長崎県平戸市生月町博物館「島の館」

生月島の歴史 №1「生月島の成り立ち」

生月島の成り立ち

1.何故「生月島史」か

  生月島での私の正規学芸員としての勤務も、今年度末で終わりとなった。学芸員になるのは小学生からの夢で、島で仕事をするのは高校生からの夢だったが、その両方が叶ったのは、30年前に生月とは縁もゆかりも無い福岡市育ちの私を採用していただいた旧生月町の石田町長と、黒田教育長の御英断の賜である。その恩に報いるのは、地域情報を出来るだけ多く集め、整理して、生月島の方々に様々な機会を通して発信する事だと思って今日までやってきた。もっとも平成17年の合併後は、平戸市という広い枠組みで仕事をする必要が生じ、特にここ数年間は、今後の平戸市の文化財行政や観光、地域振興で地域情報が必要になるという見通しから、館報や館のHPなどで平戸の歴史や文化の発信を行ってきた。しかしあと一年となると、やはり島の館がある生月島の歴史についてきちんと纏めておくべきだと考え、今年度12回連載の形で纏める事にした。

 このように生月島史を纏めておこうと考えた理由にはもう一つある。過去、生月島の歴史について体系的に網羅された本が編まれる機会は二回あった。最初は大正8年(1919)に生月島内の学校の先生方によって制作された『生月村郷土誌』で、次は昭和52年(1977)に近藤儀左衛門氏によって制作された『生月史稿』である。前者は当時全国的に行われた事業の一環で、後者は前々に儀左衛門氏の叔父で京都帝国大学教授(法学)の近藤英吉氏が戦前に進めていた研究を元に制作されたものである。この二書はそれぞれ制作された時代の研究の進度という制約はあったが、内容的には充実したものだった。

 一方行政では、昭和15年(1940)に町制が施行された後の生月町で町史(誌)が刊行されたのは、他の市町村で市町村史(誌)が刊行されるよりかなり後の平成9年(1997)2月の事だったが、はっきり言ってその時刊行された『生月町史』は構成も内容的にも浅薄極まりなく、行政の基本情報を除くと殆ど情報的な価値は無いという代物だった。原因は当時の編纂委員会と事務局の怠慢にある。私が採用されたのは平成5年10月で、それ以前の開館準備は若干の資料が公民館に集まっている他は殆ど進んでいなかったので、直ちに展示構成の作成や資料収集、パネルの制作にかかったが、町史編纂事業もちょうど同時期の平成6年に始まったため、開館準備に追われるこちらは町史の事業には間接的にしか関わる事ができなかった。島の館の開館後(平成7年11月)も、始動した館の業務や追加事業への対応などに追われたため、編纂事業の実情を窺い知る事ができたのは編纂最終年度の平成8年度に入ってからだった。そのきっかけは、事務局から各単元の執筆を依頼されていた町職員や町民の方が「書けない」と言って次々と代筆依頼をしてきたからで、それでそもそもの執筆依頼の成否や、依頼後2年の間は執筆がどれだけ進んだかを確認する事など無いまま、3年目になって突然締め切りを提示された等、万事進行が杜撰だった事が分かった。それで自分が受け持っていた民俗の項目を後回しにして、代筆依頼を受けた原稿を次々と仕上げていったが、それでも平成8年度のうちに全ての原稿が上がるかは微妙という現状だった。

 そこまで手間取った大きな理由には、生月町の地域情報の収集が乏しかった事があった。他の市町村では、歴史、民俗、自然などに関心を持つ郷土史家達が史談会を結成し、継続的に成果を発表するような形があったが、生月町の場合はそうした組織や継続的に研究を続ける郷土史家も居なかった。唯一、かくれキリシタンと捕鯨については大学などに属する研究者の研究がある程度進んでいたので、島の館の展示についてはそれで当初の立ち上げはできた(但し町史ではこれらの分野は他の執筆者が担当した)。しかしその他の分野については全くと言って良い程情報が無く、本来的には、時間が掛かるが一から調査をするしか方法がない状態だった。しかし事務局も、そのような情報の収集の必要性の理解も、自らそれに取り組む姿勢や意志も無く、情報を収集するために県立図書館などに行く旅費なども全く無かった。私が聞いた出張は、編集委員が熊本の五木村まではるばる出向いてかっぽ酒を飲んだ事くらいで、その理由も、五木村と生月島の方言に似たものがあるという全く意味不明なものだった。

