平戸史再考No.23 平戸市と十五年戦争
- 2022/02/02 09:27
- カテゴリー:平戸史再考
平戸市と十五年戦争
1.平和教育と地域の戦争の記録
これまで平戸市の歴史を海との関係に焦点を当てて論じてきたが、昭和時代初頭に起きた十五年戦争時における平戸市域の諸状況も、地域と海との関係性の延長に捉える事ができる部分はある。ちなみに十五年戦争とは、昭和6年(1931)に起きた満州事変から、昭和12年(1937)に始まる日華事変、そして昭和16年(1941)12月に始まった太平洋戦争(第二次世界大戦、以下「大戦」)が日本の敗戦によって終結する昭和20年(1945)までの一連の戦争を指す。歴史的な位置付けとしては、日本人が主体的に体験した最も新しい戦争(77年前)という事になるが、質的に見ると、過去に例が無い程巨大な破壊を生じさせた(現平戸市の戦没者も2,542柱とされる)惨事であり、非戦・平和を維持するために戦争の情報を伝える事には大きな意味がある。
島の館が開館した平成7年(1995)頃には、戦争経験者もまだ多く存命して居られたので、かくれキリシタンなどの調査をしている時に戦争に関する話を伺う事もよくあった。平成12年(2000)からは生月町の町報に時おり戦争体験を紹介する特集記事を掲載したり、小中学校の平和授業に協力したりもしていた。ちなみに戦争体験のジャンルには大別すると○戦地の体験(陸軍、海軍)、○空襲体験、○被爆体験、○満州など外地からの引揚げ体験、○地元にあった軍事施設に関する記憶、○戦時の生活などがある。戦争体験の聞き取りは平成17年(2005)の合併、新市創設以降は他の業務(世界遺産など)が忙しくなった事などもあって疎かになったが、令和元年(2019)に生月中学校の生徒が戦争体験者から話を伺うという学習プログラムを行った時に手伝っていて、戦争体験を話せる方が殆どいなくなってしまっている事に衝撃を受け、もっとお話を伺ったり映像や音声に残しておくべきだったという後悔が生じた。
そのため、令和2年度の館報で戦争体験と戦争遺構の特集を企画し、市内の各公民館に依頼書を出す形で戦争体験者を紹介して貰おうとしたが、結果的に殆ど情報が集まらず、行政の地域情報収集力の低さをここでも思い知らされた。そのため館報は生月島の内容を中心とした不充分な内容で発行する事になったが、幸いにも館報を見ていただいた方から後発的に様々な情報が寄せられた事で、新たな知見を得る事ができた。さらに、戦争に関する研究に長年取り組まれてこられた松浦市の永益宗孝、佐世保市教育委員会の川内野篤、長崎県の斎藤義朗の各氏からは、多くの専門的で貴重なアドバイスをいただいた。
被爆の歴史を持つ長崎県は平和授業への取り組みに熱心だが、被爆市・長崎以外の市町村の平和教育は、原爆に関するパッケージ化された学習を習慣的に繰り返している観があり、身近な地元の戦争に関する事柄について取り上げる事は少ない。その原因の一つには、地元の戦争関連情報の収集や検証があまり行われてこなかった事がある。実際に戦争を体験された方の感情を伴ったお話はこれから聞けなくなるという将来を見越して、早くから映像や音声などによる記録の取り組みを行ってきたのは、被爆地である長崎市など数少ない。他の市町村の文化財行政が、近代に属する戦争関連情報の収集や遺構の保存に取り組むようになるのは最近の事だが、平戸市については遅れていると言わざるを得ない。
平和教育を必須の課題として連綿と取り組んできた長崎県教育界の熱意には敬意を持っている。しかし戦争というものを考えるのに、原爆という一要素だけに集中し過ぎ、個々の地域における多様な形での戦争との関わりについて取り上げられる事が少なかったのは問題であり、それが平和というテーマを自分達に引き寄せる力を弱めた部分も否定できない。今回はそうした反省にも立ちながら、平戸市内の戦争に関する施設や空襲等の出来事について現時点の情報を纏めてみたいと思う。
