長崎県平戸市生月町博物館「島の館」

平戸市再考No.015キリシタン禁教と諸宗教

キリシタン禁教と諸宗教

 

  平戸地方に残るかくれキリシタン信仰の基点となった出来事は、慶長4年(1599)に起きたキリシタン領主・籠手田・一部両氏の平戸退去である。この時点をもって旧籠手田・一部領を含む平戸松浦氏の支配領域(それが江戸時代には平戸藩領となる)ではキリシタン信仰が禁止される禁教時代に移行する。徳川幕府が全国でキリシタンを禁止したのは慶長19年(1614)の事なので、平戸地方ではそれより15年も早く禁教となった訳である。実はその事がかくれキリシタン信者の信仰構造を規定し、かくれキリシタン信仰自体の存続を可能とした一つの理由にもなったのだが、それについては後ほど紹介する。

慶長4年(1599)ザビエルの布教以来キリシタン勢力と反目しながらも一定の関係を保ってきた松浦隆信(道可)が没する。後継者(息子)の松浦鎮信(法印)は、折しも京都で行われていた評定に出席していたが、平戸に居る息子の久信に、父親の仏式の葬祭にキリシタンである籠手田安一とその息子を参加させるとともに、平戸領の全てのキリシタン信者を棄教させ、従わない者を追放する事を指示する〔1599年度日本年報〕。困難な立場に立たされた籠手田安一と一部正冶は、棄教か戦うかの選択を迫られる事になるが、第3の選択として、信者を引き連れて平戸地方を退去して長崎に向かう事を選択する。籠手田・一部氏の動向は松浦氏の家臣に監視されていたが、犠牲も出さずに長崎にたどり着いている。

「これ(退去)は極秘のうちに行なわれ、まさに彼らが乗船する夜のその時間にしかそれを彼らの奉公人たちにも言わなかった。また、他の場所にいた(籠手田)ドン・ゼロニモの兄弟に対しても、(乗船の)二時間前にしか知らせなかった。こうして、彼らは隔たったさまざまな場所にいたので、夜を合図として、かの(キリシタンの)殿たちは自らの奉公人や家族を伴って乗船したが、全員で六百人以上を数えたと思われる彼らの多くは、あまりに突然かつ予知しなかった出発のために、着のみ着のままで乗船した。そして、我らの主なるデウスが彼らに良い天候を賜わったので、一行は間もなく長崎の市に到着したが、それにはたいそう満悦した」〔1599-1601年日本諸国記〕。

  長崎に着いた信者達はイエズス会の援助を受けながら暫く過ごすが、その間に平戸領からさらに200人程が脱出して合流している。その後彼らは小倉城を拠点に豊前・豊後を領有する細川忠興の招きに応じ、その領国に向かったとされている。「のみならず彼(細川忠興)は、七百名にのぼる平戸のキリシタンたちがキリシタンの信仰を棄てぬようにするために、離村して長崎の田舎へ移住したことを知ると、彼らが故郷の地で得ていたよりは多くの扶持を毎年得させようと己が領国へ招いた。(中略)それから後、あまり日数をおかないで彼は七百名のこれらキリシタンたちが約束の扶持の所有を決めるために、筑前の国へ急いで行くことを望んだ」〔1600年度年報補遺〕、「彼らの中には多数の農民と漁民がいるので、生活の糧を得させるためにまた二、三の村落を委任した」〔1599-1601年日本諸国記〕。信者達が細川領に赴いたのは1601年頃の事と推測されるが、彼らが落ち着いたのがどの場所かは分かっていない。一方で長崎に留まった者もいたようで、籠手田トメキュウニは1619年に長崎で殉教している〔1619年度年報〕。なお籠手田安一については、その後、筑前の黒田長政に仕え、神道の聖域だった沖ノ島に上陸して多くの神宝を持ち帰ったとされるが〔1609,1610年度年報〕、慶長年間の黒田藩分限帳の船手衆の中にも籠手田や一部とおぼしき名が確認できる。沖ノ島行きも藩主の命による領国調査の一環と推測されるが、近年の研究では沖ノ島と関係が深い宗像地方に長政の父・黒田如水の隠居領があったとされており、キリシタンに入信したとされる如水と籠手田安一達の間に接点があった可能性がある。安一はその後長崎に戻り、慶長19年(1614)に稲佐で病死したとされるが、その子は平戸に帰って小澤姓、次いで江川姓を名乗り、平戸松浦家に仕えている。

