長崎県平戸市生月町博物館「島の館」

生月島の歴史 №6「増冨組の捕鯨」

生月島捕鯨史(上)

 

1.益冨組操業以前の生月島漁場の捕鯨

(1)突組・吉村組の操業

 平戸地方では、縄文時代早期末(紀元前4000年頃)には平戸瀬戸で石製銛先を装着した銛を用いた突取捕鯨が行われていたと考えられるが、産業としての捕鯨が行われるようになるのは江戸時代初頭の事である。

 『西海鯨鯢記』によると、日本で捕鯨専門の組織(鯨組)が、遠方への流通を前提として突取法による捕鯨を始めたのは、元亀年間(1570~73)の伊勢湾に面した知多半島先端の師崎だとされる。その地の突取法は改良をされながら紀伊半島に伝わる。西海漁場では寛永元年(1624)に、紀州から来た藤松半右衛門の10艘からなる突組が度島で操業を行っており、翌年には紀州の與四兵衛が20艘の突組で的山大島の的山で操業を行っている。寛永3年(1626)になると平戸の町人・平野屋作兵衛が度島の飯盛で突取捕鯨を始め、その翌年には平戸町人が組織した宮ノ町組が平戸瀬戸沿いの田助を拠点に、平戸町人の明石善太夫と吉村五兵衛の突組が平戸島北部西岸の薄香浦を拠点に、山川久悦の突組が壱岐の印通寺を拠点に操業を始めている。このように平戸の町人も捕鯨が始まって直ぐ(平戸系)突組の経営に参入しているが、それが可能だったのは平戸の町人がオランダ東インド会社や中国人海商の貿易活動に関係し、多額の資本を必要とする捕鯨業に投資できる多くの資金を有していたからである。他の漁業も同様だが、漁業が成立するためには、①好漁場の存在、②漁獲物が価値を持つ製品となる事、③製品の消費、④漁獲物を効率よく取れる漁法とそれに長じた漁民の存在、⑤漁業を成立せしめる資本の準備が揃って初めて成り立つ。西海の突組捕鯨の場合、①は未開拓の西海漁場、②は鯨油、③は灯油としての国内の用途、④は紀州系漁民がもたらした突取法、⑤は平戸町人の貿易資本である。他の漁業が未発展だった西海の平戸以外の地域では⑤の要件が当初満たせなかったが、進出してきた紀州系や平戸系突組の操業に関係する事で資本を蓄積し、捕鯨業に進出する者が現れてくる。その代表が大村領の五島灘諸島を本拠として捕鯨を行った深澤家である。

 また突組の操業当初には、平戸に近い平戸島北部海域で盛んに操業が行われている事が注目される。『西海鯨鯢記』に「昔ハ鯨多シテ、至ラヌ海モナク、入サル浦モナシ。薄香田助ニテモ突シ」とあるように、突組による捕鯨が始まった17世紀前期には、『西海鯨鯢記』が書かれた18世紀前期と比べて多くの鯨が回遊していたようだ。この事は生月島での捕鯨を考える上でも参考になる。

 1630~40年代頃には紀州系突組は五島中通島東岸の有川湾沿岸で多く操業しているが、その後、壱岐での操業が盛んになると有川湾の突組操業は衰退し、壱岐が突組操業の中心漁場になる。そこで操業の主体を担ったのは平戸系突組だったが、平戸に近い平戸島周辺海域では、17世紀中頃になると捕鯨に関する記事は少なくなっている。そうしたなか生月島周辺では平戸系突組の吉村組が操業を行った記録が『新組鯨覚帳』にある。吉村組は明暦3/4年漁期(1657~58)冬浦を壱岐勝本で操業した後、明暦4年(1558)2月18日に生月島に移動して春浦の操業を行っている。 

 2月20日には、春浦で最初の漁獲となる鯨を羽指・八兵衛が里村の宮ノ前(住吉神社前の海)で突き取り、鯨油を樽数で123丁分製造している。2月26日には旦那船の艫押しをしている作左衛門が子連れの鯨を西岸の三ツ瀬沖で突き取っているが、親鯨は12尋(約22㍍)子鯨も5尋程(約9㍍)あり、鯨油を459丁製造している。

 3月4日には羽指吉太夫が7尋(約13㍍)の座頭鯨を前の島(中江ノ島の事と思われる)で銛を突き、里の前で仕留め、鯨油148丁を製造している。3月15日には、座頭鯨を名護屋組と共同で突き、鯨体の4割を受け取り、鯨油41丁を製造しているが、この記述から生月島近海では他の突組も操業している事が分かる。3月20日には御崎沖で小鯨(克鯨)の子連れを羽指権七が突き取り、鯨油146丁を製造している。4月16日にも西岸の長瀬沖で小鯨の子連れを羽指甚兵衛が突き取り、鯨油89丁を製造している。 吉村組は4月19日には組上げ(操業終了)しているが、同組は明暦3/4年漁期に鯨を11頭6割5部分捕獲し(半端は共同捕獲の分配)鯨油2127丁を生産している。このうち冬浦(壱岐勝本)では3頭1/4を捕獲して鯨油1121丁を生産し、春浦(生月島)では8頭2/5を捕獲して鯨油1006丁を生産している。冬浦に比べ春浦の捕獲頭数は2.6倍になるが、鯨油の生産量はそれ程違わず、一頭辺りの鯨油生産の平均は冬浦345丁、春浦120丁と春浦は1/3に過ぎない。春の上り鯨は餌をあまり食べないまま越冬した後で、加えて子育てをする母鯨は母乳を出すため、蓄えた脂肪を消費した結果がこの差になっていると思われる。