2.平戸市内の陸軍施設
大戦時の日本には陸軍と海軍からなる軍隊があった。陸軍はおもに陸上戦を戦う軍隊だが、実際に戦争(野戦)を行う際の日本陸軍の編成には大きなものから方面軍、軍、師団・旅団、連隊、大隊、中隊、小隊などの単位がある。長崎県下には大村市に歩兵第46連隊の本部があり、県下で徴兵・応召された人員の多くはここに入営して戦地に向かった。現平戸市域からも多くの男子が入営して戦地に向かい、大勢の戦死傷者を出しているが、その中には昭和7年(1932)に勃発した第一次上海事変に田助浦から出征し、混成第24旅団の工兵として上海近郊の廟行鎮の戦いで破壊筒を使った鉄条網の破壊に従事し散華した「爆弾三勇士」の一人、作江伊之助(21歳)もいた。
大戦末期になって日本軍の敗勢が濃くなると、列島内各地にも新たに動員された兵員で編成された部隊が配置され、連合国軍の本土上陸に備えるようになる。県下には五島列島に独立混成第107旅団、長崎市付近に同第122旅団が展開したが、県北地域は海軍の佐世保鎮守府が守備の管轄になっている。但し『田平町史』には、昭和19年(1944)12月5日、大村の連隊から山本部隊(約80名)が南田平村に派遣され、南、北国民学校や永田の旧高橋養蚕室に宿営し、海岸防備工事等に当たったという記述がある。後述する生向の船舶部隊の舟艇格納所やそこに向かう道路などは、あるいはこの部隊が造ったものかも知れない。一方、壱岐水道に面した壱岐、的山大島、生月島には、後述するように壱岐要塞という野戦編成とは別個の部隊が駐屯していた。
なお『田平町史』によると、昭和19年(1944)3月末には田平村大久保免の山内・永久保の一部と大崎全域を強制収用しガソリン格納庫とする指令が西部軍司令部から出され、40戸が立ち退きになっている。地区内には地上倉庫5棟や地下格納庫が建設されたが、10月29日には本土防衛計画の見直しに伴い計画は撤廃されている。釜田湾を中継する陸軍船舶の沿岸輸送に関連した構想だったのだろうか。
(1)壱岐要塞の所属砲台
船が行き交う海峡を制圧する戦略思想については以前、平戸松浦氏が平戸瀬戸を大砲で制圧する意図を以て日ノ岳城を築いたという仮説で紹介した。平戸瀬戸を掌握するという思想は、おそらくは日ノ岳築城以前から峯氏(平戸松浦氏)の戦略構想の基盤をなしたと思われ、現在「焼罪(やいざ)」と書かれる田平側の岬がもともと「矢射座」という表記だった可能性から、火矢を含む弓矢で海峡を制圧していたことが考えられる。いずれにせよそれは海峡の幅が500㍍程しかなく、船の方も人力(櫓や櫂)か帆走という低速に留まる状況で成立する戦略である。西洋でも、15世紀にオスマン・トルコ帝国が黒海から地中海に抜けるボスポラス海峡(幅700㍍程)を両岸に大砲を配した2つの要塞を作って制圧し、航行するキリスト教国の商船から納税を強いた事例がある。大砲の射程は19世紀中頃まではせいぜい数㌔内に留まっていたので、大砲で制圧出来るのも狭い海峡に限られており、幕末期になっても、関門海峡で長州藩が海峡を通過する外国船に砲撃を浴びせ、対抗した西洋諸国の連合軍が上陸して砲台を破壊する事態が生じている。
大砲の射程が飛躍的に伸びるのは19世紀末期からだが、それとともに海峡制圧の規模も拡大する。例えば明治政府は、首都東京の前に広がる東京湾への入り口にあたる浦賀水道(最狭部6.5㌔)を制圧するために、三浦半島側に砲台を設け口径28㌢の巨砲を設置している。この大砲は榴弾砲という高い弾道で砲弾を発射し、落下する砲弾を船に命中させるものだったが、命中精度は低く、動いている船に当てるのは奇跡に近かった。大砲で広い海峡を制圧する構想が現実を帯びてくるのは、低い弾道で高初速の砲弾を発射する大口径のカノン砲が実用化する20世紀を待たねばならなかった。
