長崎県平戸市生月町博物館「島の館」

平戸史再考No.22:平戸漁業考(近代編)

  • 2021/12/28 17:13

平戸漁業考(近代編)

 

 日本史の区分では近代は明治時代以降になるが、社会を構成する様々な要素が明治になって一斉に近代化した訳ではない。前回紹介したように、捕鯨業では明治に入ると経営に会社形態が見られるようになるが、明治30年代までは網掛突取法を中心に、銃殺法、定置網法など古式捕鯨業の漁法が行われていた。捕鯨における近代化(近代捕鯨業への移行)の目安は経営形態の会社化と動力船と捕鯨砲を用いたノルウェー式砲殺法の導入だが、漁業全般で見た場合には会社化を指標にすると、個人経営の小漁師はいつまで経っても近代化しない事になる。そのため漁業の場合には漁船の動力化とともに、会社化もしくは個人漁師による組合等の組織を目安にするのが良いと思う。いずれにせよ漁業の近代化は漁法や地域による時期差があり、概ねの完了は昭和40年代以降になる。今回は明治時代以降の平戸市域の漁業の変遷を漁法毎に紹介したい。

 

1.磯漁

【潜水漁】最も古い漁法の一つであるカツギ(潜水漁)は、江戸時代には平戸島北部の幸の浦や生月島壱部浦の男性漁民が、平戸諸島全域で操業していた。明治時代以降になるとガラスを用いた水中眼鏡が導入された事で、潜水漁の効率が格段に向上する。戦後になると漁業法の改正で、それぞれの地域の住民が潜水漁に進出するようになるが、それを容易にしたのは、ゴム製品の導入で入手が容易となった水中眼鏡や潜水服の存在だった。

 幸の浦の漁民は夏場にカツギを行った。船は全長4尋2尺・幅8尺のテンマで、体を温める火床が付き、鮑漁の際には1艘に6~8人が乗って出漁する事もあった。カツギの装束では、晒し木綿の褌を前から後ろに向かって回して後ろで紐を結ぶという、普通とは前後逆の付け方をしていた。また褌の上からハチコという麻縄を腰に巻き、短銃の形に曲がったアービオコシを挿した。他に魚を突くホコや伊勢海老を掛け取るカギなども用いた。水中眼鏡は、昔は両側に空気袋を持つタイプを使ったが、その後鼻を出したヒトツメガネ(両目に一枚のガラスがかかる形の水中眼鏡)になった。取った獲物はアワビブクロという、口が針金で円形に作り棕櫚の網袋を付けたものの中に入れた。1日のカツギは3~4回に分けて行うが、その回数をヒトシオ、フタシオ、ミシオと数えた。主な漁獲は鮑、栄螺だが、魚も突いた(『日本蜑人伝統の研究』)。 

昭和初期、生月島の壱部浦と舘浦の海士は、隣島の的山大島や度島、平戸中部の根獅子や飯良、南部の宮ノ浦に出漁していた。なお宮ノ浦には宇久島平の海士や済州島の海女も入漁していたという。壱部浦には昭和の初め頃5~6艘の海士船(テントブネを使用)がいて、各船に6~7人の海士が乗り込んで朝8時頃に出港し、夕方6時くらいまで漁をした。壱部浦の漁場は生月島の北半分の他、的山大島や度島、二神島まで出漁する事もあった。漁期は旧暦の5月の節句頃から盆の13日までが夏の漁期で、盆過ぎから西風が冷たくなる10月なかばまでの漁期をアッキャ(秋貝)と言った。

昭和初期にはウエットスーツは無く、カエマワシという褌をつけただけの裸体で、水中眼鏡は縁を真鍮や洋銀で作ったイッポウガン(両目に一枚のガラスがかかる形の水中眼鏡)だった。潜り方には10尋まで潜る普通の素潜りの他に、分銅を持って15尋以上まで一気に潜るドンブリカツギがあった。後者の場合には分銅や潜り手を引っ張り上げる人手が必要なため、海士の半分は船に残って引き役を務め、適宜潜り手と交代した。

 海士船の櫓を漕ぐトモネリは、海士が潜りながら徐々に前進していくのに合わせ、櫓を漕いで船を進めていくが、時に「息をつめる」といい、海士が海中で息を使い果たし、水を飲んで意識不明になって上がってくる者がいるので、注意を怠らなかった。また高等小学校を卒業したワッカモンはトモネリの加勢をしながらカツギの訓練を行った。

 漁の開始から休憩で船に上がるまでをヒトシオといい、暑い時期は2時間程、寒い時期は1時間半程で、暑い時期には1日に4~5シオ仕事をした。長く潜っていると体が冷えるため、休憩時は船上のイロリに火を焚き、太陽熱と火で半時間ほど体を暖めた。また麦飯をガガ(お櫃)一杯に詰め、12時、3時と夕方帰る頃の3度食べて力をつけた。

【鉾突漁】海面からガラスがついた箱眼鏡で水中を覗き、船上から長柄の鈎や鉾を操って海底の獲物を取る漁法である。幸の浦の漁民は、昭和初期までは1~10月の期間、船に泊まり込みながら平戸島各地の漁場を移動して鉾突漁に従事したが、昭和初期には半月ぐらいを目安に家に戻るサイクルを取っていた。しかし平戸島南端の宮ノ浦では陸上に宿を取った。漁では妻が櫓を漕ぎ、夫が箱眼鏡を見ながら、女竹の長柄がついたアワビカギで鮑を起こし、サシボコと呼ばれる小型の鉾で突いて取った。鮑は鮑買いの商人に売ったが、行く先々で穀物などと交換する事もあった。

 度島本村では鉾突漁は島の周囲だけに限って行われてきた。漁期は、昔は12月頃から春にかけてだが、現在は長崎県の規則で鮑の産卵期を過ぎた12月21日から4月一杯までと決まっている。その日毎に出漁する海域は決められ、出漁の際は最近まで陸の狼煙の合図で一斉に出漁した。責任者は早朝から海象を見て、出漁の是非や、出漁する海域を決めた。漁では全長2尋程しかないイソモンデンマ(磯物伝馬)に1人で乗り、左手で櫓を漕ぎ、口で箱眼鏡をくわえ、右手で鉾を操った。昭和30年代には船外機が導入されて漁場への行き帰りは楽になったが、操業の間は櫓漕ぎだった。主な対象は鮑だが栄螺や海鼠も取った。漁獲物は、以前は売りに行ったり商人が買いに来ていたが、その後組合が集荷して売り捌くようになった。

 

2.釣り

釣漁には一本釣と延縄がある。釣漁は各漁村で普遍的に行われたが、以前は消費地である平戸や田助、日ノ浦に近い場所が盛んで、それ以外では加工して付加価値があるイカがよく釣られていた。釣りや定置網の主要な漁獲物であるイカにはいろいろ種類があり、舘浦では、ヤリイカは通年取れるが3~4月が盛漁期で、スイリイカはヤリイカの型が大きいものを指し、ケンサキイカともいい、ブドーイカはスイリイカの漁期の終わり頃(5~6月)のものを指す。ミズイカは周年取れるが5~6月と10~12月がよく取れる。ササイカはフユイカ・コヅメイカともいい1~2月に取れるが、最近はあまり取れないという。スルメイカはガンセキとも言い、年末から年明けにかけて多く取れる。『大島村郷土誌』には「夏イカは昔より鯣に製したれ共、冬イカは以前は其のまヽ食用に供するのみなりしが、神戸屋貞七氏は支那が盛に需要しつヽあることを知り、今より五十四、五年前冬イカをも鯣となし輸出せられしが其の結果良好なりしため、其後冬イカをも製造せらるヽに至れり」とあり、今日のように冬イカ(ガンセキ)がスルメの原料になったのは幕末~明治初頭期である事が分かる。大正4年(1915)に興った株式会社平戸海産商行では、五島や平戸で取れたイカを平戸松浦家秘伝の製法で加工した焙鯣「松風」を製造、全国に販売している(『平戸村郷土誌』)。

