生月島の歴史 №5「キリシタン近況と書信仰の併存」
- 2022/07/28 12:39
- カテゴリー:生月島の歴史
キリシタン禁教と諸信仰の並存
1.平戸藩独自の禁教期
(1)籠手田氏・一部氏の生月退去
キリシタンの布教には消極的だが、全面的な禁教までは行わなかった平戸松浦氏の当主・松浦隆信(道可)は慶長4年(1599)に没する。その状況で家督を継いでいた隆信の子・松浦鎮信(法印)はキリシタンの禁教に着手する。その根拠法令と思われるのは天正15年(1587)に秀吉が出した伴天連追放令だが、同法令は伴天連と呼ばれる宣教師の追放だけを規定し一般信者の禁教までは命じていない。鎮信は治世の間に妹婿・志佐純意が統治した志佐領を併合した他、的山大島を支配した大島氏も江戸時代初期に姿を消すなど、もともと平戸(松浦)氏と同格だった旧松浦党諸氏の排除を行っている。籠手田氏・一部氏に対する棄教に名を借りた圧力も、近世大名としての集権的統治体制を作ろうとする松浦鎮信の政策の一端として捉える必要がある。
1599年10月10日付「ヴァリニャーノ日本年報」によると鎮信は、隆信の仏式の葬儀にキリシタンである籠手田安一、一部正治も出席するように求めている。当時キリシタン信者が他の宗教の行事に参加する事は宗教上禁じられていたため、これは事実上の棄教要求だった。これに対し籠手田・一部両氏は、キリシタンの領民を率いて退去することを決意し、自らの衣服などを売って船を手配している。
前掲「日本年報」や1599~1601年の『日本諸国記』の「当99年に平戸の国主がその領地のキリシタンに対して起こした迫害について」によると、慶長4年(1599)のある夜、籠手田安一、一部正治は600人の信者を船に乗せて島を脱出し、妨害にも会わず長崎にたどり着いている。脱出は松浦氏家臣の監視下で行われたが、準備は極秘に進められ、出発も乗船数時間前にしか知らされなかった。またこの時期、松浦鎮信は京都から帰国する途上にあり、松浦家臣団の指揮系統に乱れがあった所を突いての脱出作戦だった。
帰国後に事件を知らされた鎮信は激怒するが、その後も後を追うように200人もの信者が長崎に逃れたため、さすがの鎮信も、信者に対する攻撃を一時的に弱めざるを得なかったとされる。信者が辿り着いた当時の長崎は、既に教会領ではなく豊臣家の公領として代官の寺澤広高が治めていたが、相変わらずイエズス会は貿易に関して隠然たる力を持っていた。信者達は当地の教会や信者達、大村氏の援助を受け、長崎に隣接した大村領に収容され、数ヶ月間生活する。
1601年2月25日付の「ヴァレンティン・カルヴァーリュ書簡」によると、一行はその後、細川忠興(関ヶ原の戦いに関係して死んだ細川ガラシャの夫)から招かれて筑前国に向かったとされる。一方、慶長6年(1601)「諸給人分限帳」に掲載された黒田家家臣名簿には船手衆の中に「三百石 籠白(手)田左衛門」「弐百石 一部次郎左衛門」とあり、籠手田安一と一部正治は手慣れた操船技術を活かして黒田家に仕官したと思われる。1609、10年度「日本年報」によると籠手田安一は黒田長政の命を受け、神罰を恐れる他の者を差し置いて沖ノ島に渡り神宝探索を行っている。なお近年の研究では、沖ノ島に鎮座する宗像神社の本土側の神社(辺津宮)がある宗像郡沿岸部を長政の父・如水(孝高・洗礼名シメオン)が隠居領にしたとされ、両氏が実質的には如水の配下であった可能性がある。
松浦家が編纂した「家系脉属譜」(松浦家文書)によると、籠手田安一の遺児・喜兵衛は、安一が稲佐で病死した後、慶長19年(1614)に母と共に平戸に帰り、藩主から録を与えられ江川を名乗ったとされる。江川喜兵衛は寛永16年(1639)に元平戸藩士・浮橋主水が江戸で、平戸でキリシタンが信奉されていると訴え出た事件の内容を手記(浮橋主水一件)に書き残している。
(2)信心会の設立