松浦鎮信によって籠手田氏・一部氏にかけられた禁教圧力については、キリシタン政策とは別の捉え方もできる。平戸松浦氏は永禄9年(1566)に相神浦松浦氏を降して北松半島地域の覇権を確立し、元亀2年(1571)に領国に壱岐を加えた事で平戸松浦氏の版図は確定しているが、こうなると従来、対外戦争に軍事力を提供してきたもと平戸松浦氏と同格の松浦党諸氏の流れを汲む者や親戚筋などからなる半ば独立した有力家臣は、松浦氏による集権的支配の障害になっていく。そのため松浦鎮信は、妹の婿である志佐純意が統治した志佐領を併合し、的山大島を支配していた大島氏も江戸時代初期に姿を消している。籠手田氏・一部氏に対する棄教圧力も、近世大名としての集権的統治体制を作ろうとする松浦鎮信の政策の一端として捉えられる側面もあるだろう。

  籠手田・一部氏の退去に伴ってその旧領は平戸松浦氏の領地となり、松浦鎮信が派遣した代官が統治する事となる。「三光譜録」79には両氏の旧領として山田、舘の浜、一部浦岡、糸(猪渡)谷、堤、小値賀納島を挙げているが、度島は記されていない。同島については慶長2年(1597)に信者の根絶が図られたとする文献もあるが、宣教師側の記録には関連する記述はなく、時期的に朝鮮在陣中である事を考えると疑問も残る。度島にも熱心な信者が多かった事を考えると、かなりの住民が籠手田氏に従って退去した可能性も考えられるが、元禄3年(1690)付の「多久島転切支丹類族帳」が存在するところを見ると、島民がある時期に棄教した事が考えられる。

 鎮信は籠手田・一部領のキリシタン信仰の根絶を期し、キリシタン時代に廃絶していた寺社を復活する。「田舎廻」には、生月島山田に慶長10年(1605)に開山した修善寺について「當寺之処にハ以前ハ切支丹宗之者居住致し邪法を弘候を 式部卿法印様御禁制被成邪法之者御成敗被成候て居所ハ御焼討被成候て其□に修善寺御建立有之邪宗降伏国家安全之御祈祷所被成候段傳承候」という主僧の話を載せ、教会とおぼしき建物が焼打を受けた後に寺院が建立されたとしており、「家世脉属譜」(松浦家文書)によると同寺の住持を籠手田安一の弟・安清が務めている。また「田舎廻」には里免の住吉大明神についても「邪宗之者御成敗被成候神社御建立被遊候時當所に祀官無之候私先祖今福より被召 當社祀官被仰付候」という祀官・金子丹下の咄を載せ、自分の祖先はキリシタンが禁止された後に今福から招かれて神社の祀官になったとしている。