鮮魚の運搬は、船の推進手段が櫓や帆走などの人力、自然力に拠っている段階には範囲は限られていた。近世編で取り上げた、走りの鮪を江戸に早送りした例などは例外で、走りもの故の高値が前提でないと到底成り立たなかった。こうした状況が変化するのは、大正期頃に動力化した生け簀付き運搬船が登場してからである。

白浜では、『年輪』に掲載された川渕徳次郎氏(明治38年生まれ)の聞き書きによると、一本釣・延縄漁は大正時代に盛んになり、和船で的山大島近海まで出漁し、タイ、イカ、イッサキなどを釣っている。獲れた魚は家族の者が平戸や田平の他、北松方面に担い商いをして回った。

【一本釣り】動力生け簀船の登場以降盛んになったのが、平戸島南端、宮ノ浦の鯛釣漁である。産卵のためシモに行った鯛は春先にカミに向かうが、3月末には五島の玉の浦や崎戸辺りに居て、その後宮ノ浦沖のシジキドウと呼ばれる海域に上ってくる。春の桜の季節に来て鮮やかな朱色をしているので桜鯛と呼ばれ、宮ノ浦沖では生月島、宇久島の南の古志岐島、江ノ島、帆上島、志々伎山にかけての海域が漁場だった。

宮ノ浦の元々の居住者は4~5戸だと言われている。かりに鯛を釣っても鮮魚のまま消費地に運搬する手段が無かったから漁村にならなかったからだ。宮ノ浦に生簀付き動力運搬船が登場するのは昭和初期頃とされ、仲買人が買った鯛を運搬船で長崎、唐津、福岡に出荷するようになると、上り鯛の季節には紀州、伊予(愛媛県)、山口の沖家室、大分の保土島・佐賀関、天草などから一本釣漁民が、広島の豊島からは延縄漁民が出漁してくるようになり、昭和25年(1950)頃には500艘もの船で港はごった返すようになった。出漁漁民の中には地元の娘と縁付いて居着く者も出たが、次三男以下の分家も増え、第二次大戦頃には40戸程となり、今では100戸程になっている。

 昔は全長4~5尋のツリブネという櫓漕ぎの和船を用いた。昭和12年(1937)頃に電気着火エンジンが導入され、その後焼玉エンジンや、戦時中の木炭エンジンを経て、昭和25年(1950)頃からディーゼルエンジンが導入された。船体のFRP化は昭和40年(1965)頃に始まった。ツリブネでの漁は一本釣・延縄が主で、一本釣の最大の対象は春の上り鯛「桜鯛」だった。また昔は夏場にはイッサキが、10~11月には鰤が釣れたが最近はあまり釣れない。

鯛釣の仕掛けは俗にテンヤ釣りと言い、道糸の先に10~18匁の丸い錘を付け、それに活き海老を餌とした釣針を2本付けた。鰤釣では道糸にはビシ(鉛錘)を付け、17号の釣針を一本だけ付け、疑似餌やブドウイカ、泥鰌を餌にした。活き海老は、晩に海底が砂地になっている海老の網代をエビコギ(海老引網)して取り、船の活け間に生かしておいた。ブドウイカは冬場にイカ釣りの漁師や定置網から買った。

【延縄】延縄は、数十から数百の釣針付きのエダヨマ(枝糸)をつけた長いミキヨマ(幹縄)を海中や海底に延ばし、一度に沢山の魚を釣る漁法である。しかし餌や準備、引っかかったときの処理に手間がかかった。舘浦には明治34年(1901)頃に天草から延縄船が100統あまり遠征してきていたという(『長崎県鰯網漁業大観』)。宮ノ浦では昔は1艘に2~3人が乗り込み、コシキ4~6鉢を積んで漁を行い、3月頃には鯛、10月以降の冬場に河豚、10~3月に鰤を取った。薄香浦でも鯛延縄が盛んで、当初は全長4尋の櫓漕ぎのテンマで生月島沖までの範囲で操業していたが、昭和初期には動力付きの阿波船型の漁船を使った遠洋延縄漁に発展し、五島沖の高麗曽根や男女群島、壱岐・勝本沖の鰹曽根まで出漁したが、昭和30年代には㌧数が20㌧に達し、薄香船の名は優秀な延縄船として知られるようになった。

 昭和40年(1965)頃の薄香の20㌧形延縄船では、船主は船と延縄一式を用意した。10人程の乗組員は船長(船主が兼ねる事が多い)、機関長、油差し(機関士見習い)、一般乗組員、ご飯焚き(見習い)などで主に親類から雇った。給料は利益から経費を差し引いた残りを人数で割った。一般乗組員は1人前、機関長や雇われ船長はそれに2~3合増し、ご飯焚きは1年目にはハンマエ(半人前)だった。なお船と延縄一式も各1人前と勘定した。この延縄船で五島南部まで一本釣に行く事もあったが、その際には道具は各自持ちで、船全体の漁獲を合わせて経費を差し引いた残りを分配した。延縄のミキヨマは、昔は苧を撚り、エダヨマは蚕の糸を撚って作った。ミキヨマには7尋間隔で4尋の長さのエダヨマが付き、エダヨマの先には1尺のスジと釣針が付いた。縄はコシキという竹で組んだ容器に針を掛けて納められるが、コシキ1鉢に40~50の釣針が付き、手漕ぎ船の頃に10鉢程、遠洋延縄の頃には20~30鉢積んだ。コシキ2~4鉢おきに浮桶(樽)を付け、ミキヨマには所々テイシという錘の石を巻き付け、縄の端に碇を付けた。鯛縄の餌はイカで地元のイカ釣漁師から購入した。昔は鯛の時期には薄香にアカシセン(明石型の鮮魚船)が買い付けに来ていた。遠洋延縄の頃は3~4日連続操業し、餌が無くなると博多や長崎などに入港して漁獲物を上げた。

 

3.小網

【刺網】刺網は、海中に壁状に網を張り、網目に掛かった魚介類を取る漁法である。現在は、岸から500~1500㍍の共同漁業権内は磯建網(かし網)といい組合員なら誰でも行えるが、それより沖は沖刺網といい県の許可が必要である。磯建網は昔から各地で行われた。平戸島南部では近年、ヒラメやウチワエビが刺網で漁獲されている。

