生月学講座No.221:江戸時代の農業と水産業の関係
- 2022/01/27 11:55
生月学講座:江戸時代の農業と水産業の関係
昨年(令和2年)末に行った古式捕鯨シンポジウムでは、日本の古式捕鯨と欧米の資本主義的な捕鯨との相違が注目点の一つとなりました。江戸時代の日本は対外関係を制約し、食料や基本的な生活物資を列島内で自給しながら多数の人口を維持しましたが、その体制は無駄が無い資源利用ととともに、大規模な海産物の供給によって支えられており、その代表が古式捕鯨でした。その後、竹井弘一氏の『江戸日本の転換点』を読む機会があり、江戸時代の日本の水田稲作農業は17世紀には低平地への拡大を続けたが、18世紀には開発が限界に達し、耕地の開発と草木採取地のバランスが崩れかけていた事を知りました。
この知見から捕鯨を見直すと、17世紀段階の西海漁場での突取法や網掛突取法による捕鯨業の発展は、江戸時代の城下町の成立や水田の拡大に伴う農村の発展と連動したものだった事が分かります。この時期における捕鯨の生産品は、農民の夜業の拡大に貢献する灯油用の鯨油と、庶民の高カロリーの蛋白源となる塩蔵鯨肉でした。また鯨組の利益の一部は新田開発や溜池の築造に投下されています。
18世紀に入ると捕鯨業では網掛突取法が定着し、安定的な操業が行われるようになりますが、それを支えたのがウンカを退治する農薬としての鯨油の需要でした。灯油としての鯨油は臭気があるため、菜種油の生産が拡大するとシェアが縮小しますが、農薬用の鯨油は恒常的に藩から一括購入されたため、鯨組は決まった収入が見込めました。拡大限界を迎えた水田稲作では、虫害で生じる減収をいかに押さえるかが問題でした。他方、煙草や菜種、綿などの商品作物を生産する畑作は拡大していますが、畑の拡大は草木肥を確保する草地や林の減少に繋がり、それを補う肥料として干鰯、鰊粕、藻などの海産物の需要が拡大し、特に鯨の骨粕は酸性土壌の中和に効果を発揮しました。
また18世紀に入って普及した甘藷栽培は、水田拡大の限界によって停滞する人口を再び上昇させる事に貢献しました。西彼杵半島西部の外海地方でも、甘藷を基本とした畑地が住民のかくれキリシタン信仰を支える基盤となりますが、18世紀末には人口増による開拓限界が厳しい問題となります。一方五島列島では、水産製品の需要拡大に伴い各種水産業の拡大が望まれていましたが、労働力を維持する食料の確保がネックとなっていました。その矛盾を解消したのが甘藷栽培を得意とする外海系住民の存在で、彼らの移住によって労働力や食料、資材の確保が拡大した事で、五島の漁業は発展したのです。
1820年代になると日本近海に欧米の捕鯨母工船が進出・操業した事で、日本近海の背美鯨・抹香鯨資源は欧米の資本主義経済に組み込まれる事となります。しかしそれは日本国内の資源供給システムから背美鯨由来の製品の供給を失う事でもありました。1840年代後半から日本各地の捕鯨漁場で顕著となる不漁はその表われであり、日本の古式捕鯨業は近世日本で最初に欧米資本主義経済の直接の影響を受けた存在だと言えます。その後の開国によって日本は、欧米の資本主義経済が拡大した世界経済システムに組み込まれていく事になりますが、明治時代の日本古式捕鯨業は、株式会社の形態に移行し、鯨肉生産に重心を移し、対象を長須・白長須鯨など筋肉質の鯨に移行させる事で、近代捕鯨業時代に移行する準備を整えていったのです。