生月島のかくれキリシタン信仰を支えた中心的な組織は、「津元」「垣内」と呼ばれる組である。生月島の壱部、堺目、元触、山田などの農村部の集落(在方集落)にはそれぞれ複数の組が存在し、お掛け絵などを組の御神体として祀り、年間に多くの行事を行っている。これらの「津元」「垣内」は、キリシタン信仰期に存在した信心会(コンフラリア)という組が起源になっていると考えられる。
信心会(兄弟会、コンフラテルニタス)はヨーロッパで12~13世紀頃から信者によって組織された、特定の聖人に帰依して葬儀、祭礼、祈祷、慈善などの活動を展開する組である。中世イタリアの都市では全市的にメンバーを集める形が取られたが、北西ヨーロッパでは小教区単位でメンバーが構成される教区兄弟会が主流とされる。兄弟会は14世紀半ば以降急速に発展し、気候変動による飢餓やペストの流行で従来の小教区中心の教会共同体の機能が低下するなかで、代替組織として機能するようになったとされるが、このあり方は前回紹介したように、布教当初には正式な教区制が存在しなかった日本で小教区の機能を果たした「慈悲の組」のあり方と共通する。
一方、1580年代以降になると、ヴァリニャーノの主導で始まった布教方針の革新の中で、従来の「慈悲の組」とは異なる新たな組が組織される。この組は宣教師書簡にはコンフラリアと記され、日本語の訳では「信心会」「兄弟会」と記されるが、ヨーロッパのコンフラリアのあり方を参考にした事は明らかである。このタイプの組の初見は、天正11年(1583)長崎に設立されたミゼリコルディア(慈悲)という名称の組だが、この組は以前の「慈悲の組」のような小教区的な組ではなく、信者が任意で加入して慈悲の業を実践する組だった。
生月島では、1609年の殉教報告に「彼(西玄可)は山田の村にできていた聖母の信心会(コンフラリア)の頭であったので」という記述があり、1609年から程近い時期に信心会が成立していた事が確認できる。一つの可能性として、籠手田安一と一部正治が領地を捨てて平戸地方から退去した慶長4年(1599)以降、松浦氏によって村々の教会が破却されるなか、教会に代わってキリシタン信仰を維持していく枠組として信心会が組織された事が考えられるが、例えば堺目集落では従来教会で祀っていた十字架、聖牌、聖画を3つの信心会で分割して保持した可能性がある。なお生月島では、慈悲の組の下部組織だった小組(コンパンヤ)を複数合体させる事で信心会を結成したと思われる。
山田集落では、従来の慈悲の組の枠組みを残しながら、その下に信心会を所属させて、両方の組が複合化した組織を作り、慈悲の組単位の年間行事も慈悲の組の慈悲役(御爺役)と、信心会(垣内)の親父役が集まって行うようにしている。壱部集落の組織も基本的には同じ形だが、より信心会の存在が強くなっている。しかし元触集落では、慈悲の組に相当する組織が存在せず、慈悲役(御爺役)は垣内(信心会)の役職として組親(親父役)の下に位置づけられている。このような組織のあり方は、1617年の「コーロス文書」にある湯布院や上天草の組織、外海のかくれ信仰の組の形など、中後期にキリシタン信仰が盛んだった地域で確認できる。元触のかくれキリシタン信仰では、覚えるオラショを少なくする、お水の採取地を地元に求めるなど信仰全般で合理化を図った形跡が認められるが、組のあり方もその一環と捉えられる。
平戸地方の信心会の導入は、籠手田氏・一部氏というキリシタン領主の権力が消滅した後の生月島で進められているが、それを指導したのは籠手田氏旧臣で信仰指導者だった西玄可の可能性がある。しかし彼の影響力は生月島内に限定されていたと思われ、旧籠手田領の度島の住民はキリシタン信仰を放棄する選択を行い、平戸島西岸の根獅子集落の住民はキリシタン信仰は存続させたものの、信心会の導入はせず、従来の慈悲の組の組織で信仰を継続させている。元触の信仰革新が西の指導によるものか、住民の自発的取り組みによるものかは分からないが、いずれにせよ生月島と平戸島西岸の旧籠手田・一部領では、1600年代初頭にキリシタン信仰から教会や宣教師が関係する部分が欠落し、信者の組が関与する信仰内容が、他の宗教を並存させる信者の信仰構造の中で継続される事で、かくれキリシタン信仰が成立していく事になる。
