長崎県平戸市生月町博物館「島の館」

平戸史再考No.24 :平戸地方の現在と未来

平戸地方の現在と未来

 

1.なぜ歴史は必要か

2年にわたって連載してきた「平戸史再考」もなんとか最後の回を迎える事になった。

初回の平戸という町についての捉え方から始まり、海をベースに据えながら多角的に平戸地方の歴史を記してきたが、その間に平戸や日本、世界で起きた様々な事を考えた時、そもそも、何故「歴史」というものを知る必要があるのかという、根本的な問いについて再度考えてみる必要を感じた。

歴史とは何だろうか。単純に捉えると、過去の出来事の時系列の連なりという事になるが、歴史を認識する主体は常に、今を生きる人間である。人間は言語を用いるようになった事で、五感から得た情報を組み立て、記憶し、他者と共有する事ができるようになった。外部から人間の脳に取り込まれた情報は、海馬を介して記憶される。脳内では海馬と扁桃体が情動を、扁桃体が記憶を増大・選別する働きを司るが、そうして形成された情緒的な記憶は、特に長期の記憶となる特性を有しているとされる。このように情緒と結びついた筋道のある記憶こそが「物語」だが、人間にとって物語が大切なのは、周囲に存在する事物を把握するための認識ツールとして用いているからである。個々の人間にとって、物語で把握された認識空間の総体が「世界」であり、世界が時間という次元に展開するのが「歴史」であるが、「世界」という認識空間はその時間上の展開となる「歴史」も含め、人間が安心して暮らすために必要不可欠なものである。

このような歴史というものの認識を踏まえた上で、これからの平戸地方について考えていきたいと思うが、それをより理解しやすくするために、まずは平戸地方の近現代の様相について概観したい。

 

2.平戸地方の近現代

(1)明治~昭和

幕末の開国によって、日本は欧米資本主義の影響を全面的に蒙ることになる。明治4年(1871)には廃藩置県で平戸藩が消滅した事で、平戸藩が構築・主導してきた持続主義的経済システムは崩壊する。また近世以降も続いていた平戸瀬戸を通過する長崎航路を含む九州西岸の沿岸航路は明治時代以降も継続し、中小の帆船や機帆船は平戸瀬戸を通過したり田助に入港しているが、大型の商船は壱岐水道などを航行するようになっている。

近世平戸藩の重要産業だった捕鯨業は、幕末期以降は沈滞し、明治30年代には網掛突取捕鯨は終焉を迎え、以後は平戸瀬戸の銃殺捕鯨が昭和20年頃まで継続する。鮪大敷網も継続しているが、鰯漁業の発展は明治末年の巾着網や大正時代の刺網の導入を待たねばならなかった。

 北松半島では明治時代に入ると各地で炭坑が開発され、大勢の鉱夫が居住する炭坑町が出現する(田平町生向でも昭和初期、炭鉱の試掘が行われている)。また明治22年(1889)には佐世保に鎮守府が開設され、以後軍港都市として発展していく。このようにして北松本土の人口が拡大した事で、新たな魚介類や農作物の消費地が形成されているが、田平町内の農家では野菜や漬物などを近隣の江迎や鹿町の炭鉱町に出荷しており、平戸島の川内では明治末年頃から蒲鉾の製造が盛んになり、北松各地に販売されている。また平戸島中部の農家は船を出して佐世保や相浦の町部の人糞を堆肥の原料として入手している。

 明治末年頃には、和船巾着網が導入される事で鰯の漁獲量が増大するが、大正時代に入ると煮干し加工の技術が導入された事で加工業も発達する。付加価値がある煮干しで出荷する事で収入が上昇するが、浦の周辺の農業従事者が漁や加工労働に関与したり、加工に必要な薪の供給に関与する事で、在部にも利益が還流している。それが大正時代に各地で盛んになる大型溜池築造の原資にもなり、水田面積が広がった事で、さらなる農家の所得向上に繋がっている。保存が利く米は大陸に進出する陸軍の糧食としても重要だった。また浦では漁船動力化のための突堤建設が具体化するが、これも和船巾着網や加工業の振興による資本の蓄積があって初めて可能であり、大正末年の生月島舘浦における大波戸築造を皮切りに、各地で波戸築造による港湾整備が進められていく。そしてこれが和船巾着網から動力揚繰網(まき網)への発展を促していった。

 動力まき網は昭和10年代に入る頃には夏~秋期の鰺を取るようになり、昭和20年代には、対馬東沖の冬期の鯖(寒鯖)漁が盛んになる。戦後の食糧難のなか、寒鯖は対馬の問屋から運搬船によって博多に運ばれ、福岡や筑豊の炭鉱地帯に流通し、大きな利益を上げる。昭和30年代には東海と呼ばれる済州島南側海域から東シナ海の漁場が開拓されるが、当時は韓国や中国の漁船の規模や装備は貧弱で、日本漁船団の独断場だった。

さらに昭和40年代には北海道東沖や三陸沿岸で鯖や鰯の漁が盛んになり、出漁した生月島のまき網船団は空前の豊漁に恵まれる。発展するまき網は地元の浦だけでなく周辺在部からも多くの若者を雇用し、特に度島は多くの船員を輩出している。またまき網雇用によって労働力不足となった落網(大規模定置網)には佐賀県波戸から働きにくるようになり、アゴ船引網などの小型漁船も動力化していく。一方で、沿岸での小中羽鰯の漁獲は昭和30年代に入ると減少し、和船巾着網や縫切網は廃業し、鰯を用いた製造業も多くは廃業し、残ったのは白浜や潮ノ浦などしかない。

