平戸市再考No.016平戸系突組の興亡
- 2021/06/29 09:14
- カテゴリー:平戸史再考
平戸系突組の興亡
16世紀までの港市平戸の経済を支えたのは海外貿易だった。しかし17世紀に入ると平戸町人が経営する産業―捕鯨業―が興る。
平戸町人の捕鯨業については、享保5年(1720)に平戸の谷村友三が記した『西海鯨鯢記』(以後『鯨鯢記』と略す)に、日本の古式捕鯨業の発祥から興隆に至る時期を概観した記述があり、同じ谷村家が残した『鯨場中日記』には寛文13/延宝2年漁期(1673/74)の谷村組の壱岐と対馬における操業の日程が詳しく紹介されている。また吉村五右衛門が経営する吉村組が残した史料として『慶安元年子ノ三月吉日 鯨舩萬覚帳』『明暦三年酉ノ三月吉日 新組鯨覚帳』『寛文七年未ノ三月吉日 鯨舩萬覚帳』の3冊があり(以下『(慶安)鯨舩萬覚帳』『(明暦)新組鯨覚帳』『(寛文)鯨舩萬覚帳』と略し、纏めて「吉村組文書」と記す)、吉村組の慶安元年(1648)から寛文9年(1669)にかけての(中断期を挟んだ)16漁期の操業の内容が詳細に記録されている。これらの史料を残したのは、17世紀に突取法という漁法を用いる捕鯨を行った鯨組「突組」を経営した平戸の町人達で、彼らが経営した鯨組の事を「平戸系突組」と呼称する。
平戸系突組の操業は当初、平戸島周辺で行われるが、直ぐに壱岐や五島灘・五島、対馬など西海漁場内各地に拡大する。西海漁場は、戦国時代から明治時代にかけての古式捕鯨業時代に捕鯨が行われた主要な漁場である安房、紀伊半島周辺、土佐、西海の四大漁場の一つで、現在の山口県西部から福岡県、佐賀県、長崎県下の対馬海峡沿岸にかけて広がる最大の捕鯨漁場だった。
突取法は、鯨に銛を打ち込み、船などを曳かせて体力を奪った後、剣という先が尖った道具で鯨を突き、深手を負わせて仕留める漁法である。この方法は縄文時代から行われ、平戸瀬戸では今から六千年前の縄文時代早期末に突取捕鯨が行われていた事が、大量の石銛やスクレーパが出土した平戸市田平町のつぐめの鼻遺跡の状況から推測されるが、突取法が専門的な組織(鯨組)による漁法として成立した事が窺えるのは、『鯨鯢記』の「正親町院ノ御宇元亀年中今享保五年庚子至テ百五十年三河ノ國内海ノ者船七八艘ニテ沼諸崎邉ニテ突取ル」という記述である。ここから確認できるのは、元亀年間(1570~73)の知多半島の内海(三河国と記されているが誤りと思われる)の者が、半島南端の師崎付近の海域で突取捕鯨を行った事である。江戸時代中頃に師崎で行われた突取捕鯨を紹介した『張州雑志』の図からは、離頭銛(獲物に突き入れると銛先が柄から分離して残るタイプの銛)の使用や、捕獲した鯨の上部に横方向に穴を抉り、そこに貫通させた柱を二艘の船に渡して鯨体を確保する方法など古態の技術が確認できるが、『鯨鯢記』に記された銛の変遷を記した図の冒頭にも離頭銛(チョッキリモリ)が登場する事から、元亀年間の創始期に行われていた技術が伝存したものと思われる。
『鯨鯢記』によると、師崎の突取法は文禄元年(1592)に紀伊国尾佐津(三重県鳥羽市相差)に伝わり、慶長元年(1596)に紀州熊野(和歌山県南部)に伝わったとされる。寛永元年(1624)頃の制作とされる『捕鯨図屏風』(大阪市歴史博物館蔵)に描かれた突取捕鯨の様子は、抹香鯨が描かれている事から紀州漁場の捕鯨だと推測されるが、本図では「返り」という銛先の両側に突き出た突起が左右対称になっており、銛先が柄に固定された固定銛なのが確認できる。『鯨鯢記』に記された銛の変遷図では、離頭銛の次に「太郎釼」という左右対称の返りを持つ固定銛が記されているが、紀州に伝播した突取法が外洋の大型鯨の捕獲を意図して改良された事が窺える。
『鯨鯢記』によると、紀州の鯨組は元和2年(1616)に「西国」に進出し、寛永元年(1624)に紀州藤代(藤白)の藤松半右衛門組が度島飯盛で操業を行い、翌寛永2年(1625)には紀州の與四兵衛組が大島的山で操業を行っている。紀州系突組の操業はその後17世紀中頃まで壱岐や五島灘の島々、五島有川湾などで確認できるが、それらの組の組主(経営者)の出身地の多くは紀州の主要な捕鯨漁場だった南の熊野地方ではなく紀北・紀央地方だった。紀北・紀央の者が熊野地方で鯨組を経営した記録は無く、彼らは西海で捕鯨を行うために熊野地方の捕鯨従事者を雇用して突組を結成し、西海に出漁したと考えられる。
