長崎県平戸市生月町博物館「島の館」

生月島の歴史 №4「キリシタンの時代」

生月島のキリシタン時代

 

1.キリシタン信仰の布教・定着

(1)籠手田氏・一部氏の入信

 戦国時代、後期倭冦の貿易体制における日本側窓口として繁栄していた平戸港に、天文19年(1550)最初のポルトガル船が入港した。それ以降永禄5年(1562)まで、平戸はポルトガル船貿易(いわゆる南蛮貿易)の港として繁栄する。

 一方でこのポルトガル船入港時に鹿児島からフランシスコ・ザビエルが来て、平戸でキリシタン(当時のカトリック)の布教を始めている。その後もポルトガル船で来航した宣教師達によって布教が続けられ、平戸で入信する信者も500人程になっている。天文22年(1553)には豊後から来たガーゴ神父が3人の身分の高い武士を入信させているが、その3人は生月島南半を治める領主・籠手田安経とその父、安経の実弟でのちに島の北半を治める一部氏に養子として入る勘解由だと思われる。『日本史』第1部18章によると、ドン・ジェロニモ(籠手田安昌)は平戸地方を統治する戦国大名・平戸松浦氏の当主に隆信(道可)を擁立し、家督を相続させたことから重用され、息子のドン・アントニオ(籠手田安経)も松浦隆信についで平戸で最も高貴な殿とされていたという。後世の資料である『壺陽録』には、「籠手田左衛門、一部勘解由を御名代として、南蛮の宗門にそなされける。依之ハラカンの射法不残伝へしかは、日本一の大業御代々平戸に伝り今に御重器の第一とそ成りける(略)」と、大砲技術の習得のため、松浦氏が籠手田、一部両氏を自らに代わって入信させたとあるが、この記録が禁教下に書かれたものである事に留意する必要がある。

 

(2)籠手田領の一斉改宗

  1559年11月1日付「ガーゴ書簡」によると、ドン・アントニオ(籠手田安経)は、永禄元年(1558)にヴィレラ神父の勧めで、自らの領内である生月島南部、度島、平戸島の春日、獅子、飯良で、家臣や領民の一斉改宗を行い、1,500人を改宗させている。これは日本における一斉改宗の最初の事例だが、その行為は当時のヨーロッパにおいて、キリスト教領主はそこに住む領民の宗教を規定する(領民は領主と同じ宗派のキリスト教であるのが当然)という認識に拠るものと思われる。例えば16世紀のドイツを中心とする神聖ローマ帝国の領域においては、カトリック教会のあり方に反発するプロテスタント勢力の拡大が著しく、各領邦を支配する領主はそれぞれカトリック、プロテスタントに入信して争ったが、1555年にアウグスブルクで開かれた帝国議会において、「支配者の宗教が、その領地の宗教になる」という原則が確認されている(但し帝国内の自由都市では両派の並存が容認される)。一方、戦国期の日本では、宗教の自律的権限は一向一揆のように世俗的な領地・領民の支配権も含みながら強大化しており、領主の権限として領民の宗教を規定するという認識は薄かった。そうした状況の中でヴィレラは一斉改宗を強行し、籠手田安経はそれを認めたのである。

 改宗に際しては、山田にあった主要な寺院やその他の寺院を教会に転用しているが、そこに安置されていた仏像はキリシタンに取っては異教の偶像のため焼かれている。その行為が安満岳や志々伎山などの僧侶の反発を招き、松浦隆信の命でヴィレラ神父は平戸領内から博多に追放されている。しかし籠手田領を一斉改宗以前の状況に戻す事は強制されていない。その辺りに松浦隆信の、籠手田氏やポルトガル船貿易と密接な関係を持つイエズス会との妥協的な政策意図がかいま見える。

 1561年10月1日付「アルメイダ書簡」によると、永禄4年(1561)にアルメイダ修道士が度島から生月島を訪れた時には、島民2500名のうち800名がキリシタンだったとされている。つまり全島民のうち約1/3が信者という事になるが、これは籠手田領に属する住民数に対応したものと思われる。上陸したアルメイダは十字架を礼拝した後、教会に入り、早朝と夜の二度説教を行い、昼御飯の後には子供達を集めてドチリナ(教理教育)を行っている。また山田の教会から1里離れた堺目に教会を新築している。

 1563年4月17日付の「フェルナンデス書簡」によると、永禄5年(1562)の年末にはトルレス神父が生月島に1カ月ほど滞在し、フェルナンデス修道士は平戸島西岸の信者達に、生月の教会に行って神父に告白するよう伝えて回っている。また永禄6年元旦(西暦では1563年1月23日)には、教会から4分の1里の地に、当時日本で建てられた中で最も美しい十字架が建てられているが、これは黒瀬ノ辻の十字架の事と思われる。

 