  大正8年(1919)の『生月村郷土誌』によると、生月島南端の辰ノ瀬戸に面した潮見神社は、壱岐の捕鯨突組の祖・磯辺弥市の子・弥太郎が文禄の頃、舘浦に居住した折りに建てたとされるが、年代は疑わしい。磯辺弥太郎は『平戸手鑑』によると平戸本町で町年寄を務めた町人で、磯辺家は「鯨組作法如先銀子持□相□物之事」(『熊野太地浦捕鯨史』所収)にある、壱岐漁場での操業規則を定めた12人の突組組主の一人に名を連ねる(磯部弥次郎)他、『鯨場中日記』の寛文13/延宝2年漁期(1673~74)に壱岐で操業した突組の中(弥大郎)や『海鰌図解大成』にも名前(磯部弥市)が見える。潮見神社は17世紀中頃に磯辺組が生月近海で操業した折りに奉献した可能性はある。

 

(2)網組の操業

   延宝5年(1677)紀州太地浦(和歌山県太地町)で、太地(和田)角右衛門頼治が、鯨の動きを予め苧製の網で止めてから突取を行う網掛突取法を発明する。このことについて「太地浦鯨方」には「延宝五丁巳年 和田角右衛門頼治鯨網工風始候」とあり、『西海鯨鯢記』にも「延宝ノ初紀州太池(地)ニテ始テ仕出シ」とある。同漁法の特徴は、従来の突取法では動きの速い鯨に銛を打つため仕損じが多かったのを、まず鯨を網で止めて動きを鈍らせてから銛を打ったが、これによって特に遊泳速度が速くて取りづらかった座頭鯨の捕獲が容易となっている。この漁法については従来、網取(式)捕鯨と呼ばれてきたが、鯨網は水産学の漁具分類における副漁具(補助的な役割の漁具)に当たり、主漁具(対象を捕獲するのに用いる主要な漁具)は銛や剣などの刺突具である。そのため、太地で古式捕鯨の研究を長年続けられた(故)太地亮氏が用いた「網掛突取法」という名称が要を得ていると考える。なお太地の網掛では「熊野太地浦捕鯨乃話」にあるように、鯨を囲むように網を張り回し、鯨が網に掛かるのを待つが、この方法はそのままの形で土佐漁場にも伝わっている。

  西海漁場には、大村領の鯨組主・深澤儀太夫勝幸が、太地での網掛突取法開始一年後の延宝6年(1678)五島中通島の有川湾(長崎県新上五島町)で同法による操業を行っている。この操業は太地での同法の操業成功を伝え聞いた儀太夫が、有川湾で行われていた海豚断切網漁の網を転用して試行的に始めたものだと推測され、その後、太地の操業についての情報を把握した上で、貞享元年(1684)頃から本格的な網掛突取法の操業を始めている。なお長門東部を除いた西海漁場の網掛は、鯨の前方に長大な網を弓なりに張る(3組の網を少し左右にずらして重ね張りする)方法を採るが、このスタイルを作ったのは深澤組だと思われる。その後、深澤儀太夫勝幸とその子供の深澤儀平次、勝幸の娘婿・深澤(松島)与五郎らが率いる深澤組の網組が各地に出漁して操業する中で、深澤組と共同で操業した組主や、深澤組と対峙した組主から網掛突取法を導入する者が次々と現われる。これによって18世紀初頭には網掛突取法は西海漁場の主要な漁法となる一方で、突取法のみの装備を持つ突組は減少していった。ただし網掛突取法の装備を有した網組は、網を用いず突取法によって鯨を取る事もできた。

 生月島で最初に網掛突取法の操業を行ったのは、小値賀島を本拠地とする小田組である。「重利一世年代記」にある小田組の操業についての記録の正徳2年(1712)1月19日の項には、「生月エ始テ網組遣ス」とある。正徳元/2年漁期(1711~12)の小田組は、冬浦を小値賀島(潮井場)で、春浦を平戸島の津吉浦、生月島、小値賀島の潮井場の三ケ所で操業しているが、小田組は麾下の突組、網組のうち網組の方を(冬浦)小値賀島-(春浦)生月島で操業させている。翌正徳2/3年漁期(1712~13)になると、ウエイトが高い冬浦の操業を行うため生月島に網組を派遣している(2年10月5日)。なお正徳3年2月には「津吉エ鯨網遣ス」とあり、春浦の操業のために生月島の網組を津吉浦(前津吉)に移動させた可能性がある。