農業は、戦後の食糧難の時代には利益があったが、昭和40年代になると麦価の引き下げや甘藷のアルコール用途の減少などで、収入が減少する。加えて農家の重要な副収入だった薪の生産もエネルギーが石炭・石油に移行したため需要が縮小し、子牛の生産も耕耘機などの農業機械の導入によって減少した。政府の農業政策も、日本経済が第二次産業の工業製品の輸出を重視していく中で、農作物の輸入自由化を進める方向に進み、輸入農産物の低価格に対峙して低価格化を余儀なくされていく。加えて農業の近代化方針に沿った農業機械の導入や農薬、肥料の購入は、農業支出を増大させ、それもまた実収入の減少に繋がった。そのため農家は出稼ぎや別業を持つ形態への移行を進めていかざるを得なくなる。農協も商品作物の産地形成など、営農面で有効な方策を確立する事はできず、農業機械や、農薬、肥料などの販売や、保険、貯蓄など金融面の取り組みを重視する方針を採ったが、それが農家の農協離れを生んでいく。田平町域においては官民共同での農業振興が図られている。南部で昭和初期からミカンの栽培が始まり、昭和30年代中頃から栽培が本格化し、昭和45年(1970)には栽培面積が69㌶に達している(『田平町郷土誌』)。また田平町の農業振興計画では「南柑、北菜、全畜」というスローガンを掲げ、北部での野菜栽培と南部でのミカンを中心とする果樹栽培の振興を重点とした農業の構造改革を図り、行政も大きく関与する形で農業振興に取り組んでいる。昭和40年(1965)には福崎の白菜が農林省の産地指定を受けている。しかしミカンは昭和40年代後半には全国的な生産拡大によってダブつき気味となり、さらにオレンジ輸入の自由化などによる打撃を受けて昭和57年度より減反に向かっている。野菜栽培も後継者不足等によって昭和50年代に減少する。平成元年(1989)には、水事情が悪い台地部に水を供給して農業を振興するために久吹ダムが竣工している。

 昭和40年代頃からは旧平戸市の観光業が盛んになる。江戸時代に平戸を訪れた司馬江漢は、平戸に逗留し、阿蘭陀塀や観音院の鐘などを見物しているが、記録の多くは生月島の捕鯨や鮪漁の記述に費やしており、平戸を観光地とする意識は感じられない。第二次世界大戦終結直後は食糧難で観光どころではなかったが、昭和25年(1950)には朝鮮戦争が起き、軍需品などの生産や修理の拡大で日本経済も回復基調となる。そして昭和30年代に入ると国民にも観光やレジャーに向かう余裕が出てくるが、当時の観光の主形態は大型バスなどを利用した修学旅行を含めた団体旅行だった。当時の平戸は九州本土との間に橋が無く、団体客は日ノ浦港でバスから下りてフェリーで平戸に渡り、平戸市街地周辺の観光を行い、ホテルや旅館に宿泊したが、短距離ではあるが船に乗って訪れるというシチュエーションは旅情をそそるものだったと思われる。昭和30年頃の平戸の観光客は5~6万人と推測されているが(昭和41年3月20日付、毎日新聞)、30年代の平戸観光を牽引した存在が昭和30年(1955)に設立された(財団法人)松浦史料博物館だった。同館の昭和31年度の入館者は23,282人だったが、昭和44年(1969)には10万人を越えている。さらに昭和34年(1959)には平戸観光記念館(のち平戸観光資料館)が、昭和37年(1962)には平戸城に天守閣型の展望台・展示施設「平戸城」が建設された事も観光客の伸びに拍車を掛ける事となった(当時は「復元」と称されていたが、平戸城には元々本丸天守が存在しないので、復元という表現は相応しくない)。但し平戸城の入館者数は「城のスケールも小さく陳列品も貧弱なため」当初の年は多少黒字だったものの、その後は赤字続きで、昭和41年(1926)には運営を財団法人平戸市開発公社に委託する形になっている(昭和41年10月23日付、朝日新聞)。一方、宿泊施設は、昭和30年代末頃から平戸海上ホテル(ニュー平戸、1964年)、旗松亭(1969年)、平戸観光ホテルなどの近代ホテルが開館するなどキャパシティーアップが進み、修学旅行など大型団体客の受け容れ体制が出来た事も観光振興に繋がり、昭和40年には平戸の観光客は36万人と10年前の6倍に増えている(昭和41年3月20日付、毎日新聞)。また『西海・平戸地域における観光需要予測調査報告書』に掲載された主要入込客数も、昭和35年度には12万7千人だが、昭和42年度には48万1千人と4倍近い伸びを示している。渡船時代の平戸観光は、平戸城、松浦史料博物館、寺院と教会など平戸市街地の周辺を回るのが中心で、昭和34年(1959)11月7日の朝日新聞の記事では、平戸港周辺では観光施設や案内板の整備が進んでいるものの、離れた川内地区では各史跡の場所が分り難い、案内板の文字が消えかかっているなとの不備がある事が指摘されている。 

昭和52年(1977)に平戸大橋が開通した事で、平戸観光は新たな段階を迎える。大型バスで直接、平戸島内に乗り入れる事が可能となり、それによって川内や平戸中部の教会、美しい砂浜を持つ根獅子なども観光対象となる。開通直後の昭和52年度の松浦史料博物館の入館者は306,582人という驚異的な人数となった。また昭和57年(1982)には根獅子に切支丹資料館が開館しており、宿泊施設も大橋開通時期にホテル蘭風や脇川ホテルが開館している(各施設や観光課への確認や過去の市報などの資料で開館年が特定できなかったため、今後、当時の新聞などで確認したいと思う)。