(3)一部領の一斉改宗

 生月島の北部を支配していた一部氏に婿入りした籠手田安経の実弟、勘解由は、既に義父を戦いで亡くしており、一部氏の実質的な当主となっていた。永禄8年(1565)初頭、キリシタン嫌いだった義母が勘解由の妻であった娘の病死をきっかけにキリシタンに改宗した事を契機に、一部領の生月島北部や平戸島の根獅子で、カブラル神父らによる一斉改宗が行われている。1565年9月23日付「フェルナンデス書簡」には「数日後、司祭は私を伴って同婦人の所領に赴き、二つの集落をキリシタンにし、両者で五百五十名に洗礼を授けた。」とある。この二集落については、当時一部浦(浦方集落)が一部(在方集落)と分離していなかった可能性から一部と元触の可能性もあるが、根獅子と一部の可能性もある。なお同年、南蛮貿易の途絶を怒った松浦隆信が派遣した船団が、大村領福田浦でポルトガル船に敗北したことで、松浦氏はキリシタンへの態度をさらに硬化させている。

 1566年9月15日付「フェルナンデス書簡」によると、永禄9年(1566)には、平戸城下からコスタ神父とフェルナンデス修道士が生月島の山田(iamada)堺目(sacaime)一部(ychibu)などに赴いて信者の告白を聴いている。

 1569年10月3日付「ミゲル・ヴァス書簡」には、「バルタザール・ダ・コスタ師とアイレス・サンシェス修道士は平戸に滞在した。同所ではキリシタンの信仰が深まり、多数の洗礼が行なわれたが、ドン・アントニオとその兄弟のドン・ジョアンの島々においても同様で、彼らがよき模範を垂れ、我らの主なるでウスへの奉仕に熱意を示して便宜を計ったお陰であった」とあり、永禄12年(1569)頃の生月島では、籠手田安経と一部勘解由の支配のもと、キリシタン信仰が安定して行われている状況が分かる。このような状態は1670年代まで続く。

 

2.初期のキリシタン信仰の様相

(1)信仰施設

①十字架

  キリシタンの布教が行われた地域で最初に設けられる宗教施設が十字架である。永禄元年(1558)の籠手田領の一斉改宗の際には各集落に十字架が設けられているが、そのうち山田に設けられた十字架について、1561年10月1日付「アルメイダ書簡」には「(生月)島からおよそ一里の所に至った時、高地に一基の十字架が見え始め、その周囲には砦のような囲いがあった」と記されている。前述したようにこの十字架は永禄6年(1563)元旦に改修されている。

  1609年に処刑された西玄可に関する宣教師の記述にも、この十字架は登場する。1609年度「イエズス会年報」には、西の発言として「また死刑の場所を、以前にクルス(十字架)が立っていた所にしてほしい、そこにはキリシタンである自分のすべての身内が埋葬されているからである。そのために自分の死骸をキリシタンの習慣に従ってそこに埋葬するために、自分が指定する人に渡してほしいと言った」事を記している。この記述から、十字架に伴って信者の墓地が設けられていた事が分かるが、先の記述にあった「砦のような囲い」とは、墓地の区画の周囲に巡らされた石塁だと考えられる。西は実際にここで斬首され墓地に埋葬されているが、こんにち生月島山田の黒瀬ノ辻には、ガスパル様の墓とされる積石基壇形式の墓と、その墓から生えたとされる「ガスパル様の松」と呼ばれる大松の根っこが残る。黒瀬ノ辻の「辻」とは平戸地方で山の頂を指す方言で、黒瀬はおそらくは「クルス」の訛りと思われる。ガスパル様の墓がある丘の頂上は東の海からもよく見える場所で、前述のアルメイダ書簡の記述と整合する。

  永禄8年(1565)に改宗された一部領の十字架については、後述するように寺院を改宗した教会に附属して設けられているが、これについては寺院に附属する墓地をキリシタン墓地に変更する事を念頭に設けられたと思われる。

 

②教会

 改宗によって一定のキリシタン信者が生じた集落には教会が設けられた。生月島の山田では永禄元年(1558)の一斉改宗の際、寺院を転用した教会が設けられているが、1561年10月1日付「アルメイダ書簡」には、この教会についての記述がある。

「彼らの有する教会ははなはだ大きく、かつ優美であり、彼らが非常によく整えているので、見て楽しむにふさわしいものであった。後に私が実見したように、この家屋は六百名以上を収容することができる。(中略)この家屋は野にあって美しい林に囲まれているので、外から見ることができず、はなはだ清潔で荘厳な入口を備えている。教会(の堂内)に上がる階段の下に水槽があり、裸足で歩く貧者がここで教会に入る前に足を洗う。それは儀式ではなく、ただ家屋(の内部)に敷き詰めた敷物を汚さぬようにするためであり、これが日本人の習慣なるがためである。すなわち、家屋(の内部)には常に敷物を敷き、いとも清潔であるため、これを汚さぬよう、足を清潔にして家に入ることを常とする。この地所に沿って一本の川が周囲を巡るように流れており、ほとんど要塞のようになっている。」