近世初頭の西海漁場には、捕鯨の対象となる背美鯨などの大型鯨が豊富に回遊していたようで、『鯨鯢記』には「昔ハ鯨多シテ至ラヌ海モナク入サル浦モナシ」とある。しかし捕鯨を含む漁業は漁獲物の豊富さのみで成立する訳ではない。あくまで漁獲物が製品となり、それが消費地まで流通して販売される事が前提となる。
時代は降るが、網掛突取法が定着した時期の紀州や、紀州の捕鯨技術が直接伝播した土佐では、鯨の解体・加工や流通の状況を見る限り、畿内の人口集中地域に鯨肉を販売する事が漁の主要な目的だったと思われる。この状況は突取法の段階まで遡ると思うが、西海漁場は畿内から遠く離れている事から、鯨肉の流通では畿内に近い紀州や土佐の有利は覆し難く、日持ちがする新商品である鯨油の生産を前提にしないと成り立ち得ない。そして鯨油に注目すると、西海に進出した紀州系突組の組主に紀北・紀央の者が多いのも改めて気になる所がある。
有力な鉄砲衆の存在で知られた紀北の根来寺は、天正13年(1585)の豊臣秀吉の征伐で焼亡するが、同寺の山内には発掘調査で備前焼の大甕を複数据えた「甕倉」が多数存在し、甕には植物性の灯油が大量に蓄えられていた事が確認されている。根来寺の周辺地域は、中世には高価な商品だった荏胡麻から製造した灯油の流通拠点だったと思われるが、灯油の流通・販売の知識を持った者が新たなジャンルの灯油を確保するため捕鯨業に参入した可能性がある。しかし一方で、後述するように同時期、北大西洋のスヴァールバル諸島で鯨油生産のための突取捕鯨を盛んに行っていたオランダ人も、平戸島周辺の捕鯨の開始に影響した可能性がある。
『鯨鯢記』によると、紀州組の進出から僅か2年後の寛永3年(1626)、平戸町人・平野屋作兵衛による度島を拠点とした突組の操業が行われ、これが「平戸ノ町人鯨組是ヲ始トス」とされる。寛永4年(1627)には宮ノ町組が田助浦で、明石組、吉村組(あるいは両者の共同組)が薄香で、山川組が壱岐印通寺で操業したとあり、平戸町人の捕鯨業参入が急速に進んだ事が窺える。こうした状況に関して寛政元年(1624)の「宗陽公松浦隆信書状」(志佐鐵馬蔵)には「鯨衝當年ハ所ノ者仕立候ハんと申候仁候て 随分取たて申付可然候」とあり、紀州系突組の操業の成功を見た平戸町人が、突組経営を思い立った事が分かる。
平戸町人の中で最初に捕鯨業に参画した平野屋作兵衛については、『平戸オランダ商館日記』1632年5月4日の項に、次のような記述がある。
「我々の3月18日附の手紙で、我々(オランダ商館員)は既に長い間ここ(江戸)に拘留されているため、我々の金はなくなり始めているので、我々の資金が不足した時、我々は誰から金を借りたらよいかの命令してほしい、と頼んだ。その後当地に作兵衛殿の召使が、鯨油を積んだ船で到着した。彼はそれを当地で売った。そして彼はその代金〔の全額〕を使うわけにはいかず、それを平戸に運んで行かねばならないで、我々にその一部を提供した。その様な機会を逃したくないので、これを受取るのがよい、と考えた。そこで今月3日に彼から750テールの現金を受取った。」
このオランダ商館員が江戸で足止めを食っている状況は、寛永5年(1628)に起きたタイオワン事件に起因するものだった。オランダ商館員達は不足する滞在費を「作兵衛殿の召使」から借りているが、この記述から平野屋作兵衛が仕立てた船がはるばる江戸まで鯨油を運び、販売している事実が確認できる。つまり当時平戸町人の突組による捕鯨は、遠隔地の鯨油需要に対応する形で行われていたのである。その背景には、徳川幕府成立後の平和によって、平戸から瀬戸内海を通って江戸まで延びる航路で遠隔地への商品流通が安全にできるようになった事があり、それによって西海の鯨油は発展する大都市・江戸で商品として販売する事ができたのである。
一方で平野屋作兵衛は、元和7年(1621)以降オランダ商館相手の銅の輸出と白糸等の輸入に関わっており、寛永2年の彼の銅取引は194,508カディーという多額に上る。同氏は翌寛永3年(1626)から突組の操業を始めているが、寛永2年の貿易取引で得た利益を投資して突組を組織した事が考えられる。
最初期の平戸系突組の操業については、『平戸オランダ商館日記』1628年1月28日の項に次のような記述がある。
「今日、鯨取り(の見学)をたのしんだ。鯨が3頭、港のすぐ近くに来たので、商館員は一同見物のため沖に漕ぎ出した。夕方、3頭の中の1頭が仕止められ(長さ19尋との事である)陸揚げされた。(オランダに於けると同様)鯨から鯨油を取る。しかし大体は、食用とされる。」