 

(2)現在

 平成に入ると生月島の遠洋まき網漁業は、東シナ海、道東・三陸沖などの漁場で漁獲が低迷する。一方、東シナ海では国家の支援を受けた中国漁船団の近代化と拡大が急速で、中間水域などでは乱獲が進み、急速に漁獲状況が悪化している。国も漁獲に対しまき網船団数が多すぎる現状を是正するため減船政策を進め、壱部浦のまき網船団は平成14年(2002)に消滅している。現在は舘浦のまき網船団3社6船団が継続している状況だが、平成20年代に入ると網船が199㌧型に大型化し、従来網の片端を固定していた灯船が減船されて、本船などに搭載するデッコ船に機能を移行した事で、隻数と人員の合理化が図られている。しかし乗組員不足は深刻で、地元から水産学校に入学した若者もやはり人手不足の内航船などに流れている現状で、インドネシアからの技能実習生を受け入れる事によって操業が成り立っている状態である。定置網漁業では、平戸島白石の綾香水産が漁業・体験・漁食を組み合わせた六次産業化を目指した事が特筆される。また平地島南部の釣漁、刺網などによるヒラメ、アラ(クエ)、ウチワエビなどや、養殖でも坂野水産のなつ香ブリなどの知名度が上がり、物産振興課の販路拡大の取り組みやふるさと納税の返礼品等を通して、平戸市域の海産物の関東圏などでの周知も進んだ。

 観光では平成10年代に入ると、ホテル蘭風が温泉を採掘し、平成12年(2000)には平戸市が中野に温泉給湯センターを整備してホテルに供給するなどして宿泊客増が図られている。また平成3年(1991)に生月大橋が架橋された事で、大バエ断崖やガスパル様など生月島方面の観光地が平戸観光の選択肢に加わり、平成7年(1995)には生月町博物館・島の館が開館、さらに平成28年(2016)には中江ノ島、春日が「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」が世界遺産に選定され、選定前から田平の田平天主堂を含めた観光客が増加している。また市外では平成4年(1992)佐世保市にハウステンボスが開業している。それ以前の長崎県では、長崎市を中心とした県南エリアが観光の中心だったが、ハウステンボスの開業によって県南と県北の二極化が進み、平戸地方の観光コースもハウステンボスとの関連で組み立てられる事が多くなる。但し国全体の観光情勢は、インバウンドの増加などの好調要素がある一方、バブル崩壊(1991~93)以降の経済の沈滞、リーマンショック(2008)、コロナウイルス蔓延(2019~)などに伴い経済悪化の影響で下降傾向にあり、また貸切バスの運行ルールの厳格化(2013)や団体旅行から個人旅行へのシフト傾向などもあって、平戸地方の観光業もその影響を大きく蒙っている。

 世界経済は1970年代以降、国際的な通貨調整のためのブレトンウッズ体制が終焉し、変動相場制に移行する中で、金融資本の主軸が、産業の拡大・更新のための投資から、資本を移動させる事による増殖を企図した投機へと移行し、特に1980年代以降の先進国で拡大した新自由主義に基づく規制緩和によってその傾向は強まっている。それにつれて労働価値の相対的低下、格差の拡大、コモン(社会資本)の縮小、資源の減少、農地の荒廃、環境の悪化などの問題が顕在化しており、実態経済に依存する平戸地方の経済や社会、人々の暮らしにも様々な影響を与えている。たとえば国鉄や郵便の民営化、平成の大合併、指定管理制度、正規職員の減少などは、経済効率優先、「小さな政府」の実現を背景とした施策であり、コモンの縮小、住民サービスの低下などを招いている。

 

3.平戸市の未来

 

「人間にとっての歴史」についての基本的理解と、過去の平戸地方の歴史を踏まえた上で、これからの平戸地方について考えていきたいが、最初に平戸地方の歴史を、経済構造に注目しながら概観してみたい。

平戸地方では原始時代から自給的な漁業が長く行われてきたが、古代には九州西岸航路の交易活動と結びつく形で、中世初頭から近世初頭には、加えて中国などとの対外交易に関係して、貿易船の入港、交易に伴う食料・資材の供給や労働、権益利潤が大きな経済的ウエイトを占めた。政治的な状況も、貿易に関わる権益の獲得を中心に推移していくが、最終的には平戸瀬戸と港市平戸を掌握した平戸松浦氏が掌握して近世大名の途を辿る。

外国との関係が失われた江戸時代には、捕鯨を始めとする漁業が、平戸藩さらには日本国内という限定的経済圏域における持続的経済の維持に大きく貢献し、地域内では漁業やそれに伴う製造業を営む浦を中核とし、そこに周辺農村が食料・資材や労働力を提供するミクロ漁業ブロック経済圏が各地に出現した。

近代に入ると、日本という経済圏域も欧米を軸とする資本主義経済システムに包括されるが、平戸周辺でも近代化に伴い佐世保鎮守府や造船業、北松炭坑の発展などがあり、平戸地方でも、周辺地域や国内各地の消費に対応した漁業が盛んになり、ミクロ漁業ブロック経済圏が維持されながら、動力化による漁業の近代化が進行する。また昭和30年代以降には、平戸を中核とした観光経済が大きなウエイトを占めるようになる。