  それでも2月中頃には代筆依頼の原稿だけは何とか仕上げ、ようやく自分が受け持った民俗の原稿に取りかかった。しかし2月末の時点で事務局から突然締め切りが宣告される。私は、少なくとも3月なかばまで締め切りを延ばして、出納閉鎖までの期間で刊行すれば良いのではと抗議したが、聞き入れられなかった。そもそも原因は前述したように事務局側にあり、本来の執筆者でも担当でも無い私が仕事の尻ぬぐいに苦労する義理も無かったのだが、せっかく多くの公金を投入して作るのなら、それなりに町のデータベースとして役に立つものを作るべきだという気持ちがあって取り組んだのである。しかし結果的には、甚だ粗末な内容の町史で終わってしまった。

 あれから36年が経った。生月町という行政単位も2005年に無くなってしまい、新しい町史を作成できる機会は永久に無くなったが、その反面、生月島に関する様々な分野の情報は、聞き取りや資料の調査、シンポジウムの開催や、様々な分野の研究者との出会いによって、かなり蓄積する事ができた。そのため今ならば、36年前には情報不足で出来なかった町史(島史)を、島民の方に提示する事ができるのではないかと思い、正規職として仕事ができる最後の一年間に、月一回のペースで生月島の歴史をHPにアップする事を思い至った次第である。

 

2.生月島の成立

  生月島の地層は、上部が火山から噴出した溶岩が冷えて固まった玄武岩からなり、下部が海底に積もった砂が石化した堆積岩からなる。この構造は平戸市域の各地で確認する事ができる。

 生月島の基底をなす堆積岩は平戸層群と呼ばれ、海岸近くの低い海抜の所だけに見られる。東海岸では黒瀬の海岸沿いや松本付近の山側の崖、上川の庚申神社の脇の崖などに見られる砂岩層がそれである。私は実見していないが、砂岩の中には貝の化石などが確認できるという。また現在の支所がある辺りでは昭和初期に炭坑の試掘が行われているが、その時対象となった石炭も、太古に堆積した木材が石化したものである。この地層は堺目から元触にかけての地域では島の東西で概ね標高100㍍付近まで見られる。また舘浦付近でも同様の標高付近まで確認出来るが、その付近の西海岸は海岸まで玄武岩である。また黒瀬付近と、壱部以北は概ね海岸まで玄武岩である。このような違いが生じた理由については、溶岩噴出以前の平戸層の表面に起伏があった可能性が考えられるが、明らかではない。

 平戸層群が形作られたのは、新生代新第三紀中新世中期初頭(約1500万年前)頃で、浅い海底に土砂が堆積した地層が圧力で石化したものだとされる。土砂を供給したのは太古の昔、中国大陸を流れていた川で、1500万年前には現在の東シナ海の海底にある大陸棚はまだ陸地で川が流れていた。砂岩は砂が堆積して出来たものだが、砂は泥に比べると重いので、現在の生月島がある辺りは、河口からそれ程離れていなかったという推測ができる。前述したような起伏を浸食によるものだと考えると、砂丘ないしは砂岩化した平戸層が一度陸化した事が考えられる。

  地球の表面を構成する地殻はプレートと呼ばれる区画に分割されている。生月島を含めた日本列島は、ユーラシア大陸が上に乗る巨大なユーラシアプレートの東端にあたり、列島の南側や東側でフィリピン海プレートや太平洋プレートと接している。これらのプレートは、さらに深い部分にあるマントルや核が保持する熱によって起きる対流運動に引かれてゆっくりと動いている。日本列島周辺では南からのフィリピン海プレートや東からの太平洋プレートがユーラシアプレートの下に潜り込む形で動いているため、ユーラシアプレート側にも押される圧力がかかり、地殻が割れて力が解放される際に地震が起きたり、地殻間の摩擦から地殻と海水が反応・高熱流動化してマグマが発生し、それが地表に噴出する噴火が起きたりしている。そして潜り込むプレートに押されたユーラシアプレートの端が隆起して陸地を形成したものが日本列島の骨格をつくっている。九州は2000万年頃に島(陸地化)になったと考えられているが、西側(こんにちの東シナ海)は海のまま残り、温暖化による海進などによって200㍍程の水深になっている。

