生月島の歴史 No.7明治時代以降の生月島漁場と生月島民の捕鯨
- 2022/10/07 11:42
- カテゴリー:生月島の歴史
明治時代以降の生月島漁場と生月島民の捕鯨
1.生月島での網掛突取捕鯨
益冨組は明治7年(1874)に捕鯨業を止めているが、その後も生月島では御崎浦を拠点とした網組の操業が継続している。
明治12年(1879)には平戸捕鯨会社が興り生月島漁場での捕鯨を再興している。『区画貸渡根帳』(明治16年)には益冨組以降の生月島の捕鯨漁場の権利者として平戸の小関亨と牟田部佃の名があるが、この両名が平戸捕鯨会社の発起人と思われる。しかし経営は厳しく倒産を余儀なくされる。前掲『区画貸渡根帳』によると、明治16年(1883)以降は蒲生林作他3名が生月漁場の権利を取得しており、明治23年(1890)には中央資本の大日本帝国水産会社が権利を取得している。こうした状況は年が若干前後するものの後述する平戸瀬戸漁場(旧前津吉漁場とも関係する)の動きと連動しており、また両捕鯨漁場とともに益冨組が旧来有してきた生月島元浦鮪大敷網代も一括の権利として捉えられていた。
明治24年(1891)には、大日本帝国水産会社の権利者に五島捕鯨株式会社社長の川原又蔵が加わっている。五島捕鯨会社は明治17年(1884)に設立された五島中通島有川湾を漁場とした会社で、おもに網掛突取法の操業を行った他、鯨大敷網法や銃殺法、砲殺法を並用して一定の成果を上げている。明治26年(1893)に大日本帝国水産会社が生月漁場から手を引くと川原又蔵が一手に経営を行い、翌年には許可の更新を出願している。それに対抗して地元からの出願もされるなか、明治28年(1895)には川原と共に平戸の高橋喜左衛門、蒲生林作、貞方文作らが権利者に加わる形で許可され、翌年には早岐村の森市郎右衛門も加わっている。
明治期の御崎組の沖場の編成については、『事務簿』(明治14年)の「捕鯨方法概略」に記された明治13年(1880)頃の肥前平戸捕鯨会社の組では、双海船6艘、双海付船6艘、勢子船17艘、持双船4艘、納屋船1艘からなっており、『勇魚取絵詞』に紹介された江戸時代後期(1820年頃)の御崎組と殆ど変わらない編成である。一方『第4課事務簿』(明治36年)の「漁具設備書」に記された明治35年(1902)の同組の編成を見ると、勢子船13艘、持双船4艘、双海付船6艘、双海船6艘、立切り網船4艘からなる掛網捕鯨ノ部と、ボート船3艘(捕鯨銃6挺)からなる銃殺捕鯨ノ部からなっていて、網掛突取法と銃殺法の二つの捕鯨法を行う組織を並用している事が分かるが、網掛突取法の装備には立切り網船という網の後方を閉塞する網の装備が確認でき、敏捷な長須鯨を捕獲するための装備の改良が確認できる。この装備は同時期に呼子漁場で操業した小川島捕鯨株式会社の網組の装備でも確認できるが、小川島組で導入されていた縄網船については確認出来ない。
また明治期の御崎納屋場の図面(島の館蔵)を見ると、基本的な配置は『勇魚取絵詞』の「生月御崎納屋全図」に描かれた文政期の納屋場と同じだが、小納屋や前作事場にある一部施設の廃止が確認出来る。
しかし明治時代の生月漁場では、天保年間以前の網組に比べると少ない鯨しか捕獲されていなかった。例えば『事務簿』「捕鯨業ニ関スル要綱取調書」に掲載された明治25/26~30/31年漁期(1892~98)の捕獲頭数は最高でも13頭、最低は8頭に過ぎず、慢性的な赤字経営だったと推測される。
