生月島の歴史 №2「生月島の原始、古代」
- 2022/05/16 09:05
- カテゴリー:生月島の歴史
生月島の原始・古代
1.原始時代の生月島
日本列島に登場した最初の人類は、現世人類(ホモ・サピエンス=クロマニヨン人)で、彼らがユーラシア大陸から日本列島に移動した時期は、後期旧石器時代にあたる約3万8千年前以降と考えられている。当時は氷期にあたっていて海水面が現在より80㍍ほど下がっていたため、陸続きだった樺太島、北海道を経て本州に至ったと考えられている。同じルートを辿って大陸からマンモス、ナウマンゾウ、オオツノシカなどの大型獣が列島に進出しており、人類もそれらの獣を狩猟しながら移動してきたと思われる。一方で、列島西端にあり朝鮮と九州を隔てる対馬海峡の方は深部が80㍍を越えるため、そこを通っての陸路での移入は否定されている。しかし後期旧石器時代の人類も、何らかの船を用いて朝鮮海峡や琉球弧の島嶼伝いに移動してきたと考える研究者もいる。
平戸地方では、ナイフ形石器文化の早期にあたる3万2千年前頃から人類が活動していた事が、当時の石器が出土する遺跡の存在から推測される。『長崎県遺跡地図』に掲載されている生月島内の遺跡6カ所の中には、先土器(旧石器)時代の遺物(石器)が確認された番岳遺跡や渋柿遺跡があり、潮見崎遺跡の調査報告書にも前記遺跡に加え矢ビツA・B遺跡、上堤遺跡、山頭遺跡で採集されたナイフ型石器の図が紹介されているので、生月島における人類の活動も先土器(旧石器)時代以降と考えられる。なお筆者も、上場池の堤上でナイフ型石器文化後期の石器の特徴を持つナイフ型石器を表採した事があるが、おそらくは池内の土を掘削した際にまぎれ込んだのだろう。
旧石器時代の人類は、陸上を移動しながら狩猟と採集によって食料や生活資材を入手していたと考えられている。生月島でこの時期の遺跡が確認されるのは、おもに島の南北に伸びる背稜山地の東側の、一次地滑りで崩壊してできた緩斜面上の台地と山地が出会う辺りの標高100㍍前後の地点である。その付近には近傍に湧水がある他、厳しい北西風も山地が遮り比較的暮らしやすい場所である。山頭池遺跡だけは山地の上の標高200㍍地点にあるが、そこは山頭の草原直下のゆるやかな谷地で、直ぐ上には湧水点がある。旧石器時代人が拠点とした場所は、なにより清水の確保を重視した事が考えられるが、前述したように当時は海水面が80㍍程降下していた事から、眼下には、平戸島北部の半島や度島、的山大島が山地となる形で広大な陸地が広がっていたと考えられる。中江ノ島はさながら平地に屹立する小さな丘だっただろう。辰ノ瀬戸や平戸瀬戸も陸化していたので、人類は九州本土と陸伝いに往来できた。なお当時は全体に寒冷な気候で、日本列島は草原が広がる乾燥した環境だったと考えられている。
今から1万6千年前の縄文時代になると、気候が温暖化し、上昇した海面によって列島は大陸から切り離される。植生も変化し、本州や九州には照葉樹林の森が拡大している。大型獣は環境の変化とともに、切り離された列島内で人類の捕獲圧を受け続けた結果絶滅し、代わって森に住む猪や鹿が狩猟対象となる。縄文時代の人類(縄文人)は、それらの獣を弓矢を用いて捕獲した他、クルミやドングリなどの堅実類を食料にするようになったが、それらを保存・貯蔵する事で定住生活も可能となった。食料面でのもう一つの大きな変化は川や湖沼、海の生き物を利用するようになった事で、海岸で貝を採取した他、潜水漁での鮑や栄螺の採取や、釣や銛・ヤス、網などを用いた漁で魚を捕獲するようになった。また彼らは水上の移動手段として材木を刳り抜いて船を作るようになり、沖合での漁の他、海を広範に移動して漁を行うようになるとともに、食料や資材を運んで遠隔地と交易を行うようになったと考えられている。
