長崎県平戸市生月町博物館「島の館」

生月島の歴史 №3「生月島の中世」

生月島の中世

 

 生月島の中世について語るために、まずは承和5年(838)発の遣唐使の事を再度取り上げたい。この遣唐使は承和6年(839)の復路では北路(朝鮮半島経由の航路)を利用し、新羅船をチャーターして生属島に到着している。以前の「平戸史再考」で、遣唐使船は百済船をベースにした横帆装備の船で、後方や斜め後方の風しか利用できない程度の帆走性能なのに比べ、新羅船は遣唐使船より小型だが横風程度の帆走も可能だったという話をした。その新羅船で朝鮮半島から九州に向けて航海した際に生月島に着いたという事実は、外国船が利用する朝鮮半島から生月島がある平戸島周辺に直行する「朝鮮-平戸航路」の存在を示唆するところがある。

 九州(日本列島)と朝鮮半島間の航路として原始時代から用いられてきた航路は、東松浦半島から壱岐、対馬を経て朝鮮半島東南岸に渡る「海北道」だったが、この航路はその時代の日本列島に存在した単材刳船や準構造船のような櫂走を主体とした船でも比較的安全に航海できた。承和6年の帰還新羅船はこの海北道を使用していない訳だが、他に朝鮮-平戸航路を使用した例として、承和遣唐使使節とともに入唐し、後年帰国した僧・円仁が、(中国暦の)会昌7年(847)に蘇州船に乗って帰国した際の航海(『入唐求法巡礼行記』)がある。円仁乗船の蘇州船は9月2日に山東半島南岸の赤山浦を発した後、朝鮮半島西岸・南岸沖を航海し、9日の午後に鴈島(巨文島)を発し、10日には東に対馬を、同日午時(12時)には前方東から西南にかけて日本本土の山々を見、その日の夜の初めに肥前国松浦郡の北界である鹿島に到着・停泊している。私は先の「平戸史再考」では鹿島を小値賀島に比定したが、前回紹介した『類聚国史』には上近(値賀)郡と下近(値賀)郡を設置し、併せて値嘉島にしたとあり、鹿島は値嘉島の訛りである可能性を考えると、上近である平戸島周辺が到着地である可能性が高い。いずれにせよ平安時代初頭、朝鮮半島から海峡を渡って来日する民間商人の新羅船や中国船は、日本の朝廷の新羅への使節船(準構造船)が利用する海北道ではなく、その西の朝鮮-平戸航路を専ら用いた可能性がある。前掲した円仁搭乗の蘇州船が海峡横断に1日強しかかけていない所からすると、蘇州船(沙船型のジャンクか)の帆走性能ならば、頻繁に寄港する形となる海北道より、開けた海を横断する直行航路の方が利用しやすかったのかも知れない。また民間船である新羅船や中国船が、日本側の監視の目を避けるためにわざと海北道を避けた可能性もある。

 中国商人のジャンク船が東シナ海を横断する大洋路を頻繁に航行するようになった9世紀後半以降、平戸は大洋路の中継地として重要な役割を果たす事になる。航洋帆船であるジャンクは岸から離れた沖合(沖乗り航路)を航行し、半島先端部や島嶼の限られた場所に寄港するだけで足りたが、大洋路の寄港地に食料や航海資材、貿易品などを集積するためには脇街道的役割を果たす沿岸航路(地乗り航路)の役割も重要であり、そうした沖乗り・地乗り航路の寄港地を支配し、その港の機能を維持して利益を得た領主層が、松浦党諸氏になっていった事が考えられる。

 生月島の平安時代の記録としては、前述した『続日本後記』の承和の遣唐使船到着の記録と、『延喜式』の生属馬牧の記述以外に、平安後期の年号が記された経筒がある。但し現物の資料が存在する訳ではなく、大正7年(1918)に刊行された『生月村郷土誌』に記録として残るだけである。