生月漁場の網組の操業は明治30年代までは続いており、『第4課事務簿』(明治35年)にある明治35年3月の「捕鯨頭数報」には、平戸瀬戸捕鯨組で2頭、生月村捕鯨組で1頭(座頭鯨)の捕獲が報告されている。『第4課事務簿』(明治36年)の編成の記述では網組と銃殺組の装備の二本立てだったが、後で取り上げる『銃殺捕鯨日誌』にある明治34/35年漁期の生月島の操業では捕獲無しとされているので、この1頭は網掛突取捕鯨による捕獲である事が分かる。明治37年(1904)12月には生月捕鯨組に関係していた森新七が双海船の売却を双海船加子の出身地である田島の人に依頼した手紙がある事から、この年には生月島漁場における網組の操業が終了していると思われる。
2.生月島民の他地域の網組への出稼ぎ
明治時代、生月島の捕鯨従事者は生月島や平戸瀬戸(銃殺捕鯨)の他、長州北浦の網組に雇用された事が分かっている。山口県下関市北部の向津具半島先端にある川尻浦では、明治時代に川尻鯨組が長須鯨の捕獲を意図した比較的小型の網を小型の双海船に搭載して素早く網を張り回したり、音に反応しない長須鯨を本網に誘導するための縄網の導入などの改良を行って成果を上げていた。川尻鯨組には江戸時代から九州方面の捕鯨漁民が多く雇われていたが、『川尻捕鯨組二百二十年』によると、明治時代の川尻組には生月納屋、名護屋納屋など九州出身漁夫の宿泊施設が存在し、舸子(櫓の漕ぎ手)も大村湾岸の内海、千綿などから雇われていて、九州出身漁夫を統括する「九州親父」という役職まで置かれていた。壱部浦の(故)尾崎常男氏の祖父の十太郎氏は九州親父をしていたという。「生月納屋」の名称があるように、生月島からも羽指役などで大勢働きに行っていたようで、島の館にも展示されている「川尻ジバン」と呼ばれる丈が短い重ね縫いした上着は、もともと川尻に働きに行っていた羽指が向こうで着ていたものを持ち帰ったものだとされる。また壱部浦の尾崎常男氏の話では、川尻に行った生月島の羽指が鯨に乗って鼻切りを行っていた時、血まみれで見えにくかったため地元の漁夫が誤って突き殺してしまった事があったそうで、後年その甥の今野国八氏が川尻組に働きに行くと「仕返しに来た」と地元では大いに心配されたが、今野氏が全くその気は無い事を伝えると、向こうの人達は大いに安堵したという。今野国八氏は羽指ではなかったが、鯨に銛を投げたり綱を付けたりしており、一度鯨に一番綱をつけて(鼻を切って綱を通す)、旦那様から賞状と金一円を貰った事があり、その時の羽指包丁を大事に持っていたという。川尻の網掛突取捕鯨は明治43年(1910)まで続いている。
3.明治15年の銃殺捕鯨試験操業と生月島
明治時代には、生月島民の捕鯨漁民の中から平戸瀬戸などで行われた銃殺捕鯨で働く者が出ている。
明治15年(1882)7月28日、鯨漁会社という会社が西洋式捕鯨の営業願いを東京府知事に提出している。同社の設立者の一人である橘成彦は旧平戸藩士だが、「真甲鯨銃殺論」(『大日本水産会報告』第60号)には「□ニ橘某氏米國ヨリ帰朝シ 頻リニ銃殺ノ法ヲ説キ 既ニ九州地方ニ於テ其試験ヲ行ヒシニ」とあり、彼は渡米して銃殺捕鯨について見聞していた事が分かる。なお『西海新聞』明治15年4月15日号の「北松浦郡近況」には「海産會社は橘成彦氏か昨年舊知事松浦君の添翰を以て来られ、有志を募り設立せられしに、如何の譯けなるの舊知事と有志輩と主義相合せず有志は退社し、今は舊知事の一手物となり用達所内にあり、一二の用聞き町人あり夫れの為め大ひに益金のある様子なり。」とある。この海産會社は元平戸藩主の松浦詮が旧藩域の振興のため平戸に設立した会社と思われるが、橘成彦が関係している事から、東京で設立された鯨漁会社と関係している事が考えられる。
鯨漁会社が提出した「西洋式捕鯨営業ニ付願」『勧業課農務係事務簿』(明治15年)には、銃殺法の効用について次のように説かれている。