このように、時代毎の日本や世界の経済構造のなかで、平戸地方においてもそれにシンクロする形で様々な産業が展開され、経済が機能してきたのだが、その多くは海との関連で成り立ってきたという特徴がある。こうした傾向を踏まえながら、今後の平戸地方の方向性について考えていきたい。

 

  • 「平戸市」という世界を認識するために

 ある一定の範囲を持つ地域では、そこで暮らす住民が、地域という枠組を認識することによって、始めて固有の地域(社会)として成り立つ事が可能となる。

 平戸市という枠組みが未来永劫続いていく保証は、平成の大合併を経験した今の市民からすると心細いところがある。それでも当面はこの平戸市という枠組みの中で暮らし、生きて行かねばならない。自分が住むより狭い地域-旧町村や集落-を自分の世界として認識した方が自分との関係性を認識しやすいが、市はそうした地域の連合体に過ぎないという認識の仕方もある。さらによりミクロに、一族、家族、あるいは恋人、友達という小さな関係性に限定して自分の存在を認識するという方法もある。しかし現代社会は、経済をはじめ資源、環境、情報、さらには病疫など、あらゆる分野で他の広い地域と繋がり、相互に連動している。様々な経済活動も、多くの産業が地域や集団を越えて繋がり合って動いているので、自分の周囲の地域や集団のあり方だけに拘っていても、全体の流れがぎくしゃくして結果的に自分の所も上手くいかないという事が起こる。

そのため、日本とか地球というマクロな枠組みで自分の世界を認識する事も必要とされる。ミクロな世界では些細な事でも、マクロな世界のレベルで見ると大きな問題となっているので、ミクロな世界でも対応を求められる事もある。海洋のプラスチックゴミとレジ袋もそのような問題の一つである。

 マクロにしろミクロにしろ、個人が世界や、そこに暮らす人々が自分と関係がある集団である社会として認識するためには、その世界(その世界の時間的展開である歴史も含めて)に存在する事物に基づいた物語を共有する必要がある。物語の共有が無ければ、例え同じ世界空間に住む隣人であっても地域社会を構成しているとは言えない。その点に、現在の地域社会における憂慮すべき問題がある。

かつてのムラ社会では、ムラという地域世界に暮らす人は、例外なくムラ世界の物語を共有する事で、すべからくムラ社会の一員となっていた。しかし人々の世界認識は時代を経るにつれて必然的に変わっていく。生月島を例に取ると、江戸時代には平戸藩が規定した浦と在という区分があった。それぞれの集落(ムラ)はその範囲内に固有の物語を持ち、住民はそれを共有したが、浦集落はおもに漁業や海に関係する仕事を生業とし、在集落はおもに農業を生業とした。生業環境や労働形態は性格にも影響を与えるので、浦と在では平均的な性格に多少の違い(個性)があり、それは物語にも影響した。明治22年(1889)以前には地理学上の世界である生月島の中に行政上の世界である生月村、山田村という二つの村があったが、双方の住民間には区別感があった。例えば舘浦盆踊りの歌詞には「生月は南上がりの北下り、いつも大漁で浦繁盛」というのがある。その意識は長い間維持され、今でもまちづくり運営協議会の範囲として残っている。明治22年(1889)以降は、地理学上の世界である生月島と、行政上の世界である生月村(のちに町)が一致する事になったが、それは空間的にも認識がしやすい世界であった。行政サイドも村・町の紐帯形成に配慮し、昭和41年(1966)には第1回の町民運動会が開催され、また昭和42年(1967)に生月中学校と山田中学校が統合され、新たに生月中学校が発足したが、その頃から生月町という意識が強まった印象がある。平成8年(1996)から始まった舘浦競漕船大会(セリブネ)も、益冨組の頃に行われていた櫓漕ぎという技術を共有するという点も含めて町の意識を感じられるイベントである。

しかしその一方で、地域の物語が住民に与える影響は、新たな情報媒体の登場によってそのウエイトを低下させ続けている。50年前にはテレビが登場し、ドラマなど多くの物語を提供するようになり、20年前以降はパソコン、10年前頃からはスマートフォンが普及し、インターネットの様々なアプリケーションが物語を供給するようになる。今や地域に居住していても、ネットによって物語を供給されながら地域の物語を共有しないという住民も増えているが、そうした住民にとって地域は世界として認識されにくい。こうした状況は、こんにちの地方行政が小中学校、防災、自治組織、まちづくり運営協議会、また様々なボランティアの協力で成り立っている事からすると厳しい状況である。

新しい平戸市という地域を住民が世界として認識するためには、地域の物語を共有する事を意図した様々な事業を企画していく必要があるが、そのための一つの方策が、市民が物語を共有するという意図を持った全市的イベントの実施である。それは旧平戸市譲りの格式張った式典ではなく、市民が参加して新たな物語を創造し、共有していく装置としてのイベントでなくてはならない。旧町村毎のイベントや祭も、物語を継承・再生産し、それぞれの世界を認識する装置として重要であり継続すべきものだが、平戸市という新しい世界を市民が共通認識するためには、その枠組みにおいてなされるイベントが重要な意味を持つのである。 

 