 この記述に出てくる山田の主要な教会の特徴は次の3点である。

A 教会は大きく優美で、600名以上を収容することができる。室内は婦人のみで一杯になり、男子を収容するために庭に蓆を敷いた。

B 教会の建物は野にあって美しい林に囲まれている。

C 教会の地所に沿って一本の川が周囲を巡るように流れている。

 山田の主要な教会については、近藤儀左衛門が『生月史稿』のなかで「舘浦には三教会が建立され、一つは救い主キリストに、一つは教法に、一つは聖母マリアに敬供され、祝日や日曜日には、小児を教導し、老人に説教し、祈祷の声は日も夜も止まなかった。いま「堂の山」「堂の坂」というのは、すなわち教堂の跡であろうか。」と述べている。この三つの教会の根拠は定かで無いが、堂の山(ドノヤマ)は舘浦集落の北西にある標高30㍍程度の丘で、丘の上には現在、寺院(明法院)、墓地、大魚藍観音などがある。近藤氏はドノヤマを「堂の山」と解釈し、堂は教会を指し、地名は丘の上に教会があった事に由来するとしている。しかし五島中通島青方にも「殿山」という地名の山があり、山上に青方氏の城があった事が確認されている事から、舘浦のドノヤマも籠手田氏の城に由来する地名であると考えられる事は前回紹介した。またかりにドノヤマを山田の主要な教会の場所だとした場合、Aにあるような大きさの建物の敷地が小平地が段差で連続するドノヤマでは確保できず、Bの野にあるという風景は、舘浦の方から見た景観として相応しくなく、Cの「川が周囲を巡る」という風景もドノヤマには当てはまらない。

 筆者は山田の主要な教会の所在地として、現在、山田小学校や保育園、墓地が立地する丘陵を考えている。ここには地元の伝承で常楽寺という寺院があったとされ、『田舎廻』では同寺は永正元年(1504)の開山で、「當生月嶋にては外の寺よりも當寺(常楽寺)が、古き寺之由」とされている。また同所の墓地には五輪塔の残欠がある事も古寺の存在を裏付けていて、寺院を転用した教会という記述とも合致する。丘陵の頂部は、墓地や保育園、学校を建てられる程広大で、またこの丘陵を東方(比売神社側)から眺めると、「野」と称してもよい広い耕地に三方を囲まれ、川も前面に流れていて、アルメイダ報告の要件を全て満たしている。さらに書簡にある十字架がある黒瀬の辻(1/4レグワ)や堺目(1レグワ)からの距離関係についても問題ない。

  堺目にも、永禄3年(1561)にアルメイダ修道士によって教会が建てられている。1561年10月1日付「アルメイダ書簡」には次の記述がある。

「諸人は大いに喜んで作業に取り掛かり、多くの人の助力により、教日で建てられた。(平戸に)五隻の船が来航したことから、教会用の品々を十分に携えていたポルトガル人らを介して、この教会のために平戸より画像や(祭壇用の)掛布、そのほかの装飾品が届けられた」

 これによると堺目の教会堂は僅か数日で建てられ、聖画や調度品は平戸に入港しているポルトガル船から供給されている。当時の堺目は数十戸からなる小集落であった事から、教会堂もそれほど大きな建物ではなく、形状も住民が建てている事から作り慣れた日本家屋だったと考えられる。堺目と同時期アルメイダが関与して建設された平戸島獅子の教会堂の建設でも、生月島のキリシタン達が7名の大工を派遣している事も、それを裏付ける。

  山田には前述した主要な教会の他にも複数の小教会が存在した。1561年10月1日付「アルメイダ書簡」には「翌日、早速、幾つかの小教会を訪ねた。これらはかつて(異教の)寺院であったもので、島の最良にして、もっとも清浄な場所にある。(略)これらの御堂には、今やキリシタンとなった仏僧らが従前に変わらぬ収入をもって住んでいる」こうした小教会の一つが山田集落の正和にあった修善寺と思われる。『田舎廻』には、修善寺は安満岳の住職だった玄順が隠居寺として慶長10年(1605)に開山したとしているが、「當寺之処には以前は切支丹宗之者居住致し、邪法を弘候を、式部卿法印様御禁制被成邪法之者御成敗被成候て居所は御焼討被成候て其□に修善寺御建立有之」とあり、教会のような施設があったのを焼き討ちして、跡地に寺院を建立したとされている。アルメイダの書簡ではもともと寺院だったのを教会にしたとしているが、実際に修善寺跡からは中世石塔の残欠が見つかっており、中世に遡って寺院があった可能性が高い。

 永禄8年(1565)の一部領の一斉改宗の際も、僧侶の改宗とともに寺院が教会に変えられている。1565年9月23日付「フェルナンデス書簡」には、「司祭は彼をキリシタンにし、彼が住んでいた僧院を教会に変えて一基の十字架を立てたが、それ以後キリシタンらは同所に埋葬されることになった」とあり、ここでは教会に十字架が付設され、信者の墓地が設けられた事が分かる。この墓地については同書簡に「新たな教会に戻る時、子供たちは大いに喜んで彼らの先祖の墓地に襲いかかり、激しく憎悪する物に対するかのように一物残さず破壊した」とあり、旧来から墓地として使われていた場所を、既にあった石塔のような仏教的造作物を破壊する事でキリシタン墓地に改修した事が窺える。この教会に変えられた寺院については、中世から存在した事が確認されている永光寺である可能性が高い。永光寺は昭和になって現在の地に移転したが、以前はその南の現里浜墓地の地にあった。この旧寺地の背後(西側)は耕地であるため墓地があったとは考えられず、両側面(北、南側)は浦方の屋敷地だと思われるため、墓地は前面の海との間にあった事が考えられる。現在「合掌庵」という名称で祀られる堂宇は永光寺の所管になっているが、もともと墓地に附属する堂宇で、ここに十字架が立てられていた可能性がある。