「従来本邦ニ行ハルル捕鯨法ハ古来ノ習慣ヲ墨守シ、壱組ト称スルモノ漁舟凡五十余艘、漁夫五百余人、漁網其他ノ器具其数ヲ知ラズ、終年其漁夫ヲ養ッテ半年ノ用充テ莫大ノ費用ヲ消亡シ、一朝不漁ノ歳ニ逢ヘハ、失フ処ヲ得ル処ヲ償ハズ、頗ル危険ノ事業ニ御座候、然ル処洋式ハ是ニ反シ、四艘ノ漁舟ト数種ノ火器トヲ以テ、三十余名ノ人夫ヲ役シ、自在ニ捕獲シ得ルノ便法ニ有之候、其得失識者ヲ待タズシテ判別仕候ニ付、試業ノ経験都テ正算ノ通リニ相達シ、全ク以テ莫太ノ費用ヲ要セズ巨萬ノ利益ヲ得ルハ御国益ノ一端トモ相成ルベク確認仕(以下略)」
ここでは従来の網組が500人を越える人員と多くの機材を抱え、支出が莫大なのに比べ、洋式(銃殺捕鯨)は4艘の船と銃、30名余りの人員で足る。この支出軽減こそ銃殺捕鯨の最大の利点だと強調している。但し「自在ニ捕獲シ得ルノ便法」とある事から、この時点ではのちに明らかになる銃殺法の欠点は認識されていなかった事が分かる。
鯨漁会社の操業開始(明治15年)については『勧業課農務係事務簿』(明治16年)に報告がある。
「 捕鯨法
凡漁方タル生月鯨島ニ山見ヲ据ヘ、鯨泳ノ合図ニ依リポート(蘭語バッテイラト云)及傳当ヲ乗出シ鯨ニ接近シ、先銛ヲ突キ、同時ニ火矢ヲ装填セシ銃ヲ発シ、或ハポスカン銃ヲ発射シ之ヲ殺ス、出漁三十日(五月一日ヨリ同三十日マデ)倒ス所三頭、内長須鯨壱頭ハ沈没ノ後激浪ノ為ニ流出セリ其所在ヲ失セリ、全ク得ル所白長須壱頭坐頭壱頭タリ。
参観
生月ノ出張前平戸河内ニ於テ出漁スル三十余日間ニ倒ス所長須鯨六頭、何レモ砲殺ノ際沈没シ激浪ノ為メ流失シ、尤モ内三頭ハ他人ノ拾ヒ得ル所トナレリ、然ルニ前ニ記載スル如ク先ツ銛ヲ突キ然シテ銃ヲ発スルノ順序ナルモ、業創始ニ当リ器具全ク備ハラス、其銛綱ニ乏シク不得止只銃ノミヲ放テ、為メニ数頭沈没流出セシムル事ニ至レリ」
ここには「生月出張前」とある事から、明治15年(1882)3~4月頃に30余日間、平戸島東岸の川内で銃殺法による操業を行って6頭を捕殺し(いずれも銃撃直後に沈没し、かろうじて3頭が他人の手で回収された)、その後5月1~30日に生月島北部で操業し鯨3頭を捕獲した(うち1頭喪失)事になる。一方『西海新聞』明治15年4月16日号の「北松浦郡近況の続き」でも、同操業について次のように紹介されている。
「此度橘成彦氏が銃鯨組とか鎗鯨組とかと組立られ 水夫を雇ひバツテーラ貳艘銃鎗並器械を携へ東京より来られ 先つ平戸の捕鯨會社と組合はんと生月島より水夫を雇い入れ先つ稽古をなし 打手に士族志佐俊治なる人をして 此人に山海の猟に妙を得たりと云ふ 稽古打の時は誤て後に倒れて銃砲の沈没したる由 其后は組出でとなし 田助港にて祝宴を開き 同港よりバツテーラに高帆を掛け生月島さして走り出せしに 一艘は難なけれども一艘は転覆し 乗組共に困難を極め(此時も銃砲一丁沈没したるよし)漸やく舟を起し辛ふして生月島に着船あり 捕鯨組にては銃砲まで浸りに打たれては捕鯨に困とて終に議合す 更に銃撃組は平戸村の河内と云ふ所に本部を設立し銃鯨に着手し 毎日海上にて鯨を追廻はし 頃日平戸瀬戸に於て長須鯨(九尋許)を打しに 其まま跡を隠したりと両三日にして他人か死鯨を拾ひ得て戸長役所に届出たる者あり 然るに右銃撃組にては其鯨は此組にて打取りたる鯨なりと掛合 双方の大論となり 拾主よりも種々辨解あり 誥り証據充分ならずとて拾主の勝となれり 然れども賣高一分五厘の配当は差出したる由 近頃又一本を打ちしに是亦た行先き分らず 依て此度は番船を付けあれども未だ浮き出ざる由にて 同組よりは警察署と戸長役所へ死鯨流出届を出せしと云ふ 本年大漁ありし上は明年は東京本組より數萬圓の資本を以て出張するとの評説あり。」