  • 地域情報の共有

一定の空間(世界)において人間が集団で暮らす社会では、その世界や世界が時系列に展開したものである歴史の中に存在する事物に関する物語を共有する事が重要である。例えば日本という国の存在を、域内に暮らす人々が認知する場合、前述したようなイベント(祭)も重要だが、物事を説明する物語を人々が認識する事を通して、国土という世界のあり方と、その国土の時系列の認識である歴史を共通認識とする事ができる。そのために大和朝廷は『風土記』という地誌と『古事記』『日本書紀』という史書を編集する。江戸時代に平戸藩が近世大名として成立する際にも、藩主である平戸松浦氏の由緒を整備するために、藩内の様々な場所に因んだ物語が集成・編集され『壺陽録』や『三光譜録』という歴史書が編纂されている。合併前の4市町村においてもそれぞれ史誌が編纂されているが、それらは各市町村の歴史を紹介し、それぞれの行政地域(世界)の地域情報を概要的に網羅したデータベースでもあるが、そうした地域情報もまた、物語の重要なソース(材料)となる。

市町村史誌の中で最も古いものは昭和42年(1967)発行の『平戸市史』で、分量的には藩府を擁する市にしてはコンパクトではあるが(488頁)、この時代に編まれた市町村史としては各項目がよく纏まっている印象がある。平戸市史は平成に入って新たに編纂され、自然・考古編、民俗編と資料編が刊行されているが、各論を集成する体裁を取ったため、平戸の歴史の概要や、平戸藩政の詳細、近現代の平戸市について理解する機能は不十分である。また大島村では平成元年(1989)に『大島村郷土誌』が、田平町では平成5年(1993)に『田平町史』が刊行されているが、どちらもオーソドックスな市町村史誌の体裁に忠実でありつつ、基本的な情報は網羅されている。だが平成8年(1996)に刊行された『生月町史』は、歴史の記述も各項目の情報も不十分なものである。その原因は、当時の生月町では地域情報の集積が不充分であったのにも拘らず、情報収集を行う事に編纂責任者の無理解があったからだ。

平成17年(2005)に合併し新たに成立した平戸市においては、今のところ市史編纂の動きは本格化していないが、市史の未整備は、平戸市という新しい世界をまだ多くの市民が上手く認識できない一つの原因にもなっている。平戸市博物館連絡協議会では合併直後、4市町村で、他の3地区の歴史を紹介する講座を開催したが、その目的は市民に新市の範囲の情報共有を進める事にあった。その後平戸ウエルカムガイドの主催で、平戸検定のための講座という形で、新市の自然、歴史、文化を紹介する事業を行っている。このように、新市域の歴史情報の共有は専ら行政以外が主体となり取り組んできた所がある。

今後の市史は従来のようなハードカバーの本の体裁ではなく、ネットで検索される体裁の方が、加除訂正や追加も容易である。中身も、各分野を章とした概要紹介の部分と、項目毎に情報を網羅した事典形式の部分が両方ある方が、閲覧者に取って便利である。従来の市史編纂では、年限を決めて事業を行い、その間だけ組織と職員を配し、冊子を刊行したが、今後はネットの管理や加除修正の事務・統括を行う職員を常置し、年数回委員会を開いて、加除修正する項目の検討や、内容の監修を行いながら、順次充実していく形が望ましい。目下、文化交流課では植野氏が項目毎に情報を纏めたデータベースの構築を行っているが、この成果を基盤にしてデジタル市史を構築し、庁内や市内外の人に情報を提供するシステムが構築できれば良いと思う。

 

  • 教育と地域情報

 市民で共有される物語・地域情報が少ない状況が、現平戸市という枠組の認識を市民に定着させる事の阻害要因になっているが、その状況は市職員を含む成人市民において普遍的である。私もよく業務の質問や指導をいただく時に「私はこれについてはよく知らないが」という前置きを付けられるが、その内容は特に専門的と思われるようなものではない、ごくファンダメンタルな地域の事象である事も多い。こうした地域情報の共有不全については、それが問題である事を指摘していく事から取り組んでいく必要もあるが、同時に、地域情報を発信する側も業務の重要性を認識せず、取り組みを疎かにしてきた責任がある。いずれにせよこれについては、行政全般を統括する立場の方々の理解が必要である事は言うまでもない。

とりわけ重要なのは、これから平戸市で育っていく子供達に地域の物語を伝え、多くの情報を知って貰い、平戸市という世界の認識を涵養していく事である。その取り組みは別の側面でも重要である。それは、最近は子供だけでなく大人も多くの物語を、現実世界ではなく、テレビやネットなどが提供する虚構の物語に求めているからである。とりわけ近年はネットへの依存が著しいが、ネットが供給する虚構の物語は年々より精緻かつ複雑になっている。依存症が問題となっているゲームなども、ユーザーが関与できる点で優れた物語装置である事を認めない訳にはいかない。それらの虚構の物語は多くの人に取って、現実世界によって生み出される物語と同等かそれ以上のインパクトを持つものになってきているが、その事は子供達が、成長に伴って虚構から実体験から得られる物語へとウエイトを移行させていくプロセスを阻害している。実体験に拠った物語は、人間が社会を形成し、生産に関する様々なスキルを継承し、新たなアイデアや工夫によって社会を発展・進歩させていくというプロセスを維持していく上で重要だが、ネットから大量に供給される虚構の物語の世界に埋没する事によって、個人としての生活確立や生産、労働への意欲を減退させ、社会の維持にも深刻な影響を生じさせている。それは経済の重点が虚構性の上に成り立つ金融資本主義に移ってきている事とある意味並列的な状況である分、よけいに深刻な問題なのだが、社会の基盤にある実体や労働の価値を共有できなければ、社会の存立自体も危ういという点においても、地域に関する物語や情報を子供達に提供する事は重要である。