 

(2)組織

 1571年10月20日「ヴィレラ書簡」には、平戸に7人の慈悲役(者)という役職が置かれたとある。この「平戸」については1555年に500人の信者が居た港市平戸の可能性もあるが、1565年9月23日「ジョアン・フェルナンデス書簡」には、御孕みの聖母教会が建った平戸で4人の慈悲の組の組頭(慈悲役)が選出されたという記事があり、人数が合わない。またヴィレラ神父は1558年に籠手田領の一斉改宗を行った後で追放されているので、改宗後の籠手田領の総数である可能性もあるが、その場合は山田に3名(かくれ信仰の御爺役数から類推)、度島、堺目、獅子、飯良に1名ずつ置かれた可能性もある。他方ヴィレラの書簡に「この習慣はキリシタンのいるすべての地に導入され」という記述がある事から、同様の役職数が籠手田領や1565年に一斉改宗が行われた一部領の村々に設けられた可能性もあり、例えば一部領だった根獅子の水役と呼ばれる役職も同じ7名で構成されている。

 前掲のヴィレラ書簡にある慈悲役の役割を見ると、まずは①教会の管理があり、祝日と日曜日ごとに教会を掃き清めて木の枝で飾ったり、司祭が何処かの村を訪ねて行った時には教会を守るとされる。次に②司祭の世話があり、司祭が食事のため携えるものに少しも不足が出ぬよう配慮する事とされる。また③信者の指導があり、毎週日曜日、司祭に代わってキリシタン信者を教会に集めたり、悪しき行ないをした者や、騒動において道理のない者を叱り、争う者があれば我らに代わって和解させ、不熱心な者を奮起させるよう努めるとされる。また④葬式に関する事があり、死者がある時には司祭に急ぎ知らせ、墓を造り、死者を埋葬しに行くとされる。また⑤貧者に対する慈悲の行いがあり、貧者がいる時には司祭に報告して能う限り彼らに施すが、他にも多くの事を行なうとされている。

  慈悲役の役割に①教会の管理がある事から、慈悲役は教会が建てられた村という社会組織に対応して存在する役職である事が分かる。③の信者の指導という役割も、信者を教会に集める役割がある事から、その教会の信者を構成する村の範囲における役割、役職である事が伺える。

 近年の生月島のかくれキリシタン信仰で御爺役と呼ばれている役職は、この慈悲役(者)の末裔と考えられる。御爺役の共通する役目としては洗礼や信仰の指導者としての役割がある。ヴィレラ書簡の慈悲役の役割の中には洗礼が無いが、1559年10月5日「ジョアン・フェルナンデス書簡」には、平戸から離れたドン・アントニオ(籠手田安経)の二つの村(獅子と飯良か)で、「二人の重立ったキリシタンが司祭の命により生まれる子供らに洗礼を授けている」とあり、彼らはそれぞれの村の慈悲役だと考えられる。根獅子のかくれキリシタンの「水の役」という名称は、洗礼に際して聖水を用いる所から来ている。

また慈悲役の役割に葬儀への関与があるが、平戸地方のかくれ信仰の御爺役でその役目を行っているのは壱部だけである。恐らくは次回に紹介する信心会が導入された後に成立した親父役などが、葬儀の役割を引き継いだ事が考えられる。

 慈悲役を輩出する範囲である集落は、教会を中心にした小教区的な組織を漠然と構成していたと思われる。日本における布教当初には教区が成立していないため、イエズス会は便宜的に信心会的な組を集落の範囲に設立した事が考えられ、前述した1565年9月23日「ジョアン・フェルナンデス書簡」の記述から、その組は「慈悲の組(ミゼリコルディア)」と呼ばれたようだ。但しそれは1580年代に長崎で成立する「慈悲の組(ミゼリコルディア)」のような慈悲の業を専ら目的とする任意加入の組では無く、慈悲の業にも関与はするが、主な目的は教会の維持や信者の日常的な信仰の維持など小教区の役割を果たす事にあった。

  1571年10月20日「ヴィレラ書簡」には、慈悲の組の下部組織と思われる小組に関する記述がある。

「当地には彼らの大なる助けとなっている習慣がある。すなわち、日曜日に大半のキリシタンが一人のキリシタンの家に集まり、聴いた説教について話し合うことであり、修道士がいる時は彼がそこに赴いて人々の呈する質問に答える。彼らはほとんどの場合日曜日に、そのつど(いずれかの)キリシタンの家でこれを行なう。(ただし)これは男(が行なうことであり)、婦人はそのような話合いに加わらず、もし疑問がある時には夫に質問を呈するのである。」

  この記述には組の名称や規模については記されていないが、一軒の家に集まるとある事から、集落中(慈悲の組全体)の男性信者が集まる規模とは考えられず、せいぜい数軒単位の集会と思われる。また日曜日にその集会を行っている事が分かる。生月島のかくれキリシタン行事の多くは日曜日に行われているが、津元・垣内の成立は後述するように1600年前後と思われるので、津元・垣内以外の組が考えられる。これらの条件を満たすのは、生月島で「小組」もしくは「コンパンヤ」と呼ばれる数軒単位の組である。生月島では以前、地区によっては月一回日曜日に小組の行事が行われ、お札という木札を引いて吉凶を占うお札引きという行事が行われていた。