(3)西玄可の処刑
「1609年度イエズス会年報」によると、籠手田・一部氏の退去後、生月島のキリシタンの指導に当たったのは、かつて生月島の籠手田領を管理していた西玄可(洗礼名ガスパル)だった。籠手田氏脱出後の生月島では、松浦氏から派遣された井上右馬允が山田を、近藤喜三が舘の浜(舘浦)を支配している。西玄可の娘(キリシタンだった)は近藤喜三の息子の嫁になっていたが、彼女は喜三の棄教要求を拒否して実家に帰ってしまう。怒った喜三は折しも居合わせた平戸・最教寺の僧に相談し、西一族が信仰を棄てない事を僧を通して松浦鎮信に訴える。案の定鎮信は激怒し、一人の山伏に生月に赴いて奉行達とともにキリシタンの調査を行い、信仰を続けている者を死刑にするよう命令している。
西玄可は、彼らの来島目的を知っても動ぜず、井上右馬允の元に出頭して逮捕される。そしてかつて十字架が立っていた黒瀬ノ辻で処刑、埋葬する願いが容れられ、慶長14年(1609)11月14日の朝、同地で斬首の上、信者の手によって埋葬されている。なお玄可の妻ウルスラや息子ジョアンも連行される途中で斬り殺されている。
黒瀬の辻と呼ばれる丘の上には、かつてガスパル様の松と呼ばれる大松が生えていて、松の根本にある古い積石墓がガスパル様の墓だと言われていた。なお平成4年(1992)にはカトリック信者によって巨大な十字架を持つ「黒瀬の辻殉教碑」が建てられ、毎年11月に殉教ミサが執り行われている。西玄可と妻子は平成20年(2008)にカトリックの福者に列せられている。
(4)寺社の復興
キリシタンが禁止されると、教会や十字架の破却とともに、寺院や神社の再興・新造が行われている。山田小学校の下にある墓地には、江戸時代に常楽寺という寺院があったとされ、現地では無縫塔という僧侶の墓石に使われた形式の石塔が複数確認出来る。ここは前回紹介したように中世からあった寺院をキリシタン時代、教会に変えていたが、籠手田氏の退去とともに寺院(曹洞宗)が復活している。舘浦の法善寺(浄土宗)は、寛政11年(1799)成立の「田舎廻」では文禄4年(1595)の創建とされるが、元は禅宗で、山田にあった常楽寺の末寺だったとされる。里浜の永光寺は中世以来存在していたものが永禄8年(1565)の一部領のキリシタン改宗に際して教会に変えられたと思われ、『田舎廻』にもキリシタンの布教時代に衰退した後、松浦鎮信(天祥公)の時代(1637~88)に邪宗が起きないようにするために再興されている。
山田集落正和地区の修善寺(真言宗)は、『田舎廻』によると安満岳の住職だった玄順が隠居寺として慶長10年(1605)に開山したとされるが、「當寺之処には以前は切支丹宗之者居住致し、邪法を弘候を、式部卿法印様御禁制被成邪法之者御成敗被成候て居所は御焼討被成候て其□に修善寺御建立有之」とされ、キリシタン領主である籠手田氏が長崎に退去する慶長4年(1599)以前には教会があったのを、法印公が焼き討ちして破却し、寺院を建立したとされる。正和にある天満宮に相対する丘陵中腹の平坦地が修善寺跡で、江戸時代の卵頭墓や石垣が残り、土中からは大量の瓦が出土している。
寺院には檀那寺と祈祷寺があり、常楽寺、法善寺、永光寺は前者で、修善寺は後者にあたる。檀那寺については慶長18年(1613)に幕府が出した「邪宗門吟味之事 御條目宗門檀那請合之掟」で「相果(死亡)候節ハ、寺社役者へ相断り、検者を受て宗門寺の住僧弔可申事」と、葬式は檀那寺の僧侶が行うものと定められ、寛永12年(1635)の「武家諸法度」でも全国で檀那寺による寺請制度が実施される事となり、檀家の者が居住地外に行く時には、檀那寺から宗門を明示した書類を持参する事が定められている。かくれキリシタン信者は檀家に服する事でキリシタン信仰の継続を図ったが、結果、葬儀や供養(法事)はキリシタンの儀礼と仏教の儀礼を共に行うようになる。