 『郷土誌』の記述によると、明治20年(1887)頃、壱部集落にある標高110㍍で三角形の山容が特徴の「岳の平岳」-地元の通称で「壱部番岳」「小番岳」と呼ばれる-の山頂から青銅製の経筒と銅鏡2枚が出土している。経筒とは、中に教典(お経を書いた巻物)を収めた青銅や滑石で出来た筒状の容器である。日本には6世紀に仏教が伝来しているが、平安時代になると藤原氏などの貴族を中心に、死後の極楽往生を願う浄土信仰が広まっている。その中で、釈迦入滅後二千年にあたる永承7年(1052)以降、仏教が滅びに向かう末法の時代に入ったとする末法思想が広がり、弥勒菩薩が如来となってこの世に現れる56億7千万年後まで教典を遺すため、経筒に納めて埋設保存する経塚の造営が盛んに行われている。『郷土誌』にも経筒の周囲には大量の木炭があったと記されている事から、経塚が造営されていた事が分かる。『郷土誌』には経筒に次のような記述があったと図入りで紹介している。

・保延二年 蔵□戌辰月次 ・巳亥廿九日 供養既畢 ・為法界 平等利益

・茄件 勧進 第 静源 ・敬白

 保延2年(1136)は平安後期、鳥羽上皇の院政期にあたるが、平清盛の父・忠盛が長承元年(1132)に内昇殿を許されるなど、平氏の台頭が始まった頃である。九州の経筒について研究した村木二郎氏によると、壱部番岳出土の経筒は、笠蓋に宝珠、筒身部に3本の突帯、台座に連弁文を持つなどの特徴から「永満寺型」という形式に属するものであるという。経筒の造営者(勧進)である「静源」という人物については記録が無いが、恐らくは僧侶と思われる。

  経筒やそれを納めた経塚は仏教信仰に基づくものだが、生月島周辺の中世仏教で見逃せないのが安満岳の寺院である。1571年にヴィレラ神父が記した書簡には次のような記述がある。

「同地(平戸島)にある僧院は収入が多く、なかでも安満岳と称する僧院はほぼ百名の仏僧を擁し、収入が多く立派である。腐らぬ香りのよい木材で建てられており、創建以来およそ四百年を経ているが、ほとんど新築のように見える。」

  この記述から戦国時代、安満岳の山頂にあった寺院は12世紀頃に建設されたものである事が分かるが、それはちょうど岳の平岳に経塚が造営されたのと同時期にあたる。この事から、安満岳の寺院の僧侶の活動によって生月島など周辺地域に仏教が定着する中で、経塚が建立された事が考えられる。

 もう一つ視野に入れておく必要があるのは大洋路の貿易活動との関係である。安満岳の奥の院には薩摩塔という石塔が建立されているが、これは寧波周辺で産出する梅園石で作られたものである。この塔は日中間の硫黄貿易に関与した中国人海商が奉納したと考えられているが、航路筋にあたる辰ノ瀬戸から山容がよく見える安満岳に薩摩塔が建立されたように、生月島の前の海から三角形の山容が際立つ岳の平岳の山頂に経塚が建立されているのも、やはり貿易活動に関係したものである可能性がある。平戸瀬戸の沿岸でも、川内浦の南側にある京崎などには地名から経塔が造営された可能性が推測されるが、大洋路沿岸の博多や航路筋の地域では、密教系の山岳寺院や経塚の造営が盛んに行われており、岳の平岳の経塚造営の理由に航海の安全祈願という現実的理由があった事が考えられる。

 また当時の生月島には、安満岳の仏教との関係を持ちながら、経塚造営を実施し得るだけの経済力を持った領主がいた事も考えられる。当時は平清盛の父・忠盛が大洋路の権益を手中に収めようとしていた時期で、それがのちの清盛による対外重商主義政策に繋がっていくのだが、経塚造営の4年前の長承2年(1132)頃には平忠盛が鳥羽上皇の院司として肥前神崎荘での宋船貿易を管理するようになっている(『長秋記』)。

 五島列島で宋船の寄港地となった宇久島の西泊・山本遺跡の盛期は平氏の隆盛期と重なる12~13世紀とされる。宇久島南西部の神浦には厳島神社が祀られ、7月には海中に竹棚を投じるヒヨヒヨ祭が行われるが、宮島の厳島神社の管弦祭と類似しており、航海神である厳島神社の勧請に平氏が関係した可能性がある。宇久島に連なる大洋路周辺の島嶼が平氏の勢力下に入った事が、文治元年(1185)の檀ノ浦の戦いに松浦党が平氏方に参陣する事に繋がるのだが、生月島も宇久島と同様、平氏政権の勢力下にあり、島を治める領主達は平氏によって編成された松浦党という領主集団に組み込まれていた事が考えられる。 