周囲に海が広がる平戸地方は、海での生業にも関係するようになった縄文人にとって暮らしやすい環境だったと思われる。平戸島周辺でも縄文時代の遺跡が確認されているが、田平町のつぐめの鼻遺跡や、宮ノ浦、志々伎のようにいずれも海の近くに所在している事から、海に大きく依存した暮らしを送っていたと思われる。生月島内には『長崎県遺跡地図』に渋柿遺跡と潮見崎遺跡が縄文時代の遺跡として登録されているが、前者は旧石器時代と同じく標高100㍍の台地上の立地で、後者は生月島南端の辰ノ瀬戸に面した海岸の微高地上にある。なお筆者も、島の館を建設する前の試掘調査で、潮見崎から200㍍ほど西側の海岸近くのトレンチから縄文土器の破片を見つけている。潮見崎(早崎)は海辺にあり漁の拠点として利用された可能性が高いが、近隣には後世、舘浦の水の供給地となった早崎ガワ(湧水)があり、飲用水には不自由しなかったと思われる。但し渋柿遺跡でも潮見崎遺跡でも、黒曜石を細かく加工した石鏃が見つかっており、彼らは狩猟にも関与していたと思われる。
縄文時代の石鏃を見ると、骨棒を押しつけて細かい破片を除いていく押圧剥離という技法を使って精緻な成形を行っている事に驚嘆する。単に矢鏃に使うだけならもっと粗雑に成形するだけでも事足りる。実際、弥生時代に入って各地で戦闘が激化した時期には、大まかに整えているが凸凹が残る粗製石鏃が大量に生産されている。縄文人は、生き物の捕殺が非日常的で、人間に生き物の身体がもたらされる聖なる行為であるから、それを実行するための道具も聖なるものとして精緻に作る必要があると考えたのではないだろうか。 ただ生月島内も含めて平戸市内の縄文時代の遺跡は、つぐめの鼻遺跡を除くと規模はそれ程大きくなく、調査が進んでいないという理由もあるが、住居跡なども見つかっていない。東北や中部地方には、三内丸山遺跡に代表されるような大規模な集落遺跡が継続的に営まれ、関東地方でも旧海浜部に大規模な貝塚が数多く設けられているが、同時期の平戸地方の遺跡や遺物の密度からは、それ程人口がいたようには思えない。比較的大規模なつぐめの鼻遺跡にしても、平戸瀬戸に面した漁のベースキャンプ的な場所で、それも早期から中期という時期に限って漁期限定で利用されたのではないかと推測する。おそらくは船を使って移動しながら漁や狩猟を行う小集団が、短期間、海浜部の水場近くで過ごす形態だったと考えられるのだが、集団の規模を規定したのは、食料の中心となる堅実類を産生する森林の広がりではないかと考える。
2千6百年前から始まる弥生時代には、朝鮮半島から稲作などの農耕や金属器がもたらされている。朝鮮半島との往来は既に縄文時代から始まっていたが、当時から壱岐、対馬を経由する航路が用いられてきた。弥生時代には中国大陸からも集団が渡来し、北部九州に定住しているが、彼らもその航路(海北道)を利用したのだろう。
海北道の九州側の基点である唐津平野には弥生時代の大規模な集落や甕棺墓地が営まれているが、それより西の北松浦半島にはそれ程大きな集落遺跡は存在しない。唯一、田平の里田原に水田遺構を持つ遺跡が存在する。里田原は海岸から川を遡ったある程度の広がりがある盆地に所在するが、そのあり方は壱岐にある原ノ辻遺跡の立地とよく似ている。一方、それ程広い平地が無い平戸島西岸の根獅子には、海岸の砂丘地に石棺墓群からなる根獅子遺跡が存在する。同様の立地の墓地遺跡は東松浦半島先端部の大友遺跡や、佐世保の沖の高島の宮の本遺跡があるが、それらの遺跡から出土した人骨は縄文人の形質を持つ(また的山大島西部の戸田半島にある永畑馬場遺跡でも甕棺墓地が確認されているが、人骨の形質的特徴は不明)。墓地の立地から彼らは漁に従事した海人であると考えられるが、彼らの活動の背景には航路を利用した交易があると考えられている。海北道は日本列島に大陸の文物を持ち込む最重要の航路だが、九州西岸沿いの航路も、渡来人のクニが多く存在する北部九州と南西諸島を結び、渡来人国家が威信財として必要とした貝輪の原料となる南島産のゴホウラやイモガイの殻を供給するルートだった。こうした航路を機能させるためには、航路沿いに船乗りに食料としての米を供給できる稲作集落が点在する必要があり、原ノ辻は海北道における拠点だったが、九州西岸航路の拠点の一つが里田原だったのである。