他方、籠手田・一部氏の退去後には神社の整備も行われている。生月島には氏神として壱部浦・壱部・御崎の氏神である白山神社、堺目・元触の氏神である住吉神社、山田・舘浦の氏神である姫(比売)神社が存在するが、これらの神主がいる主要な神社は集落の中心ではなく海岸近くに鎮座している。また集落の下の触単位の神社として、庚申神社(上川)、岡本神社(小場)、天満神社(正和)、保食神社(山田)などがあるが、神社を持たない触も多い。
山田・舘浦の氏神である比売神社は、明治17年(1884)「長崎県北松浦郡村誌」には寛永年間(1624~44)に平戸藩主が勧請したとする所伝があり、「三光譜録」79には「翌寛永元年生属の姫宮の神前にて島中の男女を集め、宗旨立帰り候様にと、牛王に誓詞血判を(井上)八郎兵衛為致候時、雪浦次郎兵衛斗りは転び申間敷と申候故、大勢の中にて次郎兵衛夫婦男子一人共に竹簀巻にして即座に海に沈め申候」とあり、寛永元年には既に存在していたように書かれている。一方『田舎廻』には「當社ハ元ハ只今の社之在る所より東之方山田村之内在□り、磯辺ニ小き石保古良にてありしを正保四年 殿様御願成就之由ニ而御座候、(中略)右之御願成就之訳は、以前切支丹宗門有之候處、稠敷御禁制被成 其後又々邪宗門之事有之候に付て之御願成就と承候」とあり、元は海岸に石祠として祀られていたのを、正保4年(1647)にキリシタン禁制の願成就の故をもって、平戸藩主の命により現在の所に社殿を設けたとしている。一方、比売神社で夏・秋に行われる御神幸の際には、舘浦の殉教地・千人塚や、山田の中江ノ島を背後に望めるコセンジという場所が御旅所となっているが、かくれキリシタン信者でもある氏子の意識に沿った形で行事が構成された事が考えられる。
住吉神社も、『田舎廻』には「當切支丹宗門繁昌ニ就而、神社並寺院共に廃止候由、邪宗之者御成敗被成候、神社御建立被遊候」とあり、籠手田・一部氏の退去後に建立された事が分かる。なお白山神社については『田舎廻』に「當社近年之勧請」とあり、拝殿は元禄7年(1694)建立、宝殿は享保9年(1724)造立とされている事から、成立は遅れて17世紀後期と思われる。もともとは生月島の旧一部領に住吉神社、旧籠手田領に比売神社がある形だったのではないだろうか。
中世の平戸地方では寺院と神社を同じ宗教者(僧侶)が管理する形態が主だったが、旧キリシタン布教地ではキリシタン時代に僧侶が居なくなり、その後の禁教によって寺院や神社が復興・新設される中で、神主が赴任している。『田舎廻』には比売神社の祀官・金子家は、正保4年(1647)に比売神社が建立された際に赴任したとある。『田舎廻』によると金子家は住吉神社の祀官をしていたが、同書所収の宝暦4年(1754)『先代記録写置』によると、金子吉太夫は16才の時に今福より(生月島)里の住吉神社の祀官に入り、その後比売神社が建立された時、父子のうち一人を山田村(比売神社)に遣わすように仰せつけられ、甥の儀太夫という者を養子として住吉神社の祀官を相続させ、実子の内記を比売神社の祀官としたとされる。
祈祷寺は、病気直しなど様々な祈願・祈祷を専ら行う寺院で、祈祷を専ら行う僧侶はヤンボシ(山伏)とも呼ばれるが、『田舎廻』には山田に再興された修善寺(真言宗)は祈祷寺だったとあり、また壱部に海正寺(真言宗)がある。一方、天台宗系琵琶僧は家に祀る三宝荒神を祀る荒神祓いを専ら行うが、生月島内には山田の明法院(天台宗)がある。荒神棚については、キリシタン取り締まりの役人が来ても直ぐそれと分かるように玄関近くに祀られたとか、荒神祓いをする僧が取り締まりを触れて回る代わりに荒神棚を祀らせたという伝承がある。
なお生月島内には、住民の依頼に応じ、神霊を自分や他人に憑依させて託宣を得るホーニン(法人)という民間宗教者がいるが、彼らが出す託宣には処刑されたキリシタンがよく登場し、託宣に基づいて祀られた死霊様と呼ばれる信仰対象も地域や屋敷内に多く存在する。かくれキリシタンの御爺役選定の際には、ホーニンに頼んで候補者の適性を御前様に尋ねる事が行われており、禁教によって専業宗教者サイド(宣教師)を欠いた事による判断の機能を、信仰外の存在であるホーニンの託宣で補う形を取っている事が分かる。