他方、船の方も発達を続けている。日本では陸地近くを運航する帆走性能が低く櫂を多用する準構造船から、江戸時代には帆走を専らとする構造船へと発達し、さらに明治時代には高い帆走性能を有する西洋型帆船や、蒸気機関などの動力で進む動力船が導入される。そうなると大砲の方も高速で移動する船を攻撃する必要から速射性や砲身の安定、優れた射撃管制技術が必要となる。他方、船の大型化に伴って航路も、狭い平戸瀬戸から、朝鮮半島と九州の間に広がる朝鮮海峡へと移る。朝鮮海峡には、原始から日本と朝鮮の間を結ぶ海峡を横断する航路があったが、近代になると、東シナ海と日本海を結ぶ航路としての重要性も高まる。近代日本が朝鮮から満州へと権益を拡大していく中では、軍隊や軍需品を大陸に輸送する必要から海峡横断航路が重要な役割を果たすが、かりに敵艦隊が横断航路を遮断する事態が起きると、大陸に渡った軍隊は補給を断たれて敗北する。また敵艦隊が通過航路を通って日本海に侵入すると、日本列島の日本海沿岸部や、日本海を利用する船舶も攻撃にさらされる事になる。実際に明治37年(1904)から始まった日露戦争では、ウラジオストックにいたロシアの巡洋艦艦隊が朝鮮海峡を通過して日本海や太平洋を行き来しながら日本の商船を撃沈しており、6月には朝鮮海峡で陸軍の増援部隊を輸送する常陸丸が撃沈され千人以上が犠牲になっている。朝鮮海峡の安全確保は日本にとって最重要の課題だったのである。
艦隊によって敵艦隊を迎撃する戦略が取られた日露戦争では、朝鮮海峡沿岸には、ウラジオストックに向かうロシア艦隊を迎撃する水雷艇群が待機する港を防衛するための砲台が対馬などに置かれた程度だったが、その後、大陸との交通路である朝鮮海峡を要塞群(朝鮮半島要塞系)で防衛する構想のもと、大正8年(1919)の陸軍「要塞整理要領」で、朝鮮海峡を要塞砲の火制下に置く事が決定される。この背景には広い海峡を制圧する射程を有した大口径カノン砲が実用化された事がある。これによって朝鮮海峡沿岸には、既設の(朝鮮)鎮海湾要塞、対馬要塞、下関要塞に加え、海峡南部の壱岐水道に面した壱岐や的山大島などにも砲台が設けられる事となり、大正15年(1926)にはそれらの砲台を指揮するために壱岐要塞という部隊編成が設けられて壱岐要塞司令部が開設され、昭和16年(1941)7月には各砲台の砲を運用する部隊が集成されて壱岐要塞重砲兵連隊が編成されている。
壱岐要塞に配置された最大の砲は、壱岐西岸の黒崎に設置された2門の口径40㌢カノン砲で、昭和6年(1931)航空母艦に転用された巡洋戦艦「赤城」の主砲(一番砲塔)が配置されたもの(要塞砲塔加農砲)である。口径40㌢のカノン砲は当時戦艦に搭載された最大の砲で、それを超える砲はその後も戦艦大和の口径46㌢砲以外は無かった。なお「赤城」が巡洋戦艦から航空母艦に改造された背景には、第一次世界大戦後の大正10年(1921)に開催されたワシントン軍縮会議で、参加国の戦艦の総㌧数に制限を受けたため、建造中だった赤城を軍縮対象外だった空母に変更したという事情があった。
平戸市域では、的山大島西部の戸田浦西側台地に砲台が設けられ、昭和4年(1929)にワシントン軍縮会議の結果、廃艦となった戦艦「鹿島」の主砲(30㌢カノン砲)2門1基が回転砲塔に搭載されて設置された。鹿島は日露戦争後の明治39年(1906)に竣工した戦艦で、日露戦争の日本海軍の主力戦艦「三笠」同様、艦の前後にそれぞれ1基の主砲の回転砲塔を持つスタイルだったが、鹿島竣工と同じ年にはイギリスで、艦前方に1基、側方に2基(左右各1基)、後方に2基の計5基を備えた戦艦「ドレットノート」が竣工し、鹿島を含む世界の従来の戦艦は全て旧式化の憂き目に遭っている。