 

2.益冨組の創始 

(1)捕鯨始業前の畳屋(益冨)家

①益冨家の出自

  生月島で捕鯨を行った鯨組と言えば、何と言っても益冨家が組主を務めた益冨組である。「先祖書」(益冨家文書1956)によると、初代又左衛門正勝は享保10年(1725)に舘浦宮ノ下で、田中長太夫と共同で突組の操業を始めている。但し「益冨」姓は初代又左衛門正勝が捕鯨業の経営を軌道に乗せ、運上を藩に納入できるようになった報償として死後、平戸藩から送られたもので、創業当初は「畳屋」という屋号を用いている。ちなみに本家が益冨を名乗った後は、分家筋が畳屋を多く用いている。

 「先祖書」によると、益冨(畳屋)家の先祖は甲斐の戦国大名・武田家の家臣の山縣家だとされる。武田家が織田信長の攻撃で滅亡した後、逃れてきた山縣家の子孫が大坂の豊臣家や唐津の寺澤家に仕え、寺澤家が天草島原一揆が原因で改易(取り潰し)になった後、平戸の鏡川に住んで畳作りをしたため、家号を畳屋にしたとされる。なお2代目と4代目の又左衛門は平戸藩に多額の献金をした功で藩士(馬廻)に登用されているが、吉村雅美氏によると、平戸藩は享保5年(1720)以降、馬廻以上の家臣に提出させた系図や申伝で「家中先祖書」を編纂しており、益冨家の『先祖書』も、平戸藩の「家中先祖書」の元になる資料として編纂された可能性がある。

 吉村氏によると、壱岐では享保11年(1726)に5名の者が藩への献銀によって町年寄格の身分が与えられており、享保18年(1733)には町年寄の土肥甚右衛門と篠崎与右衛門が「御用筋出精」を評価されて帯刀と十人扶持が許され、畳屋又左衛門も五合五人扶持を許されている。こうした身分の上昇は献銀によるもので、その資金源は捕鯨業の利益だった。壱岐の漁場の操業をめぐり益冨家とライバル関係となる壱岐勝本の土肥家の土肥甚右衛門は、元文元年(2736)に「訳も有之者(特別な者)」という理由で馬廻に取り立てられている。こうした上級藩士への登用の際に重要なのは先祖が武士階級である事だったが、土肥家の先祖書では、松浦鎮信(法印)が文禄・慶長の役で朝鮮に渡海した折り、拉致した朝鮮の姫に産ませた子が壱岐に残って土肥家の祖になったとされ、藩主と血縁関係にあるという由緒が他の壱岐町人を越える形の馬廻格の獲得に繋がったと考えられる。益冨家の甲斐武田家の家臣を祖とする経歴も、当主が馬廻に取り立てられた際に整備されたものと思われる。このように身分上昇に際して相応しい系譜を準備する事は戦国以降の日本社会では普通の事で、尾張の農民出身の豊臣秀吉も、関白への補任に先立ち天皇の落胤だとする言説が出ており、徳川家も源氏の血筋にあたる系図を整備して征医大将軍に任じられている。武家を先祖とする由緒は概ね必要があって後世に整備されたものだが、そうした由緒如何で益冨家の、近世期に最も資本主義的会社組織に近い合理的な経営を行ったという真価が損なわれることは全くない。

 益冨家の由来については一つ気になっている事がある。初代又左衛門正勝は「道喜」という名も名乗っているが、この名は江戸時代前期に長崎で活躍し、出島を構築した有力町人25名にも加わっている平戸出身の貿易商・平戸道喜と同じである。但し二人の道喜が生きた時代は50年程隔たっているため、単なる偶然なのかも知れない。この平戸道喜は幕末期に海援隊を援助した小曾根家の祖とされるが、興味深い事に小曾根家もまた武田勝頼の家臣を祖先とする由緒を持っている。正勝の先代・又左衛門是正が鮑座を行った際には長崎の貿易商と親密な関係を結んでいるが、長崎とは以前から何らかの関係があった可能性もある。

 

②捕鯨創業に必要な資本の蓄積

  前述したように、大勢の従業員と船、建物などの施設を要する捕鯨業を始めるためには、数千両単位の資本を用意する必要がある。益冨家はそれをどのように用意したのだろうか。

「先祖書」には、生月島の黒木に移って鮑座(鮑の仲買)を始めたとある。また長崎の商人・春善治郎から畳屋又左衛門に宛てた「書状」(益冨家文書1920)には、畳屋から春に送った鮑が届いた事や、その鮑が(清国向けの)唐船に売買される事、同じ平戸領である小値賀島の鮑の買い入れにも畳屋の仲介を頼みたい事、鯣の買い付けもお願いしたい事などが記されている。