このように籠手田・一部氏が退去した1599年を境に平戸地方における布教時代は終わり、禁教時代が始まったと捉えられる。しかしこれによって同地方からキリシタン信仰が消滅した訳ではなかった。松浦鎮信は、確かに領国内のキリシタンの根絶を目指していたが、領民の大量脱出は領国経営にとっては決して望ましい状況では無い事も理解していた。「(鎮信は)結局、これ以上彼ら(キリシタン)に嫌がらせをすることなく、信仰の件について彼らを苦しめないのが自分にとって有利であると理解した。しかし彼らがもし司祭たちから、国主が彼らに嫌がらせをせず、彼らにデウスの法に触れることをするよう命じないうちはこれ以上動揺せぬように、との伝言や書状を受け取らなかったら、彼らは脱出を切望し、それを試みずにはおかないところであった。以前ほど自由にキリシタンの務めを果たせぬため、たいそう慰めを欠いていたとはいえ、そのことによってキリシタンらは鎮まった」〔1599~1601年日本諸国記〕とあるように、理性的に領国経営を考えるなかで、それ以上の迫害を思いとどまったと思われる。確かに教会は破却され、もはや教会を祭場とする信仰形態は維持できなくなったが、信心会が設立されるなどして、信者が自律的に信仰を維持する体制が機能するようになっており、長崎から宣教師が来訪して聖務を行う事も未だ頻繁に行われていた〔1606、07年日本の諸事〕。

 しかし慶長14年(1609)には、生月島山田でキリシタン信者の指導者である西玄可が逮捕・処刑される。彼は生月島の籠手田氏の領地を管理していた家臣だったが、籠手田・一部氏の退去後も信仰面で指導的役割を果たしていた。松浦鎮信は旧籠手田領の山田に井上右馬允を、館の浜に近藤喜三を奉行として配していたが、処刑の原因は、近藤喜三の息子の嫁となっていた西玄可の娘が棄教を拒んで実家に戻り、怒った喜三が鎮信に訴えた事による。西は井上右馬允に捕えられ11月14日の朝に斬首され、同時に捕らえられた妻と長男も斬殺されている。ただ西の埋葬はキリシタンの習慣に従って行われており、幕府が禁教令を出す以前のこの段階には禁教が徹底されていなかった状況が窺える。なお西の処刑より少し前の9月20日(慶長14年8月22日)には、平戸にオランダ商館が開設されている。平戸松浦氏にとってキリシタンと関係したポルトガルとの貿易関係は過去の事になったのである。

 しかしその後も長崎の宣教師等による巡回は続いている。慶長16年(1611)にはジラン神父が逆風で平戸に引き留められた折りに成人30名が洗礼を受けている〔1611年度年報〕。慶長17年(1612)には西玄可の継子で修道士のガスパル西が長崎で死亡しているが、この年の平戸に関する記事として、松浦久信未亡人の松東院(メンシア)が洗礼を受けている息子(藩主・隆信)の病気に際し、キリシタンのミサと祈りを行い、病気が平癒した事から、鎮信がキリシタンに対し好意を示すようになり、教会を一つ建てることを認めたという記述がある〔1612年度年報〕。しかし従来の鎮信の態度からして、にわかに信じがたい話ではある。

  慶長18年12月19日(西暦では1614年)、家康側近の金地院崇伝が伴天連追放文を起草し、将軍秀忠によって全国に発令される。これによってキリシタンは国法で禁止となり、それまで独自の判断でキリシタンを容認、禁止してきた諸大名は、これ以降統一的に禁教政策を取る事となる。そのため宣教師の国内布教も表だって出来なくなり、密かに活動する事を余儀なくされる。翌慶長19年(1614)10月には宣教師や高山右近などの有力信者が長崎からマカオやマニラに追放され、11月には布教の中心だった長崎の教会や施設が破壊されているが、その際は大村藩とともに平戸の松浦隆信も藩兵を率いて警護や破壊作業にあたっている。なお慶長19年には松浦鎮信(法印)が没し、慶長3年(1603)に早世した父・久信(泰岳)から藩主の地位を嗣いだ松浦隆信(宗陽)が平戸藩の実権を握っている。元和元年(1615)頃、平戸は、大村、不動山、伊佐早(諫早)、五島、天草などと共に長崎の宣教師が管轄する地域に含まれていたが、宣教師の数は神父7名、修道士5名に縮少している〔1615.1616年度年報〕。元和4年(1618)にはジョアン・バティスタ神父が五島に向かう途中、船が平戸に漂着し何人かの告白を聴いている〔1618年度年報〕。元和6年(1620)にはフェレイラ神父が久しぶりに平戸地方を巡回し、「すでに長年にわたって、我らイエズス会員の誰もこの地方を巡回していなかったので、一同から非常な熱意で歓迎された。涙をもって己が罪を告白した者は千三百名あった」と報告している〔1620年度年報〕。