的山の砲台の下には砲側弾薬庫が設けられ、その後方にディーゼル機関室、水圧畜力機室、発電機室、送風機室、脂油庫、冷却貯水槽、兵員室が配置され、左側の高地には、砲撃目標を確認して大砲の上下左右の角度を決めたり着弾を確認する観測室が設けられた。現在も砲塔が設置された円形のコンクリート製の穴(砲塔井)や砲塔への入口付近が残っている。また島北部の大根坂にも可搬式射光機(探照灯)と発電用の電灯所などが設置されている。
生月島御崎地区のミンチマにも昭和13(1938)に砲台が設けられ、15㌢カノン砲2門が配置されているが、こちらの砲は壱岐黒崎や的山大島のような回転砲塔ではなく、通常の陸上戦闘に用いる野戦砲(九六式加農砲)が配置されている。これについては昭和8年(1933)裁可の「要塞修正計画要領」で、要塞砲は状況に応じて他の作戦に転用容易な火砲を採用するという方針が採られたためである。当初は露天に砲が置かれていたが、ミンチマ山の頂上部には広く平地を造成した跡があり、そこに砲を並べて配置していたと思われる。しかし大戦末期になると、航空攻撃を避けるために地中に設けたコンクリート製穹窖(洞窟式)に移設されている。ミンチマには平地の北側にある斜面に、北に開いた形でV字形に造成した場所が2カ所あり、その奥部にはコンクリートで壁面を作って開口部がある穹窖の跡が確認できる。現在は破壊されているため内部は不明だが、内部にカノン砲を収めた空間があったと思われる。ただ穹窖の場合は開けた露天と異なり、砲の射角が大きく制限されるため、攻撃力では大きく制約を受けたと思われる。なお最近、山田・舘浦まちづくり運営協議会の関係者が付近に全長30㍍を超えるトンネル通路があるのを確認した。トンネルの奥は崩落していて先がどうなっているのか不明だが、穹窖奥の砲が配置された空間と繋がる連絡通路だった可能性がある。また露天段階に砲が配置された平地の東側には、鉄筋コンクリート製の観測所の建物が良好な状態で残る。上部の円形の部屋には周囲を見渡せる横長の窓が設けられ、天井には八八式海岸射撃具の潜望鏡を出すための穴と、観測の基準となる場所の方向を示した線が残る。下部には砲側弾薬庫に用いた部屋などが残る。また砲台東側には砲兵の木造兵舎が設けられていたが、砲台敷地の周囲に鉄条網が巡らされていて、地元の人は入れなかったという。
また生月島北端のタカリにも、北側斜面にコンクリート製穹窖(洞窟式)が2カ所設けられ、海軍から提供された14㌢カノン砲2門が配備されているが、西側の穹窖は現在も残っている。この砲は大正時代に建造された戦艦の副砲や軽巡洋艦の主砲に搭載された50口径三年式14センチ砲と思われる。同砲は平射砲といって仰角が小さい対艦専用砲だったので、航空攻撃を防ぐための対空砲が必要になった第二次大戦時には撤去されて高角砲に換装されたりしており、そうしたものが配置された可能性がある。
昭和20年(1945)に入って本土決戦が現実味を帯びてくると、壱岐要塞の各砲台を守るための要塞歩兵大隊が新たに編成・配備され、的山大島と生月島の砲台には要塞歩兵第六大隊が配置されている。御崎地区にも要塞防御のための人が移動できるようなトンネルや、防空壕、散兵壕(1~2人が入って射撃する竪穴)などが設けられている。御崎の防御施設の整備には生月島民が動員されたが、昭和20年には敵機の機銃掃射を受け死者も出ている。
しかし壱岐要塞に所属する諸砲台は、実戦で砲撃を行う事はないまま終戦を迎えている。海峡を陸上の大砲で制圧するという構想自体、航空攻撃が主体をなした第二次世界大戦の状況下では時代遅れだったのである。