 高島の磯建網では、1~2月には鯛・黒魚・石鯛、3~4月は鯛・ヒラメ・イッサキ、5~6月はイッサキ、7~8月はバリやハマチ、7月末~10月は伊勢海老、10月~年末は鰤(最近は少ない)が獲れ、アラカブ・黒魚・石鯛は周年獲れる。昔は一本釣で使う全長4~5尋の和船を漁に使った。網の材料は、昔は紡績(綿)や麻だったが、昭和25年(1950)頃にアミランが、昭和50年(1975)頃には人造テグスが導入された。アバ(浮き)には昔、桐や漆が使われたが、昭和30年(1960)頃からは浮力が強い合成アバが使われるようになった。アバの数は浮力に関係し、網の張りやたるみに関係しているため、漁種によって変える必要があった。錘は当初焼石だったが、その後鉛が使われるようになった。

  網丈(高さ)は海中に入れると潮の引っ張りなどで1/3程になるため高いほど良かったが、高い網ほど流されやすくもなる。現在は県の許可で、沖刺網の丈は3㍍までとなっている。また一重網と三重網があり、三重網は両側の外網の丈を絞って中網をたるませて魚が掛かりやすくしている。網の長さが長い程獲物が掛かる訳だが、その分瀬に引っかかりやすくもなり外す作業が面倒になる。伊勢海老漁は特に瀬の上でやるので引っかかりやすく、網の長さは1000~2000㍍である。

  網は普通夕方に入れて朝までに上げる。特に日没後3時間が勝負でその間に一度上げ、その後もう一網入れる事もあるが、その時は一度目の1/3も取れない。しかし夜に泳がない鰤の場合は朝に網を入れ、夕方に上げる。魚は潮が流れる時に動くので、網が真っ直ぐ立っている潮だるみには掛からない。

 鰤建網も大正~昭和初期には盛んに行われ、大正時代の郷土誌によると、生月島に30張(大正6年)、平戸村に18張、獅子村に5張が確認できる。

【船引網・船曳網】船引網は一地点にいる対象を網で囲んでから船上に網を引き上げる漁で、船曳網は袋状の網を船で曳航して、中に入った対象を取る漁である。

秋に取れるアゴ(飛魚)は、江戸時代から昭和30年代までは船引網で捕獲された。江戸時代からアゴの主要漁場だった平戸瀬戸に面した白浜では、明治時代に3、大正時代に2統のアゴ一艘引網が存在し、網元が漁獲の3割を、網子が7割を取った。なおアゴ網には多くの人手を要したため従来の網を捨て、2~3人で操業できる川内のサヨリ網を改良したものを用いたが、海上交通の頻繁な平戸瀬戸での操業は難しく、黒子島より沖合が漁場となっていたという(『年輪』)。平戸瀬戸に面した田平町生向でも一艘船引網でアゴを取っていたが、この一艘船引網の形態がサヨリ網起源の漁法だろうか。

江戸時代の後にアゴの漁場となり、こんにちも漁が盛んなのが、生月島島東側の海域(生月湾)を中心とした漁場で、昭和初期の舘浦では二艘船引網漁が行われている。早朝、スラという船を載せる台を片づけたり用意したりする役の子供達が乗組員を起こして回り、2艘のテントブネに船頭、オモテ役、ワッキャシと呼ばれる者達が各々7~8人程乗り込み、4丁櫓を押して出漁した。漁場は辰の瀬戸から壱部浦にかけての海域だが、風向きによってアゴが吹き寄せられる海域が異なるため、船頭の采配でその日アゴが集まっていそうな海域を目指した。アゴが集まる海域に着くと、2艘の船がアゴを囲むように綿糸網を入れた。入れ終わると各船から1人が海に入り、泳ぎながらアゴをミトアミ(中心の袋網)の方に追い立て、船上からもオモテ役が石を投げたり、ヤナザオ(白いトベラの木の板や白布を付けた竿)で水面を叩いてアゴをミトアミの方に追い立てた。網が反対側で合わさると綱をたぐってミトアミを上げアゴを取った。一網で多い時は一斗入りの検知枡で7~8杯のアゴが取れる事もあったが、多い日には夕暮れまでに50回程も網を入れるため、乗子は櫓漕ぎも含め大変な重労働で、ガガという弁当箱に一杯御飯を詰めて持っていった。

 取れたアゴは賃金としてその都度分配された。乗組員1人宛1人前が渡され、別に、網を出しているアミシに10人前、船の所有者に1艘宛1人前の権利があり、さらにスラの上げ下げを頼んでいる子供達にまとめて1人前、泳いでアゴを追い込む役の者には1合前(0.1人前)が追加され、それらを足した合計で取れたアゴを割って分配した。分配されたアゴは各家で加工した。

スラ上げの子供達は、追い込む際に投げ込む石を拾って集める役割も担った。アゴ網でヒウオ(シイラ)が取れた時にはそれを肴にアミシの家で乗組員が晩に一杯飲むのが好例だったが、その時ハラベ(腹身)の切り身を2~3切れ、お稲荷さんに詣って供えるのも子供達の役目だった。その時は「突いたり引いたり朝出がけ、中魚金山(共にシイラの事)混ざり、船一艘突きもん十んばかり、サイ(イトマキエイ)四五ん枚、浦中一番の大漁をさしておくれまっせ。○○網、明日からぼっくりぼっくり」と唱えた。

 しかし遠洋旋網が盛んになってくると人手の確保が難しくなり、昭和30年代後半には、網船のテントブネにチャッカエンジンを載せ、漁場まではエンジンで向かうようにして乗組員の負担軽減を図った。さらに昭和40年代には小型動力漁船1隻で袋網を曳航し溜まったアゴを取る形の一艘船曳網が登場し、程なく今日と同じ小型動力漁船2隻で網を曳航する二艘船曳網の形に変わったが、これだと人員は4名(現在では2名)いるが、網口を広げる事ができた。

こんにちの二艘船曳網では漁期の間、朝は6時出港、夕方は5時までに帰港という取り決めで、一回2時間以内を目途に曳いた(あまり長く曳くとアゴが傷むから)が、引き上げたアゴはイケマに氷を入れてヤケるのを防いだ。良い日には一ケ統でトロバコ300箱ほど上げる事もある(一箱11キロ程、250尾程が入る)。アゴはサイズを揃えて出すと値が上がるという。

昔はアゴ漁のシーズン後にシイラ漁が行われた。明治16年(1883)制作の『北松浦郡村誌』によると、生月村で15,000斤、山田村で17,000斤ものシイラが水揚げされている。当時のシイラ漁はおもに一艘船引網で行われたが、テントブネに7~8人が乗り込み、5挺櫓を押してシイラの群れを追い、網を張り回してから引き上げて捕獲したが、多い時には1日で7~8回も網を入れ、一網で3~3.5㌧も揚がる事があった。アゴのように二艘でしないのは、シイラはアゴと違って群れをなすため、小さな網で迅速に囲む必要があったからだと思われる。特に大事なのはシイラの群れを見つける事で、メギキ(目利き)と呼ばれる視力に優れた人を雇い、シイラが飛ぶ(水上を跳ねる)様子から群れの進路を予想した。特に大きな群れを見つけた人は「ミテブネ」といい、取れたシイラの中から大きいものを1尾貰うことができた。網を入れると、網と船の間に延びた縄に若手がかがりつき、手で海面を叩いてバシャバシャいわせ、船上からも石を投げ込んで群れが網から逃れるのを防いだ。