この記事に関して『鯨鯢記』には「卯年宮之町組田助浦ニ居ル」とあり、卯年は寛永4年(1627)を指すが、西海捕鯨の漁期は12月から翌春にかけてである事から、『平戸オランダ商館日記』に記された1628年1月の操業は、田助浦に納屋場を設けて平戸瀬戸で操業を行った宮ノ町組の操業である事が分かる。
川淵龍氏によると、元禄年間に作成された『平戸手鑑』には、吉村庄左衛門(宮ノ町)、吉村五兵衛(本町)、磯部弥太郎(本町)、谷村三右衛門(安富町)など、平戸系突組主の居住が寛文5年(1665)以前は宮ノ町に属した宮ノ町、本町、安富町などで確認でき(「平戸藩の初期捕鯨」)、宮ノ町組に参画した町人がのちに独立して突組を興していった事が推測される。なお平戸オランダ商館の商業帳簿にも、ヨシムラソージロウ(吉村庄次郎)などの名が見える事から、彼らも貿易で得た資本を捕鯨に投資した事が考えられる(「初期平戸町捕鯨組織家の人的考察」)。
前掲したオランダ商館日記の記述から、オランダ人が平戸の捕鯨を身近に見知っていた事が分かるが、オランダ自身17世紀には世界最大の捕鯨国だった。オランダ人は1596年に北太西洋の北極圏にあるスヴァールバル諸島を発見しているが、1612年には同諸島に捕鯨(母)船を出漁させ、1614年には北方会社を設立して同諸島での捕鯨業を拡大している。オランダは1618年にはスヴァールバル諸島に23隻、ヤンマイエン島に19隻以上の捕鯨(母)船を送り出しており、翌1619年にはスヴァールバル諸島のアムステルダム島にスメーレンベルクという捕鯨基地を建設し、イギリスを抑えて同諸島における捕鯨業の優位を確立している(山下渉登『捕鯨』Ⅰ)。当時のオランダ捕鯨では、大型帆船の母船で漁場に進出し、ボートで追跡してホッキョククジラを突き取り、帆船の舷側や基地の浜辺で解体し、陸上に設置した大釜で皮脂を炒って鯨油を製造した。大型帆船を母船にする点を除くと、基本的なプロセスは西海の突組の操業と大きくは違わない。
例えば寛永2年に平野屋作兵衛がオランダ商館との商取引で多額の利益を上げた時、商館員との会話の中で、オランダ本国で捕鯨が大きな利益を上げている事や、鯨油の生産方法などが話題にのぼり、作兵衛が捕鯨業への参画を思い立った可能性がある。しかしそれ以前の紀州系突組の平戸周辺への出漁も、例えばオランダ船の航海に必要なランタンの油や塗装剤などの油脂を入手する目的で、オランダ人から出漁を示唆された可能性が無いとは言えない。
さて『鯨鯢記』には寛永4年(1627)に山川久悦の組が壱岐の印通寺浦に出漁した記述がある。同氏の名はオランダ商館関係史料などで確認できないが、『鯨鯢記』の寛永3年以降の一連の記載が平戸町人の氏名である事から、山川氏も平戸町人だと考えられ、平戸系突組が操業開始直後から平戸諸島外に出漁していった状況が確認できる。こうした平戸系突組の代表格が吉村組文書を残した吉村組である。
吉村組文書に記載された16漁期の操業を見ると、冬浦と春浦で漁場を移動させている事が確認できる。冬浦の拠点は一貫して平戸領内の壱岐島内(瀬戸浦、芦辺、勝本)に置いているが、春浦では、中通島東岸(五島灘)の鯛ノ浦[五島領、7漁期]、五島灘の平島[大村領、3漁期]、壱岐西岸の浦海[平戸領、3漁期]、平戸島南端の宮ノ浦[平戸領、2漁期]、生月島[平戸領、1漁期]と場所もまちまちである。春浦の拠点では鯛ノ浦が一番多く、そこを含めた五島灘での操業が2/3の12漁期にのぼる。この事から吉村組は、冬浦は壱岐で操業し、春浦には五島灘方面で操業するパターンを多く取っていた事が分かる。
吉村組が、頭数が明らかな15漁期に捕獲した鯨は210頭にのぼり(他の組と共同で取った分については、割り当て分を加えている)、1漁期の捕獲数は最低4頭、最高28頭、平均14頭である。また記録がある13漁期に生産された鯨油(樽数)は最高5018丁、最低679丁で、平均3158丁である。一方、冬浦と春浦それぞれの捕獲頭数の総計はほぼ同数(104頭1/2と105頭1/2)で頭数では両季の差は無いが、例えば明暦3/4年漁期には冬浦で3+1/4頭を捕獲して鯨油1121丁を生産し、春浦には8+2/5頭を捕獲して1006丁を生産しており、1頭当たりの鯨油生産数の平均は冬浦345丁、春浦120丁で、冬浦の鯨の鯨油生産量が多いのは明らかである。これは下り鯨の方が脂肪を多く蓄えているからだと思われる。なお延宝9年(1681)に出された平戸藩の法令「鯨突御仕置」によると、突組が捕獲した鯨(突鯨)の運上(藩に納める税)として、鯨一本につき銀15枚を平戸藩に納めている。