かくれキリシタン信者も含めて広く行われてきた河童(水の精霊)への信仰や亥の子祭など、特定の宗教に帰属しない民俗信仰の要素については、中世から存在したものがキリシタン時代にも払拭されずに継続されて今日に至った事が考えられる。
総じて、生月島においてはキリシタン信仰当時の形態がかくれキリシタン信仰の中にそのまま保持される一方で、並存する仏教や神道その他の信仰も、カモフラージュや対峙的な扱いに留まらず、信仰として一定の機能を有して熱心に行われている。
2.全国的禁教以降
(1)元和・寛永の弾圧とキリシタン信仰の終焉
慶長19年(1614)には徳川幕府が全国に禁教令を出し、宣教師や信者を国外に追するが、その後も多くの宣教師が日本国内での宣教を試みている。
カミロ・コスタンツォ神父もその一人で、パジェスの『日本切支丹宗門史』によると、元和8年(1622)に平戸を経て、生月島の館の浜(舘浦)で布教を行っている。その後、生月島の伝道士ヨハネ(坂本)左衛門、修士ニコラス某、伝道士ガスパル籠手田、平戸教会の看房アウグスチノ太田、従僕1人、水夫2人と共に五島・小値賀島の属島・納島への渡航を企て、ついで宇久島に渡ったところで五島藩の役人に捕らえられて平戸に送られ、元和8年9月15日、平戸瀬戸に面した田平側の今日焼罪(やいざ)と呼ばれる岬の上で火あぶりの刑に処されている。神父は柱の上に縛られた状態で日本語、ポルトガル語、フランドル語の3か国語で説教し、火がつけられても説教を止めず、最後は聖火を歌いながら息絶えている。
カミロ神父の布教に協力した多くの信者も、逮捕・処刑されている。神父の宿主になったヨハネ坂本左衛門(31歳)と、五島行きの船を用意したダミヤン出口(42歳)は、5月27日に中江ノ島で処刑されたが、ダミヤンは船中で漕ぎ手を手伝い、賛美歌を唄いながら櫓を押したという。また6月3日には船頭で堺目出身のヨアキム川窪庫兵衛(47歳)が、6月8日にはヨハネ次郎右衛門(47歳)が処刑される。次郎右衛門は棄教の印に異教の札を呑む事を拒み、死刑の宣告を受け、中江ノ島に渡る船の中で「ここから天国は、もうそう遠くない」と言ったとされる。なお元禄2年(1689)「平戸領古切支丹類族存命帳」には、治郎右衛門は生属島里村の百姓で、慶長2年(1597)にキリシタンから禅宗に転宗し、寛永元年に再びキリシタンを志し、数日曝された上、簀巻きにして海に投じられたという(年代については要検証)。『宗門史』によると平戸のガブリエル一ノ瀬金四郎も7月26日に死刑の宣告を受け、生月に連行されて処刑されたといい、同じ日、船頭のヨハネ雪ノ浦、パオロ塚本も生月で斬首されている。
2年後の寛永元年(1624)には、元和8年に処刑された信者の家族も処刑されている。3月5日には、ダミヤン出口とヨハネ坂本の家族達が、中江ノ島の地獄という所で殺されたが、坂本の年長の子供達3人は一緒に昇天できるように、俵につめられた上で一緒に縛って貰い、首に別の袋を被せられて海に投げ込まれたという。
中江ノ島で行われた処刑にまつわる話は、地元の信者の間にも伝承されている。壱部浦のT家は、中江ノ島に連行される信者が休憩を取った家で、海を渡る時に濡れないように蓑を借りていったという話が伝わっている。
なお生月島民と宣教師との接触は1620年代以降無くなるが、それによってキリシタン信仰としてのあり方は終焉を迎え、かくれキリシタン信仰の形態に最終的に移行したと捉えられる。全国的には正保元年(1644)に小西マンショ神父が処刑された事で、キリシタン信仰を支えた専業宗教者サイドは日本国内から消滅している。
(2)正保の弾圧と制度的禁教
平戸地域でのキリシタン弾圧の最後は正保2年(1645)に起きた正保の弾圧である。
