長崎県平戸市生月町博物館「島の館」

生月学講座No.230カミロ神父処刑地考

生月学講座:カミロ神父処刑地考

 

  すでに本講座「1622年」で紹介したように、今年(令和4年)はイエズス会のカミロ・コスタンツォ神父の逮捕・処刑と、神父の宣教活動に協力した生月島などの信者が中江ノ島などで処刑されて400年目の年にあたります。400年前の5月から8月にかけて信者の処刑が行われ、9月15日にはカミロ神父が火刑に処されています。『日本イエズス会史』によると、神父は壱岐の獄舎から平戸に戻され、南龍崎で長崎奉行の使者と合流して本人確認が行われた後、平戸瀬戸を渡って対岸の田平にある処刑地に送られています。処刑地については次のように記されています。

「その所には、海より少しく離れて、浜辺に一本の木の刑柱が立てられ、その周囲一帯に大量の薪の山が配置され、薪の山は、格子状の竹の柵で外を囲まれている。すでに神父の到来を待っているあらゆる種類の人々は、群れをなして陸にも海にもたくさんいた」

 また処刑地に上陸した際の神父の様子についての記述もあります。

「かの聖なる人(カミロ神父)は、薪の山に向かう際には、そこまでの百歩前後の距離を、むしろ衝動に駆られてそこまで運ばれたと思われる程、嬉々として足早に走っていった」

 このあと衆人が見守る中、神父は火刑に処されていますが、ここではカミロ神父が火刑に処された場所について検討したいと思います。さきの記述から分かるのは①波打際から100歩(約50㍍)奥まった浜辺に処刑柱が立てられた、②処刑柱は竹矢来で囲まれ、大勢の人がその周囲にいて見物している事から広い場所である事などですが、加えて見物人には川内に停泊していた英蘭連合艦隊の乗員が大勢居て、彼らは艦載ボートで来たと思われるので、③多数のボートが着岸できる長い浜辺があった事が考えられます。

 『瀬戸の十字架』(1975)の著者・浜崎勇氏は、記述から昭和20年代には神父の処刑地を探索されていたようです。『田平町郷土誌』(1993)では火刑の地を「野田海岸近く」としています。大正時代編纂の『南田平村郷土誌』には神父の処刑地についての記載はありませんが、地図には野田免の牛ケ首とハエサキ(南風崎)の間の海岸付近の地名として「焼罪」の記載があります。『田平町郷土誌』には「その遺徳を偲んで昭和三十四年に殉教碑が建てられた」とありますが、そこは焼罪の現在キャトルセンターがある場所の南の丘の上だとされます。この「殉教碑」は年代や碑文からみて、『100年のあゆみ』(1965)に写真が掲載されている四角柱の「殉教碑」と思われます。

 『田平町郷土誌』には(その地が)海岸浸食を受けたため、国民宿舎たびら荘近くのハエサキの鼻に碑を移転させたとあり、それが現在ハエサキ鼻にある「焼罪の碑」(1990年建立)だと考えられます。ここで確認しておく必要があるのは、現在の「焼罪の碑」は焼罪に建つ碑という意味ではなく、(ハエサキにある)もともと焼罪にあった殉教碑、ないしは焼罪で殉教したカミロ神父を祈念する碑という意味を持っているという事です。

 一つ留意しておかなければならないのは、神父の処刑について記した歴史的に近い史料には「焼罪」という地名は出てこないという事です。ただ田平の瀬戸に面した海岸で、前述した①~③の条件を満たした上、処刑という忌むべき行為を行い得る(付近に寺社や人家が無い)という条件を考えると筆者は、ハエサキの直ぐ北にあり奥行きがある広い谷間を持つ海岸(焼罪の範囲にある)を有力な候補地だと考えます。




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