島の館ではこのような認識に基づいて、平成14年(2002)頃から生月自然の会との共催の形で「ふるさと探検隊」事業に取り組み、また地域の小中学校の見学、講座、研修にも協力を行ってきたが、特に旧生月町域(生月町中央公民館の担当域)では、島の館だけでなく域内の団体が学校の事業に様々な形の協力を行い、児童生徒に中身の濃い教育機会を提供する学社融合活動を展開してきた。さらに近年は生月島の外の平戸市全域からの依頼も増加傾向にある。こうした取り組みの根底には、期間限定で地域外から来る先生達に、単独で地域について子供達に効果的に教える事を期待するのは、そもそも無理だというドライな現実認識がある。

 学社融合は平成8年(1996)の生涯学習審議会の答申で提唱された概念で、「学校教育と社会教育がそれぞれの役割分担を前提とした上で、そこから一歩進んで、学習の場や活動など両者の要素を部分的に重ね合わせながら、一体となって子どもたちの教育に取り組んでいこうとする考え方であり、従来の「学社連携」の最も進んだ形態と見ることができる。」(文部省HP)とされる。合併前の生月町では教育委員会の統括下、学校教育施設として生月小学校、山田小学校、生月中学校の三校があり、社会教育施設として中央公民館(昭和46年設立、図書室を併設)、500席のホールを有する離島開発総合センター(昭和60年設立)、屋内スポーツ施設のB&G海洋センター(同前)・上場運動公園(同前)、そして博物館施設である島の館(平成7年開館)があり、各施設には専門的な資格と技量を有する正規職員(社会教育主事、育成士、学芸員)が勤務して様々な事業を実施してきた。また住民サイドでも文化協会、婦人会、老人会、自主活動サークル、少年を含む各種スポーツ団体、勇魚捕唄保存会、須古踊り保存会などの団体が活発に活動し、さらに教育以外の団体である漁協(生月漁業協同組合、舘浦漁業協同組合)や農協(JAいきつき)からも、学校の様々な教育活動への支援が行われてきた。

 平成14年(2002)には、各学校長やPTA会長、団体代表によって生月町学社融合推進委員会が設立され、生月町における学社融合のあり方が検討される一方、各学校でも学社融合の講習会が行われ、教員に対する周知が図られた。平成15年(2003)には、実際に学社融合を支援するメンバーからなる学社融合コーディネーター会議が設立され活動を開始する。取り組みを強化した背景には、平成17年(2005)に生月町と他の三市町村が合併して新たに平戸市が発足する事となり、これまで生月町教育委員会が中核となって形成されてきた連携が、合併後は学校教育、社会教育、文化財の縦割り行政に別個整理される事で、維持できなくなるだろうという想定があったからである。実際、事態は想定通りとなったが、生月島では学社融合体制が連携を維持する核となった。

  学社融合体制の中で、情報収集・発信機能を担っている島の館は、学校や社会教育機関、諸団体が実施する教育活動を特に情報面でバックアップする機能を果たしてきた。児童生徒は、小学校低学年で海や昆虫について学び、中学年で取り組む郷土や道具について学習し、高学年では漁業や地質を学び、中学校では総合学習や平和教育に取り組むが、その中で島の館は、講座の開催や研修の指導、情報提供などの形で協力・支援を行ってきた。こうした取り組みを継続するなかで、小中学校の枠を越えて各学年の学びの内容が積み重っていき、中学校では、小学校からの地域の学びで得た情報を纏め、発表する取り組みを行うようになってきている。発表するという事は、生徒自身が地域情報を咀嚼し物語化する事に他ならず、子供達により確実に地域の物語を定着させることができ、今後、地域の物語の保持者・発信者となる可能性が高まると考えているが、それは同時に、子供達に、現実の世界で生きる事の素晴らしさを教える事でもあるのである。

 

(4)産業の将来

 平戸市では工場誘致には取り組んでいるものの、貨物の搬入搬出が可能な港湾が無く、高速道路とのアクセスも不便であり、かつ広大な工場敷地の確保も難しい地形を考えると、急速な拡大は望めず、今後も従来路線の延長である農林水産業(農業漁業の生産物を用いた加工品も含めた)や観光業に依存する必要がある。農業も同様だが食料自給をこれ以上低下させる事は危険というより恐怖である。1980年代には工業化を理由に農業や漁業の不要論も経済人の間で語られていたが、今や貿易の大半は工業製品のような「もの」ですらなく、ソフトやコンテンツといった情報だったり、ただのお金や株式などの価値の移動でしかない。そのような不実態経済になっても平戸地方には多くの人が暮らし、食べ物を食べなければならない。食べるためには働かなければならないが、金融資本主義の影響で労働の価値もものの価値同様下がる一方である。もし何らかの海外情勢の変化で食料が来なくなった時、多くの人々は下がった労働の対価で、高額になった僅かの国産食料を十分に確保する事ができるだろうか。

 漁業では、大型まき網漁業の維持が一つの大きな課題である。東シナ海漁場への中国漁船の進出によって、日本はこの海域の権益を失う危機にも直面している。大型まき網漁業は大量の魚を確保する点では、食料安全保障の一端を担う存在であり、かつ東シナ海の漁業権益を保持していくためにも無くてはならない存在である。食料自給率向上を前提に賃金の上昇や安全・快適な操業環境の整備を国策として図るべきである。