 また「先祖書」には不思議な伝承とともに鰤網を始めた由来が記されている。

「又左衛門或時畳を平戸ニ運漕〆、中居之嶋近くニ而異形之者海上ニ顕れ出て、又左衛門ニ向て申候ハ、身を立んと思ハヾ先ッ鰤網をせよ、家かならず繁昌し子孫益々冨栄んと云終り、其侭海中ニ沈み入ル。同船之者共ハ誰も是を見者なく、其声を聞者も無く、只又左衛門斗り是を見る。依之是必す海神之我を助け給ふ所と信仰し、弟三郎助并ニ妻子えも告知せす鰤網を存立けれども、其手立調兼けるとぞ」

  この記述によると、又左衛門景正が畳を平戸に船で運んでいる時、中江ノ島の付近で海中から現れた「異形の者」に遭遇し、その者から本人だけに聞こえる声で、これから立身しようと思えばまず鰤網をしなさい。そうすれば家は繁盛して子々孫々ますます富み栄えるだろうと言ったといい、それに従って鰤網を始めたとされる。

  江戸時代当時、生月島周辺で鰤を取るのに用いられた可能性がある網には、大敷網(定置網)と建網(刺網)がある。このうち取りかかりやすいのは網も人員も少なくて済む建網だが、前述の場合は大敷網だと考える。大敷網はちょうど18世紀初頭頃に平戸周辺地域に登場した最新の網漁法だった。「覚」(益冨家文書1930-3)によると、平戸の山口屋茂左衛門と舘浦の墨屋五左衛門が、享保7年(1722)暮れから始まる鮪(大)敷網の操業で、漁獲物の販売益から経費を引いた利益のうち1割5分を、田中長大夫と畳屋亦左衛門に渡す事を証している。田中長太夫は舘浦の浦年寄格の家とされ(『生月史稿』)、田中と畳屋は享保10年(1925)から鯨組(突組)の共同経営を行っているが、彼らがまず大敷網の経営に出資して利銀の獲得を図り、それを元手に加えた形で鯨組の経営を始めたものと思われる。

 捕鯨業に関与した後も、益冨組は生月島中部の松本や北部の元浦の鮪網代を発見し、大敷網の請浦の許可を得ており、天明8年(1788)に司馬江漢が生月島を訪問した際には、益冨組が経営する松本の大敷網で鮪漁を見物している。益冨家文書の中には平戸地域各地の鮪網(大敷網)に関する書類が残っている事から、捕鯨業と並行する形で鮪大敷網の経営も継続的に行っている事が分かる。

 

(2)畳屋(益冨)組の創業

  「先祖書」によると、享保10年(1725)畳屋又左衛門は田中長大夫とともに突組の経営に乗り出し、生月島南部の舘浦姫宮の脇に納屋を設け(現在も「納屋ん下」の地名が残る)12艘の鯨船で突取法の操業を行う。しかし初年度は捕獲頭数3本という厳しい結果に終わり、田中長太夫は見切りをつけて経営から退き、畳屋家は単独で経営に当たる(畳屋組)事となる。この不漁は、操業が多い島の北部海域から離れた南部に拠点を設けた事にも原因があるように思われる。益冨家・益冨組が用いる牛角の紋に関する伝承には、経営不振のため飛降自殺を考えた初代が牛に邪魔されて思いとどまり、蜘蛛の巣を見て網掛のアイデアを思いついたというものがあるが、後半の網掛発明譚(史実ではない)はさておき、前半部は創業時の苦境を下敷きにしたものと思われる。しかし享保14年(1729)に根拠地を島の北部の御崎浦に移した事で操業環境が改善されたため、当冬から翌春にかけて22本の鯨を捕獲する好成績をあげている。 

 享保17/18年漁期(1732~33)には、畳屋組は網掛突取法を行い得る網組の編成(三結組編成と思われる)に移行するが、漁獲は16本に留まっている。これについては漁場の潮行きや操業場所を読みきっていない事が原因とされている。同じ享保17年に畳屋組は壱岐勝本の網組の1/4の共同経営を平戸藩から認められているが、その後、網掛突取法に慣れた壱岐の組の羽指頭を御崎組の羽指頭にしたところ御崎組の操業がうまくいくようになり、享保20/元文元年漁期(1735~36)には37本を捕獲する好成績をあげている。なお「元禄十三辰年ヨリ御書出控 御意済控」(松浦史料博物館所蔵)によると享保18年には隣接する的山大島の鯨組との漁場境が決められているが、その後畳屋組側が越境して魚見(山見)を出した事で処分される事態も起きている。

 一方で益冨組は壱岐漁場への進出を積極的に行っている。前述したように享保17年の益冨組は壱岐勝本の組の1/4の共同経営に参加しているが、壱岐湯本の観世音寺にある石造の香台には、享保19年(1734)に奉納した寄進者の名前として「江戸住 小喜多亦右衛門、勝本住 土肥甚右衛門、湯本住 長谷川三右衛門、生月住 畳屋又左衛門」の4人の名前が刻まれていて、この時期、勝本浦の鯨組の経営にあたった者達である可能性が高い。なお『壱岐郷土史』には享保16年(1731)に篠崎、土肥、布屋、畳屋又左衛門と江戸の油屋又右衛門の5名が共同の組を出したとある。

 

