生月学講座No.225:年中行事の幸福
- 2022/04/06 13:51
- カテゴリー:生月学講座
寒さが緩み、早稲の田掻きや菜の花が目立つ頃になると、「そろそろ「お花」の行事だなあ」と思う事があります。「お花」とは、壱部のかくれキリシタン信仰(かくれ信仰)の年中行事で、「上がり様」という復活祭にあたる行事の一週間前に、御前様にふたなりの椿の花を供える行事でしたが、現在では他の多くの行事と同様、廃止されています。しかし20年前にはかくれ信仰の多くの組が健在で、たくさんの年中行事も行われていて、私も忙しく調査に走り回っていました。そして例え調査の形ででも行事に参加する事で、かくれ信仰の暦の「円環の時間感覚」に同調できたような気がしていました。
かくれ信仰の年中行事は基本的に、キリシタン信仰の信仰の組で行われていた行事を継承したものですが、その根底にはキリスト教(カトリック)の宗教暦があります。冬至後の日曜日の「御誕生」(クリスマス)や、立春近くの水曜日の当日を入れた46日の「悲しみ」の期間を経た日曜日の「上がり様」は宗教暦に沿って行われる行事です。その一方で、「田祈祷」「麦祈祷」など稲作・麦作に関する行事、「風止めの願立て」「風止め願成就」など作物の生育に影響する風害を避ける行事、「まや追い出し」「野立ち」など耕作に用いる牛の安全を祈願する行事など、生業に関係する行事も多く行われました。それらの行事は作物の成長や農事など自然のリズムに沿った生業の「円環の時間感覚」とリンクしているので、かくれ信仰の「円環の時間感覚」も信者によく馴染んだものとなっていました。こうしたあり方は今から450年前のキリシタン時代に確立し、禁教時代にも連綿と継続されてきたのですが、昭和40年代以降、米、麦を栽培し、牛を耕作に用いる生業形態が変化し、生業の「円環の時間感覚」が薄まっていった事がかくれ信仰の「円環の時間感覚」にも影響を与え、信仰の衰退に繋がったところがあると考えています。
一方で近代以降になると「直線の時間感覚」が強く意識されるようになります。それは時間の経過と共に発展、成長、拡大する事を前提としていて、教育や技術の習得などでは古くから意識されてきましたが、近代になると根幹をなす科学と経済で特に強く意識されるようになります。科学は時間の経過とともに進歩するのが当然だとされ、近代経済の基本をなす資本主義は、資本の増大を目的とするため、成長し続けなければならない宿命を有しているからです。そのため近現代の人間はそれに同調して常に進歩、成長する事を求められてきました。新しいスマホを購入し、習得して新たな情報を集め、労働にはノルマが課せられ、変動する株式相場を日々眺め、資産を増やす事にやっきとなっているのも、直線の時間感覚の所産だと言えます。しかし地球という領域にも、環境や資源に限界がある以上、無限の成長というシナリオには無理があり、環境も資源も損なわれ続けています。また進歩や成長から脱落した人達だけでなく、必死に進歩に付いて行こうとしている人達も、少しも幸福ではないと感じています。
そうした状況を変えていくためには、個人が四季の変化を感じる感覚を敏感にして、夏が近づいて来たら、「もうすぐセリブネ大会だ、みんなで櫓漕ぎの練習をして、その後ビールを飲むのが楽しみだ」と思うような「円環の時間感覚」を、もっと大事にできるような社会に変わる(戻る)必要があるのではないかと思います。