 平氏滅亡後の鎌倉時代については、経塚造営から約80年後の文保2年(1318)12月16日「鎮西下知状案」(実相院文書)に生月島という地名が記され、そこの領主の加藤五朗が肥前国一国平均役の河上社(現佐賀県大和町)の造営費用を弁済しなかったとして鎮西探題からの催促を受けている。この史料から鎌倉末期の生月島には加藤氏という領主がいて、鎌倉幕府の出先機関である鎮西探題の統制を受けていた事が分かる。なおそれ以前の文永11年(1274)、弘安4年(1281)に起きた元寇については、生月島のみならず平戸地方についての記録が無く、どのような状況であったのか分からない。特に弘安の役では大洋路が旧南宋地域を発した江南軍の進路に当たっているため、生月島などの大洋路の沿岸地に影響が全く無かったとは考えがたい。

  元弘3年(1333)には鎌倉幕府が滅亡し、建武政権の樹立から南北朝時代へと繋がっていく。この時期には元寇以降も継続していた日元貿易が中国の政権交代の混乱(元から明に)もあって途絶し、大洋路の貿易活動から経済的恩恵を受けていた松浦地方の領主は困窮したと考えられ、高麗への略奪行が盛んになった理由になったと思われる。

 康安元・正平16年(1361)には後醍醐天皇の流れを汲む南朝方が博多と太宰府を制圧し、応安3・建徳元年(1370)には太宰府に明使を迎え、懐良親王は返使を明に送っている。この状況に危機感を抱いた室町幕府の三代将軍・足利義満は応安5・建徳3年(1372)8月に博多と太宰府を陥落させて南朝方を駆逐し、折りから来日していた明使と国交に向けた交渉を始めている。明との交通には大洋路の安定が不可欠だが、そのために室町幕府は松浦地方の領主達を組織化(一揆)して幕府に服属させている。

 永徳4年(1384)2月23日に結ばれた青方文書の「一揆契諾條々事」を見ると、松浦党の一揆契約に参加した者として「いちふ大和守授」「いきつき常陸守景世」「いきつき伊勢守景卉」の名が記されている。また同日付の山代文書の「一揆契諾條々事」には「いきつきの一ふん大和守」「いきつきのかとう常陸介」「いきつきのかとう伊勢守」とある。この二つの史料から一揆契諾が行われた当時、生月島には一部授(大和守)、加藤景世(常陸守)、加藤景卉(伊勢守)などの領主がいた事が分かる。

 このうち一部授は姓から島の北部の壱部周辺を領有した領主で、戦国時代にキリシタン領主となった一部氏の祖先と思われる。

 加藤氏の存在は前述したように鎌倉時代から確認出来るが、生月島中部を領した領主と思われる。同じ加藤姓が二人署名している事から、それぞれが別個の領主と思われるが、名前には同じ「景」の字が使われているので一族だと思われる。

 嘉慶2年(1388)6月1日に結ばれた「□浦一族一揆契諾条々事」(青方文書)には、生月山田の彦犬丸代兵庫允義本の名が確認できる。この山田は地名と思われるが、彦犬丸という領主権者の代理人として義本(兵庫允)という者が署名している。この彦犬丸は先の永徳4年契諾條には登場しない名前だが、生月島南部の山田を領していたと思われる。応永29年(1422)8月には、里免の永光寺に沙弥玄慧が鐘を寄進しているが、この人物名は山田清福の法名と考えられている。なお『三光譜録』によると永正9年(1512)に(平戸)松浦弘定が大智庵城(佐世保市瀬戸越町)に籠もる(相神浦)松浦政を攻めた時、もと政に仕えていた山田四郎左衛門と山田六郎左衛門が落ちのびる政を討ち取っている。この両名は山田氏の一族と思われるが、攻め手の大将に後述する籠手田栄(松浦豊久子、松浦弘定弟)がいる事から、16世紀初頭には生月島南部は籠手田氏の領地となっていて、山田氏は籠手田氏の配下に組み込まれていた可能性がある。なお『三光譜録』によると永禄6年(1563)に(平戸)松浦隆信が飯盛城(佐世保市愛宕町)に籠もる(相神浦)松浦親を攻めた時にも、攻め手の中に山田四郎左衛門、山田久之允の名が認められる。