 お札は縦4~6㌢、横3~4㌢程度の木札で、袋や木箱に納められ、小組の御神体として祀られている。親様の札1枚と、各5枚ずつの喜び様、悲しみ様、グルリオーザ様の札の計16枚を基本の一組とするが、不足や余っている場合も往々にしてある。喜び、悲しみ、グルリオーザは、マリアの生涯の物語を十五の場面に分けた「十五の玄義」の、喜びの玄義(受胎告知からキリストの成長までの五つの出来事)、苦しみの玄義(キリストの逮捕から処刑までの五つの出来事)、栄えの玄義(キリストの復活からマリアの昇天までの五つの出来事)に対応したもので、親様以外の札の表には、三種類の記号と、番号を表す横線が墨で記されており、裏には、それぞれの場面に対応するオラショ「十五くだり」の文句が記されている。このことからお札は、もともとイエズス会がロザリオの玄義の学習や祈りに用いた祭具である可能性がある。例えば引かれた札の番号に相当する十五くだりの祈りを唱えるゲームのようなあり方や、皆が札を引いた後、ロザリオの祈りをみんなで唱える中で各自が札で示された担当部分の祈りを独唱した事などが考えられる。

  なお生月島の農村四集落では小組(コンパンヤ)は津元・垣内の下部組織となっているが、1600年前後に津元・垣内の元となる信心会が成立する以前は、慈悲の組の下部組織だった事が考えられる。その根拠として前述したヴィレラの書簡があるが、他に、小組が津元・垣内がある集落だけでなく、それが確認できない生月島の浦集落や平戸島西岸の各集落にも存在する事がある。特に生月島の津元・垣内に相当する組が存在しない根獅子で小組の事を「慈悲仲間」と呼んでいたという片岡弥吉の報告は重要である(『かくれキリシタン』)。

 

(3)信仰具

  キリシタンの信仰具には大きく、教会に関するもの、信者の組に関係するもの、信者が持つものがある。

①教会の信仰具

 平戸地域では基本的に、各集落に一つ主要な教会が設けられているが、生月島のかくれキリシタン信仰では、大型のプラケット(キリストやマリアのレリーフを鋳込んだ金属板)が壱部、堺目、山田、舘浦の集落に一つずつ存在する事から、もともと集落の主要な教会に祀られていた信仰具である可能性がある。また1561年に堺目の教会が建てられた時に、平戸のポルトガル船から、画像や(祭壇用の)掛布、そのほかの装飾品が届けられたという記述が1561年10月1日付「アルメイダ書簡」にある事から、教会には画像が飾られることもあった事が分かる。堺目のかくれキリシタン信仰には上宿、中宿、下宿の3組の津元が存在しており、それらは1599年の籠手田・一部氏の退去前後に設立された信心会の組が起源と考えられるが、3組にもともと祀られていた御前様(御神体)は、「ロザリオの聖母子」のお掛け絵(上宿)、黄金の十字架(中宿)、「無原罪の聖母」のプラケット(下宿)で、そのうちの「ロザリオの聖母子」のお掛け絵は、描かれた衣装の特徴から中国で作られた聖画と思われ、前述したアルメイダ書簡に登場する聖画である可能性がある。堺目三宿(3組)の御前様は、生月島の他の多くの津元・垣内がお掛け絵を祀る形と趣を異にするが、キリシタン時代の堺目の教会で祀られていた信仰具を、禁教時代に教会堂が破却された際、3つの信心会に分与した可能性が考えられる。

②信者の組の信仰具

  信者の組として初期に成立した慈悲の組は、教会の管理を目的としたため、本来は組の信仰具を持たなかった可能性がある。平戸島の根獅子に存在した集落単位のかくれキリシタンの組は、1565年の一部氏の一斉改宗時に成立したと思われるが、組頭の辻家も非公開だが何らかの信仰具を持つと考えられている。これについては1599年の籠手田・一部氏の退去後の教会破却に際し、教会にあった信仰具が引き継いだ可能性がある。

 慈悲の組の役職である慈悲役は、洗礼や葬式など聖水を用いる儀礼に関与している事から、後述する聖水を納めたお水瓶を所持していたと思われる。これは慈悲役の裔であるかくれキリシタンの御爺役がお水瓶を必ず所持して祀り、諸行事に用いていた事から裏付けられる。但しお水瓶の所持は後述するように慈悲役に限られたものではなかった。

  平戸地方の慈悲の組にはもともと下部組織として小組、コンパンヤと呼ばれる数軒単位の組があり、生月島、平戸島西岸のかくれキリシタン信仰地域には総じてこの組の存在が確認され、組が所持する御神体・信仰具としてお札が確認されているが、これはキリシタン信仰から継承されたものと思われる(前述)。