 なお生月島では、島の司(奉行と思われる)が全島民の棄教を図ったのに対し、60名の信者が隊を組んで島の司の前に出て、「我らは幼少の頃からキリシタン宗門を信仰しています。我らは生きても死んでも、この信仰を離れません。それについても懇願も鎖も威嚇も止めて下さい。刀は研ぎ、火は燃やし、肉体は焼かれてもかまいません。我らはそのために出頭しているのです。感激のあまりに、或いは熱にうかされて言っているとは考えないで下さい。これは我らが心に定め予期していることです」と言い、さらに「自分たちを先に殺して下さい。子供や妻は後を追ってくるでしょうから」とも言い、この言葉に島の司も驚き、藩主も棄教させる事を思いとどまったという。この信者の言葉はのちの元和・寛永の殉教の状況を連想させる〔1620年度年報〕。

 元和6年(1620)夏、イギリスおよびオランダの艦隊は台湾近海でマニラから日本に向かっていた平山常陳が船長を務める御朱印船を臨検し、宣教師が乗っていたため拿捕して平戸に入港させる。船長以下の船員と乗客、アウグスチノ会のスニガ、ドミニコ会のフロレス神父達は牢獄に入れられ、長崎奉行・長谷川権六が平戸に出向いて詮議した結果、入牢した全員が死刑となり、1622年8月19日(元和8年7月13日)に長崎で処刑されている。なお彼らが平戸にいる間、ドミニコ会修道士による奪還事件が起きるが未遂に終わっている〔1622年殉教報告〕。なお「三光譜録」80では平山常陳事件について「是阿蘭陀共忠節の始なりとぞ云ふ」と記述している。

 元和8年(1622)には、イエズス会のコンスタンツォ神父が平戸を来訪している。『日本切支丹宗門史』には「平戸の町にも、多数の囚徒がおり、その中には先のフロレス神父の宿主だったエルナンド・シメネスというイスパニア人と、その日本人の妻、並に下婢がいた。カミロ師(コスタンツォ)は彼等の隠れ家に入り、その告白を聴き、殉教の準備をしてやった」とあり、当時の平戸には依然、外国人を含む多くのキリシタンがいた事が分かる。さらに彼は生月島の舘の浜で聖務を行い、五島小値賀島の属島・納島に3日間滞在し、ついで五島領の宇久島に渡ったところで役人に捕えられ、平戸に護送される。神父は平戸の対岸の焼罪(平戸市田平町)で1622年9月15日に火刑に処せられるが、その様子を平戸に入港していた蘭英連合艦隊の乗組員達も多数見物している〔1622年度殉教報告〕。なお先行する9月11日、神父と行動を共にしていた同宿・ガスパル籠手田が長崎で斬首され、壱岐ではイエズス会のアウグスチノ太田修道士と他の十名の者が処刑されている。