 一艘船引網当時、壱部浦のシイラ船では出漁時「アトトアサデガケ、ヒウオカナヤマフネイッピャー(船一杯)、ツキモントンバカリ(突物十ばかり)、サエシゴンマイ(4~5枚)、ポイエビスサマー」と唱えて大漁を祈願した。ヒウオやカナヤマはシイラの事だが、ツキモンとは鱶やバショウカジキ、サエはイトマキエイの事で、シイラ網ではこれらの魚も一緒に入る事があった。昔は取れたシイラは鮮魚で出したり、半切桶に入れて2~3日塩漬けした後干して出荷したが、特に伊万里方面ではシイラの漁期が秋の祭礼の時期と重なるため多くの需要があった。生月島でもオクンチの宴席の刺身としてよく用いられたが、壱部浦では「白山様のお祭りの時(旧9月9日)にはヒウオは少なかが、住吉様の時(旧9月13日)にはヒウオが良く取れる」と言われた。なお生月島では、シイラの刺身は味噌をつけて食べるとされている。塩干ししたものは、正月にニワ(土間)にかけるシャーギ(幸木)の魚として用いたが、シイラの塩干しは3~4月頃まで茹でて軟らかくして食べられた。また内臓を塩漬けしてつくる塩辛は絶品とされる。シイラ漁は戦後には動力船が導入され、1970年頃まで行われて終わるが、その後は大規模定置網による漁獲が主になっている。

【ごち網】網を回して引き上げ、海底の獲物を取る船引網である。当初は櫓漕ぎで網を上げる手引きごち網だったが、後には動力で揚網するローラーごち網となり許可制となった。平戸島では木ケ津や前津吉で古くから行われ、度島、宮の浦、高島などにも導入された。

木ケ津の手引きごち網は、地先の水深20㍍以内の底に引っ掛かる石がない砂底の海域が漁場だった。漁期は3~12月終わり頃までだが、櫓漕ぎの頃は漁に出られない日も多かった。トキビキといい朝晩に魚が岸近くに寄ってくる時に操業した。綱と網を含めた全長は60~70間あり、網の高さが5間、中央の袋網の奥行きは5~6間ある。網はシロアミといい染めないままの綿糸で作った。全長5尋の和船1艘を4丁櫓で漕ぎながら、最初に浮樽を放り込み、シラツナと呼ばれるロープ、手網、袋網、手網、シラツナと円を描いて入れていき、最初の浮き樽のところに戻ると、両端を引いて網を上げた。シラツナには藁束を吊ってあり、綱を引くと上下するので、魚は驚いて袋網に入り込む仕掛けになっている。取れた魚は、活魚はイケマに入れておいて後で仲買に売ったが、その他は女の人がバラテボに入れて周辺を売って回った。

 

4.定置網

【大敷網】大規模な定置網の漁法には、明治時代には引き続き大敷網が用いられている。18世紀後期の鮪大敷網は、海岸と並行方向に網口を向けたちりとり形の本網と、その網口の両側に開くように(ハの字形に)付く袖網からなるが、明治31年(1898)に平戸島白石に設けられた大敷網の図面では、本網に付いた陸側の袖網は海岸に接し、沖側の袖網の先にはもう一つ網口が設けられていて、その両側にも袖網があって、陸側の袖網は海岸に接しているため、外側の網口を閉ざすと魚群は閉じ込められ、本網に追い立てる事ができるようになっている。外側の裾網などは藁縄で作られていたが、本網には苧縄で作られている部分もあり、浮きも木は用いず竹を束ねたものになっている(「北松浦郡中野村字白石鮪網代取調書」)。明治34年(1901)『第五課事務簿』所収図には生月島東岸から平戸島の白石にかけて、本(元)浦、加瀬川、正前、松本、前網、後網、白石の鮪網代(定置)が描かれている。また田平村の長戸にも明治41年(1908)に鮪大敷網の漁業権が設定されている(『田平村郷土誌』)

なお明治25年(1892)には宮崎県の日高亀市が、本網を苧製にして規模を大きくした日高式大敷網を発明して大幅な漁獲の向上を見ており、高知県や富山湾では同網の導入が定置漁業の大きな画期となっているが、平戸市域では同網が導入された状況は今のところ明確でない。

【大謀網】大敷網の課題は、不確定な魚群の進入に対処して、網口を閉鎖する大きな口網を上げるためには、常時多くの網子を待機させておく必要があった事だが、その課題を克服するために導入されたのが大謀網である。大謀網は江戸時代、三陸沿岸で発達した大網の系統をひく漁法で、袖網の代わりに海岸から延びる長い道網を持ち、その先に楕円形や四角形の袋状の本網が付く。道網との接続部分に入口があり、道網伝いに回遊してきた魚群が進入すると口網を上げて入口を閉じ、魚群を閉じこめた後、適宜網をたぐって獲物を取るようになっている。大謀網の入口(口網)は小さいので、常時待機させておく網子は少なくて済んだのが経営面の利点だった。平戸地方における大謀網の導入・普及時期は明確ではないが、明治の終わり頃から大正にかけての時期と思われる。

平戸島における大謀網の例として前津吉の大羽鰯大謀網がある。『平戸中南部史稿』によると、昭和元年(1926)宝亀出身の石田八之丞が船木に敷いたのが始まりで、青崎寛重、青崎省三、大畑長八の諸氏も参入したが、昭和17年(1942)操業を終えたとされる。昭和16年(1941)頃以降、大羽鰯は不漁となるのでその影響を蒙ったのであろう。

この大謀網は「越中敷」とも呼ばれ、富山県から指導員が来ていたという。道網の先に横長長方形の本網があり、道網の付け根に入口があるが、入口の両外側にソデという斜めに開いた網が付き、鰯を本網に誘導した。本網は綿糸、道網とソデは藁縄で、ガワバリ(本網を張る外枠)の浮きは束ねた竹、本網の浮きは桐の木で、網を固定する碇は石を入れたカマスを何袋も束ねて使った。鰯大謀網はアミダンナン(網旦那)が経営し、15人程の乗子は月幾らで雇われた。網代は前津吉の地先に8カ所ほどあり毎年漁協の入札によって場所を決めたが、漁場の善し悪しで金額が上下した。網作りなどの準備は夏から始まり、正月明け頃にシキコミとなる。シキコミ前に納屋でカカリゾメという宴会をやり、凪だと4~5日でシキコミを完了して操業となる。漁期の終わりの撤収も同様の日数を要した。

 漁期中は毎朝網を上げた。全長7尋で3丁櫓のアミブネに12人が乗り込み、全長5尋で3丁櫓のクチキリブネに3人が乗り込んだ。まずクチキリ(口網を上げる)をして、その後アミブネで本網を手繰ってイオドリに集めて上げた。大漁の時は昼までかかる事もあり、網旦那が昼食に握り飯を出した。大羽鰯は大半を鮮魚で出荷し、雇った運搬船や自船で長崎や相浦の加工場に運んだ。またメゴウリといい、前津吉の女の人が籠に入れて小田町や田代町の方に売りに行った。

【落網】こんにちの大規模定置網の代表的漁法である落網は、道網の先に魚が溜まる運動場という空間があり、その横の本網への入口に登網という漏斗状になった網を持つ。登網を通って中に入った魚は、本網内では側壁伝いに泳ぐため、突出した登網の出口から泳ぎ出る事は無い。そのため中に入った魚群を定時に上げる事ができるようになり、経営面の効率化が可能となった。落網の原型は幕末にはあったとされるが、普及したのは大正末から昭和初期にかけてで、生月島では昭和5年(1930)頃に富山の業者の指導で導入されたとされる。しかし昭和14年(1939)頃に鮪が大漁となった時には、鮪漁に有利なように一時的に大謀網に戻る漁場も多かった。定置網の網船は漁場が岸近くのため、戦後も櫓漕ぎのままで、動力化するのは昭和40年代以降だった。