この記事では、操業開始から生月島での操業と河内(川内)での操業の途中と思しき内容まで紹介されている。また「平戸の捕鯨會社」(平戸捕鯨会社)と連携して操業を行った事や、生月島から水夫を雇った事が確認出来るが、操業については田助での宴会後すぐに生月島に出漁しており、その事から生月島→川内の順で操業が行われた事が分かる。前述したように『事務簿』(明治16年)の記述では川内→生月島の順になっているが、記述の順番は生月島→川内である。また同記述では生月島での操業時期が5月となっているが、生月島から川内の操業までを紹介した『西海新聞』の記事は明治15年4月16日付けの紙面に掲載されている事から、実際には川内の操業は4月頃、生月島の操業はその前の3月頃に行われたと思われる。当時の生月島では平戸捕鯨会社の網組が操業を続けていた筈なので、その操業の邪魔にならない時期に銃殺組の操業を行った事が考えられる。
『事務簿』(明治16年)にある器械及び人員の報告を見ると、船団はボート2艘と傳当(テントウ)2艘からなり、1艘のボートには二十目銃1挺、ポスカン(銃)1挺、銛2本が搭載され、銃手1人、楫取1人、羽指(ハザシ)1人、加子5人が乗り組み、傳当には1艘に5人が乗り組んでいる(計26人)。先の「願」にもあったように、銃殺法を行う鯨組(銃殺組)は網組に比べて船数・人員とも1/10以下の規模で、大幅な経費節減が期待できたが、『事務簿』(明治16年)や『西海新聞』(明治15年4月16日)の記述を見ると、バッテーラ(ボート)の操船に不慣れで転覆させたり、銃撃の反動で銃を海中に落としたり、せっかく捕殺した鯨を海没で喪い、他人の拾得物になったりしている。
ボンブランスの装備は二十目の火矢を装填した銃とポスカン銃を1艘に各1挺搭載している。前者は営業許可とともに提出した「捕鯨銃之儀ニ付願」の別紙に略図がありデータが記されているが、それには米国製鯨銃とあり、口径8分(2.4㌢)銃身長1尺5寸(約45㌢)玉目弐十目(75㌘)とある。なお図では引金の後ろにレバーの様な部位が描かれており、この特徴やデータに該当する銃として、1878年に特許が出されたアメリカのPierce&Eggersの元込捕鯨銃がある。ポスカン銃についても略図があり、長柄の先にボンブランスを収めた短筒と可動式のトグル銛を取り付け、短筒の脇には短筒の信管となっている細い金属棒が取り付けてある。この特徴から、恐らくは1865年に特許が出されたPierceのダーティングガンかその改良型だと思われる。このように鯨漁会社が操業当初に用いた銃は、Pierceの製品を一括購入した可能性があるが、両者とも平戸地方には現存しておらず、実際には多く現存しているブラントの捕鯨銃のオリジナルかその和製コピーが当初から使われた可能性がある。
いずれにせよこの明治15年の銃殺捕鯨の操業は、日本人主体で行った銃殺捕鯨の嚆矢であり、しかもその最初の操業が生月島で行われたという事は、生月史のみならず日本の捕鯨史に明記されるべき重要な出来事でないかと思う。なお片岡千賀之氏はこの明治15年の操業は、既に生月島漁場で操業を行っていた平戸捕鯨会社が橘を雇って行ったものだと捉えている。確かに漁業権を有していたのは平戸捕鯨会社なのでこうした解釈も不自然ではないが、旧藩主とも関係がある橘が関与する形で設立された鯨漁会社の事を考えると、提携という解釈も成り立ち得る。
4.植松組で働いた生月島民
平戸瀬戸の銃殺捕鯨は明治15年以降、昭和22年(1947)頃まで継続している。納屋場は平戸瀬戸の南側の皿川(申川、植松)に置かれたため、地名から銃殺捕鯨を行う鯨組は植松組と呼ばれていた。その操業の詳細については既に前年『平戸史再考』の「平戸瀬戸の銃殺捕鯨」で紹介しているので省くが、同組に参加した生月島民(特に壱部浦漁民)の情報について(故)尾崎常男氏からの聞き取りの内容を補足しておく。