 生月島やその周辺では新生代に入って火山の噴火が起き、その噴出物によって山や台地が形成されている。マグマには様々な物質が溶け込んでいるが、地上に噴出する迄の間に多くの物質が周囲の地殻に溶け出していく。その際に一定の鉱物が凝集された形となる鉱脈が形成されるので、そこに坑道を掘って効率的に鉱物の採掘を行っている。もとのマグマは物質が多く溶け込んだ状態なので比較的粘性が小さいが、物質がマグマの外に溶け出していくと相対的にガラスの元でもあるSi(ケイ素)の割合が増えていき、粘性を増していく。

 そのため多くの物質が溶けたままのマグマが噴火すると、溶岩はまだ粘性を持たないので川のように流れ、なだらかな山が形成される。このような溶岩が冷えて出来る岩石が玄武岩だが、生月島の山頭や御崎のなだらかな台地の地形は、玄武岸質溶岩の堆積でできた溶岩台地という地形である。また周辺でも度島や的山大島、北松浦半島、伊万里湾の鷹島、福島などは玄武岩で出来た溶岩台地である。鷹島で産する玄武岩は阿翁石と呼ばれ、平戸地方では江戸時代から鳥居や灯籠、墓石などに用いられてきた。

 玄武岩よりやや粘性がある溶岩で出来る岩石が安山岩である。平戸の安満岳は安山岩質溶岩でできているため、やや急峻な山になっている。さらに粘性が高い溶岩(流紋岩質溶岩)が噴火すると、急斜面で盛り上がった溶岩ドームという地形を作るが、ドームが自重や地表に達した溶岩の急な発泡などで崩落すると、高温の熱風と粉塵が高速で流れ下る火砕流を発生させる。雲仙普賢岳の噴火はこのスタイルで、火砕流が堆積し、自熱で溶結すると凝灰岩という岩になる。

 玄武岩質溶岩の噴火は、ハワイのように洋上の島の火山で多く見られるが、海は地殻が薄いため、物質があまり抜けないうちに噴火するからだと言われる。一方、厚い地殻を抜ける陸地側の噴火では安山岩質や流紋岩質の噴出が多いとされる。

 生月島の位置では800~300万年前に、堆積岩の平戸層を突き破って大規模な噴火が起き、粘性が少ない溶岩が噴出して玄武岩の層が形成されている。玄武岩であるという事は、生月の場所がまだ海底か、海島の状態で噴火した事が考えられる。噴火は何度も繰り返された事が、大バエや鷹の巣断崖に見られる縞状の堆積状況から分かるが、塩俵では、一度に大量の溶岩が噴出する大噴火が起きたと考えられる。昨年、NHKで放送された「ジオジャパン」という番組では、マントルから直接マグマが噴出するスーパープルームという大噴火で出来た地形として、塩俵が空撮で紹介されていた。その後、塩俵を生んだ噴火について触れた論文をネットでも検索してみたが、今のところ確認出来ていない。柱状節理を成立させるためには、一度に噴出した大量の溶岩が、窪地や谷のような地形に溜まる必要があるが、そのようにして溜まった溶岩がゆっくり冷えていくと、表面に出来たひび割れが冷えるにつれて段々奥に伸びて柱状に割れていき、「柱状節理」という独特の地形を作る。柱状節理は佐賀県唐津市の七ツ釜や福岡県糸島市の芥屋の大門で見られる他、国内では兵庫県の玄武洞、福井県の東尋坊などが有名で、世界ではイギリス・北アイルランドの世界遺産・ジャイアント・コーズウェーがよく知られている。なお塩俵の柱状節理を生みだした噴火口は塩俵からそれ程遠くない場所にあったと考えられるが、噴出した溶岩によって塞がれているためか正確な場所は分からない。

  噴火で形成された山は、噴火直後から海や風雨による浸食を受ける。生月島の西岸では特に冬場の北西風が起こす激しい波浪によって海岸が浸食を受けた結果、大バエや塩俵、鷹の巣、長瀬崎などに海食崖が形成され、その崖がさらに部分的に浸食される事によって「はなぐり洞門」や「長瀬八洞」などの海食洞が出現している。また北部では浸食後に大地が隆起ないし海面が下がったため、浸食によって海底に出来た平坦な岩場「海食台」が海面上に姿を現している。大バエや御崎地区西側の海岸に連なる一連のハエがそれだが、同地区東側の鞍馬鼻や水ノ浦付近には、海食崖の下に波でえぐられた部分があり、その下に短い海食台が発達する地形が見られる。