『(明暦)新組鯨覚帳』にある、吉村組の寛文2年(1662)の編成の記述によると、突組一組の人数は鯨船17艘の乗組員226人、本船(運搬用の廻船)9人、納屋(解体・鯨油生産)43人、商人納屋17人の295人である。最後の商人納屋は名称から商人達が経営する半独立の施設で、後述する『鯨場中日記』に登場する小納屋と同じ施設(組織)だと思われる。
乗組員には羽指(ハザシ)という、鯨船の指揮にあたるとともに、銛突、剣突を行い、泳いで鯨に取り付いて鼻切(手形切り)を行う役職がある。出身地が分かっている吉村組の羽指15名の出身地は、熊野が7名、高見1名、鞆1名、五島が5名(うち宇久島2名)、平戸薄香1名で、総じて西海漁場内が6名、西海以外(瀬戸内海以東)9名という割合である。のちの網組では殆どが西海漁場内の出身者になるが、この時代には西海以外の出身者が多く、特に紀州熊野の出身者が多いのは、初期の平戸系突組が紀州漁民を雇用した状況の名残りだろう。
鯨船の加子は、調子を合わせて櫓を漕がないと速力が出ない事から、一つの集落からチームで雇っている。吉村組の加子も16漁期を通じて、上加子と呼ばれる瀬戸内海以東の者が下加子と呼ばれる九州方面出身者に比べて多い傾向がある。一方、鯨の解体や鯨油の製造に従事した納屋の従業員(納屋の者)は、吉村組の場合一貫して呼子から雇っており、漁期に先立つ11月に人を遣わして呼び寄せている。
突組が捕鯨に用いた鯨船は、鯨を追跡するために高速を出す必要があったため細長い船形をしており、8丁の櫓を12人の加子で押した。吉村組の操業当時、西海で用いた鯨船には「熊野造り」と「兵庫造り」の2種類があったことが『(慶安)鯨舩萬覚帳』の記述から確認できる。記述では兵庫造りの寸法を紹介した後、熊野造りの違いを説明している事から、吉村組では兵庫造りの鯨船がメインだった事が窺えるが、熊野造りの鯨船は兵庫造りに比べてカワラ(船底材)が1尺短く、より水押(船首材)が鋭角に突き出た印象だったと思われる。
捕獲道具については、『(慶安)鯨舩萬覚帳』の「鯨突道具ニ苧渡シ申覚」によると、鯨船に搭載する刺突具(銛・剣)として「はや(早銛)」「でんちうもり」「小けん」「大けん」などが確認できる。デンチウモリは慶安期の吉村組では船を曳かせるのに用いる主要な銛だったようだが、『鯨鯢記』所収図によると左右非対称の返りと長い茎を持つ固定銛で、同図の解説には「此新森 明暦ノ頃大村ノ深澤義太夫作之」と、明暦年間頃に深澤組が発明した当時最新の銛である事が分かる。軟鉄でできた長い茎は刺さった後、船を引く力で曲がって力が銛先に掛かるのを緩和し、左右非対称の返りは力が不均等に掛かるため抜けにくくなる。『張州雑志』には18世紀の尾張師崎捕鯨で用いた銛として「殿中銛」という左右非対称の返りを持つ銛の図を掲載しているが、この銛がデンチウモリと同じだとすると、西海から逆輸入された事が考えられる。なおこの銛の漢字については本来、投げ上げて落とし突きする際有利なように、長くて重量のある木柄を付けた事から「添柱銛」と書かれたのではないかと推測する。
次に『鯨鯢記』の(紀州造りとおぼしき)鯨船に搭載された捕獲道具の記述を見ると、「ハヤノモリ」「替ハヤ」「大郎釼」(8本)「大森」(2本)「釼(大)」「釼(小)」などが確認でき、剣の種類は同じ(2種)だが銛の種類は多い(4種)。なお『鯨鯢記』所収図には大郎釼という同じ名で、左右対称の返りを持ち茎が太い固定銛と、左右非対称の返りと細い茎を持ち、突き捨てにされる固定銛の二種類が紹介されているが、前者はチョッキリモリ(離頭銛)の後ろ、後者はデンチウモリの後ろに描かれている所から導入時期の違いが推測でき、前述の鯨船搭載の大郎釼は本数からしても後者のようである。またこのセットの主要な銛は、左右非対称の返りと細い茎を持つ大銛だが、『鯨鯢記』所収図を見る限りデンチウモリを大型化したもののようである。
のちの西海の網組で用いられた主要な銛は萬銛だが、『鯨鯢記』所収図にも大銛と同形でより大きく描かれた大萬銛の図がある。大村藩の『見聞集』45には「早の銛ハ大村組より始、万銛ハ吉村組より始、しらせハ太地組より始」と、万(萬)銛を発明したのは吉村組だとしている。なお早銛は大村組より始まるという記述は『鯨鯢記』のデンチウモリを深澤儀太夫の作とする記述と重なる所があるが、『鯨鯢記』と『(慶安)鯨舩萬覚帳』鯨船搭載銛の記述にはいずれもハヤノモリとデンチウモリの両方が確認できる事から、両者は区別されていたようである。
吉村組の陸上施設について『(慶安)鯨舩萬覚帳』には次の5棟が確認できる。
〇東油納屋(13間×4間)〇西油納屋(10.5間×4間)〇旦那小屋(6間×3間半)