壱部浦の浜崎勇蔵氏は羽指をしていた。平戸瀬戸の黒島の近くで植松組が捕鯨をした時には、鯨の心臓に火矢が命中せずに半死にしかしとらん鯨に泳ぎ乗り、手形包丁で鼻を切った。鯨は海上に浮上した時にしか鼻を開けない。ヘタ(陸地)から近かったので浅かったが、潜ったり浮かんだりする姿が陸地からもよく見えて、常燈の鼻には多くの見物人が詰めかけたので、大変有名になった。
尾崎氏のオジの五島三六氏も羽指をしていた。捕獲した白長須鯨の前で銛を構えている三六氏の写真が残っているが、この写真は支那事変に行った徳末安太郎氏の慰問袋に入れてやるために撮ったものだという。その様子を明安丸に乗って見学に行った時、解体場で作業員がカンダラ(カンダロウ)をしていたのを見た。井元伊三郎氏が鯨肉を足で踏みつけながら海の中を動かしてきて、船にいる尾崎さんに「それ船に積め」と合図したという。益冨組の頃には海岸の基礎石の間を抜いてそこに隠してかっぱらってきたのを船の中に隠していて、それをさらにかっぱらったりしたと、鯨組で働いていた人が話しているのを聞いた事がある。カンダラはかっぱることだが大目に見られていたし、泥棒の内には入らなかったという。
昭和の頃には吉田金吉氏や村川富貴男氏が山見の飯炊きをしていた。
5.生月島で行われた銃殺捕鯨
生月島では明治15年以降も、植松組に参加する生月出身の銃殺捕鯨経験者によって銃殺捕鯨が何度か試みられている。『銃殺捕鯨日誌』によると明治34/35年漁期(1901~02)には植松組から生月御崎組に銃手4人が出張して操業しているが漁獲は無かった。
大正後期頃には森田新三郎氏が4~5年間銃殺捕鯨を行い、座頭鯨などを捕獲している(後述)。昭和初期には堺目の永田源蔵氏が2隻の船を使って鉄砲組を行なったとされるが、成果は不明である。昭和12年(1937)の春、壱部浦の前に鯨が出現した時には、五島三六氏らが明安丸という動力船に乗って銃殺法による捕獲を試みているが、捕獲はならなかった(後述)。
(1)森田組の銃殺捕鯨
森田組の操業について壱部浦の尾崎常男氏(大正5年生)から聞き取った話の内容を紹介する。壱部の森田家は平戸藩の鉄砲鍛冶だったという。
森田組の山見は名残崎や鞍馬にあった。山見小屋は1間半幅に1間の奥行きで屋根も壁も藁葺きで、毎年造り換えたが、内部は温かったという。1カ所に4~5人ずつが詰め、3人が前で胡座をかいて鯨を監視し、2人が後ろで茶を湧かしたりした。昔は目の良い人が居て、度島の畑で牛を追う人が見えたという。
生月沖に来る鯨は旧暦1月から3~4月の春が主で、特に春の彼岸頃が多い。鯨は田ノ浦瀬戸から来る「田ノ浦落ち」が一番多く、平戸島の岸近くを回って辰ノ瀬戸の入り口で北上して、舘浦・壱部浦の前を通って鯨島沖に出る。辰ノ瀬戸ではオイシオ(満ち潮)でシモ(平戸島南部)の方から潮が差していると、鯨が潮を感じて向こうに海があるのを知り、瀬戸の方に回ってしまう。だから満ち潮の時は先回りして狩棒で船縁を叩いて、鯨を方向転換させて北に向ける必要があった。引き潮ならば瀬戸があるのが分からず、そのまま生月島の東岸を北上する。また鯨島をかわしてしまうと鯨の泳ぎ方が俄然早くなり、もう追いつけなくなるという。「大矢入り(落ち)」という鯨島と大島の間から入ってくる鯨もいたがめったに居らず、取りにくいのであまり喜ばれない。
鯨を確認すると、山見の横の柱に縦の印旗を上げた。この旗のことをボンデンという。青い松葉を焚いて狼煙を起こし、旗に注意を向けた。尾崎氏も子供の頃、鯨が見えると「イオぞー」と叫びながら走って名残崎の山見に登っていった。