3.益冨組の発展

(1)壱岐漁場での安定操業

  『政庁要録』によると、元文3年(1738)に壱岐以外の漁場で和泉屋(土肥甚右衛門)と畳屋(又左衛門)が漁場の境界を巡る出入を起こし、土肥側が勝ち、畳屋側が背美鯨二頭分の過料を申し渡されており、当時、漁場を巡る畳屋組と土肥組の争いが激化していた事が窺える。しかし元文4年(1739)には、壱岐の主要漁場だった島北部の田ノ浦(勝本浦)と東部の瀬戸(前目、恵比須)浦について、畳屋組と土肥組がそれぞれ一浦を使用し、隔年で交替する事を、平戸藩の仲介で取り決められている。なおこの協定については山口麻太郎の「壱岐国勝本浦の史的考察」(1940)に「元文四年には夷浦田ノ浦の両漁場を益富(ママ)、土肥両家にて交互に使用すべき事を約している」とあるように多くの文献に紹介されているが、まだ一次資料での確認に至っていない。ただ後年の壱岐漁場に関する一次資料でも隔年で漁場を交替使用する状況は確認できるので、協定が結ばれた事は確かである。ちなみに松下志朗の「西海捕鯨業における運上銀について」によると、益冨組は明和元/2年漁期(1764~65)には生月島と壱岐の瀬戸浦で操業しており、以後寛政4/5年漁期(1792~93)までは順当な漁場交替が確認でき(同漁期の漁場は生月島と壱岐瀬戸浦、的山大島)、さらに「九州鯨組左之次第」の寛永10/11年漁期(1798~99)の記録には益冨組の生月島、壱岐瀬戸浦ほか3漁場の操業が記されており、この漁期までは順当に漁場交替が行われている事が推測できる。なお協定が結ばれたとされる年の翌年にあたる元文5年(1740)の益冨組の漁について、『先祖書』には「今年(元文5年)五拾壱本懸取申候 壱州・生月合せての魚数ニ御座候哉、其儀は得と相知レ不申候 尤大嶋え鯨組無之候故、右大漁仕候」と、おそらくは生月島と壱岐(の片方の漁場)で操業して51本の鯨が取れる大漁だった事が報告されている。なおこの記述に生月島の漁は東隣の的山大島での操業が無かったからだとあるのは注目できる。

 また壱岐の瀬戸・勝本の両漁場は、18世紀後半期になるとおのおので三結組2組が合体した六結組(標準規模の網組である三結組の2倍規模の組(大組))が操業するようになる。「寛政弐戊四月 酉冬戌春 勝本組鯨御運上油銀書出帳 並御用油鯨仕出書出 益冨勝本組」(益冨家文書)によると、寛政元/2年漁期(1789~90)に勝本浦で操業したた益冨組の六結組編成の組は背美鯨48頭(冬41、春7)、座頭鯨6頭(冬2、春4)の計54頭を捕獲しているが、この頭数は六結組の操業でなければ難しい。このような大組が成立する時期がいつなのかまだよく分からないが、前述した元文5年(元文5/6年漁期と考えられる)の生月と壱岐片浦(どちらかの漁場)の漁獲51本は生月(三結組)+壱岐片浦(六結組)の漁獲としては大漁とまでは言い難く、この段階ではまだ生月も壱岐片浦もそれぞれ三結組の操業だった可能性が高い。いずれにせよ益冨組は、18世紀後期に入ると本拠地の生月島に三結組1組と、壱岐の2漁場のうちの片方(片浦)に三結組2組の合体組(六結組)を操業させるようになる。これが益冨組の18世紀後期の基本操業体制となる。

 しかし18世紀後期になると益冨組は、この3組からなる基本操業体制に加えて様々な漁場で操業を行うようになる。「中尾家累代略歴」によると、宝暦12年(1762)から3年間、益冨組は呼子沖の小川島漁場に入漁したとされる。また松下志朗の「西海捕鯨業における運上銀について」によると、安永3/4年漁期(1774~75)から安永5/6年漁期(1776~77)にかけて、益冨組は基本操業の3組に加えて的山大島で冬浦-平戸島津吉浦(前津吉)で春浦の操業を行う1組を加えた4組体制を取っている。この新組は、益冨組が新規の漁場に進出するために新たに組織をしたというよりは、呼子の中尾組が安永年間頃まで小値賀島(冬浦)と津吉浦(春浦)で操業させていた1組を編入した可能性が高い。また益冨組はこうした形態の操業で、冬浦と春浦を別漁場で操業する経営のノウハウを得たと考えられる。