 永享8年(1436)12月29日の「松浦党一揆契諾状」(来島文書)には、「一部理」「加藤景明」「加藤景貞」の署名がある。この一部氏1名、加藤氏2名という形は永徳4年契諾條と同じで、加藤氏は同姓の2氏がそれぞれ別の領地を有する領主である事がここでも確認できる。またこれも永徳4年契諾條と同じだが、加藤氏は景の字を通字とし、一部氏は一字名を用いている。なおこの永享8年一揆契諾状は以前の契諾状と異なり、当時の平戸(松浦)氏を巡る紛争を背景としたものである事を付け加えておきたい。

  15世紀前期に平戸松浦氏の当主だった義は当初・峯氏の後嗣となるが、その後平戸に戻って平戸氏を嗣いだとされる。しかし永享6年(1434)宇久島、生月島、平戸島南部の津吉・下方などの連合軍が平戸を攻撃し、平戸氏側は大島氏の援軍を受けたものの苦戦し、白狐山で義の先代の芳、先々代の勝が敗死している。

 この事件の背景には、6代将軍・足利義教が、先々代の将軍・義持が中断させていた遣明船派遣を久しぶりに復活させた事があると考えられる。鎌倉時代までの日宋・日元貿易は民間海商による貿易活動だったが、日明間の貿易は、周辺国が明朝に朝貢使節を派遣するのに伴い贈り物の交換や貿易活動を行う朝貢貿易で、民間貿易は禁止されていた。遣明船は永享4年度(1432)に5隻、永享6年度(1434)に6隻とたてつづけに派遣されているが、当時の遣明船には日本の大型和船が用いられたため沖乗り航路が用いられ、停泊地も限定されたと思われる。平戸瀬戸に面した平戸や外海にある的山大島は遣明船の停泊地となったが、周辺地域の多くは関係が無くなったと考えられ、遣明船派遣に伴う権益が寄港地である平戸など特定の港に集中したため、恩恵に浴さなかった勢力の反発が永享戦乱の主因になった事が考えられる。

  加えて事件の視野に収めておく状況として気象の悪化がある。日本列島では応永30年(1423)頃から気温が急上昇するとともに降水量も増え、洪水が頻発しているが、永享5年(1433)には深刻な干ばつが発生している(『荘園』)。干ばつによって各地の農作物の生産は低下したと考えられるが、その影響が平戸周辺地域にも及んだ事で、貿易に関与できないダメージがより深刻化した可能性がある。

 永享8年に一揆契諾が締結された事には、平戸氏による永享戦乱の戦後処理、体制固めの意図があったと考えられるが、生月島の三氏もこれによって平戸氏に服属した事が確認できる。

 一方で『家世伝』によると、義は永享9年(1437)には足利義教が石清水八幡宮に参詣する際の道路警固に目立つ赤い烏帽子を被って出仕し、義教の目に留まったことから好を通じることとなり、肥前守の受領、鞍覆・白傘袋・錦の半袴等を許され、御伴衆に列したとされる。このエピソードから平戸(松浦)義が、政権保持者であり遣明船の派遣権者でもある足利氏との関係強化に努めている事が伺えるが、平戸氏はその後、勘合貿易に関係して得た利益をもとに平戸島南部や周辺地域の制圧を進め、貿易権益の確保に努めるとともに領土を拡大し、戦国大名化への歩みを進めていく。

 『海東諸国紀』によると文明3年(1471)に下松浦の「一岐津崎(いきつき)」の太守源義が朝鮮王朝に観音現象を賀す使を派遣しており、その中で義は麾下の兵を持つと記されている。この記述の領主は一字名である事から一部氏の可能性があるが、同氏が朝鮮に船を派遣して貿易を行っていた事が窺える。

 「策彦和尚入明記」によると、大内氏が天文8年(1539)に派遣した遣明船が、天文10年(1541)に明から戻る航海の際、五島日島(6月27日)、中通島那摩(同28日)、鹿木(志々伎か、7月2日)を経由して7月2日に「息尽瀬戸」に到達しているが、暗夜なので外面(西側)で停泊している。翌日瀬戸を通過して斑(馬渡)島(7月3日)を経由して、同日博多に到着している。この記述から息尽瀬戸(辰ノ瀬戸)が遣明船の航路になっている事が分かる。