『生月町沿革誌』によると、昭和20年(1945)10月3日に中尉に指揮されたアメリカ軍兵士10名が生月島に来島しているが、これは御崎砲台などの現地視察と破壊に向けた下見が任務だったと思われる。その後11月15日には通訳1名を伴ったアメリカ兵33名が再び来島し、御崎や長瀬に残っていた軍事施設を破壊する作業を行った。アメリカ軍はLST(上陸戦専用の輸送船)に乗って壱部浦の沖にやってきて、宮田の波止付近に水陸両用車に乗ったまま上陸した。波止の所の地面にはイナマキを敷いてアゴが干してあったが、水陸両用車はそれに気づかず踏みつぶして上陸している。彼らはまず里浜にあった生月町役場に来て、通訳を交えて打ち合わせをしたが、役場職員で従軍経験があった豊永政一氏と西澤辰治氏が案内役として軍事施設に同行する事になった。御崎ではミンチマにあった砲台に爆薬を仕掛けて爆破し、大砲は破壊されたが、コンクリートの施設は殆ど壊れなかったという。
壱岐要塞所属の砲台としては、その他に平戸島南端の宮ノ浦南部に平戸砲台という15㌢カノン砲(野戦砲)4門を露天配置した砲台が設けられている。また佐世保要塞所属で志々岐砲台という45口径25㌢カノン砲2門(砲塔加農砲)を装備した砲台の設置も計画されているが、昭和8年(1933)の「要塞修正計画要領」で中止されている。
(2)陸軍船舶部隊
平戸市域では他に陸軍の船舶部隊(暁部隊)の活動も確認されている。一隊は猶興館高校に駐屯し、校舎を兵舎とし、白浜に舟艇(大発、小発)を置いていたとされる。また市街地の現在ドラックストア・モリがある付近に、船舶部隊の物資集積所があったとされる。また田平天主堂も船舶部隊の宿所に利用されていたが、ここにいた部隊は南の生向湾北側の鎌倉神社脇に舟艇秘匿場所を設けていた。『田平町史』には、広島で編成された陸軍船舶部隊「暁第9812部隊石川隊」(約130名)が南田平村の野田免是心寺や山内免社会館に宿営したとある。こうした船舶部隊が具体的にどのような任務にあたっていたのか分かっていないが、一つの可能性として、壱岐要塞管轄下の諸施設に物資を補給する役割を担っていた事が考えられる。
2.平戸市内の海軍施設
長崎県内には佐世保軍港があり、また船の扱いに慣れた漁民が多かった事もあって、海軍に進む男子も多かった。現平戸市域からも多くの海軍軍人が輩出され、大勢が命を落としたが、その中には昭和17年(1942)6月のミッドウェー海戦時、航空母艦「蒼龍」の艦長を務め、海没する艦と運命を共にした田助浦出身の柳本柳作大佐(死後少将)もいる。
本土決戦時には、佐世保に日本海軍の重要な軍港(鎮守府)が置かれた事もあって、北松浦半島域は佐世保地区海軍守備隊が防衛を担い、他に島嶼部に前述した陸軍の壱岐要塞の兵力が展開している。『戦史叢書』の「佐世保地区守備兵団陸上配備概要図」では、田平の日ノ浦の北に第一拘束陸戦部隊の一部の展開が確認できるが、『田平町史』には昭和20年1月8日に佐世保鎮守府相浦海兵団から派遣された向井隊長指揮の海兵約80名が小手田公会堂と下亀円通寺に駐留した記述があり、これが第一拘束陸戦部隊の実体かも知れない。海軍はその他に現平戸市域内に、佐世保防備隊の所属で対馬海峡(壱岐水道)に侵入する敵潜水艦の探知を目的とした施設である防備衛所3カ所と、日本本土に飛来する敵機を探知する特設見張所(旧称「聴音照射所」)2カ所を設けている。
(1)防備衛所-対潜水艦施設-