③信者が持つ信仰具

〔お水瓶(聖水瓶)〕

  聖水は宣教師等によって祝別された水で、こんにちのカトリックでも洗礼をはじめ様々な行事で用いられている。キリシタン信仰でも聖水が殊に神聖視され大切に保管されていた状況が、度島の信者について語った1564年10月3日付「フロイス書簡」で確認できる。

「彼らは聖水に格別な信心を寄せており、この日はいっそう厳かに聖水を祝福したので、儀式が終わると皆、先を争って聖水を持って帰った。これは病に備えて聖水を遺物として保管するためである。また彼らは平戸や島々、博多、その他キリシタンのいる地方に聖水を分配した」

  この記述の聖水はフロイス神父が準備した聖水だが、それが信者に分配されて遺物として保管された事が分かる。聖画やメダイ、コンタツなどは製作に手が掛かり、ヨーロッパから供給するのも長大で危険な航海を経る困難がある。聖水の場合は原料は現地調達でき、司祭の儀式によって多く供給する事が可能なので、特に布教初期においては信者が得やすい信仰具だったと思われる。加えて先の記述にあるように、聖水は薬としても用いられている。生月島のかくれキリシタン信仰では「お水」と呼ばれる聖水は「お水瓶」という陶磁器の鶴首壺に納められ、お水を入れた容器自身が御神体とされて祀られていて、前述のフロイスの「遺物として保管」という記述を彷彿とさせる。またお水を病人に振りかけたり、お水を飲ませて病気直しに用いられている事もフロイスの記述と一致する。

  なおフロイスの記述では司祭(フロイス)が聖水を作っているが、村に常時司祭が居る訳ではないので、信者が聖水を用意する場合もあったと思われる。その場合には採取した水をどのようにして聖水にするかが問題となるが、それに関係するのが採取場所と儀礼である。かくれキリシタンの聖水(お水)を採取する場所には、A集落内の特定の湧水、B聖地、C特に場所に拘らないの3パターンがある。平戸地方では生月島の壱部、堺目、元触上川、山田、平戸島の春日がBの中江ノ島で、平戸島の根獅子と生月島の元触辻・小場がAである。そのうち根獅子はオロクニン様のカワという湧水で元日に採取する形を取っているが、同地が1565年の一斉改宗時の組織の形を残す事から、Aの形が古い聖水採取の形である可能性がある。Bの中江ノ島での採取という形は、同島が洗礼者ヨハネ(サンジュワン)の聖地だったと考えられる事から、聖人信仰が盛んになった段階に聖水採取の習俗が起こった可能性がある。Cは外海地方などで確認される新しい段階のキリシタン信仰の要素と思われる形態だが、生月島でも聖家族信仰の聖地として成立した可能性があるダンジク様の行事の際には、横を流れる川で採取した水を聖水に用いた例がある。

  採取した水を聖水にする儀礼については、中江ノ島での聖水採取の際にオラショを唱える以外に、以前の聖水を新しい聖水と混ぜる事が行われているが、その上に壱部では、お授けと同じ儀礼を行っており、堺目では六巻の形でオラショを唱えて聖水にしている。

〔オテンペンシャ(鞭)〕

  キリシタン信仰ではよく鞭打ち苦行が行われていた事が、1566年9月15日付「ジョアン・フェルナンデス書簡」から伺える。

「四旬節には例年通りに行い、金曜日の朝に受難について説教し、夜には連祷の後に講話をした。その後、教会内にいるキリシタンは皆、ミゼレレ・メイ・デウスを一回唱える間、驚くほどの熱意をもって己れを鞭打った。この苦行は彼らが一年中、金曜日の夜、当平戸の教会のみならず、周辺のすべての町村で行なうのを習慣としており、アヴェ・マリア(の時刻)に彼らは教会に集まって苦行するが、ことに四旬節の金曜日にはいっそうの熱意をもって行なう。」

 こうした苦行に用いる鞭(ヂシビリナ)が、平戸地方のかくれキリシタン信仰において「オテンペンシャ」「お道具」という名の信仰具として継承されているが、オテンペンシャの語源はポルトガル語のPenitencia(悔悛)である。オテンペンシャ(お道具)は、麻の細縄を束ねて根本を括ったもので、縄の先端には一文銭などを削って作った十字型の金属片を付けたりする。おもに行事の中で行なう祓いなどに用いるが、これ自体も御神体とされている。『生月村郷土誌』の記述や堺目の伝承によると、悲しみの入りから上がり前までの46日間(カトリックでいう四旬節)に1日1本ずつ麻縄を撚り、計46本を束ねて作るとされるが、現存品の縄の本数は様々である。壱部ではオテンペンシャを用いる際に「ミジリメン」というラテン語起源のオラショを唱えるが、この祈りこそ先のフェルナンデスの書簡に登場する祈り「ミゼレレ・メイ・デウス(主よ憐れみたまえ)」である。このように鞭の使用に際してミゼレレ・メイ・デウスを唱える習俗は、キリシタン信仰前期に起源がある事が分かる。