弥生時代の遺跡は、平戸島中部の馬込遺跡などでも確認されているが、生月島では弥生時代の遺跡は見つかっていない。生月島は地滑り(特に山地が崩落した一次地滑り地帯が再度崩落する二次地滑り)で地形が大きく変容しており、弥生人の墓地がよく設けられた海岸近くの砂地地帯も、後に浦集落が営まれたため遺構が失われた可能性もあるが、土器の破片なども殆ど見つかっていない事から、弥生時代には人々が居住した可能性は低いのかも知れない。生月島には、水田を拓くのに適した盆地状の平地が無く、現在、広い田原として利用されている二次地滑りで形成された緩斜面も、弥生時代の技術では水田化できなかったと思われる。
2.古代の生月島
奈良盆地に大和朝廷が成立した3世紀後半以降、博多湾から唐津、壱岐、対馬、朝鮮半島南部に至る海北道は、日本列島と朝鮮半島やその先の中国とを結ぶ、準構造船を用いた航路(海北道)として重視された。そのため海北道沿岸部には朝廷との深い繋がりを示す前方後円墳をはじめ多数の古墳が築造されているが、海北道より西の九州北西沿岸部には、ある程度広い平野がある地域に少数の古墳が見られるに過ぎない。平戸地方には、弥生時代に水田が拓かれていた里田原の周辺に笠松天神前方後円墳が、釜田湾岸に岳崎前方後円墳が築造されているが、それらの古墳に葬られた者は、水田地帯の里田原の集落とその港である釜田湾を掌握する首長だったと思われる。ただ里田原にはそれより小規模な円墳は少数しか存在せず、同地の集団は階層的な形を取る程大規模なものではなかった事が窺える。また岳崎古墳が釜田湾を見おろす場所に築かれている事から、平戸瀬戸の入口に位置し、準構造船が航行する沿岸航路である九州西岸航路の停泊地・食料等の補給地として釜田湾が重要な役割を果たしていたと思われる。一方、平戸地方の島嶼部には6世紀後半~7世紀前半と思われる小円墳が平戸島北部、度島、的山大島、生月島に数基ずつ存在している。これらはそれぞれの地域に居住した小集団のリーダーの墓だと思われるが、彼らは漁労や交易船の運行に携わる各島の海人集団を率いるリーダ達で、食料(米)を有して大和朝廷と繋がりを持っていた里田原の首長に従属していたと思われる。奈良時代に編纂された『肥前国風土記』松浦郡の項には「相鹿駅」「登望駅」の次に「大家島」と「値嘉郷」の記述がある。相鹿は東松浦半島東岸の相賀に、登望は同北岸の小友に比定され、これらの駅は壱岐に渡海する道(海北道)の駅なので、大家島は東松浦半島より西にある島となる(名前の下にも「郡の西にあり」とある)。さらにその次に登場する値嘉郷は値賀島と言われた平戸島と五島を併せた範囲(最初は里田原-釜田から直ぐの平戸島を「近島」と呼び、その後近島の先にある五島を「遠の近島」)と呼んだのかも知れない)なので、小友と平戸島の間にある島としては鷹島、馬渡島、的山大島、度島、生月島などが候補となる。『大島村郷土史』では的山大島説を主張し、本稿の主旨からすれば生月島説を採りたいのはやまやまだが、複数の根拠から的山大島と度島(たくしま)を併せた範囲を指す説を主張したい。大家島の項には次の事が書かれている。
①景行天皇がこの地方を巡幸した頃、この村には大身という土蜘蛛がいて、皇命に従わなかった。
②そのため天皇はこれを誅滅し、以来、白水郎(海士・潜水漁民)がこの島に家を造って住んで大家郷と呼ばれた。
③郷の南には窟があり、鍾や木蘭がある。
④周りの海では鮑・螺・鯛などや海藻・海松が多い。
実は大家島とは大島と度島を併せて呼んだもので、家はのちに宅に転化し、さらにその読み方(たく)に沿って「度」と書かれるようになった事が考えられる。実は先に大島とたく島を併せた範囲が大家郷となっていたのが、風土記編纂時に大家島と書かれたのではなかろうか。的山大島や度島の周辺では蚫や栄螺などが豊富に取れ、鉾突漁なども盛んに行われていた。また度島の北西端の崖には鬼の窟という洞窟がある。度島単独では北西になるが、大島とたく島を併せた郷なら南となる。
土蜘蛛というのは朝廷の支配に接続していない土着民の事だが、そのような人々が居た大島・たく島も朝廷に従い、白水郎が活動している事を紹介するのがこの項の主旨である。従って水蜘蛛と白水郎は別の種族ではなく、時系列で前後する住民と捉えるべきである。