〇大工小屋(5間×3間)〇加じや(鍛冶屋)小屋(2間×3間)
このなかの主要な施設が東西2つの油納屋である事は、大きな建物である事からも推測されるが、名称に加えて、吉村組が大量の鯨油を生産していた事や、後の西海の網組にも大納屋、小納屋、骨納屋など鯨油を主に生産する施設がある事などからも、鯨油の製造を行う施設である事は間違いない。旦那納屋は会計等を行う事務所のような施設、大工小屋は鯨船の営繕、鍛冶屋小屋は捕獲・解体道具の製造・修繕を行う施設と思われる。また他にも組織の所で紹介した商人納屋や、鯨船乗組員の宿舎が存在した可能性がある。また記録からは確認できないが、海岸には鯨の皮脂を剥ぐ時に使う轆轤(ろくろ)という人力ウインチが設置されていたと思われる。壱岐の神官・吉野秀政が著した『海鰌図解大成』(山口麻太郎筆者稿本)には、西海漁場の鯨の加工や利用について次のような記述がある。
「明暦の頃迄ハ只油をせんじとるのみにして皮身骨肉を食する事をしらす。各各札を付て洋中にこぎ出し捨たり。」「其前鯨をくらふ事をしらさる時、筑前州早良郡姪浜に鯨よれり、一人試に取てくらふ。其処の者見て人間のわざにあらずとそしりけるが、後にハここもよしかしこもよしと、からきもの外ハすへてくらひて、只骨、からきもをのみすてしが(後略)」
これらによると西海漁場では明暦年間頃までは、鯨は鯨油を製造するためだけに利用されていて、食される事もなかったので、油の製造に利用した以外の部位は海に捨てていた事になる。『鯨鯢記』にも鯨油の製造に関して次のような記述がある。
「骨ノ油ヲ取ル事、鋸ヲ以テ挽切、斧ヲ以テ割細ニ摧キ、釜ニ水ヲ入テ油ヲ煮出シ汲ミ取リ、亦取上テ碓(カラウス)ニテハタク事ニ返亦煮出ス。油樽数十四五或四五十、若キ魚ニハ油ナシ。
煎糟ノ油、若キ魚肉柔ニシテ煎シ残ル故、糟ヲ蒸シ油船ト云物ニ入テ是ヲ押。七尋ノ鯨ニハ油五六樽有或十樽。
右ニ種、明暦之頃谷村氏何其ト云者取初シタリ、今ニ不絶」
この記述から鯨骨を用いた採油や(皮脂の)煎粕からの再採油は明暦年間に始まった事が分かる。なお後の壱岐の網組では、鯨組からなかば独立した小納屋という施設で内臓を用いた採油が行われているが、『鯨場中日記』の冒頭には寛文13/延宝2年漁期(1673-74)に壱岐に出漁していた10組の突組とは別に10軒の春浦の小納屋の名が紹介されている。この記述の仕方からも小納屋は突組からなかば独立した施設(組織)だったと思われるが、この時期の小納屋も内臓を利用した採油を行っていた可能性が高い。こうした技術の導入で鯨が無駄なく利用されるようになり、鯨油の生産効率が高まったと考えられる。
西海の捕鯨図説を見ると、大納屋、小納屋、骨納屋などの中には、竈が多数配置され、釜に皮脂その他の部位を投入して煎ったり茹でたりして鯨油を抽出している。しかし古式捕鯨業の発祥地である師崎や、西海漁場に突取法や網掛突取法を伝えた紀州、紀州から漁法が伝播した土佐の鯨組では、捕鯨図説などを見ても鯨油の製造を行う施設は確認出来ず、僅かに『熊野浦捕鯨図』(太地町立くじらの博物館蔵)で、浜辺で解体した鯨の皮脂を浜の上に置いた大まな板で細かく裁断し、壁の無い簡単な苫屋根の小屋の中に設けた1基の竈で鯨油を製造している場面が確認できるくらいである。また前に紹介した紀州の突組の操業を描いた『捕鯨図屏風』でも、片方の屏風に浜での解体と、浜から離れた民家の屋外に置かれた二基の竈で鯨油を製造する様子が描かれているが、その民家が鯨組に直接関係する施設である確証はない。
紀州や土佐では、浜辺で解体した鯨の部位をそのまま仲買商に販売したため、製造にはあまり携わっていなかったと思われる。そのため西海漁場の鯨油製造を主体とした本格的な加工施設(納屋場)は、紀州から導入されたものではない事が考えられる。
尾張・紀州・土佐と西海では解体方法にも違いがある。『張州雑誌』の図を見ると、尾張師崎ではロクロ(人力ウインチ)を使って汀線と並行に引き上げた鯨から、短い柄と刃の包丁を使って皮脂や赤身を不定型に切り取っている。『捕鯨図屏風』に描かれた紀州の突組でも、やはり岸に付けた鯨から短い柄の(刃は長い)包丁を用いて、皮脂を四角形に切り取っている。網組の操業を紹介した『熊野浦捕鯨図』や『紀州熊野浦捕鯨図屏風』の太地浦の場面では、ロクロを使って鯨体を岸近くに引き寄せた後、大切包丁を使って皮脂を四角に切り取っている。『鯨解体図』『高知県捕鯨図』に描かれた土佐の解体風景では、ロクロで海に引き上げた鯨を大切包丁で輪切りに切断している。しかし紀州や土佐では解体にロクロを用いていない。