  生月島のかくれキリシタンの行事では、オテンペンシャを振って家、場所、人を祓う。例えば壱部では、正月に行う屋祓い行事の事を「オジシ」と言うが、この名称の起源はかつての鞭の名称「ヂシビリナ」に由来する可能性がある。祓うという行為の目的は、対象から悪いものを追い出す事にあるが、病人に対してオテンペンシャで身体を祓って病気を追い出す事も行われている。壱部では「風離し」といい、ミジリメンを唱えながら病人の身体をオテンペンシャで叩いて祓い出し、お水を振って清めていて、山田では着物の片袖を脱いでお道具(オテンペンシャ)を持ち、病人を叩いていた。キリシタン信仰でも病気直しの目的で鞭を使った事が1562年10月25日付「アルメイダ書簡」に報告されている。

「かの老人が来て、メストレ・フランシスコ(・ザビエル)師の所有になるもので司祭が彼に贈った苦行用の鞭を私に見せて語ったところによれば、前述の奥方がひどく病んだ時、いつものように苦行をするためその鞭を請うたが、それというのも、老人が週のうちの一日、キリシタン全員を集めて彼らに(その鞭で)各自の体を三回ずつ打たせ、もしさらに多くを望む者があっても、鞭が壊れるのを恐れて許さなかったが、これにより彼らが甚だ健やかになったからであり、従って奥方は最後の手立てとして苦行を行なうため鞭を求めたのであったが、我らの主なるデウスは(ザビエル)師の功徳により、彼女がたちまち健康になることを嘉し給うたとのことである。」

 このように、かくれキリシタン信仰でオテンペンシャを使って病気直しをする行為は、キリシタン信仰前期に行われていた習俗に起因する事が明らかだが、キリシタン信仰で盛んだった鞭打ち苦行も、信者側からすれば、身体から悪いものを祓い出すという認識で行っていた事も想像され、山田で行われていた片袖を脱ぐ所作も、元は鞭打ち苦行の際の所作であった可能性がある。

 

3.信仰定着期・後退期の生月島の動向

(1)松浦氏家臣としての籠手田氏・一部氏の働き

  永禄元年(1558)の一斉改宗によって平戸松浦氏がキリシタンと距離を取った後も、平戸松浦氏と籠手田氏の主従関係は継続している。1564年10月3日付「フロイス書簡」によると、永禄7年(1564)に、一斉改宗後ヴィレラ神父の追放に関与していた安満岳の仏僧の頭領が、戦場にいる籠手田安経に領地の割譲を要求し、断られると報復として籠手田領の家屋を焼き討ちするという事件を起こしている。籠手田安経は松浦隆信に対し、もし仏僧らを罰しなければ、兵を率いて戦場を離脱し仏僧らを討つと主張し、隆信は安経の言を容れて仏僧らの領地を取り上げ、全員を追放している。平戸松浦氏がキリシタンのみを禁じていた訳ではなく、領内秩序を脅かす行為に対しては仏教であっても罰していた事が分かる。

  一部領の一斉改宗が行われた永禄8年(1565)には、平戸への入港を避けて大村領の福田に入港したポルトガル船を、松浦隆信は堺商人の協力を受けて襲撃しているが敗北している(福田浦海戦)。ポルトガル船とイエズス会、キリシタンは不可分の関係と認識されていたため、この襲撃の件は籠手田安経・一部勘解由らに伏せられていて、襲撃自体にも参加していなかった。福田浦の敗戦を伝える1565年10月22日付「コスタ書簡」には、「彼(籠手田安経)とドン・ジョアン(一部勘解由)は我らの主が与え給うた勝利を非常に喜び、異教徒らはこれにより両人と我らを深く恨んだ。それ故、もし両人がいなければ、彼らは我らと教会に対してすでに復讐を遂げていたように思われる」と、敗戦が平戸領内のキリシタンと非キリシタンの間の反目を深めた事を伝えている。1566年9月15日付「フェルナンデス」書簡によると、こうした反目を背景にして、福田から平戸に食料を送っていたキリシタンの船(平戸の船)が平戸の艦隊の略奪にあい、聖母被昇天像を含む財貨や武器を奪われる事件が起きている。さらにその像を非キリシタンの加藤氏が受け取り、墨を塗るなど不敬を働いているという話がキリシタンに伝わる。加藤氏は平戸松浦氏の有力な家臣で、反キリシタン勢力の代表者のような存在だったが、前回紹介したように、中世には生月島を領有していた存在であり、反キリシタンの姿勢には籠手田氏・一部氏への反発があった可能性がある。加藤氏への報復を考える籠手田安経と一部勘解由に対し、コスタ神父は「もし彼らが件の侮辱に対して報復しようと欲すれば、領主と異教徒らは彼らを謀反人と見なすからであり、また、当地の異教徒(の勢力)はキリシタンの三倍なるが故に、彼ら(両人)とキリシタンをことごとく滅ぼしうるのであり、彼ら一同の生命のみならず、当地の霊的な幸福も失われることになるからである」と言って諭している。

 さらにその後、略奪を受けた船に乗っていた籠手田の家臣が、略奪を行った側の者と道で出会い、彼の刀剣を奪うという事件も起きる。そのため加藤氏は夜半、教会を破壊し、籠手田氏を襲撃するために家臣を集め始めたという話が伝わったため、キリシタン側も対抗して夜半60名近くが武装して集結し、度島や生月からも家臣が到着し、諸聖人の祝日(11月1日)前夜に平戸の籠手田氏の屋敷に籠って加藤氏らの軍勢の来襲を待ち受けたが、結局加藤氏は襲撃を断念している。

