長崎県平戸市生月町博物館「島の館」

生月学講座No.224:近世日本の経済思想

生月学講座No.224:近世日本の経済思想

 

 一昨年(令和元年)12月に行った古式捕鯨シンポジウムでは、日本の古式捕鯨業は、近現代の捕鯨業や同時代の欧米の捕鯨業と経済活動としてどのような違同があるかという点が注目点の一つとなりました。これに関して末田先生は、西海系鯨組の組織と近代の会社組織の類似点を示され、櫻井先生は、アメリカの帆船捕鯨(母工船型洋式突取捕鯨による古式捕鯨業)は基本的に金儲けを追求したものだとし、古賀先生は、日本の古式捕鯨業は地域共同体や地域社会を重視した産業だった点を指摘されました。

 日本を含めた近代捕鯨業や、欧米の古式捕鯨業は、櫻井先生も指摘されたように利潤の追求を目的とした資本主義に拠って営まれた点については、異論を挟む方は居ないのではないかと思います。そこで問題となるのが、他方、日本の古式捕鯨業はどのような経済思想に拠って経営されていたのかという点ですが、これはなにも捕鯨に限った事ではなく、江戸時代の諸産業に共通するものではないかと思います。『日本永代蔵』に掲載された商売の話でも、江戸時代の日本の様々な経済活動においても、同時期の欧米と同様に利潤(もうけ)の追求が図られてはいますが、資本の増大が無制限に追求されていたのかというと、そうとも言い切れず、どちらかと言うと安定収入の維持(持続主義)という点に重点があるようにも思えます。

 鯨組を例に見ると、深澤家の本家や小値賀島の小田家などは、壱岐の漁場を掌握して鯨組の規模が最大になった後、本陣(大名対応の宿)の経営者や酒造業に転向しています。また両家とも捕鯨が盛漁の頃に新田開発に投資し、捕鯨業後には地主にもなっています。それらの事業は盛漁時の捕鯨業のような大きな収入は込めませんが、多額の経費が掛かるため不漁の際に大きな赤字の危険がある捕鯨業に比べると、安定した経営が見込めました。

  そうした中であくまで捕鯨業の継続に拘ったのが益冨家でした。しかし益冨組の場合も冬春通年操業できる優良漁場を確保する事に努め、小納屋を分社化して赤字リスクの回避を行ったり、各地の問屋と現金が動かない手形決済を多用しているのも、安定経営に向けた取り組みと捉えられます。なお漁場がある地域の経済の安定は住民のために重要ですが、益冨組では、在地の組主だった土肥組に比べて出漁先への利益の還流を抑えた側面があったようで、地元民から「がんどう(強盗)組」と呼ばれる事もありました。その辺は益冨組の経営の先進性(資本主義的経営に近い)と解釈される所でもありますが、組の安定経営を追求した結果と捉える事もできます。

  持続主義という思想の背景には、海外との貿易や活動の制限と、幕藩体制があります。食料や生活資材を海外から大々的に輸入せず、国内で自給するという状況は、一時の利潤追求によって資源を枯渇させる事が社会の崩壊を招くという意識を生んだと思われますが、特にそれを藩という小さな領域で考えると、意識はよりシビアになります。かりに一つの藩で資源環境が崩壊して経済が破綻しても、他の藩が支援する事は望めないからです。そうした制約から外れた蝦夷地などでは、場所請負制によるニシンの収奪的な漁が行われたりしているので、持続主義という経済思想は、藩というあり方と対をなすものだったと言えるかも知れません。

 




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