森田組の捕鯨では、十馬力の焼玉エンジンを搭載した洋船造りの船(8尋)1隻を使った。それに5~6人が乗っていて、船頭が1人、砲手が1人、羽指(はざし)が1人、後は綱そびきやらいろいろした。鯨を運ぶ船が別にいたかも知れない。
銃を撃つ者を砲手といった。森田さんは猟銃の修繕をしていたので自分で銃も撃ったが、森田さんは船酔いをするのであまり良い砲手ではなかったという。砲手には他に田平の森さんという外套を着ていた人や、大浦りんたろうさんという平戸出身で生月島の松本に住んでいた人が居た。生月町中央公民館に保管されていた銃と鉄砲箱、火薬秤はこの時のものである。
銃で鯨を撃つ時は心臓を狙う。撃つと一斗樽くらいの穴がほげ、痛さでころんころん暴れる鯨を万銛で突いた。羽指は、鉄砲を撃った後、万(銛)で突く役目をした。万銛で突いていたので銃殺で死んでも引き上げることが出来た。しかし一度、何日か経った鯨を引き上げて食った人が丹毒になり、「丹毒鯨」と言われたことがある。この鯨の骨は白山神社に奉納してある。
森田組の納屋場は御崎にあったが、尾崎氏が小学2年生の時、森田さんの組が座頭の二年子を捕って御崎の納屋場で捌いたのを、学校の授業で見に行ったことを覚えている。鯨の解体を行う渚には、石畳が緩やかな傾斜で敷いてあって、鯨が揚げ良いようにしていた。但し轆轤は使ってなかったようで、益冨組時代の轆轤は片隅に放ったらかしになっていたという。
森田組は鯨をあまり捕らなかった。捕った鯨はこっちで売れるだけ売って、残りは伊万里の市場に持っていった。鯨が取れるとオカケメとして腹の肉を取って白山神社や恵比須様、宝倉様に供えた。
(2)昭和12年春の銃殺捕鯨行為
同じく尾崎常男氏から聞き取った、昭和12年春頃に生月島の前の海で偶発的に行われた銃殺捕鯨の体験を紹介する。
当時、尾崎氏は20歳そこそこだったが、叔父の徳末安太郎氏が船長(舵取り)をしている明安丸という3㌧5馬力の焼玉エンジン付きの木造漁船に機関士として乗り組み、徳末氏と延縄や一本釣漁に従事していた。
昭和12年(1937)春のある日の昼近く、壱部浦の空き地にたむろしていた人々が、平戸島北端の田ノ浦沖に鯨が泳いでいるのを見つけて尾崎氏に知らせた。尾崎氏はすぐに他の人々に知らせ、鯨を捕る支度を整えて、壱部の港に泊めてあった明安丸に乗り込んだ。船長の徳末氏が不在だったので、植松組で羽指をしていた叔父の五島三六氏が舵を取り、尾崎氏が機関場を、本業は鍛冶屋だが以前生月島で銃殺組を出したこともある森田新三郎氏が鉄砲さん(銃手)を受け持ち、その他に井元氏ら2人が助っ人として乗り込んだ。
船を出す頃には、鯨はすでに(生月島の)松本沖にあった。鯨の習性を良く知っていた五島氏は、生月島の前目(東側)の海を通る鯨は、舘浦から鳥瀬までは瀬などの障害物に当たらぬようにゆっくりと泳ぐが、鳥瀬を越すと障害物が無くなるために速く泳ぎ去ってしまう事を知っていた。五島氏は最初、前ん曽根で鯨を撃つつもりだったが、港を出る時には、鯨は既に前ん曽根で汐を吹き上げていた。それを見て五島氏は「前ん曽根で取り逃がしたら、次はオコシ曽根に出るので(先回りして)そこでストップしておけ」と尾崎氏に指示した。
それでオコシ曽根に先回りし、浮上するのはもう少し前方だと推測してスローで前進している時「来よるぞ」という五島氏の声とともに海の中が白々となり、さらに海面がガブガブ波立ってきて、頭にセを沢山つけた座頭鯨が2頭、何と船の両側に浮上してきた。
