長崎県平戸市生月町博物館「島の館」

生月学講座No.216:『潜伏キリシタン図譜』の検証

生月学講座:『潜伏キリシタン図譜』の検証

 『潜伏キリシタン図譜』(以下『図譜』)は、日本各地の潜伏キリシタンに関する史資料を網羅した書物として2020年12月に刊行されましたが、816頁にのぼる大著です。私も同書のうち平戸市内の項目を執筆させていただきました。2015年春頃に出版社から初めて説明があった時は、神奈川県大磯町の澤田美喜記念館にあるかくれキリシタンに関係するとされる資料(澤田コレクション)の紹介を目的とする本だという事で、出所不明の資料の価値付けに実在する生月島のかくれキリシタン信仰(以下「かくれ信仰」)の資料が利用される形になる事を危ぶみ一旦は辞退したのですが、その後、全国の潜伏キリシタンに関する資料を紹介する企画に変更されて、資料の検証にはキリシタン研究の第一人者の方々も携わると説明され、関係する市町村が協力する事にもなったので、平戸市域の項目の執筆を承諾した次第です。
 11万円という価格は島の館の購入費では手が出ない事もあって、6月になってようやく大村市の長崎県図書館に行き閲覧してきました。心配だったのは私が「虚構系資料」と呼ぶ、学術的な価値付けが伴わない資料を紹介している可能性でしたが、私も関わった第1章(九州地方)については目立った問題は無く安堵しました。この章の執筆者は皆、世界遺産やキリシタン考古学の関係で一緒に研究を進めてきた方々で、虚構系資料を峻別するスタンスも共有されていて、疑念がある史跡や資料も問題点がきちんと示されていました。しかし他の地方の章については残念ながら虚構系資料の掲載が複数例認められ、特に「マリア観音」のカテゴリーに属するものの存在が目立ちました。例えば山口県長門市先大津地区の子安観音は、それ程古くない時代に発見され、檀家が家に伝わる観音を寺に持ち込んだものとされていますが、その家がかくれ信仰を行っていたかの検証はありません。兵庫県丹波篠山市の長徳寺の子安観音像については、東博所蔵のマリア観音像との作風の一致が根拠とされています。静岡県静岡市用宗大雲寺の寛文5年(1665)造の石碑に掘られた観音像は、昔からマリア観音と呼ばれていた事と、キリストの遺骸を抱く聖母マリアのピエタを連想させる事からマリア観音とされています。秋田県横手市春光寺の観音像や湯沢市川連の観音像、仙北市寺沢地区の北向き観音などについてもかくれ信仰の存在の検証は無く、見かけの印象に拠ってマリア観音だとされています。
 従来マリア観音と紹介されてきたものは、外海・浦上系かくれ信仰で祀られてきた中国徳化窯製白磁の観音像で、浦上崩れの史料や東博の実物資料に付いた付箋には「ハンタマルヤ」という名称が記載されています。この像については、観音像をマリア像に転用したのか、当初からマリア像として作られたのか見解が分かれていますが、少なくともかくれ信仰の信仰具である事は民俗調査と史資料調査の両方で確認されています。しかし『図譜』で採り上げられたそれ以外のマリア観音は、それを祀ったかくれ信仰の存在が確定されておらず、物として存在する慈母観音のような母子像を現代の調査者の解釈でマリア観音としたに過ぎません。マリア観音という用語自体こうした拡大解釈を誘引するので使用すべきでない事を再認識した所もありますが、これらの資料の掲載が許された事で、本書の学術的価値が損われ、読者にも不正確な潜伏(かくれ)キリシタン理解をさせてしまった事が残念でなりません。
 




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