一方、西海漁場系の捕鯨図説を見ると、網組では鯨体は納屋場の前の渚に頭を陸側にして付けられ、綱が付いた鉤を皮脂に掛けてロクロで引っ張りながら、大切包丁で切り込みを入れて大きく剥いでいる。皮脂はそののち適当な大きさの四角形にカットされ、吊鉤付きのモッコに付けて大納屋の中に運び込まれてさらに細かく裁断され、多数の竈に掛けた釜に投入されて鯨油に加工される。漁法については突取法も網掛突取法も紀州から伝わっているのに、解体方法や鯨油製造の規模は異なっているのである。
ロクロを解体に用いる方法は、オランダ人が17世紀にスヴァールバル諸島などの捕鯨で行っていた事が分かっている。17世紀の北大西洋の捕鯨を描いた図「Whaleship crushed in the ice」Taf.Bを見ると、ボートを使って突き取った鯨を本船の帆船の舷側に付け、皮脂にロープ付きの鉤を掛け、ロープを帆桁の滑車に通して船上のキャプスタン(人力ウインチ)で巻いて引っ張りながら長柄包丁で皮脂を剥ぎ取っている。他に、海岸に設置した大釜で鯨油を製造している絵が残されている。
このように17世紀のオランダ(ヨーロッパ)と、18世紀の西海の網組の解体や加工の方法には共通点が多い。17世紀中頃の平戸系突組については、のちの西海の網組同様、鯨油生産に重点を置いていた事が、吉村組文書にある加工施設のあり方や鯨油の生産量の記載から確認できるので、平戸系突組の段階からロクロを使って皮脂を剥ぐ方法や、鯨油を効率的に生産するための施設が存在していたと思われる。またそれらはオランダ人の示唆を受けて導入・整備が行われた可能性がある。
『海鰌図解大成』に「瀬戸浦日本第一の鯨網代場なり」と記されているように、壱岐は江戸時代を通じて西海漁場の最重要漁場だった。壱岐の漁場は、正保~慶安期に紀州系突組が多数出漁する漁場として栄えた有川湾が中絶に至った頃から繁栄していった事が、江口家文書「貞享五年御評定所対決仕御順通相済申帖」に記されている。
「五島之鯨突此浦ニ紀州之者共参仕初申候を 九州九ケ国より是を見習 国々より大分鯨突仕出候て 此浦之入口平戸大村領五島之内宇久島表ニ鯨組村々事ニ罷在候へハ 方々に而突取 或ハ追散申ニ付 此浦鯨猟双方共ニ中絶仕候 右之鯨突とも 只今ハ是より西ニ平戸之内壱岐島又ハ対馬表へ段々参候付 此浦巳かへ申候と申上候」
これによると有川湾では紀州系突組が来て捕鯨を始めるが、それに倣って各地で突組が興って有川湾口、平戸、大村領(五島灘の島々)、宇久島などで鯨を突くようになって鯨を追い散らしたため、有川・魚目双方の捕鯨とも中絶に至り、今(貞享年間)は西の壱岐や対馬で操業するようになったとしている。
太地に残されていた「鯨組作法如先銀子持□相□物之事」(『熊野太地浦捕鯨史』所収)は、寛文4年(1664)に定められた十六カ条からなる協定書で、複数組が関係する様々な捕獲パターン毎の鯨の分配法などを記しており、文末には貞方利左衛門、平戸屋助左衛門、淺野四左衛門、宮地利衛門、吉村庄市郎、淺野十大夫、油屋与四兵衛、磯部弥次郎、江口十左衛門、和田忠兵衛、浅井角左衛門、谷河利兵衛など協定を結んだ12名の名が記されている。
本協定書には漁場を示す直接の記述はないが、第12条(番号筆者による)に「当島中」とある事から、島で12組もの突組が一緒に操業する場所である事が分かる。また協定を結んだ者には紀州系突組主の和田忠兵衛とともに、平戸系突組主の貞方利左衛門、平戸屋助左衛門、吉村庄市郎、磯部弥次郎、江口十左衛門、谷河(川)利兵衛や深澤組の浅井角左衛門の名前があるが、こうした西海系突組が紀州、土佐の漁場に出漁した例は無い事から、西海漁場の域内の島である事が推測される。また平戸系突組が優位にある事も確認出来るが、これらの条件を満たし得る漁場は壱岐以外にない。なお油屋与四兵衛は『鯨鯢記』にある寛永2年(1625)に大島的山で操業した紀州の與四兵衛組である可能性があるが、『海鰌図解大成』に「正保慶安□肥前州大村城下油屋与四兵衛」の記述がある事から、深澤組と別系統の大村系突組と思われる(あるいは紀州から帰化した組主の可能性もある)。