「山本霜木覚書記起編」(家世伝引用書類7ノ21)にはこの年、生月島と平戸島の獅子村・根獅子村で密かにキリシタンを信仰する者が発見され、その一族が悉く長崎に送られ、長崎や平戸で死罪に処されたとある。元禄2年(1689)「平戸領古切支丹類族存命帳」には、生月島館浜の鍛冶屋・新兵衛が正保乙酉(2)年に「同島之者共切支丹之志失不」という訴えがあり平戸で斬罪の後、死骸は海に沈められた記述がある。
この弾圧は偶発的な信仰の露見に対するみせしめ的な処断だったと思われるが、「山本霜木覚書記起編」によるとこの弾圧以降、宗門改奉行を定め、生月、獅子、根獅子には押之者(押役)を置いて男女老若を問わず残らず絵踏を励行させたとある。『生月村郷土史』には、生月島には井上氏退去後に郡代を置き川尻氏をその任とし、その下に押役を置き、押役所を山田に置いたとある。このように禁教に伴う施策が恒常的に行われるようになっていくが、正保以前に行われたような、キリシタン信仰を保持する信者を捕らえて処刑する形から、キリシタンでない事の証明の有無によってキリシタン信者を確認する方向に変わっていく。これは、他の宗教を並存する事によってキリシタン信仰を守ろうとしたかくれキリシタン信仰にとって好都合な状況だった。
(3)三界萬霊塔の建立
三界萬霊塔は、平たい自然石の正面に、仏教における全ての魂を表す「三界萬霊」という文字を刻んだ石塔で、仏教思想に基づき全ての霊の供養を目的として建立されたものである。平戸市内には各集落に存在し、紀年名がある場合には17世紀後期~18世紀後期の年号がある。生月島内には山田集落山田地区の吉永池の下、正和地区の修善寺跡下、壱部浦のトノガワの脇に残り、寛文11年(1671)7月の建立日が確認できる。「三界萬霊塔」(『平戸市史』民俗編所収)によると、旧平戸市内には寛文11年(1671)建立塔は鏡川町、水垂町、木場町、迎紐差町、深川町、木ケ津町、草積町、大川原町、高越町、獅子町、根獅子町、飯良町、度島浦、度島中部などに存在し、特に獅子、根獅子、飯良、度島に生月島を加え、キリシタン信仰が浸透した旧籠手田・一部領域に多く存在している。ちなみに旧平戸市域で最古の三界萬霊塔は岩の上町稗田にある塔で寛文7年(1667)建立、次いで大野町池原の塔が寛文10(1670)の建立だが、この2塔の建立者は念仏講になっている。念仏講は盆などの時期に、男性の講員が集まって墓地などで鉦の音に合わせて念仏を唱える行う講で、かつては市内の各地に存在した。しかし寛文11年に一斉に建立された旧籠手田・一部領域では、建立者銘は「村中」か無記入となっている。仮に先行する北部の2塔のように住民の発意によるものだとすると、全ての建立年が一緒というのは不自然で、事実、他の地区の塔の建立年はバラバラである。そのため旧籠手田・一部領域の寛文11年塔は、為政者(平戸藩)サイドの意図によって建立が行われたものと思われる。
三界萬霊塔については、寛永16年(1639)に起きた浮橋主水事件の際に、藩の危機を救った江月和尚の指導で建立されたという伝承がある。しかし現在確認されている最古の塔は寛文7年(1667)で時期差がある一方、伝承からは塔の建立動機にキリシタン信者への対処があった事が窺える。
旧籠手田・一部領での三界萬霊塔の建立意図だが、仏教思想に伴う字句の存在から、キリシタンだった住民に仏教信仰を普及する目的があった事が考えられる。しかし同時に「この地域には仏教が定着している」という事を部外者に対して示す-それは即ちキリシタン信仰の存在を否定する-表象として設けた事も考えられる。また建立年の寛文11年(1671)は、中江ノ島などで生月島他のキリシタン信者が処刑された元和8年(1622)から49年忌(テオサメ)直後の年にあたる事から、元和の殉教の犠牲者を供養する意図を持たせた可能性がある。