  平戸市域では現在、生月島東岸から平戸島北岸、度島西岸などの生月湾沿岸、白岳半島周辺、平戸島中部西岸の獅子などに落網が設置され、一網で年間数千万から億単位の漁獲を上げる網もある。獅子には以前他所から大型定置網業者が入漁しており、昭和30年代後半には五島・三井楽の業者が落網を行い、その後昭和40年頃には地元の鰤建網業者の反対を抑えて、この業者と漁協が折半する形で落網を行ったが、豊漁に恵まれたため漁協が単独で運営するようになり、現在も漁協収入の大半を占めているという。

 なお昭和20年代の生月島の定置網では多くの島外網子が働いていた。定置網も遠洋旋網に人員を取られて人手不足が深刻だったからだが、島外網子の殆どが佐賀県唐津市波戸の出身で、他に神集島、湊、高島などからも働きに来ていた。生月島に行く契機は先に働いていた者が学校を出た者に声を掛ける形が多かった。初めて生月に行く時には「行こうごとなか」と思ったが、生月の暮らしも結構面白く、2~3年行くうちに漁の始まりが待ち遠しくなったという。生月島の定置網のマエサク(前細工)は8月に入る頃からで、浮子の側竹、網、綱、沈子などを20日程かけて作る。ダイという一番奥の浮子は竹を180本束ねて直径1㍍程にしたものだが、これと2つのハサキの浮子はシーズン中は換えず、残りのガワバリの浮子は何回か換えた。昭和20年頃の本網は綿糸網で、マエサクで一度コールタン染めし、漁期中に何回か染めたが、それでも3年しか持たなかった。後には化繊網も入ってきて楽になった。道網は、当時は藁網で期間中に3回は新たに張ったが、その際古網は切り離して流れるに任せた。沈子は竹のビクに石を詰めて作るが、石は生月の人が集めた。盆は波戸で過ごし、早期の米を刈った後の17日頃「出船」といい生月島に出発するが、生月から網旦那(定置の経営者)が迎えの船を寄越した。出船の時は警笛を鳴らし、波戸のお宮の前で、大漁と無事を祈願して船を3回右に回した。また家族は波戸岬まで見送りに来た。

 生月島に着くと、良い日を選び「納屋入り」し、太鼓や芸者も呼んで盛大に宴会を行い、翌日から網入れなどで忙しく働いた。準備が出来ると操業を始めるが、その後は台風の時に休むくらいで、少々の時化なら揺れないように船にわざと水を入れて出漁した。毎朝5時に起床し、「朝もち」という朝の操業をするが、その前後に朝飯を食べた。海上で漁獲を運搬船に乗せて出荷してしまうと、陸に戻って一休みし、昼飯後の3~4時頃から「夕もち」という夕方の操業にかかった。そして7時過ぎに晩飯を食べて風呂に入った後は、遊びに行ったり思い思いに過ごしてから就寝した。沖の操業時間以外は、時たま網仕事がある位で、結構自由な時間があった。そのため正月前には請われて生月の家の餅つきに回った事もあった。正月も「初旅」という初参加の若者だけは波戸に帰ったが、他の者は休まず元日も働いた。正月に魚の売掛金の回収に回っていた時、生月の風習でお茶の中に餅を入れたのをふるまって貰ったが、それが何軒にもなり食傷した事もあったという。また様々な理由で貰った酒を取っておき、納屋でタルイレという宴会を時々行った。

 当時の定置網の漁獲は9月頃にアゴ(飛魚)、秋にヒウオ(シイラ)、冬から春にかけて鰤・ガンセキ・秋刀魚などだった。また生月島ではマンボウを良く取った。大きいのは四畳半くらいのものもいたが、生月では大変人気があり、おばさん連中が仲間買いして売って回っていた。波戸でもマンボウは食べるが、周辺の人は食べない。また波戸ではガメ(海亀)を好んで食べるが、生月でもよく定置網に入った。ある時ガメが入ったので早速首を切ろうとしていると、涙を流す様子を見て網旦那が「逃がせよー」と言った。生月ではガメは食べなかったからだ。それで網檀那に酒を一升出して貰い、生月の習慣通りガメに酒を少し飲ませ「祈大漁満足」の木札を付けて放した。しかしガメは再び網に入ったので、今度はさっさと引き上げて解体し、さっき貰った酒を飲みながらみんなで食べてしまったという。ガメはヒラガマで炊いて(煮て)食べるが、炊くとアブラが多く出てくる。特に好物にしている者は好みの部位を針金につけて釜の縁にひっかけ、頃合を見て引き上げて食べていた。温かいうちに醤油をつけて食べるが、特に冬は身体が温まった。ガメの百尋(腸)も食べた。卵はいくら煮ても固まらない。甲羅は田の苗や泥運びに使った。また鯨が入った事もあり、格子網という網目20㌢程のトワイン製の網を敷いて引き上げた。

  昭和20年代頃には一つの定置網で35人程が働いていて、役職に専長1名(給料2人前)副専長1名(同1.5人前)ジブネ船頭1名(同1人前)オキフネ船頭(同1人前)などがあった。給料は月給制で元は歩合と固定給だったが、後に固定給だけになった。網船は地側、沖側がおり各々6丁櫓9人乗りで、他にナガブネという船1艘に7丁櫓立てて12人が乗り込んだ。

 4~5月になるとキリアゲ(漁上がり)となり、網を上げ倉庫に入れて乾燥させた。宴会をした後、船で波戸に帰ったが、帰り船をアガリブネといいフラホ(大漁旗)を上げて波戸に入港した。その時はヨメゴ達が浜で米の握り飯を作って振る舞ってくれ、家に帰ると家族で宴会をした。そして田植えなどを片づけたという。

舘浦の影向松定置網ではシイラが多く取れる。普通の落網が道網の先の片側だけに一重ないし二重の箱網を置く形なのに対して、影向松の網は道網の左右に一つずつ箱網が付く「両箱」という珍しいスタイルを取っている。その大きな理由が表層を回遊するシイラを捕獲するためである。影向松定置網の北にある松本定置網も近年、片側二重箱網の形から両箱に転換してシイラの水揚げを伸ばしている。北風が吹くとたくさんシイラが取れるが、南西風に変わるとさっぱり取れなくなるという。

【枡網】枡網と呼ばれる小型定置網も各地で行われている。宝亀ではます網は昭和初期に相浦から導入されたという。沿岸の深さ20㍍程の浅い海に網代が17カ所ほどあり、毎年春に入札をして使用者を決める。岸から沖に延びた道網の長さは100~200間(約200~400㍍)で、岸伝いに回遊する魚を本網に誘導する。道網の先にある本網は幅が20㍍程の眼鏡形をしており、道網の付け根に口がある。本網の隅には袋と呼ばれる円錐形の網が付くが、袋にはカエラズがついていて魚が一度入ると逃げられないようになっている。以前は、網は綿糸だったので半月で取り替えていたが、今はナイロン製なので取り替える必要はない。石を詰めたカマスを碇にして網を固定し、浮きには、昔は竹束を使ったが、現在はプラスチック製の玉浮きを使っている。網上げは毎朝行う。昔はコブネと呼ばれる4~5尋の和船を2~3丁の櫓で漕いで網代に向かい、袋網を上げて魚を取った。様々な魚が取れるが、盆過ぎの北風が吹くと鯖が多く取れた。おもな魚は漁協経由で田平の市場に出荷した。一方雑魚は奥さんがバラでいなって川内在、木場町、紐差町、神鳥、深川など周辺の在(農業集落)に売り歩いた。