大戦期の日本の潜水艦が敵の軍艦の攻撃を主目的としたのに対し、アメリカの潜水艦は、前線への部隊や軍需物資の輸送や、戦争継続に必要な生産を維持するための石油や天然資源を敵の本国に送る貨物船を攻撃する事を主任務としたが、その戦略思想は既に第一次世界大戦時、主要連合国である島国イギリスとの戦いでドイツ海軍が実施したものだった。イギリス同様の島国で、戦いの場を広い太平洋に求めた上、石油やゴム、ボーキサイトを始めとする主要な継戦資源を東南アジアなどの海外に依存しなければならなかった日本にとっては、潜水艦による航路の攻撃は最も警戒せねばならない脅威だった。しかし艦隊決戦思想に凝り固まった軍首脳が主力艦の建造に力を注いだ結果、海上護衛戦力は常に不足気味の上、潜水艦の探知や攻撃の技術は連合国に比べて大きく劣った。その結果、日本の輸送船の喪失数は潜水艦と連合国軍の進出による航空攻撃の強化と相まって膨大なものとなり、昭和19年末には日本と東南アジア間の海上交通はほぼ途絶状態となる。
平戸島の鯛の鼻には海没した少年通信兵達の祈念碑が建てられているが、彼らは昭和19年11月14日に第23師団の兵員・兵器を積載して伊万里湾を出港しフィリピンに向かった「ヒ81」船団の輸送船に乗っていた。輸送船、油槽船(タンカー)各5隻からなる船団は軽空母「神鷹」を含む9隻の護衛艦に守られて東シナ海を西進したが、フィリピン到着までに輸送船2隻(陸軍特種船あきつ丸、摩耶山丸)と神鷹がアメリカ潜水艦に撃沈されている。これによって多数の兵員や兵器を失い戦力を大きく低下させた第23師団は、その後ルソン島リンガエン湾に上陸したアメリカ軍を迎え撃ち苦戦する事になる。一方油槽船のうち4隻はシンガポールに到着し、重油積み込み後、他の船と船団を組んで12月12日に日本を目指したが、ベトナム沿岸で潜水艦によって3隻が喪われている。
海軍は、日本近海で活動する敵潜水艦を探知するために、戦前から水中聴音機を備えた防備衛所を各地に設けており、平戸島南端の高島には昭和14年(1939)6月に高島防備衛所の新営、新兵舎と電気設備が竣工し、潜水艦を探知する聴音機や無線機が設置されている。同衛所にはコンクリート造りの聴音所、水槽、油庫と、木造の兵舎、発電所、喞筒室が設けられ、現在も島の南部には海岸の四階建ての建物などのコンクリートの建物跡が残る。なお長崎新聞平成17年10月1日付記事「戦争の記憶」によると、四階建て建物は昭和18年(1943)に地元の野子国民学校の勤労奉仕も受けながら建設されたという。
生月島西岸の長瀬鼻には長瀬崎防備衛所が置かれている。長瀬崎の上には聴音機を屋内に備え屋上に見張り台を持った見張所、掩耐壕を兼ねた電信室、兵舎、機関場(発電機室)、山頂部に23㍉高角機関砲を一門備えた砲座などが点在していた。聞き取りでは同基地には30名ほどの兵隊が駐屯していて、指揮官は有村という60を越えた老大尉で、30代、20歳前後の兵の他に高齢の応召兵や15歳位の志願兵もいたという。
当番は毎朝、舘浦まで歩き、御用商人の石橋さんの所で頼んでいた魚や野菜を受け取り基地に持ち帰った。また米は佐世保から船で運び、基地内には畑を拓いて野菜などを植えていたという。
的山大島の大根坂集落の北西側には的山大島防備衛所が設けられている。「的山大島派遣隊」という資料によると、97式聴音機を備えた衛所建物の他に、兵員室兼烹炊所、発電機室(2棟)、電信室、揚水ポンプ室、燃料庫などが設けられていた。
なお「崎戸衛所」という資料には生月島電探見張所という敵機を確認するためと思しき施設の記載があり、仮称三式二号電波探知機や電波探知機改三などの機器が置かれたという記述があるが、はっきりとした場所は分からない。
(2)見張所-本土空襲への対応-