 さらに天明5/6年漁期(1785~86)以降の益冨組は、基本操業体制に的山大島で冬春操業する1組を加えた4組体制を取っている。その体制は寛政5年頃まで継続しており、4組がこの時期の通常体制になっていると見なせる。生月島では、寛政5年(1793)に益冨家が所在する壱部浦の氏神である白山神社に、第四代当主・益冨又左衛門正真が瀬戸内海産花崗岩製の鳥居を奉献しており、寛政9年(1797)にも島内の住吉神社に益冨忠左衛門正昭(隠居した三代目)が同様の花崗岩製の鳥居を奉献しているが、これらは寛政期の4組体制による順調な経営を背景にしたものと思われる。「九州鯨組左之次第」にある寛永10/11年漁期(1798~99)の西海漁場(長門国を除く)の記録では、益冨組は冬浦に生月島(三結組1組)、壱岐瀬戸浦(同2組=六結組)、的山大島(同1組)で操業し、春浦では生月島(同1組・引き続き)、壱岐瀬戸浦(同1組・六結組の半分)、五島灘の平島(同1組・瀬戸浦の六結組の半分)、壱岐印通寺浦(同1組・的山大島より移動)で操業している。ここで注目されるのは、壱岐瀬戸浦に展開する六結組を春浦では分割し、半分(三結組)はそのまま残して操業させ、のこる半分(三結組)は五島灘の漁場に派遣している事である。壱岐の二大漁場は冬浦の操業には有利だが、春浦になると漁獲が減少するため、大規模な六結組をそのまま操業させては無駄が多いと判断し、半分の三結組を上り鯨の操業に有利な漁場に派遣するようになったと思われる。17世紀にも平戸系突組の吉村組が、冬浦に壱岐で操業させた突組を、春浦には五島灘に面した鯛ノ浦(五島中通島)や平島に移動させており、17世紀の突組操業当時から培われた五島灘の春浦操業の優位性が、18世紀の網組操業の中でも継承され、壱岐の二大漁場の六結組操業体制が確立するなかで、半分の組を五島灘に派遣する形が取られるようになった事が考えられる。なお「九州鯨組左之次第」によると寛永10/11年漁期(1798~99)には土肥組も4組体制を取っており、冬浦に勝本浦で操業した六結組の半分(三結組)を対馬伊奈浦に送っている。ちなみにこの時期には西海漁場全体(長門国を含む)で17組程度の網組(三結組単位)が操業しているが、益冨組や土肥組の4組体制はおろか3組も経営している鯨組も他に無く(国内の他地域の鯨組にも無い)、18世紀末期の西海漁場は壱岐の両漁場の隔年交替使用を基盤とした益冨・土肥両組による寡頭体制だった事が分かる。

 益冨組を含む西海漁場の鯨組が18世紀後期に発展した背景には、鯨油の農薬としての需要の拡大が大きな役割を果たしたと思われる。「免用其外覚書」(福岡県立図書館所蔵)によると、天明6年(1786)には福岡藩が領内で使用する蝗害用鯨油の必要量を初めて見積もり、それに対応した備蓄用鯨油の注文が益冨家に対して出されており、18世紀初頭に発見された鯨油除蝗法の普及によって鯨油の需要が拡大した事が考えられる。

  平戸藩の第8代藩主・誠信は、益冨家が鯨組を興した直後の享保13年(1728)に家督を嗣ぎ、安永2年(1773)に退くまで66年に亘り藩政を指導したが、その治世の間、益冨組と土肥組の壱岐漁場の交替操業体制を指導するなど捕鯨産業の育成に力を注いでいる。治世晩年の明和8年(1771)には、益冨家二代目又左衛門正康(初代の子(養子)正美津の長男)が、京都の仙洞御所の普請のため平戸藩に求められていた献金2万両を益冨家が支出した功で40人扶持の馬廻役という身分(士分)に取り立てられている。そのため正康は益冨家の当主を弟(正美津の三男)正昭に譲り、先祖とされる山縣の姓を名乗る山縣六郎兵衛家を興している。その後は正康の子孫が六郎兵衛を名乗って山縣家を嗣いでいくが、同家は益冨家と平戸藩を繋ぐ役割を果たしていく。

 

(2)繁栄の時代

  19世紀に入っても益冨・土肥両組の4組操業体制が継続する。寛政9年(1797)には4代又左衛門正真(正美津の次男・正満の子で、正満の死後、母親が正昭と再婚していた)が藩に1万両を献金した功で20人扶持200石の馬廻役に取り立てられたため、益冨家当主を弟(正昭の実子)正弘に譲り、山縣三郎太夫家を興している。この出来事は誠信の後を嗣いだ第9代藩主・清(静山)の治世下だが、教養好きの清が安永8年(1779)に設けた文庫「楽歳堂」の書籍購入費などにも益冨組からの資金が役立っていたとされる。このように益冨家と平戸藩との関係は18世紀末までは良好だった。

 しかし文化3/4年漁期(1806/07)には突如、壱岐両漁場の隔年交替使用が停止され、益冨組が壱岐の前目・勝本漁場から締め出される事態が起きる。両漁場で土肥組麾下の鯨組が独占的に操業した事が原因だが、末田智樹の調査によると、益冨組はこの漁期に長州北浦東部の通・瀬戸崎漁場に出漁しており、壱岐漁場で捕鯨に従事していた多数の従業員や機材を抱えた益冨組が、壱岐に代わる漁場を求めて出漁したものと思われる。この状況の原因についてはまだ未調査だが、文化3年(1806)に35代平戸藩主の松浦清(静山)が隠居し、36代藩主・熈(観中)が襲封するという権力の交替が起きている事が関係しているのかも知れない。しかし土肥組の両浦操業はうまく結果を出せなかったようで、数年で元の隔年交替体制に戻っている。

