長崎県平戸市生月町博物館「島の館」

生月学講座No218・河童は神か妖怪か(その3)

生月学講座・河童は神か妖怪か(その3)

 

 前回にため池に河童を封じるための猿の像を祀った事例を紹介しましたが、今回も人間が河童を懲らしめる事例をいくつか紹介します。

 生月島元触にある門川家は江戸時代、島内最高所の番岳(標高286㍍)で異国船を見張る遠見番の頭として平戸藩から派遣された役人でしたが、門川家の主婦は代々、秘伝の膏薬「河童の骨継ぎ薬」の製法を伝えていました。伝説では門川家の当主(権五兵衛)が便所に入ると、穴の中から手が出て悪さをしたので、当主は刀で手を切り落とします。その後河童が来て手を返してくれと詫びたので、手と引き替えに骨継ぎ薬の製法を教わったそうです。門川家の門口にもガッパ石と呼ぶ平石が立てられています。

  平戸地方で各地区の神社を専管する神主さんは、一部の古社を除くと江戸時代以降に赴任されています。神主さんはカワ(湧水)や川や池の祭で祭主を務めましたが、その時には竹を四本立てて竹管を並べた棚を付けて供物を供え、「水波能売神」その他の水神を祀る祝詞を唱えます。平戸島中部の紐差には神主さんと河童に関する伝説が伝わっています。 「三輪神社記」によると紐差にはかつて川童(河童)がいて住民を悩ましていました。ある日、神官・三輪家の祖先・飛騨正(ひだのかみ)の屋敷に繋がれた小馬を川童が川に引き込もうとしたため、怒った飛騨正は川童と取っ組み合い、捕えて縛り上げます。三日三晩すると川童は弱り「今後、決して紐差の氏神様のものには仇をなしません」と詫びたため、飛騨正は「今後は危害を加える事のないように。そうするならば代々の神主がそなたのため、大石に鐘を叩いて祀るだろう」と言って助命したそうです。紐差を流れる中川のほとりには「川魔石」という大石があって、石祠と伝説を刻んだ碑が立てられています。

 僧侶と河童に関する伝説も北松浦半島側の田平町に伝わっています。釜田川にかかる平川橋のたもとには、宝暦2年(1752)に建立された「大乗妙典一字一石塔」という石碑が立っています。『田平町郷土誌』によると、田平の河童達は子供に相撲をせがんだり、水中に引きずり込んだり、馬の尻子玉を引抜いたりと悪戯がひどく、見かねた長寿寺の住職、性山和尚が河童達を諭し、川に大石を沈め「この石が腐るまで姿を見せてはならぬ」と言って、観音経の一字を一石ずつに書いた六万個の小石を川岸に埋めて河童を封印したそうです。

  稲作に必要な水に関係した河童は、農民には古くから神として尊ばれ、川筋にあるガッパ石は元々、河童を祀る聖地だったと推測されます。生月島では戦国時代にキリシタン信仰が広まると、河童が牛に取り憑くのを封じるため野原や牛道沿いにオマブリ(お守り)を置くようになりますが、同時に河童に供物を与える事も行われています。江戸時代にキリシタンが禁止されると、生月島にも鎮守の神社が置かれて神主が配置されます。川祭や池祭も水波能売神などの神道神を祀る神道のスタイルになりますが、水の恩恵を受ける農民には河童を尊崇する意識が保持されました。一方、平戸藩から派遣された武士である門川家は、水と直接的な利害関係が無いため、河童は妖怪として懲らしめる対象となり、また農民を宗教的に指導する立場の神官、僧侶にとっては、神道神や仏が水の祭祀の対象となるため、河童は神や仏の力で折伏される存在(妖怪)とされたのです。




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