正和地区の修善寺は、キリシタンが教会にした場所に江戸時代、寺院を建立したものだが、かつて教会だった寺院の所に三界萬霊塔を建立しているのは、住民の仏教への帰依を強調する意図があった可能性がある。なお日草地区に属する山田小学校下の墓地の中にも高さ140㌢程の自然石塔があり、正面はかなり風化が進んでいるが、中央に「○」と「為」の字、右に「寛」、左に「日」の字がかろうじて読みとれる。○の記号や文字の配置は吉永池下塔と同じで、この石碑が三界萬霊塔である可能性は大きい。ここには江戸時代、常楽寺があり、同寺はキリシタン時代には山田の主要な教会になっていた事は前回述べたが、ここに三界萬霊塔を建立した意図も、住民の仏教への帰依を強調する意図があっての事だろう。山田小学校下墓地の石塔を三界萬霊塔だとした場合、山田集落には三界萬霊塔が触(山田、日草、正和)毎に設けられていた事になり、集落単位で概ね一基が存在する他地域の状況に比べると濃密な分布である。山田集落は籠手田氏の本拠地で、同氏の退去後も西玄可が信仰を指導しており、キリシタン信仰の中心地と見做されていたためだろうか。
(4)百万遍行事の開始
生月島の各集落では正月に「百万遍」「大般若」と呼ばれる一連の行事が行われてきた。壱部浦の百万遍では、5日朝に子供達が家々を巡り、玄関を笹竹で叩いて祓いながら、「悪魔ん神は出て失せろ、福の神は入ってこい、入ってーこいったら入ってーこい」と、鉦太鼓に合わせて唄う。舘浦の百万遍では7日朝、法善寺に子供達が集まり、寺総代達と一緒に舘浦の道を行進しながら、鉦や太鼓に合わせて「百万遍」と叫びながら一巡し、辻や海岸などにお札がついた笹竹を立てる。御崎、壱部、堺目、元触集落の大般若は5日に、区長や寺総代が2人の男の子を連れ、鉦を叩きながら家々を回り、男の子がお汐井(海水)を付けた笹で玄関などを祓う。また5~6日にかけては永光寺の和尚と檀家の者が壱部浦と舘浦の家々を回り、鉦に合わせてお経を読み、家の者を経典で叩いて祓う大般若行事も行われている。
これらの行事は、元は「百万遍」という一つの行事の一部を構成するものだった。『生月村郷土誌』によると、旧暦の正月4日、永光寺の住職が終日、大般若経を唱えて全村住民の災難除けの祈願を行ったが、その年の役にあたった家から1名ずつ(大抵は鉢巻をした子供が)出て大鐘と大太鼓を担ぎ、浦では町なかと周辺の道路を打ち巡り、在部では各々の集落をほぼ終日かけて打ち巡ったが、他の集落の組と接近すると、お互いにときの声を上げ鐘を大きく鳴らして競い合ったという。その後、大般若経を納めた箱を捧げて各家を巡り、経巻を出して家の者の頭上に押し戴かして賽銭を受け、戸口に貼るお札を配った。一通り回って子供が寺に帰ってくると、大きな米のお握り「ほっきゃー」を貰って食べたという。
永光寺にある大般若経の箱の蓋には、元文2年(1737)に畳屋(益冨)又左衛門が奉納したとする墨字があり、大般若経はこの年に奉納され、生月島の百万遍の行事がこの年以降に始まった事が考えられる。『生月村郷土誌』によると明治維新以前、各集落から永光寺に大般若経の箱を受取りに行く時には、屈強の若者数人を選び、若者は肩肌を脱いで鉢巻をし、永光寺で箱を受け取ると他の集落の者より先に自分の集落に入ろうと競争し、怪我人が出る事もあったという。聞き取りによると山田集落では戦前頃まで、2人1組になった若者が永光寺から大般若経が入った箱を6つ持ち帰り、鐘も風呂敷に包んで持ち帰ったが、壱部に行く時には走って競争していたという。山田に戻ると鉦を叩きながら神社仏閣を回ったが、その時に「ハーライ」「ハーライ」(祓い)とかけ声を上げた。また昔の農協の前では二つの箱を「ゼロカイ」「ゼロカイ」と言いながら押し合う「競り合い」という行事が行われていたという。
これらの情報を統合すると、本来の「百万遍」行事は永光寺を拠点とし、最初に子供達が鉦太鼓を叩いて集落内を巡る先触れを行い、次に大般若経を納めた箱を担いで回り、家々で経巻を身体に押し当てて無病息災を祈願する行事だったと思われる。『生月村郷土誌』にあるこの行事の目的は、在方では豊作と害虫駆除、浦部では悪疫退散だが、住民側に存在した耕地・集落の祓いのニーズに対し、かくれキリシタン信仰が行っていた野祓いや屋祓いの行事に対峙する形で始まった仏教行事だと考えられる。