入・成立したと思われる信心会について説明しておきたい。1609年の西玄可の殉教報告には「彼は山田の村にできていた聖母の信心会(コンフラリア)の頭であったので」という記述があるので、それから程近い時期に信心会が成立した事が考えられるが、その時期はおそらく籠手田氏と一部氏が退去した慶長4年(1599)以降の事と思われる。かくれキリシタン信仰の組織から推測すると、例えば西が居た山田集落では、慈悲の組と信心会を一体化した組織を作り、上位の慈悲役と下位の組親が集まって集落規模の行事をおこなう形を作っており、堺目集落では、それまで堺目の教会で祀っていた十字架、聖牌、聖画を、三つの信心会で分割して保持した事が考えられる。生月島では信心会の設立にあたり、既存の慈悲の組の下部組織である小組を複数纏めて作ったと考えられる。また生月島の信心会の組の目的は特定の対象(聖母マリアや諸聖人など)を信心する事で、そのため組毎に対象を描いた掛軸型の聖画が用意されている。

 既に述べた「慈悲の組」と異なり、信心会は1580年代以降、信者が主体となる形で各地に組織されている。生月島における信心会の導入は、籠手田氏・一部氏というキリシタン領主の庇護が消滅し、教会が破却された事から、教会に代わる信仰継続の主体になるべく組織された事が考えられる。事実、生月島では、信心会として組織された組が禁教時代以降も存続し、仏教や神道を並存して信仰する選択をしながら、禁教以前のキリシタン信仰の形態を継続していっている。この信心会の設立を指導したのは、1609年の殉教報告に聖母の信心会の頭と記された、籠手田氏旧臣で信仰指導者だったガスパル西玄可の可能性が高い。但し彼の影響力は生月島内(中でも籠手田領)に限定されていたため、度島ではキリシタン信仰を放棄する選択がなされ、平戸島西岸の旧一部領の根獅子集落でもキリシタン信仰は存続するが、信心会は導入されず、従来の集落全体規模の慈悲の組をそのまま継続していっている。

 生月島や平戸島西岸でキリシタン信仰が定着し、長い禁教時代にも(他宗並存という形を取りつつも)継続していった理由にはいろいろ考えられるが、一つには地域の生業(農業)にフィットする形でキリシタン信仰がデザインされ、その後も基本的な生業形態が平成初頭頃まで大きく変化しなかった事が影響していると思われる。禁教時代になると、キリシタン信仰は教義を司り儀礼の変更を行い得る専業宗教者を失う事となり、かくれキリシタン信仰化する中で、従来の行事などの信仰スタイルをそのまま継続する事を余儀なくされるが、生業形態に大きな変化が無い限り、行事を含めた信仰は効力を保つ事ができた。しかし平成に入る頃になると、まき網漁業や港湾建設業は低迷に向かった事で、兼業的に続けられてきた農業の継承も困難になり、人口減少とともに農業以外の就労へのウエイトが増大していく。また医療を含めた科学の向上によって、宗教が果たす役割自体も小さくなった事の影響もある。結果として、長い禁教の時代にも保持されてきたキリシタン信仰の形態は、こんにち存続の危機を迎えているのである。




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