 

3.鰯網起源の網

明治初頭の平戸地方では鰯漁の生産品である干鰯(ホシカ)が確認出来るのは度島村と平戸村くらいだった。当時は八田網や縫切網、船引網、地引網で漁獲されたと思われる。【地引網】白浜では元平戸藩士で酒醸造業を営む篠崎家や金子家が地引網の網元をしていて、白浜の漁民が雇われていたという(『年輪』)。

【船引網】根獅子では砂浜の地形を生かし昭和初期以前に地引網が行われていたが、漁場が岸近くに制限される事や、岸近くでは網が潰れる事もあって、沖合での操業が可能な二艘船引網に転換している。

船団は全長6尋の網船2艘と4尋テンマ2艘で20人程が乗り込んでいた。夕暮れ時に湾内に入ってくるシラスの群れを魚影の輝きや色で確認し、沖から岸側に向かって両側に網を下ろす。当初、網の袖側にテンマで仕切網を張って群の逃走を防ぎ、網裾を取り込む段になると撤去する。網船ではカグラサンで巻いて網を上げた。取れたシラスはテンマに積んで港に運んだ。収益は、利益が入る毎に旦那(網主)が5割を取り、残りを船の借り賃も含めて人数割りの賃金にした。

【八田網(八駄網)】光で集めた鰯を四角の網ですくい上げる漁法で、江戸時代から盛んに行われてきた。明治35年(1902)頃には平戸村内に4統の八反(田)網が経営されていた(『長崎県鰯網漁業大観』)。大正7年(1918)には志々伎村で1統があり(『志々伎村郷土誌』)、「平戸地方の漁村と漁村問題」(1951)によると、明治35年(1902)黒島や薄香の漁業者が生月島に八駄網で入漁したのが生月島における鰯漁の始まりとされている。ただ各地の八駄網の中には形状の特徴が後述する縫切網に酷似するものがあり、名称のみで漁法を判断するのは注意すべきである。

【縫切網】縫切網(ニキリアミ)は、八田網形の本網の一辺に二枚の袖網(荒手網)を付け、裾網を広げて鰯の群れを本網に誘導するようにした漁法である。網が簡便で取り扱い易いため、平戸地方では巾着網の導入後も、巾着網をする程の漁獲が無かったり、潮流などの操業条件が悪い漁場で行われた。大正時代には平戸村に9張が存在し(『平戸村郷土誌』)、昭和20年代頃には同村の田助に大型2、小形2、幸の浦に大型5、小形4、白浜に大型2の縫切網が存在し、舘浦には22統が存在した(『長崎県鰯網漁業大観』)。生月島では昭和30~40年代頃まで縫切網が行われたが、遠洋旋網(巾着網)を引退した者による「隠居仕事」の観が強かったという。

 戦後直ぐ川内浦で行われていた縫切網は、網主が網子を雇って行う形態だった。船団は網船2艘(各7人乗)、曳船2艘(各1人乗)、灯船2艘(各1~2人乗)からなるが、曳船はチャッカエンジンを搭載して積船を兼ねており、また灯船は和船で灯火用のバッテリーを積み、漁の采配も灯船から行った。平戸瀬戸を通るのに潮時が良い時には、的山大島の沖まで出る事もあったが、大抵は地先で操業した。日没とともに曳船が各船を曳航して出漁し、漁場に着くと灯船がライトをつけて集魚した。夜12時頃に1度目の投網を行うが、群れが大きい時には2艘の灯船が別々に集魚し、夜明け前にもう一度網を入れた。取れた鰯は白浜の製造業者に売ってから帰港した。収益はヒトヤミケイサンといい新月毎に計算し、経費を差し引いた収益の4割は網主が取り、残りを乗組員の頭数で割った。

南田平村では大正時代に鰯縫切網の操業が認められる(『南田平村郷土誌』)。聞き取りでは生向に網元が3軒あり、網元がイリコ(煮干し)の製造もしていた。まず灯船が出港し、夜集魚灯を焚いて鰯を集め、集まった所で合図を出して網船が出た。漁獲対象はエタリで、梅雨時期のものは小さくシラスと言って一番良い製品になるが、天候によっては上手く乾燥できない事もあった。その後夏、秋と次第に成長し、10月頃までが漁期だった。沖から漁獲を運んでくると陸揚げして煮た。釜に海水を入れて煮て、煮上がったものはやぐら(竹で作った張り出し)を組んで干した。製造は大体家族で行い、子供も夏から秋にかけては夜中、製造を加勢していたので、昼間、学校に行くとよく居眠りをしていたという。もともと製造納屋は白浜にあり、生向に納屋が出来た後も大漁で捌ききれない時は白浜に持っていった。出来たイリコは商人が買いに来た。昭和40年代にやまった。

【大羽鰯刺網】鰯の成魚である大羽鰯は冬場に回遊してくる。生月島では1月中~下旬にかけて島の前目に到来する鰯をセキイワシ、2~3月にかけて島の後目で取れる鰯を彼岸鰯、3~4月にかけて五島沖で取れる鰯を春大羽と呼んだ。大羽鰯漁は大正時代に盛んに行われ、郷土誌では平戸村で(掛網という表記で)30張、獅子村で14張、津吉村で5張、志々伎村で20張、生月村では69張が確認される。

生月島の大羽鰯刺網船には10人程が乗り組んだ。10月頃には山口県北部の仙崎に進出して大羽鰯を取り、その後蓋井島、カジメ大島(筑前大島)、的山大島、生月島、宇久島・小値賀島と南下する大羽鰯の群れを追って漁をした。このように遠方出漁するため、刺網船は大正中期にいち早く動力化されている。柴田市平氏の回想によると、昭和初期の生月島の刺網船は25~30馬力の焼玉機関を搭載し、阿波船型、出雲船型の船形をしていたという。また平戸島北部の幸の浦でも昭和初期には大羽鰯の刺網が行われていたが、昭和15年頃に石川県から出漁してきた刺網船の影響を受けて動力化し、昭和30年(1955)頃にも30隻を数える鰯刺網船が居たという。刺網で捕獲した大羽鰯は、一部は鮮魚として仲買業者が買い付けて運搬船で市場に出荷したが、残りは魚油を製造し、絞り滓(シメカス)は肥料として出荷された。

【和船巾着網(改良揚繰網)】鰯漁に革命的な変化をもたらした漁法が巾着網である。原型はアメリカから導入された、魚群を取り巻くように投網し、まず網底を通っているロープを巻き上げて底を巾着のように締めて、文字通り一網打尽にしてから網を上げる、極めて効率が高い網漁だった。