  しかし今回の処刑は宣教師側だけに止まらなかった。『日本切支丹宗門史』によると、生月島で宿主となったヨハネ・テンカモト・ザエモン(坂本左衛門か)、小舟の寄附者ダミヤン・イスライ・インデグチ(出口)、船頭のヨハネ・ヤキヌラ(雪浦)とパウロ・オタ(小田)など神父の活動を助けた者達も、5月から6月にかけて中江ノ島などで処刑されている。さらに2年後の寛永元年(1624)には彼等の家族も中江ノ島で処刑されている。なお「三光譜録」79にも「其後生属の才吉、又作、惣次郎、源右衛門四枚帆に伴天連壱人乗せ、多久島納島獅子村などへ来り候を、井上八郎兵衛聞付、宇久島の内神の浦にて捕へ、四人は首を刎ね伴天連は長崎へ被遣候事元和九年也」とあり、年号こそ前後するものの、捕縛場所等から考えてコンスタンツォ逮捕の一件を指すと思われる記述があり、「宗陽公以来之物」(家世伝引用書類10ノ9)にも、伴天連を宇久島で召し取った功で松浦隆信(宗陽)から井上右馬允に感状が出された事が確認され、西の処刑に続いてコンスタンツォの逮捕についても井上氏の関与が確認できる。さらに「平戸領古切支丹類族存命帳」にも、生属島里村の治郎右衛門と妻・なつが寛永元年に数日曝された後で簀巻きにされ海に沈められたという記事がある。なお「三光譜録」79には「翌寛永元年生属の姫宮の神前にて島中の男女を集め、宗旨立帰り候様にと、牛王に誓詞血判を(井上)八郎兵衛為致候時、雪浦次郎兵衛斗りは転び申間敷と申候故、大勢の中にて次郎兵衛夫婦男子一人共に竹簀巻にして即座に海に沈め申候」とあり、宣教師側の記録と登場人物や処刑法で一致するところがあるものの、コンスタンツォの逮捕に関する連座とは記しておらず、全島民に対する棄教の強制の中で従わない者を処刑した出来事だとしている。この寛永の棄教要求の記述内容については前述した1620年頃に起きたとされる島の司からの棄教要求の状景に似ている部分があるようにも思うが、元和・寛永の弾圧の中で信者が関係する分については、井上八郎兵衛(右馬允)が主導して取り組んできた生月島の棄教政策の一環と捉えることもできる。その中では棄教を明確に拒否する中核的な信者が処刑されたと考えられるが、他方たとえ信仰を続けたとしても、熊野誓紙の提出などで表面的な棄教の形を取りさえすれば、目こぼしされるような側面があった事も感じられる。いずれにせよ慶長14年(1609)の西玄可の処刑に比べると、対象をより広げていることは間違いない。

 なお「平戸に於ける西教弘通史」によると、寛永2年(1625)に一人の神父が平戸地方を訪問したとされるが、この時期以降平戸地方のキリシタン信者は、ローマのカトリック教会との接触を断たれ、一般信者のみで信仰を存続していく事となる。   

籠手田・一部氏の退去後、平戸に残るキリシタン信者の中で最も地位が高く、力を持ち得たのは松浦久信夫人で藩主・隆信(宗陽)の母である松東院(メンシア)だった。平戸地方のキリシタン信者は彼女の保護と救援にすがる状態だったが、彼女も寛永7年(1630)には江戸に移らざるを得なくなる(死去は明暦2年・1657)。また寛永14年(1637)には息子の隆信が没し、正宗寺に葬られている。

 隆信に仕えていた浮橋主水は、かねて殉死を口にしていたにも拘わらず殉死しなかった事を非難されて平戸を出奔し、寛永16年(1639)に江戸で、平戸ではキリシタンが信奉されていると訴え出る。江川喜兵衛の手記「浮橋主水一件」によると、訴えの内容は平戸ではキリシタンを信奉する大村氏から入嫁した前藩主隆信の母(松東院)が依然その信仰を持ち続けていて、隆信亡き後に松東院の関係者を取り立て、浮橋主水を邪険に扱った挙げ句平戸に居られないようにしたというものだった。しかし平戸を訪れた江月和尚の機転で嫌疑は晴れ、松平伊豆守が取り仕切り、平戸から熊沢大膳、長村内蔵助、江川喜兵衛らが出席した幕府の評定では、熊沢大膳が冒頭「主水其方は夢物語を申上候か」と一喝して評定の流れを引き寄せた上、平戸のキリシタン布教は貿易や鉄砲の技術伝播と関連して行われたが、禁教令が出された後は教会を破却しキリシタンも排除したと申し開きをする。評定の結果、主水が伊豆大島に流罪となり事件は決着している。