『鯨場中日記』の冒頭には寛文13/延宝2年漁期(1673-74)に壱岐に出漁した10組の突組と鯨船の数が紹介されている。それによると(不明組)16艘、弥吉郎13艘、左内18艘、吉村組16艘、谷川組13艘、貞方組15艘、長九郎15艘、横山組13艘、覚左エ門18艘、谷村12(16)艘とある。また同史料の本文に登場する壱岐操業の組として儀平次、与左エ門、江口、磯辺、(山田)文九郎、(吉村)勝六などの組主名が確認でき、対馬では善左エ門、四郎九郎、大村、小田などの名が確認できる。冒頭に挙げた10組のうち平戸系突組は吉村、谷川、貞方、谷村の4組で、本文中に記述がある江口、磯辺、勝六の3組も平戸系である。なお横山組は、寛永2年に的山大島で操業したとされる播州の横山(甚)五兵衛に関係する組と思われる。また左内は大村領の深澤家一門の深澤左内(武左衛門)、覚左衛門は深澤儀太夫勝幸の別名・浅井覚(角)左衛門の事で(『(明暦)新組鯨覚帳』にも「大村角左衛門」の名が登場する)、本文中の儀平次は深澤儀平次重昌の事であることから、当漁期には深澤系突組3組が出漁していた事が分かる。
なお壱岐芦辺町の箱崎八幡宮にある寛文12年(1672)建立の肥前鳥居には、奉納者として吉村五衛門、同名勝六、貞方利右衛門、江口十左衛門などの平戸系突組主の名が記してある。また後述する『海鰌図解大成』にも、年代不詳ながら壱岐に出漁していた組主名が列記されており、13人のうち8人は平戸系突組の組主である。
さて寛文4年の「鯨組作法如先銀子持□相□物之事」と寛文13年の『鯨場中日記』冒頭の突組名を比較すると、どちらも平戸系突組が6~4組で最大グループを形成している事が確認できる。一方紀州系突組については前者で最低1組が確認できるが後者では確認できず、紀州系突組の後退が認められる。一方で深澤組は前者の1組から後者では3組に増えている。「山本霜木覚書」には「寛文二、三年寅卯之年当町鯨突者打続大分鯨を突上ケ町中富貴仕候事」と、捕鯨の利益で繁栄する平戸の様子を描写しているが、深澤組を始めとする西海の後発組の活動も寛文末には顕著になっている。
深澤組は『郷村記』によると、初代深澤儀太夫勝清が正保4年(1647)に五島灘の平島で操業を始めたとされ、慶安3年(1650)には初代儀太夫勝清が大村藩に1,800両を寄進し円融寺を建立している(『深澤系図』)。初代儀太夫は寛文3年(1663)に没しているが、この年深澤家は4,200両を投じて野岳堤を築いている(『九葉実録』)。また『郷村記』平島村の項には次のような記述がある。
「當領鯨組居浦當嶋を始とす、然れ共年暦詳ならす、寛永八、九年の頃ハ平戸領吉村五右衛門請浦なり、然處河野七郎右衛門増運上差出可申旨訴訟ニ付、同人請浦に相成よし、其後深澤儀太夫居浦となり、数代爰に居住す。元禄十五年、指方八右衛門の書出に、平嶋村鯨組始り紀州湯浅久右衛門と申者始て参る、當年まて六十七年に成る、儀太夫組始り五十五年ニ成ると云々、元禄十五年より六十七年前ハ寛永十二年なり、五十五年前ハ正保四年なり。」
この記述によると平島は大村領で最初に捕鯨が始まった場所だとされ、その時期については平戸系突組の吉村五右衛門組が寛永8.9年(1631.32)頃に操業したとする記録と、紀州系突組の湯浅久右衛門組が寛永12年(1635)頃に始めて操業したという記録があるとする。深澤家はこうした紀州系、平戸系突組の操業に関係する事で資力やノウハウを蓄えて突組の経営に乗りだした事が考えられる。
延宝5年(1677)紀州太地浦の和田(太地)角右衛門頼治は、予め鯨を苧製の網に絡めて動きを落として銛突等を容易にする網掛突取法を発明する。この漁法は翌年には早くも西海で試行されているが、有川湾の魚目浦でそれを行ったのが二代目深澤儀太夫勝幸が率いる深澤組だった。深澤組は貞享元年(1684)有川湾で本格的な網掛突取法の操業を始めるが、その際に有川湾の対岸にある有川浦から対抗措置として宇久島の山田茂兵衛の網組が出漁している。ところが有川浦はそれに先立つ同年6月に、平戸の突組主・吉村五右衛門に出漁の相談をしていた事が、「有川魚目間之海境帳」の次の記述で確認できる。
「一 御代官衆より被仰付候ハ 江口甚右衛門川崎助之丞平戸江罷越吉村五右衛門方江相談仕組仕候得と御座候 而子ノ六月平戸江罷越五右衛門方江相談仕大かた相済申処ニ 平戸御役人衆方より五右衛門方に被仰付候ハ 此浦出入有之由御聞届ケ被成候間相止候得と被仰付不罷成 夫より宇久島江罷越山田茂兵衛方江相談仕 茂兵衛七月中頃罷下り岩瀬浦江同心仕茂兵衛代官衆江申上候ハ 舫ニ組仕儀不罷成由申ニ付無是悲 御代官衆御差図被成候ハバ 鯨壱本ニ付銀百目宛黒皮所之者江出シ候得と御座候 而其通ニ書物相済候」
これによると有川浦側での操業について、江口甚右衛門と川崎助之丞が6月に平戸に赴いて吉村五右衛門に打診し、大方話は纏まっていた。しかし平戸の役人から吉村五右衛門に、有川浦には紛議が起きているから出漁を見合わせよう指示があり、吉村組はそれに従っている。その後有川浦は宇久島の山田茂兵衛と相談して山田組の出漁を確認するが、その際茂兵衛が代官衆に「舫ニ組仕儀不罷成由申ニ付無是悲」と話している事から、当初は吉村組と山田組が共同で操業する予定だった事が分かる。事情はともあれ吉村組は、網掛突取法へステップアップする絶好の機会を逃した事になる。
