長崎県平戸市生月町博物館「島の館」

生月学講座No.215かくれキリシタンの組の成立過程

生月学講座:かくれキリシタンの組の成立過程

 生月島を含めたかくれキリシタン信仰の組は、キリシタン信仰期の1550年代に、集落毎に建てられた教会に付帯し、信者の統括をおこなった「慈悲の組(ミゼリコルディア)」と、1580年代以降に日本に導入された、特定の信心行をおこなう目的で作られた信者の組「信心会(コンフラリア)」が元になっていると以前紹介しました。生月島では新たに信心会を設立する際、慈悲の組の下部組織だった小組(コンパンヤ)を複数結合して組織されたため、小組は信心会の下部組織に移行したと考えられますが、集落によって慈悲の組の残し方や全体の組織のあり方には差違があったようです。今回はこの見解を下敷きにしながら、より細かく生月島のキリシタン組織の成立過程を推理してみます。
 旧籠手田・一部領では1558年と65年の一斉改宗後に慈悲の組が組織されています。一方、信心会については1609年の殉教報告にある「彼は山田の村にできていた聖母の信心会(コンフラリア)の頭であったので」という記述から、1609年から程近い時期に成立した事が確認できますが、さらに絞り込むと、籠手田安一、一部正治が平戸地方を退去した慶長4年(1599)以降の可能性が大です。キリシタンである両氏の統治下ならば、信心会の導入はもっと画一的で、根獅子のように導入しない判断をする集落もなかったと思われる点もありますが、おそらくは平戸松浦氏の指導で教会が破却された後、教会に代わる信仰継承の母体とするべく組織された事が考えられます。例えば堺目集落では、それまで堺目の教会で祀っていた十字架、聖牌、聖画を、三つの信心会で分割して保持した事が考えられます。山田集落では、慈悲の組と信心会を一体化した組織を作り、上位の慈悲役と下位の組親が集まって集落規模の行事をおこなう事にしました。壱部集落では山田よりはやや緩い形で、信心会が継承主体となる形を作りました。
 問題は元触集落です。ここには慈悲の組に相当する組織の存在が明確には認められず、慈悲役も垣内(信心会)の役職として組親の下に位置づけられていますが、この形は1617年の「コウロス文書」にある湯布院、上天草の組織や、外海のかくれ信仰の組など、中後期にキリシタン信仰が盛んな地域で確認できます。また三つの組(垣内)で祀られるのは同じ種類の聖画(聖母子と二聖人)で、唱えるオラショが短い(少ない)のも特徴です。元触の地名は宣教師報告には登場せず、籠手田領か一部領かも明確でありません。仮説ですが元触は、地滑りなどの自然的理由か、1599年の籠手田・一部氏の退去などの社会的理由で、新たに村が作られた所に信心会が導入された事が考えられます。また、平戸地方の信心会の導入は、籠手田氏・一部氏というキリシタン領主の権力が消滅した後である事から生月島という範囲で進められた事が考えられ、それを指導したのは、籠手田氏の旧臣で信仰指導者だった西玄可の可能性があります。しかしその影響力は生月島内に限定されたため、度島ではキリシタン信仰を放棄する選択がされたと考えられます。また平戸島西岸の根獅子集落ではキリシタン信仰は存続するものの、信心会は導入せず、従来からあった集落全体規模の慈悲の組の組織を継続しながら禁教時代を乗り切っていきました。但し根獅子でも数幅のお掛け絵の存在が確認されている事から、特定聖人などを信心する信心会の導入が試みられた可能性はあります。




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