  なお寛永11年(1634)には西玄可の次男で、マニラでドミニコ会の神父となっていた西六左衛門(トマス・デ・サン・ハシント)が長崎で処刑されている。またカトリック関係ではないが、寛永16年(1639)には幕府の対外政策に沿って、オランダ人やイギリス人の日本人妻と、その子供(混血児)ら32人が平戸からジャガタラ(現在のインドネシア、ジャカルタ)に追放されている。追放された子供が日本の親族等に書き送った手紙が「ジャガタラ文」で、現在平戸に5通が残っている。

  またカトリック側には記録が残っていないが、正保年間にも弾圧が行われた事が平戸藩の記録から確認できる。「山本霜木覚書記起編」(家世伝引用書類7ノ21)には、正保2年(1645)に、生月島及び平戸島の獅子村・根獅子村において密かに切支丹を信仰する者が発見され、その一族が悉く長崎に送られ、長崎や平戸で死罪に処されたとあり、「平戸領古切支丹類族存命帳」にも、生月島館浜の鍛冶屋・新兵衛が正保乙酉年(2年)に「同島之者共切支丹之志失不」という訴えで斬罪になった記述がある。こうした弾圧は偶発的な信仰の露見に対するみせしめ的な処断だったと考えられる。

この正保の弾圧以降、平戸藩における弾圧事件は確認されていないが、幕府の禁教法令に沿った形でキリシタン禁止のための制度作りが進められていく。「山本霜木覚書記起編」には、正保の弾圧以降、宗門改奉行を定め、生月、獅子、根獅子には押之者(押役)を置いて男女老若を問わず残らず絵踏を励行させたとある。

慶安3年(1650)に町奉行より出された法令では、キリシタン布教の為に他国から来た者(宣教師)を隠す事は犯罪で、訴え出るように命じている。さらに寛文2年(1662)の「在々定」では年に二度、領内で宗門改の絵踏を行い、また役人達が領内の隅々まで回って、キリシタンを疑われる者の他、よそから来た勧進や修行者など宣教師が紛れている可能性があるような者を厳しく穿鑿するように求めている。さらに延宝6年(1678)に町方に出された五人組で守られるべき条項の中にも、組の中にキリシタン信者がいた場合はすぐに訴え出るよう定めるだけでなく、もし訴えが組の外の者からなされた場合には、組内の者は同罪として処断する連座制を取って相互監視の強化を図っている。

 なお前述した絵踏について、延宝9年(1681)に町方に対して出された「天祥公御代御法度」によると、正月の時点で五人組に属する家々の構成員と年齢を書き付けて乙名へ提出するように義務づけ、それに基づいて町毎に宿を設け宗門奉行、町奉行の面前で踏絵を行わせ、町年寄達も宗門奉行の所で行うようにしている。なお絵踏を行った領民に対しては、宗門改手形が出されている。

  絵踏に用いられる踏絵の起源について「三光譜録」114には、万治元年(1658)に生月島に居住していた播州明石の三吉という者が、邪仏を一体ニウ(積藁)の中に隠して「忍び忍び念じ」ていたのを切支丹役人が知り、三吉の同類3人を捕らえて平戸に送り、信仰していた邪仏を踏ませたところ忽ち邪宗を止めたといい、その後も宗旨が怪しい者に踏ませて改宗を図ったという。この事を時の平戸藩主が長崎奉行所の馬場三郎左エ門に話したところ、邪仏を見たいと言ったので長崎に送り、長崎ではその邪仏を鋳崩して下地金を足して多数の絵板(踏絵)を製作し、平戸でもそのうち4枚を踏絵の際に長崎(奉行所)から借りるようになったという。なおこの話の前半については、生月町堺目下宿でかくれキリシタンの御前様(御神体)として祀られている無原罪の聖母のプラケットにまつわる伝説と通じる部分がある。この御前様は元々別の家で祀られていたが、その家が役人の探索を受けた際、家人が藁束の中に御前様を隠して牛の喰みとして投げ渡し、それを先祖が持ち帰って祀ったのだとされている。