島国である日本に脅威を与えるのは長い間、敵の船(軍艦)だったが、1903年にライト兄弟がエンジン付きプロペラで飛ぶ飛行機を実用化すると、僅か14年後には、ドイツが双発爆撃機(ゴータ)で英仏海峡を越えてイギリス本土を爆撃している。日本も航空兵力の拡充には熱心で、昭和12年(1937)には九六式中型陸上攻撃機で九州や台湾の基地から海を越えて中国の南京を爆撃する渡洋爆撃を行っている。日本の第二次世界大戦開始時(昭和16年12月)には、アメリカで4基のエンジンを持つ重爆撃機B17がフィリピンなどに実戦配備されており、開戦初頭には同機による本土爆撃を封じるため、台湾を基地とした海軍機がフィリピンのアメリカ軍飛行場を攻撃している。アメリカ軍は昭和17年(1942)4月18日に、日本近海に接近した空母ホーネットから双発爆撃機B25、16機を発進させる奇想天外な方法で日本本土初空襲を実現させて日本軍指導部に大きな衝撃を与えているが、爆撃を終えたB25はそのまま西に飛行して中国大陸の中華民国勢力下の麗水飛行場に着陸している。日本側はアメリカ軍機による日本本土空襲が行われる場合には、中華民国の支配地である中国大陸が出撃基地となる事を想定して防空体制を整備し、中国大陸から日本列島に向かう線上に聴音機を備えた見張所を配置している。
東シナ海を臨む平戸市域にも見張所が2カ所設けられている。「佐世保海軍警備隊戦時日誌」によると、平戸島北部の白岳山頂(標高250㍍)には平戸特設見張所が昭和17年5月に完成したとされる。山頂に直径40㍍の円形の窪地を設け、その中心に飛行機のエンジン音を捉える聴音機を設置したが、現在も円形窪地と外周の石垣が残っている。また夜間上空の敵機を照らす探照灯1基と、対空火器である13㍉単装機銃も3挺配備されている。
平戸島中部の有僧都山と白岳の間にある山頂(標高334㍍)には中津良特設見張所が昭和17年11月に設置されている。機器としては聴音機や探照灯1基、13㍉単装機銃2挺が配備されていた。ここにもなだらかな山頂部に聴音機を設置するための直径35㍍の円形の窪地が造成されているのが確認でき、他に煉瓦造りの水槽や、指揮所を爆風から守るための土塁、地下壕などが残っている。
アメリカではB17より高性能の重爆撃機B29が実用化され、昭和19年(1944)6月には同機を用いた日本本土空襲が開始されるが、当初はインドを本拠地とし、中国・四川盆地の成都周辺に前進基地を設けて、西から日本本土に飛来する形を取った。この方法で製鉄所がある八幡や航空機の製造工場(海軍第21航空廠)があった大村などを爆撃したが、この場合には中国大陸の日本軍占領地や、平戸などに整備した見張所による警戒網が効果を発揮した。だが探知機器は飛行機の音を捉える聴音機で探知距離は短く(10㌔弱)、既にイギリスやドイツ、アメリカが実戦装備して大きな成果を上げていたような高性能のレーダー(電探)ではなかった。
しかし昭和19年6~8月に日本列島の南にあるマリアナ諸島が占領され、その島々にB29の基地が整備されると、11月以降のB29の日本本土空襲は南から飛来する形に変わる。そうなると西からの来襲に対応した既存の見張所の機能は大きく低下する事になり、日本各地の都市が大規模な空襲にさらされ、大きな被害を出す事になった。
(3)特攻基地
海軍は大戦末期、本土決戦に備えて5人乗組の小型潜水艦「蛟龍」や、1人乗り特攻潜水艦「回天」、モーターボート型特攻艇「震洋」による水際作戦を企図し、佐世保鎮守府でも第三特攻戦隊が編成されている。同戦隊は川棚にあった訓練基地で訓練を施した兵員を管内各地に配置した部隊に送ったが、長崎本土西岸と五島、天草にかけての地域には第三十一突撃隊所属の部隊が蛟龍や震洋を装備して展開していた。平戸島北部の薄香湾口にも部隊の展開があったとされるが実態は不明である。
3.平戸市内の空襲