大島には前述したようにまとまった数の甕棺墓からなる永畑馬場遺跡があり、弥生時代から北部九州の渡来人勢力と連絡を持っていた事が窺える。度島には小さな島のわりに小円墳がまとまった数あるが、玄界灘沿岸の海人集団が藍島、相ノ島、志賀島、加部島、小値賀島など比較的低平な島を拠点としているセオリーに適合している。海を生活範囲とする彼らにとっては山は異世界のため、なるべく山が無い小島を拠点にした事が考えられるが、その論理からすると、生月島は少々山がちだったのかも知れない。
しかしそのような生月島でも山田に富永古墳・上骨棒古墳群などの小円墳が存在する。これらの古墳の石室は横穴式石室で、前者の石室は幅1・7㍍、高さ1・2㍍、奥行2・6㍍で、剣、壺、珠玉などが出土したとされる。また後者のうち一基は直径6・7㍍墳高1・5㍍で、須恵器(平瓶・壺・高杯)や鉄矛などが出土している。これらの副葬品は大和朝廷の工房が生産したものを直接・間接に下賜される形で入手した事が考えられ、被葬者が間接的にせよ大和朝廷の支配階層に繋がっていた事を示している。
ここで考慮しておく必要があるのは古墳の立地である。富永古墳は生月島を南北に伸びる背稜山地の東側が一次地滑りで崩落してできた台地が、正田から海岸沿いに南に延び、末端に比売神社がある丘陵上にあるが、墳丘自体は海側でなく、現在の農協出張所付近に広がる小平地(日草小平地)に面している。この平地は日草地区に属し、宮の下付近に河口があり現在は道路の下の暗渠となっている小河川の流域に広がっているが、以前そこには比売神社の宮田があったという。生月島における神職が管轄する神社の成立は江戸時代だが、比売神社や富永古墳がある丘陵から小平地を挟んだ西側の丘陵には、中世に遡る寺院でキリシタン布教期には教会に改装されていた常楽寺がある。小河川は小平地で西と北に流れを分けるが、そのうち北向きの流れは小平地から伸びた谷筋を上り正田地区に達する。その登り切った辺りの丘陵上に上骨棒古墳群が立地する。このような古墳の配置を見る限り、古代の生月島においては現在の山田集落の範囲が中心地であった可能性は否定できない。そこが中心地であった理由は、第一に現在の舘浦の海岸に島内で最も広い砂浜(舘の浜)があったからであろう。当時平戸地方で住民が運用した船は刳船や準構造船だが、これらの船は未使用時には砂浜に上げて保管していた。そのため広い砂浜は船を着岸させて保管するのに便利だったからだ。また舘の浜の位置は、平戸島西岸を航行する場合に通過する辰ノ瀬戸に面しているという地の利も有しているが、舘の浜の南端付近には早崎ガワという豊富に真水が湧く湧水があるので、航海に必要な水の補給もできた。但し風波が強い場合の離船着船では、前面が大きく開けた舘の浜は少し困難を覚える事になる。昭和初期の写真を見ると、舘の浜の北端にある宮ノ下には石積みの突堤で守られた小さな船溜まりがある。突堤は江戸時代のものでそれ以前には無かっただろうが、船溜まりとなっている小さな入江はもともと日草小平地から来た川の河口で、以前は小平地に向かって奥まで入り込んでいた可能性がある。そこに入ったなら波浪時も着船離船が容易である。第二には小平地に古代にも水田が存在し、米が収穫できた可能性だが、これについては推測の域を出ない。古墳の主の生前の住居も小平地の周辺から舘の浜付近にあったと思われるが、遺構も確認できていないのでこれまた推測に過ぎない。