 また「山本甚右衛門覚書」(家世伝引用書類10ノ73)によると、平戸藩では法印公(松浦鎮信)の頃から踏絵に用いてきた切支丹仏と絵板4枚が古くなったため、寛文8年(1668)にそれらを長崎奉行所に送るとともに新しい踏絵の借用を願い出ている。その時使者に立った山本甚左衛門らは、平戸領では壱岐や小値賀島のような遠島もあって絵踏に8~9カ月もかかる状態なので、正月から4月中までと7月から10月中までの二度、出来れば3~4枚を借用したい旨を申し上げている。その際、古い踏絵は長崎奉行立会いの元で焼却しており、新しい踏絵については現在充分な在庫がないので、将来所要の数を整える事として、取りあえず今ある2枚を持ち帰っている。しかし踏絵の使用が松浦鎮信(1614年没の法印公)の時代まで遡るとは考え難い。

  明暦3年(1657)には、大村藩で起こった「郡崩れ」と呼ばれる弾圧事件で検挙されたキリシタン600人余のうち98人を平戸藩が預かり、7月26日にそのうち64名を処刑しているが、この事件を契機に絵踏も励行されるようになったとされる。

こうした直接キリシタンの禁制に結びつく施策と共に、仏教や神道など他の宗教・信仰を振興される施策も取られている。但しその目的は、キリシタン信仰を捨てさせる事よりも、仏教・神道が信仰されている事を外に対して示して、間接的にキリシタンの存在を否定する事にあった。例えば平戸正宗寺跡にある松浦隆信(宗陽)とその母でキリシタン信者だった松東院(メンシア)の墓は、平戸地方で16世紀末以降用いられた積石基壇墓の上に、仏教に関係する巨大な位牌型の石塔を設けている。

  平戸地方で普遍的に見られる三界萬霊塔の建立も、キリシタン禁教との関連が想定される。『平戸市史』民俗編所収の報告「三界萬霊塔」によると、旧平戸市内で最古の三界萬霊塔は岩の上町稗田にある寛文7年(1667)建立の塔で、その後17世紀後期から18世紀後期にかけて各地に設けられているが、その中で寛文11年(1671)に建立された三界萬霊塔が平戸島の鏡川町、水垂町、木場町、迎紐差町、深川町、木ケ津町、草積町、大川原町、高越町、獅子町、根獅子町、飯良町、度島の浦、中部、生月島の壱部、山田、正和などで確認され、旧籠手田・一部領域で多く分布している事が注目される。

  三界萬霊塔については、寛永16年(1639)に起きた浮橋主水事件-主水が平戸藩でキリシタン信仰が行われていると幕府に訴え出て、敗訴・流罪となった事件-の際に、藩の危機を救った江月和尚の指導で建立されたという伝承があるとされる。現在確認されている最古の塔の建立は寛文7年(1667)で、時代の隔たりがあるため直接関係があるとは考えにくいが、伝承からも塔の建立動機にキリシタン禁教があった事は窺える。

  最古の寛文7年(1667)に建立された岩の上町稗田の塔や、次に寛文10(1670)に建立された大野町池原の塔は、建立者が念仏講となっている。念仏講とは盆などの時期に、男性の講員が集まって墓地などで鉦の音に合わせて念仏を唱える行う講で、度島では現在も活動しているが、かつては市内各地に存在していた。平戸島北部に建立された最古の2塔の建立者が念仏講である点については、北部はキリシタン信仰が広まらなかったり早期に消滅したため、住民による念仏講の活動が活発化した事が背景にあると考えられる。 