海軍の見張所の項でも触れたが、昭和19年(1944)後半になると日本本土も連合国軍の空襲にさらされるようになる。空襲にはB29のような大型の重爆撃機による爆撃の他、単発や双発の戦闘機、戦闘爆撃機、爆撃機、攻撃機などによる爆撃、銃撃、ロケット弾による攻撃があり、後者は航空母艦の艦載機によるものの他、硫黄島や沖縄の占領後はそれらを出撃基地とした陸上機による攻撃も行われるようになる。またそれ以外に、近海では哨戒機による艦艇攻撃や、航空機による機雷敷設なども行われている。平戸市域でも、昭和20年に入ると小規模であるが空襲による被害が各地で生じている。
昭和20年6月7日には平戸島南端の宮ノ浦で、沖縄から飛来した米海軍の哨戒機が特設駆潜艇を攻撃・撃沈している。「昭和二十年六月七日五島平戸宮ノ浦ニ於ケル対空戦闘詳報」によると、五島平戸島西方で対潜掃討活動を行っていた特設駆潜艇第43日ノ丸(258㌧)は6月7日朝、荒天を避け宮ノ浦湾に避泊していたが、10時25分には第一掃討隊と合同すべく出航する。しかし28分にはアメリカ海軍の4発哨戒機PB4Y-2プライヴァティア2機が高島東方に飛行するのを確認し、直ちに25㍉機銃による応戦体制を整え、同33分には高島と鳥焼島の中間から超低空で銃撃してくる攻撃を受けている。攻撃の結果、船後部に搭載していた爆雷に被弾・発火したため直ちに投棄している。さらに同35分には旋回してきた敵機から再度銃撃を受け、艦橋、電信室、機械室に多数の被弾を受けて火災が発生している。同37分には投下された爆弾の爆発で舷側に大破口が生じ、同40分に沈没している。この攻撃で戦死17名、重傷者2名が発生した。
同年7月初旬には西哲男氏の「田平空襲覚え書き」によると、平戸島の遙か上空を東に向かうB29数機と、その下方を飛ぶ敵戦闘機数十機と、日本軍の戦闘機が交戦するが、隼と思しき日本軍戦闘機が田助沖合に墜落したとされる。
同年7月16日には平戸島中部の宝亀で、他地域の空襲の往来途上の敵機から爆弾が投下され、山中で爆発して大穴が開いたが、人的被害は無かった。
同年7月27日には田平町内が空襲を受けている。「田平空襲覚え書き」によると、攻撃してきたのはクマバチの格好に似たグラマン戦闘機(F6)と双胴のロッキード機(P38戦闘機ないし戦闘爆撃機)とされるが、前者は海軍の艦載機、後者は陸軍機なので検討が必要である。この攻撃では松浦線を佐世保方面から走行してきた三両編成の貨物列車が銃撃を受け、田平小学校の跨線橋と変電所脇の踏切の中間付近で停車し、周辺の農家も銃撃を受けている。また生向湾にいた肥やし船(平戸から肥料となる糞尿を汲んできた農家の船)が平戸瀬戸方向から飛来した機の銃撃を受け、乗っていた外目の安田イチノ、吉田常五郎さんが死亡している。また船舶部隊が宿舎としていた田平天主堂が銃撃を受け、前庭のレンガ壁には今もその時の弾痕が残っている。また近くの種畜場も銃撃を受け、種牛二頭が死亡している。また釜田港でも小型貨物船が撃沈されたとされるが、当時里田原で少年だった方も、防空壕で釜田港を攻撃する音を聞いたという。
7月31日には生月島が空襲を受け、御崎で要塞の陣地工事をしていた地元女性・田崎ナカさんが死亡している。また壱部では数機が急降下して機銃を掃射し、民家に爆弾(もしくはロケット弾)を落としたが、戸外で竹仕事をしていた村川末義氏と、家内で寝ていた末義氏の母親のなつさん、水汲みの手伝いをしていた末義氏の娘の博子さん(7歳)の3人が死亡している。
8月10日には松浦線の平戸口駅付近が敵機(証言ではグラマン機とされる)の機銃掃射を受け、江迎方面から来た蒸気機関車に銃弾が命中し、蒸気が噴き出していたという。
8月13日には生月島の長瀬崎防備衛所が北方から来襲した単発機(P51の可能性がある)から銃撃を受け、水兵1名が死亡している。