千葉県の千本松喜助は明治21年(1888)巾着網を鰯漁に適した形態にした改良揚繰網(和船巾着網)を考案して各地への普及に努めている。生月島舘浦では明治38年(1905)ないし39年(1906)に峯寛次郎が千本松氏の指導を受けて和船巾着網を導入したとされる。同島壱部浦では明治41年(1908)に大川鉄蔵が導入したという(「平戸諸島の漁業と漁村問題」)。大正5年(1916)の生月村内には揚繰網が23統存在し鰯漁の主力をなしている(『生月村郷土誌』)。また平戸地方の他の地域にも導入され、大正時代の郷土誌では平戸村内に1張、獅子村で7張が確認できる。なお大正中期には大羽鰯刺網を行う漁船の動力化がいち早く進んでいるが、生月島の和船巾着網では大正7~8年頃に刺網船をコギブネ(曳船)にして漁場までの移動を軽減するようになっている。

的山大島では大正7年(1918)には16統、昭和20年代に12統(うち5統が的山)の和船巾着網が存在した。経営者の多くは個人網主で共同経営のものもあったが、漁獲の取り分は経営者と乗組員が折半だった。網子は漁民と農民が4:6の割合で伊万里や外海地方、平戸島の幸の浦からも雇用していたという(「平戸諸島の漁村と漁業問題」)。神浦の和船巾着網では朝、港に帰ると農民の乗子は家に帰るが、漁師の乗子はナヤオリ(納屋居り)といい、魚を上げたり出荷の積み込みをしたり、網の修繕などをした。他所の巾着網が出漁してくる事もあり、佐賀県玄海町外津の巾着網船は田平を根拠地にして的山大島北側で操業している(『玄海町史』)。的山大島の和船巾着網は近海に好漁場があったためか網船を動力化した遠洋旋網への転換が進まず、昭和28年(1953)頃から始まる鰯の不漁によって姿を消している。

昭和初期の幸の浦の和船巾着網は、ダンベ(団平)と呼ばれる全長8尋の網船が2艘(各15人乗り)、灯船の5尋テンマが2艘(各2人乗り)、運搬船の6尋のテントブネ1艘(4人乗り)からなり、それにコギ船という曳航用の動力船2艘が付いた。日没とともにコギ船に曳かれて出漁し、漁場に着くと、灯船が明かりをつけて鰯を集めた。鰯の数が多い時には、別々の場所でそれぞれ明かりを付け、順次投網した。最初の投網が午前0時頃で、多い時で朝まで3度程網を上げた。取れた鰯は白浜などの加工業者に売った。トリマエ(収益)は、利益から経費を差し引いた残りの内、アミシ(網主)が船・網代込みで6割、残りを乗子の頭数で均等割りしたが、船頭は何割増しにした。また青年会に入っていない若年は「八合取り」と言われ、一人前の8割しか貰えなかった。田平村にも大正時代、和船巾着網が1統存在した(『田平村郷土誌』)。

 大正時代の鰯漁の活況には、イリコ(煮干し)製造という加工技術の導入が大きな役割を果たしている。鰯は当初は海岸に広げてドボシ(土干し)して肥料となるホシカ(干鰯)を作っていたが、肥料なので販売価格はそれ程高くなかった。生月島では大正3年(1914)に舘浦の近藤平重氏によって三重県からイリコ(煮干)の製造技術が導入されたが、イリコは高く取り引きされたため相対的に鰯の魚価も上昇し、製造業者も兼ねた鰯漁事業者や従事者の経済状態は良くなった。そのため大正5~6年には、生月島の街路に当時高級品だった羊葵の包み紙が沢山転がっている「羊蘂青年」という言葉が生み出される程の好景気が出現している。舘浦では冬~春期は大羽鰯から魚油と締滓を製造し、夏~秋期は小中羽鰯からイリコ(煮干)を製造する製造業が盛んで、潮見地区には製造納屋と煉瓦煙突が林立していたが、納屋の従業員には平戸島のシモの方からも大勢働きに来ていた。大島の神浦にも湾口沿いに20軒ほどの製造納屋が並び、巾着網の鰯を買ってイリコを製造していた。なお生月島の刺網船が入漁していた頃には大羽鰯を仕入れて魚油や締滓も製造していたが、生月島に製造納屋が出来ると上げなくなったという。

【遠洋旋網(動力揚繰網)】長崎県における動力船による巾着網(揚繰網)操業の始まりは、大正11年(1922)の県水産試験場の長洋丸の導入からだとされ(「長崎近代漁業発達史」)、平戸地方では大正5年(1916)に田助の永山佐平次が片手動力揚繰網の操業を開始したとされる。生月島では壱部浦の井元米吉が大正14年(1925)に動力網船.長生丸(13㌧、焼玉30馬力)を就役させ、11月に五島灘での鰯漁を、翌年1月に生月湾内での大羽鰯の漁を行い、成功を収めている(『長崎県鰯網漁業大観』)。従来刺網で捕獲されていた大羽鰯は、灯火には短い時間反応するだけなので、和船巾着網の櫓漕ぎのペースによる遅い投網では捕獲出来なかった。そのため巾着網による大羽鰯の捕獲には、素早い投網のための網船の動力化が絶対条件だった。また和船巾着網時代の曳船にかかる経費(傭船料)も嵩み、網船を動力化することでそれを節約する意図もあったとされる。網船の動力化のためには常時停泊出来る港が不可欠だったが、大正期の舘浦は浅い湾入の砂浜で、荒天時には薄香湾に避難しなければならなかった。そのため舘浦では大正9年(1920)に大波止の建設に着手し、大正15年 (1926)に第1期工事(本波戸)が完成し、昭和6年(1931)には第2期工事(受波戸)が完成した。これによって動力船の常時停泊が可能となった事が、その後の旋網漁業発展の礎となった。なお舘浦大波戸の築造は各地の漁民に影響を与え、見学も多く行われ、各地で波戸の築造が企画されるが、その際には生月島の積石工業者が招聘される事も多かった。

長生丸の成功を契機に、生月島の壱部浦・舘浦、的山大島、度島、幸の浦、薄香、川内、前津吉などで網船動力化の動きが起きる。なお和船巾着網の操業を維持するために動力揚繰網による小羽鰯の漁獲は禁止されている。しかし昭和16年(1941)以降は大羽鰯が不漁となり、多くの動力揚繰網が撤退し、さらに鉄船化・大型化に拍車がかかった昭和30年代迄に、生月島を除くと潮ノ浦に小巾着が残るだけとなっている。

初期の旋網は網船一艘が網を張り回す「片手廻し」の形で、船団は動力網船1隻(20㌧、焼玉30馬力)、灯船2艘(5尋テンマ、櫓漕ぎ)、デッコ母船1艘(10尋団平、櫓漕ぎ)で編成されていたが、網船は他の無動力船を漁場まで曳航していく曳船の役目も果たした。デッコ母船には従来の和船巾着網の網船を用いたが、動力網船が網を張る際の起点にもなり、漁獲の積載にも用いられたが、漁獲が多い冬の大羽鰯漁ではさらに替えの母船を曳航していく事もあった。この段階では船団は1日の漁を終えると漁場近くの根拠地に入港し、漁獲を水揚げしており、それを別経営の運搬船が消費地まで運んでいる。昭和4年(1929)には生月島の片手廻し船団は30統を数えている。