この時期から享保年間までの間に、深澤儀太夫勝幸、深澤儀平次重昌、深澤與五郎幸可達が率いる深澤組は、五島、壱岐、対馬、五島灘、呼子、筑前、長州などに出漁し、網掛突取法による操業を行っていく。一方で漁場近隣の住民の中にも、諸漁業や仲買など様々な事業の経営で資金を蓄えて鯨組経営に進出し、深澤組などとの共同経営に関わって網掛突取法のノウハウを学び、最終的に網組の組主となる者が出ている。小値賀島の小田家、的山大島の井元家、呼子の中尾家、壱岐勝本の土肥家、生月島の益冨家などがそれにあたる。
この時期(17世紀後期)には、従来の突取法の欠点と、それに対する網掛突取法の優位が、明確に認識されるようになったようで、『鯨鯢記』には次のような記述がある。
「昔ハ鯨多シテ至ラヌ海モナク入サル浦モナシ、薄香田助ニテモ突シ、此年比減少セリ。 是ヲ考ルニ一組ニ突取ル鯨十本ニ森立ル内二三本突留七本ハ手負迯去ル。偶去年ノ手負鯨森一二本肉ニ籠リ有ヲ今年突取見ルニ、疵二三尺方色黒ク朽有、然レバ森五七本立シ物ハ痛死スヘシ。子ハ一ツ生是突取安シテ難逃年可減者也。鯨モ嶋傳シテ徃還ス、五六十里沖ハ往来セス、洋中ニ餌ナキ故也。七十三組ノ時モ油ノ高樽六七万紀州土州ハ此外也、今網七組ニテモ油四五万有ヘシ。突組ノ時ハ十年之内利ヲ得事三年元ニ成事三年損失三年不仕合ノ者多シテ断絶セリ。網組ハ利ヲ得歟元成事不替是モ未如何成行シ、壹岐國而巳鯨徃来サヘアラハ断ヘカラス、此所ヲ除キテ可行海路ナシ永代不易ノ地ナラン」
これによると、突取法ではたとえ鯨に銛を突いても7割は逃げてしまうが、逃げた中にも銛傷が元で死んでしまうものが居て、また一度に一頭しか生まれない子鯨も取りやすいので、鯨が減ってしまったのではないかと推測している。また突組を10年操業しても黒字になるのは3年、とんとんは3年、赤字が3年で上手くいかないので(突組は)断絶したが、網組でも経営は容易ではなく、唯一壱岐のみでは鯨の回遊があれば操業を続けられるとしている。
この記述から、突取法が多くの鯨に銛をうって捕獲頭数を増やすという乱獲的な性格を持っていたのに比べて、網掛突取法は、網の利用によって銛を打った鯨を確実に捕獲できるという利点がある事が分かる。また突組では1つの漁場に多数の組が乱立して競争する状況となって、乱獲に拍車がかかったのに対して、網組では網を張れる場所(網代)が限られているため、1漁場に1網組が操業する形になるので、乱獲を防ぐ事ができ、資源保護の効果も期待できた事が窺える。事実、漁場を1組の網組が独占するようになると、必然的に突組は排除され経営が難しくなっていったようで、『海鰌図解大成』には次のような記述がある。
「元和の頃にハ播州の横山五郎兵衛、寛文の頃にハ播州明石の城下喜多屋某、正保慶安□肥前州大村城下油屋与四兵衛、承応明暦万治の頃深沢儀平次 金益助次郎 平戸ノ城下磯部弥市 谷川利兵衛ハ谷村、寛文二年吉村庄左エ門 吉村又左エ門 吉村重左エ門 紺屋惣左エ門 播磨屋又右エ門 江口十左エ門 瀬戸浦板屋与四兵衛等十一人仕出時も又十三人仕出時ニもあり等なり
其後深沢儀平次、夜な夜な寝て腹の上にて網の立様を工夫して、延宝八年魚税をまして自餘の十二組を退けて海鰌の税を増して、我一人海鰌組の主たらん事を平戸府の家司に願ふ。家司等聴達して求めに應す。是海鰌網組のはしめ也」
これによると壱岐には突組の頃には11~13組が操業していたが、深澤儀平次が鯨網を工夫して延宝8年(1680)に網掛突取法を導入すると、自組以外を退けて自分一人鯨組の主になる事を平戸藩庁に願い出ており、網組の操業によって突組が排除されていった状況が見て取れる。
こうした状況を経て、平戸系突組は元禄年間に操業を終える事になる。『御役所御手鑑』には、次のような平戸系突組の盛衰について記した簡潔な記述がある。
「鯨組當所ニ而仕出候初寛永三四之間 其後段々繁昌仕当町より七組迄仕出候儀有之 近年鯨組衰微仕段々相止 元禄四辛未年吉村勝六組ニ而終」
すなわち寛永3・4年に始まった平戸の鯨組(突組)は、次第に繁栄し7組が出漁するまでになったが、近年は衰微し、元禄4年(1691)の吉村勝六組の操業で終わりを迎えたとある。こうして西海、さらには日本の古式捕鯨業に一つの時代を築いた平戸系突組の歴史は幕を閉じたのである。