一方、寛文11年に一斉に建立された旧籠手田・一部領の塔の場合、建立者は「村中」か無記入となっている。かりに先行する北部の塔のように住民の発意によるものだとすると、全ての建立年が一緒というのは不自然であり、旧籠手田・一部領域の寛文11年塔については平戸藩側の意図によって建立された可能性が高い。建立理由としてはキリシタンだった住民への仏教信仰の普及も考えられるが、それ以上に「この地域には仏教が定着している」(=キリシタン信仰が無い)事を部外者に示す表象として設けたものと思われる。また寛文11年(1671)は中江ノ島などで生月島他のキリシタン信者が処刑された元和8年(1622)から49年忌(テオサメ)直後の年にあたる事から、元和・寛永の殉教の犠牲者を供養する意図も併せ持っていた可能性がある。

 このようにキリシタン禁教の諸政策が実施される中で、平戸地域の諸集落にも仏教(檀那寺、祈祷寺)、神道(村落氏神)が定着し、家の中にも仏壇、氏神神棚、荒神神棚、屋敷神の祠などが設けられ、おくんちや、葬儀、年忌供養(法事)、講経、祭事が行われている。仏教では幕府によって宗派が確定され各宗派の所属寺院が本末関係で系列化されている。寺院は檀那寺として所属する檀家の葬儀や年忌供養を執り行うなかで檀家がキリシタン信仰を保持していないかを確認する役割とともに、檀家の者が他所に働きに出たり婚姻等で移住する場合に、本人の宗旨を確認する証明書である「手形」を発行する役割を担う事になる。神社については、中世には平戸地方の神社は概ね別当寺の僧侶の管理下にあり、近世にもその形態を続ける神社がある一方、新たに幕法で定められた神祇管領長上・吉田家の発行した神道裁許状を有した専業神主が集落の氏神神社や地域内の聖地、家内の神棚の祭事を管掌するようになる。その活動の中で地域内の聖地に対しても、古事記・日本書紀等に登場する神名が付与され、その神に対して定型化した神道祭祀が営まれるようになる。例えば川祭では、以前は川自体やそこに居ると認識された水の精霊に対する祭祀であったのが、神主管掌下では水波能売命、水分神など水に関係する神道神が対象に設定された上で竹棚の供物台などを用いた祭祀が行われていく。だが神主の存在意義は神からの恩恵と結びつくため、神道神ではその恩恵面のみが強調される事になる。それによって本来自然が有する不幸の側面は遊離し、それに対応する存在として妖怪や死霊という概念が登場し、それらに対する祭祀を行うためにホーニン(法人)やヤンボシ(山伏)という宗教者が活動していく事になる。荒神神棚にはおもに天台宗に属する盲僧(座頭)が琵琶を弾く祭(講経)を行っているが、役人によるキリシタン探索を盲僧が事前に報せる事と引き替えに、家の玄関付近に荒神神棚を祀らせたという伝承がある。

しかしキリシタン信者は敢えて、仏教、神道など他の信仰・宗教を受け入れる選択をして、キリシタンの信仰を維持し続けていく。それを可能ならしめた事については、信者が強固な信仰組織を構築したという内的要素が何よりも重要だが、同時に①平戸松浦氏自体はキリシタンに入信せず、早くから対峙的な姿勢を取った事、②平戸藩は幕府より15年も早い1599年に藩内禁教に転じた事、③平戸松浦氏は1600年の関ヶ原の戦いでも東軍に属していた事などの外的要素が有利に作用した事も大きい。こうした点をアピールする事で平戸藩は、キリシタンに対して厳しい態度を取ってきたという認識を幕閣に醸成する事に成功し、その結果さらなる過酷な禁教政策を行って幕府にアピールする必要が無くなったのである。

このように近世には、キリシタンの禁教のための制度として導入され定着した檀那寺や氏神などの宗教を基盤として、集落や各家の宗教・信仰構造が形作られ、人々の暮らしや生業と有機的に対応する信仰のスタイルが平戸地方を含めた全国に形作られることになったが、この信仰スタイルは明治時代以降も継続されこんにちに至っている。言い換えると現代日本人の信仰スタイルは、キリシタンによって形作られたと言っても過言では無いのである。




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