定置網や沿岸漁業については現代の項でも述べたが、見せる漁業・体験する漁業という方向性を進める事で、後継者問題や、産地としての付加価値を上げていく取り組みは必要だと考える。また環境に配慮した養殖業の振興も重要な課題である。魚介類については、地産地消の取り組みの中で「平戸に来れば新鮮な魚が食べられる」というイメージが定着すれば、観光振興にも大きく寄与すると思う。季節によって取れる魚が異なる多様性が平戸の漁業の強みだが、生シラス、シイラ、マンボウ、マグロなど、食材として十分に開拓されていない魚種もまだまだ多いと考える。

農業では、肥育牛の子牛生産が依然好調で、霜降り肉に特徴がある国産和牛の嗜好が中国など新興国に拡大する場合には需要の拡大が望めるが、日本では近年、ヘルシーな赤身の志向が高まる一方で、欧米でもビーガンの指向が高まっているので、霜降り肉の将来性については慎重に見極める必要がある。農作物については椎茸以外では大きく目立つ産地化は果たされていないが、それには農協の営農指導の問題などの他、多くの地区の農家で歴史的に、農業生産が米、麦、芋などの主食生産と若干の野菜の自給ないしは周辺地との交換程度の生産に留まり、その他に薪炭生産、漁業などの兼業や、出稼ぎなどから収入を得る複合的な経営の形を取ってきた事も影響している。農業からすれば兼業の位置付けである仕事の方が収入の主体となり、農業が従の形態に変化した上で耕作面積の縮小が進行している状況にある。戦後の農政では一貫して大規模化、機械化、産地化が叫ばれてきたが、地理的に広い耕地に恵まれず、歴史的にも農業と他の産業、労働との複合形態を取ってきた地域にも同様の施策を取っても有効とは考え難い。

兼業を前提とした農業施策にも繋がるが、農作物の地産地消では瀬戸の寄り道などが先鞭を付け、平戸新鮮市場や平戸瀬戸市場が地元産の野菜や海産物の販売を行っている他、各地の漁協も直売店を設けて住民や観光客を集めている。こうした産直店のあり方は、かつてのミクロ漁業ブロック経済の中で振り売りや交換で得られていた海産物や農作物の現代版とも捉えられるが、長距離の流通に掛かるエネルギーを節約できる点においては地球環境にも優しいあり方だと言える。今後、検討される価値がある施策としては、ミクロ漁業ブロック経済の中で行われた「こやしとり」慣行にも繋がるが、筑後地方で取り組まれているような、家庭の生ゴミや糞尿を堆肥化し、農業に還元する循環型システムの確立などがある。

 観光は既に記したように、平戸地方ではここ50年の間に盛んになってきた新産業である。しかしその短い間にも、船を用いた団体観光から、橋の開通でバスによる団体観光に移行し、近年は乗用車などによる家族や個人の観光に移行し、さらに体験型観光が盛んになるなど観光動向は変化し続けている。観光は本質的には、自分が居住する地域とは別の地域を訪れ、事物を見学・体験し、宿泊、食事を取るなどして、日常とは異なる体験をする事である。観光対象となる事物はモノや行動そのものより、それに関する情報の方に大きな意味がある。好例として平戸観光の代表的な景観である「寺院と教会」を掲げたい。寺院は日本中にあまたあり、教会も寺院ほどでは無いが多数ある。平戸ではその二つが一つの風景の中に存在している訳だが、単にモノとしての寺院と教会が一緒にある事に意味がある訳ではない。教会は、戦国時代の平戸にポルトガル船が来航して、ザビエル神父などの宣教師達がキリスト教を広めた事を象徴しているシンボルである。一方、寺院は、ヨーロッパ船来航以前から長い交流の歴史を持つ中国からもたらされた仏教(禅宗)を象徴するとともに、大航海時代には教会と寺院が並存した平戸の多様性を象徴し、さらに江戸時代、禁教によってキリスト教を駆逐するために設けられた寺壇制度を象徴するシンボルでもある。それに港や町屋の景観、松浦史料博物館の海や外国の香りがする展示が結びついた形で、昭和40年代の平戸観光が構成されていたが、良くイメージ統一が出来た観光プランだと感心する。観光とはそこにある事物を通して、その世界や歴史の中の特徴ある物語やそれが醸し出すイメージを知感する行為だという事もできる。

 観光対象となる事象には物語の存在が不可欠だが、物語を成り立たせるためには、事物に関する豊富で、広がりと奥行きがあり、確度を有した地域情報の存在が不可欠である。物語も地域情報も知らず、よく知ろうともせずに観光をプロデュースする事は無理な話であり、単純に他から持ってきたアイデアを移植しても、異なる世界や歴史の中では上手く展開せず、本場よりも見劣りがする二番煎じ止まりである。一時的にお金を掛けて派手なイベントを行っても、それが地域の事物に関係した物語や地域情報を充分に反映したもので無ければ、一応「仕事やってます」以上のものにはならない。

 全国各地で好評の宿泊施設を展開する星野リゾートは、その土地々々の風土に沿った宿泊施設を全国で展開している。沖縄の竹富島にある「星のや竹富島」では、この島の伝統的建造物群保存地区となっている集落の家屋を再現して宿舎にしている。開け放ちの室内には外から来る風が吹き抜ける。宿では宿泊者対象で島の伝統文化を学ぶ講座も開かれている。宿泊客は宿泊時にはスマホを箱に入れてしまうのだという。竹富島の暮らしでは自然に合わせたゆったりした島時間が流れているが、宿泊客も、さまざまな情報から離れ、ゆったりした時間を過ごして貰う。それが竹富島にいる価値だからだが、こうした宿の姿勢には人間の生のあり方まで視野に入れた確かな観光哲学がある。

