長崎県平戸市生月町博物館「島の館」

生月学講座No.228「生月湾」という地名の必要性

  • 2022/07/05 08:24

生月学講座:「生月湾」という地名の必要性

 

  以前から生月島の捕鯨や漁業についての原稿を書いていて、不便だと思う事が一つあります。それは生月島の東側にある海についての名称が無いことです。

 生月島の東側にひろがる海は、広義に捉えると東シナ海もしくは対馬海峡の一部という事になります。この海域は西側に生月島、南側に平戸島北岸、東側に的山大島、度島、平戸島の白岳半島、古江半島があり、北側は生月島北端の大バエと、的山大島西端の馬ノ頭鼻の間が7㌔程開いて東シナ海に接続していますが、あとは的山大島-度島間の袴瀬戸(約2.5㌔)、度島-平戸島白岳半島間の田ノ浦瀬戸(約2.5㌔)、生月島南端の潮見崎-平戸島呼崎(約0.7㌔)などの狭い水道で別の海域と繋がっているだけです。このような地形的特徴から言えば、生月島東側の海は立派な「湾」なのですが、これまで湾と呼ばれた事は無いようです。 生月島の人々は昔から、東側の海を「前目」、西側の海を「後目」と呼んできました。この場合の前(まえ)後(うしろ)は太陽の昇る方向に拠っていて、日の出の方向が前、日の入りの方向が後ろになります。これは生月島に限った事では無く、壱岐でも東側の海を前目、西側の海を後目と呼び、古式捕鯨時代に日本一と言われた壱岐東北岸の漁場は「前目浦」と呼ばれていました。

  私が生月島東側の海の名称が無い事の不便を一番感じるのは、アゴ網漁の事を紹介しなければならない時です。ご存じの通り「アゴ」と呼ばれるツクシトビウオやホソアオトビの幼魚は8月末頃に平戸周辺に現れますが、彼らは群れを作らないため、広い海域の海面近くに散らばっています。そこにアゴギタと呼ばれる北東風が吹くと、南側が陸地の場所に吹き寄せられて、密度が濃くなります。生月島東側の海は南が底となる袋状の地形(湾)のため、北風の風下となる一番奥の南側では特に密度が濃くなります。昔は手漕ぎのテントブネを使ってそうした海域で網を入れて囲んでから船上に引き上げアゴを取ったのですが、昭和40年代以降は小型動力漁船で袋状の網を曳航し、アゴの密度の濃い海域を走って集め捕獲しています。このように生月島東側の海でアゴ漁が盛んなのは、湾の地形である事が要因となっています。だから湾という表記を使えば、「生月湾では北東風がアゴを湾奥に吹き寄せる9月頃になると、アゴ漁が盛んになります。」という風にシンプルに漁の模様を説明できるのです。

 古式捕鯨業時代に益冨・御崎組がおこなっていた網掛突取法の操業も、湾という地形が重要な意味を持っています。冬に南下する鯨は生月島-的山大島間の海域や、袴瀬戸、田ノ浦瀬戸(特にここからが多かった)を通って生月島東側の海にやって来ますが、それらの海峡の沿岸には山見が設けられ、のろしで生月島東岸に待機する船団に報せます。生月島の東岸に来た鯨は、勢子船の船縁を叩く音で脅かして海岸沿いに北に誘導し、生月島北端の海域(網代)に張られた鯨網に突っ込ませてから銛を打ちます。なかには生月島東岸を南下したり、平戸島の北岸伝いに西に向かおうとする鯨もいますが、勢子船が辰ノ瀬戸の東側に待機して、音で脅して瀬戸を抜けないようにして、北に向きを変えさせたそうです。このように生月島の東側の海は、それ自体鯨を捕獲する漁具的な役割を果たしている所があるので、捕鯨漁場の名称も「生月湾漁場」と呼ぶのが良いように思います。




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