長崎県平戸市生月町博物館「島の館」

生月学講座No.226:1622年

生月学講座:1622年

  私が生月島に来たのは1993年で、2年後の島の館の開館を経て今日までかくれキリシタン信仰の調査・研究を続けてきたのですが、この信仰は、ちょうど400年前に起きたキリシタン信仰をめぐる一連の出来事によって形作られた所があります。まず1599年に籠手田氏・一部氏と600人の領民が長崎に脱出した事で、島は禁教の時代を迎えます。この状況下で信者による強固な組織を作って信仰を指導した西玄可も1609年に黒瀬ノ辻で処刑され、1614年には日本全体でキリシタンが禁教となります。

 今年のちょうど400年前にあたる1622年(元和8年)には、朱印船で日本に渡航しようとしたアウグスチノ会のペドロ・ズニカ神父とドメニコ会のルイス・フローレス神父が船長の平山常陳とともに8月19日(和暦7月13日)に長崎で火刑となり、9月10日(同8月5日)にはイエズス会のカルロ・スピノラ神父をはじめとする55名の宣教師や信者が長崎西坂で火刑や斬首となった「元和の大殉教」が起きています。

 平戸藩でもこの年、平戸や生月島、五島列島北部の納島、宇久島で宣教を行っていた(イエズス会)カミロ・コスタンツォ神父が逮捕されています。そして神父の布教を助けた信者達も逮捕されます。

 『日本切支丹宗門史』によると、生月島でカミロ神父に宿を提供した伝道師ヨハネ坂本左衛門(31歳)は、逮捕後の33日間、舘浦の狭い牢舎に囚われていましたが、その間たびたび老母の訪問を受け、慰めの言葉を受けたそうです。しかし彼は、妻と幼い子供の顔を見ると愛情で殉教する覚悟がゆらぐので、もう来なくていいと言ったそうです。神父一行が五島に渡る船を用意したダミヤン出口(42歳)も坂本とともに5月27日に中江ノ島で処刑されていますが、その際出口は、船中で賛美歌を唄いながら櫓を押して漕ぎ手を手伝ったそうです。

 6月3日には船頭で堺目出身のヨアキム川窪庫兵衛(47歳)が、山田の城(殿山城か)に食料も与えられないまま長く収監された後に斬首されています。6月8日にはヨハネ次郎右衛門(47歳)が処刑されますが、彼は棄教の印に異教の札を飲み込む事を拒否して死刑の宣告を受け、処刑地の中江ノ島に渡る船上で「ここから天国は、もうそう遠くない」と言ったとされます。さらに平戸のガブリエル一ノ瀬金四郎も7月26日に死刑宣告を受け、生月島に連行されて処刑され、同じ日には船頭のヨハネ雪ノ浦、パウロ塚本も生月で斬首されています。

 カミロ神父も、平戸の対岸にある焼罪で9月15日に火刑に処されていますが、当時平戸に入港していた蘭英艦隊の乗組員達(プロテスタントや国教会の信者)が処刑の様子を見に来たそうです。神父は群衆に向かって柱の上から日本語、ポルトガル語、フランドル語で説教を続け、煙と焔の中で「Laudate Dominum,omnes gentes」などの聖歌を歌いながら息絶えています。なおこのラウダテという聖歌は、生月島のかくれキリシタン信者によってこんにちまで歌い継がれています。

  キリシタン時代から洗礼者ヨハネ(サン・ジョワン)の聖地だったと思われる中江ノ島は、1622年の殉教によってその神聖性を確固なものとし、かくれキリシタン信者の最も重要な聖地となった事で、世界遺産の構成資産に選ばれる事になったのです。




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