7世紀以降に導入された律令制においては、地域は大きい範囲から国、郡、里という単位で把握された。九州には太宰府という国の出先機関が置かれ、対外的な対応とともに九州内の行政も統括していた。諸国を管轄する国司は都から派遣される貴族が務めたが、郡司は以前からその地域を支配していた豪族(大和朝廷で国造とされた)が務めている。平戸地方は肥前国松浦郡に属したが、松浦郡の郡庁は旧末蘆国の中心地だった唐津市付近にあったと推定されていて、生月島も行政的にはその管轄下にあった。また律令制度においては水田は全て国家のもので、個々の農民は国家から性別、年齢、身分によって決められた面積の水田の耕作権を認められたが、班田と呼ばれる水田の割り当てを容易にするため、水田を縦横(条、里)に均等に区画して番号付けをする整理(条理制)が行われた。佐賀平野などでは近年区画整理が行われるまでは条理制の遺存が広く見られたが、平戸地方で条理制が確認できるのは里田原だけである。律令体制下においても里田原がその水田生産力を以て平戸地方の中心地である事が窺えるが、同時に里田原の農業生産は釜田港を中継地とし、平戸瀬戸を通過して延びる九州西岸航路の交易活動と結びついたものだと考えられる。
こうした同地の航路上の戦略的価値は奈良時代に入って東シナ海を横断して中国大陸に直接向かう航路「南路(のちの大洋路)」が遣唐使船の航海で開拓された事で上昇したと考えられる。大宝2年(702)発の遣唐使船からは南路を利用したと推測されるが、帆走性能が劣った遣唐使船が沿岸部の釜田や平戸に直接寄港したとは考えにくく、おそらくは博多を出ると帆走のじゃまになる沿岸を避けてまっすぐ五島に向かった事が考えられる。しかし釜田や平戸瀬戸を経由する沿岸航路は、五島に寄港する遣唐使船に食料などを補給するための補助航路として機能した事が考えられる。また平戸地方を含む九州北西地域の海人集団は、準構造船などの船乗りの供給元になった事が考えられるが、天平勝宝4年(752)発の遣唐使船第4船の舵取り(操船責任者)は、肥前国松浦郡の川部酒麻呂が務めている。
生月島の名前が記録に初めて登場したのも遣唐使の記録である。承和5年(838)発の遣唐使船は、中国に到達した2隻のうち1隻が破損したため、承和6年(839)の帰国に際しては新羅船を9隻チャーターし、山東半島、朝鮮半島を経て8月に日本に到着しているが、彼らの船(7隻)が着いた場所が「生属島」だった。『続日本後記』には「今月(8月)十九日奏上。知遣唐大使藤原常嗣朝臣等卒七隻船廻着肥前国松浦郡生属島」と記されている。なおこの記述からは、承和6年(839)当時の生属島は、律令制下で制定された松浦郡に属している事も分かるが、『類聚国史』貞観18年(876)3月9日の条には、中国船(ジャンク)で来航する唐人が上陸して勝手をするのを防ぐため、上近(値賀)郡と下近(値賀)郡を設置し、それらを併せた値嘉島に島司を置いて管轄させる建議がなされた事が記されている。そのうち上近郡が平戸島域を範疇としたと思われ、生月島も同郡に属したと思われる。
『肥前国風土記』松浦郡値嘉郷条には、値嘉島は牛・馬に富むとあるが、延長5年(927)完成の『延喜式』兵部省諸国馬牛牧条には「肥前国生属馬牧」という名が見え、生月島には官営の馬牧が置かれた事が確認できる。この古代の馬牧の具体的な範囲を示す記述は無いが、江戸時代に平戸藩の馬牧が置かれた島北部の御崎(古名を牧村と言った)はその有力な候補地で、源平合戦当時、源氏の棟梁・源頼朝が飼っていた名馬・池月の故郷が同地であるという伝説も、古代から馬牧があったという状況と関係しているのかも知れない。また馬牧が置かれていたとすれば当然、馬を管理する人々の存在や、彼らの住居など何らかの施設もあった筈である。『延喜式』兵部省諸国馬牛牧条には平戸島にも「庇羅馬牧」の名が見えるが、その後の平安末期(11世紀)の院政期には、北松浦半島域には伊勢神宮領の宇野御厨荘という荘園が成立しており、同荘の特産品の一つに牛(御厨牛)が挙げられている。北松半島から島嶼部にかけては牛馬の牧野が点在し、牛馬の生産が盛んに行われていた事が考えられるが、生月の馬牧もその一部だった可能性がある。なお博多湾の能古島にあった牛牧では、牛乳を原料に「蘇」「酪」という乳製品が作られていたが、これらは鴻臚館で中国の使節などにも供された可能性がある。大洋路の途中にある松浦地方の牛牧や馬牧も、朝廷などに供給する内需の役割とともに、大洋路を航行するジャンク船に食料(肉や乳製品)や素材(皮製品など)を供給したり、中国大陸に牛馬を送る外需の目的も含めて運営された可能性はないだろうか。