  文明18年(1486)頃には松浦弘定と田平の峯昌(平戸氏から入嫡)の間で峯氏の家督をめぐる争いが起き、北部九州の制圧を進める少弐氏から援軍を得た昌側が、弘側が籠もる箕坪城を攻めているが、その際には生月島の加藤数馬、一部大和守、籠手田栄達が津吉、下方、大島の軍勢と共に箕坪城に籠城している(『三光譜録』)。ここに登場する籠手田栄は松浦義の子である松浦豊久の子で、松浦弘定の弟にあたるが、田平の籠手田を領地として与えられ、籠手田氏を称したと考えられている。籠手田栄は兄の松浦弘定が大内氏の勢力圏に脱出する際に随行しており、弘定の重臣である事が窺える。なお箕坪籠城時の主な将士の中に山田氏が登場しない事から、箕坪合戦で山田氏は(相神浦)松浦政の家臣として峯昌方に加わっていて、明応6年の和議の後、山田氏が治めていた生月島南部は籠手田氏が領有する事になり、山田氏は籠手田氏に服属する事になった可能性がある。なお一部大和守は箕坪開城時、女子供を避難させている際に大勢の敵と遭遇して討ち死にしている。

 箕坪合戦は大内氏による調停によって明応6年(1497)に決着しているが、これによって平戸松浦氏の戦国大名化とその勢力下の領主の家臣化が進む事になる。調停によって松浦弘定は峯昌の息子を娘と結婚させて後継者とし、彼が永正12年(1515)に家督を相続して松浦興信となるが、大内氏との関係を強めた平戸松浦氏は大内氏の九州方面での勢力維持・拡大に協力し、少弐方の勢力と戦っている。松浦氏のこうした活動で重要な役割を果たしたのが籠手田安径である。安経には大内義興から芸州方面での勝利を伝える書簡が届けられており、天文3年(1534)には大内氏家臣の陶興房が肥前三津山城を攻める軍勢に参陣し、その際に興房家臣の飯田興秀から弓馬・兵法などの有職故実を伝授されている。籠手田氏は従軍や有職故実の伝授を契機に大内氏家臣との関係を深めているが、天文10年(1541)に松浦興信が没後、隆信が家督を嗣ぐに際しては籠手田氏が尽力し、大内氏の承認を受ける形で継承が行われたと考えられる(「籠手田氏と大内氏の交流について」)。なお興信の子で隆信の弟の信賢は一部大和守の養子となっているが、16世紀後半にキリシタン領主となった籠手田氏と一部氏が有力家臣として勢力を保った背景には、以前からの平戸松浦氏との深い結びつきがあったのである。

 生月島南部の舘浦には山田氏か籠手田氏が屋形(舘)を設けていて、屋形の背後の丘陵に城(殿山城)が設けられていた。生月島の舘浦の北西背後にあり現在、丘上に明法院、墓地、大魚藍観音が所在する標高30㍍の細長い丘陵は「ドーノヤマ(ドノヤマ)」と呼ばれているが、『生月村郷土誌』には「翌(寛永)三年、如何ナル理由ナリシニヤ(井上)八郎兵衛ハ遂ニ殿山ノ城ヲ捨テ、平戸ニ轉住セリ。」とあり、ドーノヤマは殿山で、城が置かれていたとされている。殿山という地名に城が伴う例は五島中通島の青方にもあり、『青方家文書』の青方村城跡の絵図には、山麓に青方氏の屋形がある一段高い敷地があり、その背後の「殿山」という地名の山が城跡だとされている。舘浦の「舘」(タチ)や舘浦の中にある「屋敷」という地名は、領主の館(屋形)に由来していると思われるが、屋形の背後に殿山(城)がある位置関係は青方と一緒で、領主が普段暮らす屋形は山裾にあり、その背後の丘陵にいざという時立て籠れる城郭を構えた事が考えられる。