 多くの資本を要する動力網船を有効に活用するためには周年操業を成立させる必要があった。そのため鰯以外に昼間の鯵・鯖などの魚種も対象に加えるようになっていく。昭和7~11年には秋の鯵・鯖の浮遊魚群を昼間に捕獲するため、素早く網を張り回す必要が生じ、片手回しから動力網船を2隻にした「両手廻し」の形に移行していく。昭和10年代の生月島の両手廻し船団の編成は、網船2隻(20~30㌧、焼玉50~60馬力)、灯船2艘(5尋テンマ、櫓漕ぎ)、中取り船2隻(19㌧、焼玉)からなる。灯船は相変わらず網船に曳航されて漁場に向かうが、中取り船は動力による自力航行能力を持ち、最寄りの港まで漁獲を運搬できるようになった。なお冬場の中心的漁だった生月近海のセキイワシ漁は昭和14年(1939)の大漁をピークに下降線を辿り、昭和17~8年には全く取れなくている。そのため冬期の漁を他に求める必要が生じた。

そうしたなか○ヨ大福丸が昭和19年末から翌20年頭にかけて対馬に進出して寒鯖漁を行い、戦後の対馬寒鯖漁への呼び水となった。しかし昭和20年には多くの動力網船が軍に徴用され、終戦時地元に残った船団は2カ統だけだった。

 しかし戦後徴用を解除された船が戻るといち早く船団は再建され、昭和20年末からは12~2月の対馬近海の寒鯖出漁で大きな成功を収めている。その段階では昼間の浮上魚群を対象としていたが、昭和25年(1950)に昼間の浮上群が全くいなくなり、漁が出来ない状態となる。その時効力を発揮したのが導入され始めていた電探(ソナー)だった。電探の導入は生月では○ヨ大福丸が最初だが、これによって夜間の電探操業による漁が可能となった。同じ時期に無線も導入されたが、旧海軍で潜水艦探知や無線の任務に就いた者が役に立った。また昭和25年(1950)には舘浦の大栄丸によって化学繊維であるアミラン製の網が導入されている。当初の化繊網は柔らかい、軽いなどの欠点があったが、その後の改良で欠点は克服され、網の管理に労力を費やしていた漁民の負担を軽減している。

 電探導入によって船団編成も変化している。昭和20年代後半には網船2隻(30㌧、焼玉80馬力)、灯船2隻(7㌧、焼玉)、中取り船1隻(40㌧、焼玉80馬力)だが、それに電探船1隻(中取り船を兼ねる、19㌧、焼玉80馬力)が加わり、船団の全船が動力化した事で機動力が大幅に増した。この段階では船団所属の中取り船が漁場から対馬の港まで漁獲を運び、港で待つ仲買人が専門の運搬船に乗せ換えて消費地に運んでいる。福岡市場の方の回想によると、当時対馬沖で取れ博多港で水揚げされた鯖は、トラックに満載されて八木山峠を越え、筑豊の炭鉱地帯で売られたという。また舘浦には埋立地に250~60基の小型露天鰯釜が存在した他、工場形態の加工業者が42名、従業員が341名存在し、盛んに鰯の加工を行っている(『長崎県鰯網漁業大観』)。

 明治24年(1949)頃には生月島の壱部浦には双手廻6統、舘浦に同12統が確認できるが(『長崎県鰯網漁業大観』)、昭和26年から30年になると漁場は対馬近海から西側の東シナ海に向かって拡大していく。この過程で沖合での操業を容易にするため網船を40~60㌧級に大型化し、中取り船も鮮魚に対応した運搬船へと変わっていく。特に数船団を経営する会社は多数の運搬船を投入して漁場と根拠地の間をピストン輸送出来るため、遠方への出漁が可能だった。一方、一船団のみの会社の船団は近場の対馬近海から見島にかけての海域で専ら操業した。

昭和30年(1955)頃までに漁場は済州島南沖の東シナ海まで拡大したが、その過程で各船(特に網船)の大型化、鉄船化とともに性能が安定してきたディーゼル機関の搭載が本格化している。そして大型の網船1隻からなる片手回しの形態を再び取るようになる。鉄船(鋼船)化については、昭和20年代既に運搬船に木鉄混合型(竜骨等は鉄、外板は木)があったが、網船では昭和31年建造の第五大福丸が(80㌧型)が最初の木鉄混合型本船で、昭和32年頃建造の白鳳丸が最初の鉄船型本船である。昭和30年代の船団は網船1隻(80㌧、ディーゼル300馬力)、灯船2隻(12㌧、ディーゼル90馬力)、電探灯船1隻(12㌧、ディーゼル90馬力)、運搬船2隻(100㌧、ディーゼル80馬力)で構成されたが、灯船は網を張り回す際の基点としても使われるようになり、また電探も灯船に搭載されるようになって作業効率が向上した。また漁場が根拠地から遠く離れた海域になったため、運搬船が漁場から直接市場に漁獲を運搬する形が一般化している。 

 昭和30年代末頃から、生月島の旋網船団は北海道や東北の漁場に出漁して大きな成果を上げる。最初に北海道に出漁したのは壱部浦の明寶丸船団で、当初北海道の西沖で操業したが、その後道東漁場に移動して鯖が大漁した。その後舘浦の源福丸も2船団(のちに3船団)を派遣するようになった。道東漁場には他の所からも出漁してきて24船団が操業した。道東漁場は根拠地とした釧路から近かったが、複数船団を持つ会社は運搬船を融通し合えるので有利だった。そのため単独船団だった明寶丸も後の方は茨城、鳥取、新潟の旋網船団と共同で操業して運搬船を融通し合うようしている。道東漁場の操業は7月頃に始まり、11月には三陸沖に移動して根拠地も八戸に移した。さらに12月になると拠点を銚子に移し、年末に生月島に帰ってきた。この時期に遠洋旋網の船団編成がほぼ完成し、以後は船が大型化していく傾向が続く。道東での旋網操業が盛んだった昭和50年代には、他船団に先駆けて良い場所に網を入れるため、速力が出る船形が好まれたが、そうした船は安定性が良くない所もあり、のちに海難事故を引き起こした船も出ている。

 網船(本船)は昭和27年に60㌧型だったのが、同29年80㌧型、同37年90㌧型、同43年111㌧型、同49年116㌧型、同57年135㌧型と大型化している(柴田市平氏調べ)。平成10年当時の船団編成を第二十三祐生丸船団で見ると、網船1隻(135㌧、ディーゼル640馬力)、灯船2隻(85㌧同380馬力と、69㌧同500馬力)、運搬船2隻(216㌧同640馬力と、355㌧同780馬力)で構成されている。さらに平成20年代に入ると網船は、安定操業とゆとりのある居住性を実現した199㌧型に転換していく。令和3年現在、舘浦には3会社に6統の船団が所属している。また度島は多数の旋網船員を輩出しており、舘浦、五島浜串、愛媛の3船団の主体は度島出身の乗組員である。

 また平戸島北部の潮ノ浦ではコギンチャク(小巾着)と呼ばれる動力小形巾着網が盛んで以前は11統いたが、今は2統だけである。船団は網船(19㌧型)1隻(以前は2隻)、灯船3隻、運搬船1隻で、乗員は十数人である。漁場は生月島の前から度島の西端までと、伊万里湾側の城山の下辺りまでで、以前は二神島と的山大島の間でも操業していた。主な対象はエタリ(片口鰯)で、潮ノ浦でイリコなどに加工している。




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