 そして文政3/4年漁期(1820~21)になると、今度は益冨組が壱岐の両浦で六結組の操業を行うようになり、生月島で操業する組を加えて網組5組を経営する事となる。この5組体制は文政11/12年漁期(1820~29)まで継続するが、この時期が益冨組の最盛期と言える。壱部浦の益冨家住宅内には文政の5組体制期にあたる文政8年(1825)に恵比須神社の社殿が造営されているが、本殿の各所には精緻な細工を施し、社殿前には益冨組の別当、羽指、若衆達が瀬戸内海産の花崗岩を用いて作ったものを奉納した鳥居、狛犬、灯籠、手水鉢、玉垣などが残る。本殿には造営から27年後の嘉永5年(1852)に覆屋が設けられたため保存状態は良好で、平成28年(2016)に長崎県の有形文化財に指定されている。また我が国における捕鯨図説の最高傑作とされる木版印刷の捕鯨図説『勇魚取絵詞』が天保3年(1832)に刊行されているが、同図説の跋文は文政12年(1829)に記されており、5組体制の時期と重なるように制作が進行した事が伺える。また『勇魚取絵詞』と同時に鯨肉専門の料理書『鯨肉調味方』も刊行されているが、もしこれが鯨肉消費の拡大を企図して制作されたものだとすれば、益冨家の優れた経営感覚を反映したものだと言える。

  しかし巨大化した鯨組の維持にはそれ相応の支出も必要のため、文政12年(1829)5月には、益冨組は不漁を理由に翌漁期からの壱岐の片浦での操業の返上を願い出て、隔年交替体制に復している。しかし天保6/7年漁期(1835~36)から天保8/9年漁期(1837~38)の間には再び5組体制を取っている。

 益冨組の繁栄には経営方針が大きく影響したと考えられる。藤本隆士が指摘するように、大本家(益冨家)を頂点として畳屋姓などを持つ多くの分家の人材を鯨組関係の要職に配置し、また時の組主が分家して平戸藩士となる形で成立した両山縣家は平戸藩と組とのパイプ役を果たしており、本分家関係を基礎にした強固な組織の存在が安定した経営に繋がったと推測される。

 また益冨組では、当時の解体場においては普通に行われなかば容認されていたカンダラと呼ばれる地元民による鯨肉盗の行為をかなり厳しく取り締まっていたようで、「鯨組方一件」(佐賀県立博物館寄託資料)には出漁先の浦人から「がんどう組(強盗組)」と言われていたという記述があるが、このような厳格な姿勢も組の経営強化に繋がった事は言うまでもない。

 流通面では、鳥巣京一の研究によると、当時の益冨組の鯨油は福岡、肥後両藩に多く販売されているが、「永代家事記」によると、福岡藩では文政3年(1820)より郡単位で除蝗用鯨油の備油がされるようになったとあり、益冨組の規模拡大にも関連する動きとして注目される。鯨油以外の鯨商品(煎粕、髭、筋その他)は所有船や傭船に搭載して瀬戸内海経由で大坂方面まで運ばれ、各地の問屋に卸され販売されているが、同時にそれら問屋からは捕鯨用資材を購入しており、手形などを用いて実際の金が動かない形で決済が行われていた。

 さらに、生月島舘浦出身で、巨体(身長7尺5寸)を平戸藩主に見込まれ天保15年1844)に江戸相撲でデビューした生月鯨太左衛門も、当初は益冨家が面倒を見ていたと伝えられが、「鯨の島・生月」をアピールする歩く広告塔(キャラクター)だったと言える。

 

4.益冨組の落日

(1)壱岐漁場の不漁

 弘化年間(1844~47)を迎えた頃、益冨組は生月島と壱岐の片浦、五島灘の漁場で3組体制で操業している。弘化2/3年漁期(1845~46)にはその体制で133本を捕獲する成績を上げている。しかし翌弘化3/4年漁期(1846~47)には69本に落ち込み、さらに嘉永2/3年漁期(1849~50)には44本、嘉永5/6年漁期(1852~53)には一時的に26本まで落ち込み、安政年間(1854~60)に入ると30本台が常態化する深刻な不漁が到来する。

  この不漁の原因については、従来1820年代頃から始まった欧米の捕鯨(母工)船による日本近海での操業が影響している可能性が指摘されてきた。2020年に生月島で開催されたシンポジウム「古式捕鯨とはなにか」でもこの不漁の原因が話題に上り、多くのパネラーが欧米捕鯨業の影響を原因に挙げた。古賀康士は、日本の古式捕鯨業はローテクで資源量の減少に繋がる程の負荷は掛けなかった点を指摘したが、末田智樹は欧米捕鯨業の不漁の影響後に、春の上り鯨の操業で、取り易く税金も掛からなかった白子(母鯨と一緒に行動する幼い鯨)を好んで取った事がさらに負荷を掛けた可能性を指摘している。