 城自体の構造も舘浦と青方では似ており、青方殿山では延びた尾根の先端上部に郭(くるわ)という平地を設け、背後の尾根上に堀切を設けて、尾根伝いから郭に迫る敵を阻止している。舘浦殿山の場合、北東に向かって延びた丘陵上に、先端から明法院、墓地、大魚藍観音が所在する小平地が連続しており、丘陵の北東先端、南側、北側の斜面はいずれも急傾斜で、特に南側の現状は崖そのものである。西側は尾根伝いに背後の丘陵(山田幼稚園が所在)に繋がっているが、そこ(大魚藍観音と塚本氏宅の間)には現在、道路となっている深い切り通しがある。地元の方の話ではここは昔から切り通しだったそうで、尾根筋に堀切を設けて背後を守ったと思われる。

  殿山城同様、丘陵の先端背後に堀切や横掘を設けて郭を作る小規模城郭は、北松浦半島では他にも佐々町の龍王城や佐世保市指方町の大刀洗城などがあるが、いずれも郭内の面積は狭く、水を供給できる井戸や湧水も郭内に無い。こうした特徴はこの形式の城郭が長期の攻城戦に対応したものではなく、襲撃を受けた時に屋形から直ぐに逃げ込み、短期間立てこもって防戦する事を想定した施設である事が考えられる。宣教師報告には、16世紀後半の平戸氏の軍勢が、周辺の五島氏や大村氏の領地を船に乗って攻撃する様子が紹介されているが、そのような船での攻撃では敵地の物資や人を略奪し、敵方の船を燃やした後、短期間で撤退するのが常で、こうした攻撃を避けるのに殿山城のあり方は適したものだった。なお殿山城は江戸時代初頭までは、少なくとも住民に城と認識されていたようで、『日本切支丹宗門史』の1622年6月3日の記述に「彼(船頭のヨハキム・カバクボ・クラヒョーエ)は、初め、堺目から一リュー離れた山田の城中に遠ざけられ、そこで餓死するのを待っていた。」とあり、カミロ神父の逮捕に連なって逮捕された地元信者が、山田の城の中に収監されていた事が分かる。

  島の北部を領した一部氏の屋形は、壱部浦にある「御屋敷様」というかくれキリシタンの聖地の場所にあったと推測されるが、同地は海岸部の平地の背後にある丘陵の先端部(標高10㍍程度)である。背後に連なる丘陵は緩やかな斜面のため城郭を設けたとは考えがたく、一部氏の城郭は今の所確認されていない。

  生月島内では中世の五輪塔も確認されている。山田集落正田触にある修善寺は、『田舎廻』『郷土誌』によるとキリシタン時代に教会があり、江戸時代に真言宗の寺院が設けられ、明治初頭に廃絶したとされる。ここでは確認発掘調査や寺前の三界萬霊塔付近から南北朝期の日引石製五輪塔の石材が数基確認され、キリシタンの一斉改宗(1558年)以前も寺院があった事が推測される。同様の日引石製五輪塔の石材はもと常楽寺があったとされる山田小学校横の墓地や、もと永光寺があったとされる里浜墓地からも見つかっている。日引石の産地が若狭湾内(日引)にある事は大石一久氏の研究で明らかにされたが、南北朝時代に盛んに行われた倭寇の侵攻で入手した高麗の産物を日本海経由で若狭に運んで販売し、対価を以て石塔を購入し、生月島で建立した可能性がある。中世の石塔は他にも舘浦の旧山田カトリック幼稚園付近や、旧生月保育所の南側などで確認されていて、いずれも墓石として建立されたと思われるが、いずれも石材の一部のみか積み直した形で存在し、完形品は見つかっていない。

 16世紀中頃に生月島で行われたキリシタンの布教は一斉改宗の形で行われたが、その際仏式の墓が破壊された事については、「当初から新たな教会に戻る時、子供たちは大いに喜んで彼らの先祖の墓地に襲いかかり、激しく憎悪する物に対するかのように一物残さず破壊した」〔1565、Jフェルナンデス〕と宣教使報告に記録が残っている。このように生月島の中世期の石塔はキリシタンの他宗排斥によって破壊された事が考えられるのである。

  なお平成14年まで山田集落のかくれキリシタン信仰行事として行われたハッタイ様は、永禄元年(1558)の一斉改宗以前から神ノ川で行われていた女性の生贄伝承を伴う乞雨祭がキリシタン信仰に継承されたものと思われる。生月島内では他にも川の河口や中流の大石(ガッパ石)で水神を祀る事が行われているが、これらはキリシタン信仰期以前の中世まで遡る水神祭祀だと考えられる。




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