長崎県平戸市生月町博物館「島の館」

生月学講座No.223:鯨組の採油施設

生月学講座:鯨組の採油施設

 

  古式捕鯨業時代の西海漁場では、当初から鯨油生産に重点が置かれてきた事を以前紹介しました。鯨油生産で最も基本的な方法は、分厚い皮下脂肪(皮脂)を熱した釜で煎り、溶け出した油を取る方法で、油分が多い内臓や舌などの部位も同じ方法で採油できます。17世紀中頃には髄に油を多く含む骨も、細かく砕いた後、釜の沸騰した湯に入れ浮いてきた油を採りました。『西海鯨鯢記』によると油を煎り取った後に出る滓も、蒸した後プレスして再度採油したそうです。

 西海漁場で最初期に活動した紀州系突組の採油設備は簡単なものだったようです。寛永元年(1624)頃の紀州の突取捕鯨の様子を描いたとされる『捕鯨図屏風』には、民家の屋外に設けた2基の土造りの竈に大釜が据えられ、1基に皮脂が投入されて鯨油を製造する様子が描かれています。のちの網組の頃の紀州太地の捕鯨を描いた『熊野浦捕鯨図巻』には、少なくとも2辺の壁が無い四本柱の草葺き小屋に1基の竈と大釜を配置し、皮身から鯨油を作る様子が描かれていますが、前述した『捕鯨図屏風』の採油と比べると、屋根の下に竈を設置した以外はそれほど差がない設備や規模なのが分かります。

 一方、西海漁場では対馬の浅藻湾口に面した水崎(尾崎)遺跡の発掘調査で、海岸近くから16世紀後半~17世紀前半と推測される柱穴が10×5㍍の長方形に並ぶ中に鯨とおぼしき骨が散乱する遺構が確認され、『西海鯨鯢記』の対馬に鯨組が操業した地名の中に尾崎が登場する事から、突組の油納屋場跡の可能性がありますが、この建物は前述した『熊野浦捕鯨図巻』に描かれた網組当時の採油施設よりも大規模です。また慶安元年(1648)以降の平戸・吉村組の操業を記録した『鯨舩萬覚帳』を見ると、東油納屋(10間×4間)、西油納屋(10間半×4間)と大型の建物を2つも持っていて、やはり採油設備のための大きな建物を設けている事が分かります。

 18世紀の西海漁場の網組は大納屋、小納屋、骨納屋など複数の採油施設を持つようになりますが、寛政8年(1796)に五島列島で操業する呼子系の生島組(網組)の操業を描いた捕鯨図説『鯨魚覧笑録』の大納屋の中には16基もの竈と釜が確認できます。さらに天保3年(1832)制作の生月島の益冨組の操業を紹介した捕鯨図説『勇魚取絵詞』の解説によると、大納屋は間口7間、奥行24.5間の大変大きな建物の中に17基の竈があり、小納屋にも7基、骨納屋にも6基の竈がありました。また両図説とも、焚口と釜の間に防火用の壁があり、また壁と釜の間には木樋が横に延びていて、熱い鯨油を釜から樋に汲み上げて流し、別室の壺に貯まるようにしています。なお『勇魚取絵詞』の各納屋の釜の配置は竈の焚口より一段高い平場にあり、原料の投入もしやすくしています。

  釜の配置が焚口より高くなっているスタイルは、17世紀のオランダ捕鯨がヤンマイエン島やスヴァールバル諸島などで行っていた捕鯨の採油装置でも確認出来ますが、オランダのものは大釜が2つで、西海の網組の納屋場のように多数の釜が並ぶ形ではありません。西海漁場では網掛突取法の導入に伴い、網代の制約で一漁場を1つの網組が使用する形に移行しますが、それは経営安定にも繋がり、納屋場も恒久的な施設に変わっていきます。採油施設も恒久的で大規模になりますが、竈と釜は小型のものを多数揃えて効率化を図っていったようです。

 




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