  永禄9年(1566)の復活祭の8日後、度島にいるコスタ神父を籠手田安経と一部勘解由が訪ねて告白を行っているが、彼らはその後、平戸の軍勢とともに平戸から4里の所にある敵の城の攻撃に向かっている。これは相神浦松浦氏が籠る飯盛城の攻略戦を指すと思われるが、この年同氏は降伏し、松浦隆信は自分の三男を入嗣させ、日宇・早岐・佐世保・針尾・指方の諸村を領国に収め、北松浦半島全土を自己の領国に組み込んでいる。

 1566年10月20日付「アルメイダ書簡」によると、五島で平戸松浦氏の義兄弟が起こした反乱が敗北に終わった事から、松浦氏は200艘からなる大艦隊を整えて反攻を企てているが、籠手田安経はその司令官を務めている。艦隊は多数の鉄砲を装備し、五島領の最初の島(宇久島の事と思われる)に上陸して数カ所の集落を焼き払ったが、城を攻めないまま25日後に撤退している。籠手田安経がこの攻撃を指揮している事や、先の飯盛城攻めにも従軍している事などを見ると、平戸松浦氏の反キリシタン的姿勢にも拘わらず、軍事面においては主従関係に従って軍の指揮を執っている事が分かる。特に籠手田安経が艦隊の指揮を取っている事実は、彼が水軍の指揮に卓越した指揮官で、自身も有力な水軍を率いていた事を示している。

 

(2)籠手田安経・一部勘解由の死と伴天連追放令

 1582年2月15日付「(1581年度)日本年報」は、籠手田安経が扁桃腺炎で急死した事を報じている。この記事では彼の実弟である一部勘解由(ドン・ジョアン)の生存が確認出来るが、1585年10月1日付「1585年度下の地方に関する年報」には、勘解由の死亡が記されている。キリシタンを巡る姿勢では平戸松浦氏と対立した両氏だったが、松浦氏親族として特に隆信の家督相続にも力を尽くした籠手田安経、一部勘解由の死去によって、平戸地方のキリシタンは大きな後ろ盾を失うことになった。

  織田信長亡き後、新たに日本の支配者となった豊臣秀吉は、天正15年(1587)九州征伐の途上、博多から伴天連追放令後を発する。この背景には、キリシタンの他宗排斥姿勢に対する懸念があった。この法令の影響で、一時的に生月島に全国の司祭や修道士が集合し、都の神学校が一部の教会に、学院と修練院が山田の教会に移転してきている。『日本史』第2部108章には次のように記されている。

「司祭や修道士の大半は、平戸には(収容されるだけの)場所がなかったので、ドン・ゼロニモ(籠手田安一)領の一島に渡り、そこにあった藁葺きの一教会に落ち着き、その(教会の)一部を学院に、他の一部を修練院にあて、その中間をキリシタンたちがミサ聖祭に与かったり説教を聞く(場所とした)。このたびのこの結果は、こうした時期に自分たちの霊的指導と援助を得る絶好の機会となって、とりわけキリシタンたちにとっては喜ばしいものであった。それはただにその島にとってのみならず、キリシタンがいる周辺の他の島々にとっても同様であった。

 学院と修練院が設置されている山田の教会では、そこからドン・ゼロニモの娘婿ドン・バルタザルの領内で一里あまり距てた同じ生月島にある壱部まで(のところ)に別の教会があって、そこには都の神学校が、かの地から来た司祭や修道士とともに置かれている。そこでは寒気の厳しさと、場所の不便さ、また必需品の欠乏から、大勢が種々の危険な病気に悩まされるに至った。」

 この宣教師の集結は結果的に一時的なもので終わるが、伴天連追放令公布の報に接した籠手田安一(ドン・ゼロニモ)は平戸に250名の家臣を集結させ、信者や教会に対する弾圧に備えさせている。その時、彼は司祭に、信者に暴力を振るったり、教会や十字架に無礼を働く者に自分達は一体となって抵抗する。一族とともに教えのために死ぬか、司祭たちが追放されるのならば、たとえ封禄や所領を失っても一緒にシナ(マカオ)に赴く覚悟がある事を述べている。

 文禄元年(1592)から慶長3年(1598)にかけて行われた文禄・慶長の役では、朝鮮半島に近い平戸松浦氏は当然ながら出兵し、小西行長の軍勢に加わっている。「三光譜録」65によると、渡海した松浦氏の御供として御伯父松浦豊後守信實、御従弟違籠手田左衛門栄、御従弟違一部大和守正冶などが加わっており、籠手田栄は初戦の釜山・東莱城攻略戦で卯月29日、朝鮮側の大将・采衆賢を討ち取っている。また「日本史」第3部52章には「平戸の人々はつねによく戦い、シナ軍との合戦では、平戸のドン・ジェロニモの弟ドン・セバスティアンが戦死した」とあるが、ドン・セバスティアンは籠手田栄である可能性がある。このように1590年代に入っても籠手田氏と一部氏は、キリシタン信仰を続けながら平戸松浦氏の家臣としての務めを果たし続けていたのである。

 




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