  一方、島の東側では玄武岩で出来た山が崩れる地滑りが多発している。地滑りは山地や丘陵を構成する岩石や土砂が、下部の非帯水層との間に水分を含むなどして、層上面の傾斜に沿ってゆっくりと下方に移動する現象だが、生月島は日本有数の地滑り地帯と言われている。生月島の地すべりは北松型地滑りという形で、非帯水層である平戸層の上を地下水が流れ、上の玄武岩層などが動いて地滑りが起きている。この形のものを一次地滑りといい、生月島では番岳とその北側に延びる山地、南部の山頭の東側が一次地滑りによって崩れた事で、壱部、堺目、元触、山田の集落が展開する台地や緩斜面地が形成されている。

 さらにその地滑りによって出来た台地を構成する礫まじりの崩積土が、水を含むなどした重みで再び動く二次地滑りも起きている。里浜の背後にある水田地帯もこうした二次地滑りの所産だが、生月島で最も代表的なものが松本地滑りで、ここでは滑落崖が馬蹄形に巡り、頂部の滑落崖から海岸まで600㍍、滑落の幅400㍍という大規模なものである。この地滑りの内側の崩積土上の緩斜面は島内屈指の田地(松本田原)となっている。松本田原は過去、大豪雨の際に断続的に地すべりを繰り返してきた。記録に残るだけでも明治13年(1980)8月、明治22年(1989)6月、明治41年(1908)6月、大正3年(1914)7月に大規模な地滑りが起こり、昭和10年(1935)7月1日にも植付を完了した田んぼ約20町歩に亀裂と断層がはしり、秋には収穫皆無となっている。直近では昭和42年(1967)7月4~10日の集中豪雨で松本地区全域で地滑りが発生し、被害総額は2億数千万円に及んでいる。この災害をきっかけに滑落崖の崩壊防止や崖頂部の崩壊防止工事が行われ、今日に至っている。

 地滑り末端部の斜面下には湧水が確認できるが、そうした湧水は集落の貴重な水源となってきた。壱部浦のトノガワはそうした湧水である。地滑りは上面にある家屋や耕地を破壊するため災害としての側面が目立ちがちだが、平地が少ない生月島では、地滑りによって農地や宅地として使える緩斜面が形成されたという側面もあり、必ずしも悪い側面ばかりで見る事はできない。

 溶岩台地や一次地滑りで形成された台地・丘陵は、雨水の流下によって出来た川の浸食で谷を形成している。島南部には島第一の長さを有する神ノ川(4㌔)が溶岩台地を浸食して作った標高100㍍を越える河谷が見られる。また東岸に流下する小河川も一次地滑りで出来た台地を削り、それぞれ小さな谷地を作っている。

 地滑りが海岸に達した部分では、波浪による浸食で海岸が後退したと思われるが、そうして浸食された土砂は潮流で流され、岬に挟まれた弓なりの海岸では礫や砂の堆積が起き、小さな砂丘状の砂礫海岸が形成されている。舘浦集落はそうした海岸の上に発達した集落で、千人塚では公園造成の際に厚い砂層が確認されている。壱部浦も海岸部には砂礫層が存在する可能性があるが、今のところ住吉神社周辺など部分的にしか確認されていない。一方、島の西岸では北西風による波濤の勢いが強く、堆積より浸食の力が強いが、方倉海岸では礫が堆積した堤防状の地形と、その内側に残るラグーン(潟)が確認できる。

 河川の河口部には海が侵入した湾入が形成される事があるが、壱部浦北側の先方の現在家が建て込んでいる地区も往古は入江だったと思われ、舘浦浜の宮の下では往古、現在のバス道路沿いに入江が入り込み、現在のJAの駐車場の背後付近まで達していた可能性がある。また島の南西岸の長瀬崎の南側にある田原が広がる場所も、昔は入江だったと思われるが、ここは干拓など人為的な形で陸化した可能性もある。

 このようにして出来た生月島の地形上は、もとはスダジイなどの落葉樹や常緑樹からなる原生林に覆われていたと思われるが、島に人間が定住して周囲の環境を利用し始めると植生が変化し、特に江戸時代には全島くまなく人為的な利用が行われたため、もともとスダジイ-ミミズバイ群衆だった山林は薪材の伐採などで二次林となり、低高度の湿潤地に発達していたタブノキ-ムサシアブミ群集の地域は水田などに変化したと考えられ、原初の植生を残す所は、西海岸の急斜面のハマビワ-オニヤブソテツ群落くらいである。




長崎県平戸市生月町博物館「島の館」

〒859-5706 長崎県平戸市生月町南免4289番地1
TEL:0950-53-3000 FAX:0950-53-3032