文化14年(1817)に壱岐の篠崎兵右衛門から平戸藩に的山大島出漁についての願書が出た事について、藩からの意見聴取に対する益冨組の畳屋三郎兵衛の回答書である「口上覚」(益冨家文書)の中には、「近年ハ別而御崎組方魚通り無数、稀ニ魚数漁事仕候年も至而魚柄小ク」と、回遊数の減少と共に鯨体が小さくなっている事を指摘した箇所があるが、沿岸に限定されローテクな技術に終始した日本の古式捕鯨業でも、長年の漁獲で一定の捕獲圧が掛かり続けた事で、19世紀前期には鯨の成熟が早まり鯨体が小さくなっていた可能性があり、そうした状況下で捕獲圧が高い欧米捕鯨の操業が始まった事で、一気にバランスが崩れた可能性もある。

 益冨組でも対応処置が取られる。この時期あまり利用されなくなっていた五島灘方面の他の漁場への春浦出漁も行われるなか、嘉永4年(1851)には組内の改革が試みられている。さらに嘉永5年(1852)には税の減免措置も平戸藩に願い出る。しかし不漁に抗する事は出来ず、万延元年(1860)には益冨組は不漁のため一時休業せざるを得なくなる。明治2年(1869)には一旦再興されるが、明治7年(1874)にはついに益冨組は廃業の止むなきに至る。これについては廃藩置県などによって、大口の鯨油納入先であり同時に鯨組の事業資金の貸主であった黒田藩や細川藩などが消滅した事も影響したのではないかと推測する。

 

(3)益冨組が遺したもの

 「(仮)突組創始享保十已年より」(益冨家文書1961)によると、益冨組が操業を始めた享保10年(1725)から、幕末~明治の中断期を挟んだ明治6年(1873)までの142漁期に捕獲した鯨は21,790頭に上り、事業で得た収入も3,324,850両という莫大な金額に上っている。支出で多いのは平戸藩への税金で769,960両、次いで人件費で640,000両、飯米代465,000両、苧代120,000両、薪代56,560両と続く。藩に対しては税以外に15,525両の献金や242,130両余の貸上(藩への貸し金)があり、平戸藩の財政にも大きく寄与した事が分かる。

  捕鯨の利益は鯨組や藩だけに留まらず、鯨組への食料や資材、労働力の供給を通して周辺の農村地域にも浸透し、住民の生活に役立っている。平戸藩では生月島では慶長4年(1599)以降キリシタンが禁止されているが、多くの生月島民はキリシタン信仰を継承したかくれ信仰を、仏教や神道を親和的に並存させる構造の中で継続していっている。複数の信仰に関係する事はそれなりの経済的負担を伴うが、生月島では捕鯨業や鮪大敷網などに関係する事で得られる収入がその構造の維持を可能にしていたと思われる。鯨がキリシタンを生かしたのである。

  益冨組が本格的に整備した御崎浦の納屋場施設は、益冨組撤退後も他の捕鯨組織によって明治30年代まで使用されている。また益冨組の捕鯨などで経験を積んだ生月島出身の捕鯨従業員の一部は、長州川尻浦の網組や、平戸瀬戸で明治15年(1882)以降行われる銃殺捕鯨などで働いている。他方、益冨組が主要漁場とした壱岐は、幕末の不漁から回復する事が無いまま捕鯨はほぼ行われなくなっている。

  益冨組が遺したのは捕鯨業に直接関係する事だけではない。益冨組が経営した元浦や松本の大敷網は益冨家が網主の形のまま昭和20年頃まで経営が続けられ、その後は生月漁協が経営を行っている(松本は舘浦漁協との共同経営)。また益冨組が鯨組で培った大規模な集団と資本を要する漁業の経営のノウハウは、明治末期に始まった鰯和船巾着網から大正末期以降の遠洋まき網に引き継がれ、こんにちに至っている。生月島の遠洋まき網漁業で確認出来る漁業資本による流通の掌握や政治から漁業をサポートするスタンスは、益冨組が行っていた方法の再現だと言える。

 益冨組の経営の先進性については、2020年に開催された古式捕鯨シンポジウムにおいても多くの研究者が指摘しているが、益冨家文書の公開は漸く今年の春に始まったばかりなので、経営の詳細が明らかになるのはこれからである。益冨組の経営の研究には、日本の古式捕鯨業の実態解明という過去の状況の理解の他に、こんにちのSDGs的な視点からも価値を有すると思われる。環境や資源に負荷を掛けず、従事者が労働に物語的価値を持つ事で、持続的な産業が確立できると思われるが、そのために技術、経営、地域、組織や人材、思想、環境などの面でどのような事を重視するべきなのかを考える材料が、140年以上の長期経営を実現した益冨組の経営の中から得られると考える。益冨組に関する情報は、単に郷土の過去を知るためのものに留まらず、地球の未来を考えるための情報として保存、活用していく事ができる貴重なものなのである。

 




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