長崎県下でも伝統的家屋を活用した宿泊の試みは小値賀島などで行われているが、平戸地方にも的山大島の神浦伝統的建造物群保存地区など多くの伝統的民家が残る地区がある。また産業の項で紹介した定置網体験や、美しい海をフィールドにしたカヌーや櫓漕ぎの体験などは、地域に根ざしながら、都会とは別の時空間や身体性を顕現した、価値ある観光資源だと言えるだろう。

 

(5)文化財の価値

 文化財は文化財保護法で保護されるべきものとされているが、ただ法律で決まっているから守るものではなく、既に述べてきたように、地域という世界の物語を表象する存在として守るべき価値があるものでもある。文化財行政では文化財の保護が最も重要な業務である事は勿論だが、文化財を保護するためには、市民を含めた多くの人に文化財の価値を知ってもらう周知活動が重要で、それはそのまま住民への物語の共有にもなる。

まずは平戸地方の特徴的な歴史的要素と文化財について概観してみたい。

  • 縄文~弥生時代の海人集団の活動

つぐめの鼻遺跡、根獅子遺跡など

  • 九州沿岸航路の交易に関係した弥生~奈良時代の里田原を中心とした農耕民の活動

里田原遺跡、笠松天神前方後円墳、岳崎前方後円墳など

  • 平安~江戸時代初期の大洋路の日中間の交易に伴う政治・経済・宗教の様相

薩摩塔、海寺跡、安満岳、志々伎山、朝鮮井戸、箕坪城、唐船図、碇石など

  • 戦国~江戸時代初期のヨーロッパ人との交易に伴う政治・経済・宗教の様相

宮の前、かくれキリシタン信仰(オラショ)、教会、オランダ商館跡など

  • 江戸時代の平戸藩政と芸能

平戸城、平戸の町並み、ジャンガラ、須古踊り、盆ごうれいなど

  • 江戸~現代に至る様々な漁業の様相

 益冨家住宅、御崎浦納屋場跡、神浦伝統的建造物群保存地区、鯨供養塔、勇魚取絵詞、捕鯨銃、定置網、遠洋まき網、アゴ網など

  • 昭和前中期の戦争に関する事物

 的山砲台、ミンチマ砲台、白岳監視所、中津良監視所、高島防備衛所、長瀬防備衛所、大根坂防備衛所など

 これらの項目についての調査・研究は、全般的に不十分な段階だと言わざるを得ない。考古学的調査は全項目に亘って必要とされているが、これまでは里田原遺跡とオランダ商館跡などでやや継続的に調査が行われたに過ぎない。必要とされる調査は、①ではつぐめの鼻遺跡の追加調査、②では里田原遺跡の集落の特定がある。③と④では何よりも平戸の市街地調査が待たれる。中世の大洋路に関する港市調査では、博多市街地で100期を越える継続調査が行われ、陶磁器をはじめ大量の中世の遺構や遺物が出土し、中世博多の姿があきらかになってきている。平戸市街地も博多と同時期に中継港として繁栄し、多くの中国人の居住があったのは確かで、戦国時代にはポルトガル人の活動やキリシタンの布教も行われていて、教会などの遺構が残る可能性があるが、調査はこれまで全くと言って良い程行われていない。また安満岳や志々伎山にあった中世寺院の調査も待たれる。城郭調査では、15世紀後期に築造された箕坪城に石垣等が残っている事は貴重である。⑤では平戸城の石垣、御殿などのあり方を検証する必要があり、平戸城で紹介していく価値がある事象もこうした調査で得られるだろう。⑥では御崎浦や大島鯨ノ浦の鯨組納屋場の遺構や山見遺構の解明に期待がかかる。⑦は近年、佐世保市や大村市をはじめ各地の行政が取り組みを進めているが、各地に残る戦争遺構の配置の把握や発掘調査などが待たれ、その成果は平和授業にも活用可能である。

 史料調査では⑤の松浦家の藩政史料の継続的研究や、⑥の益冨家文書、土肥組文書などの研究が待たれる。民俗・宗教関係では、島の館がこれまで行ってきたかくれキリシタン信仰の調査成果などを目下纏めている所である。また生月島や度島と深い繋がりがある遠洋まき網漁業についても全容把握が待たれる。

平戸の歴史要素の中で特に独自性があるものは④、③、⑥だが、現時点で比較的多く情報発信がされていると思われるのは④、⑤、⑥である。④と⑤は松浦史料博物館の展示で紹介され、④は平戸オランダ商館と島の館で、⑥は島の館で紹介されている。少し前までは、①と②は里田原歴史民俗資料館で紹介され、③も部分的だが⑤とともに平戸城で取り上げられていた。しかし里田原歴民は通常公開がされなくなり、平戸城は改装で展示が簡素化され、情報量が少なくなっている。本質的な問題は、施設の閉鎖や改装の是非というより、平戸の歴史全体の概説や、前述したような歴史の各要素を紹介する展示が現時点で無いという事実だ。

 地域情報の収集・発信という側面で捉えた時、平戸市は残念ながら取り組みの成果も意識も低いと断ぜざるを得ない。それは文化財保護の見地から情報発信に取り組む必要がある文化財行政においても同様である。地域情報が充実した地域ほど、住民が地域をしっかり世界と認識して郷土意識を持ち、情報化社会のなかでより注目を集める事ができ、地域振興に繋がる種を多く持つ事ができる。地域情報は地域振興の根幹である。最後にその点を強調してこの連載を閉じたい。




長崎県平戸市生月町博物館「島の館」

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