鯨は気を噴いた後、暫く水面に背を出して泳ぐがその間が銃撃のチャンスで、尾を曲げて潜水し始めたらもう当たらないと、尾崎氏は平戸の銃殺捕鯨に従事していた人から聞いていた。森田氏は船首オモカジ(右舷)側の定位置で、火矢(ボンブランス)を装填した捕鯨銃を上に向けて待機していた。銃の台尻には縄を括りつけて甲板に結び付け、反動で銃を離しても海に落ちないようにしていた。また銃撃の反動で後ろに倒れるのを防ぐため、助手が後ろから鉄砲さんの腰に抱きついていたが、助手は好機を捉え「旦那さま今じゃ」と鉄砲さんに合図する役目も担っていた。その合図を受けると鉄砲さんは機関場に「とめよ」と合図し、銃を前に倒しながら狙って撃つ事になっていた。しかしその時助手の役を務めていた井元氏は、絶好の機会にもかかわらず合図を出さない。五島氏はトモ(船尾)から「今じゃ撃て」「それ撃て」とせっつくが、助手の合図が無いので森田氏も鉄砲を撃たない。そのうち鯨は潜水を始めたため銃撃の機会を失い、結局取り逃がしてしまった。五島氏はデッキの板を打ち割らんばかりに足踏みして悔しがった。そして「逃げた鯨は、次に鞍馬の前のタチ曽根で浮上するだろうが、もう捕まえきれんじゃろう」と言ったが、とにかく追いかけてみる事にした。しかし船が剣崎にたどり着くより前に、鯨は2倍以上の速さで泳いでタチ曽根に達して汐を吹き上げていた。それであきらめて港に引き返した。
6.生月島で行われた大型ノルウェー式砲殺捕鯨
明治32年(1899)頃から日本でもノルウェー式砲殺法が始まり、近代捕鯨業時代を迎えていくが、平戸地方からは少数の個人が従業員として参加した例はあるものの、同法を専ら行う捕鯨会社の経営や、同法に従事する従業員が大量に出る事にはならなかった。生月島では明治38(1905)に小中羽鰯を捕獲する和船巾着網が導入され、大正末年には網船が動力化されて遠洋まき網化し、島の水産業の中枢となっていったため、捕鯨業に対しては前述した銃殺捕鯨への関与に留まっている。一方、東松浦半島先端の呼子では、明治に入っても小川島捕鯨株式会社によって長須鯨を対象とする改良西海式網掛突取法が行われているが、明治41年(1908)同社は大日本捕鯨株式会社と提携する事でノルウェー式砲殺法での操業を始めている。
一方、明治32年(1899)1月には遠洋捕鯨株式会社が呼子を本拠地として、朝鮮近海や玄界灘、五島、鹿児島方面など広範な海域を機動してノルウェー式砲殺捕鯨船(但し若干の装備の不備があった)烽火丸の試験操業を行っている。5月5日には平戸の傍らの机(度)島で体長20尋の白長須鯨を捕殺しているが、海没で未回収となっている。
小川島捕鯨株式会社と提携する会社は昭和に入ると土佐捕鯨、大洋捕鯨に代わるが、この共同企業体は昭和初期と昭和12年(1937)頃の2回、生月島~的山大島沖の漁場にノルウェー式砲殺捕鯨船を出漁させている。この企業体の呼子漁場での大型捕鯨は冬期を中心に行われたが、同地では古式捕鯨で活用した山見網を引き続き運用した事を特徴する。そのため生月島~的山大島漁場でも山見を設けて探鯨を行っている。昭和初期に大東丸の操業が1年間試験的に行われた際には、呼子漁場で山見に従事した平田富太郎(名護屋出身)、坂本豊三郎(屋形石出身)、若い長江留次郎(名護屋出身)の三氏が出張して探鯨を行い操業を行っている、鯨は捕れなかったようだ。
昭和12年頃に再度出漁した際には、山見は呼子からは坂本庄司氏1人だけが行き、残りは生月島の方で雇っている。御崎の山口一郎氏の家のヘヤ(隠居屋)はその時山見の宿舎になっており、五島三六、大崎五太夫、村川只吉、近藤延三郎、石橋豊蔵、山口鷲太夫、永田徳蔵、今野国八、徳末安太郎氏ら、壱部浦から雇われた山見が寝泊まりした。また鯨に接したことの無い人には山見は難しいため、的山大島の人は雇わなかった。山見は、生月島内の鞍馬鼻、高り(大バエ)、名残崎、的山大島の的山浦の背後の山に置かれていたが、いずれも藁葺の簡素な小屋で、前方に窓があり、周りには風除けの垣が巡らしてあり、広さ2間足らず×1間程度の狭い室内には各々4人が詰めていた。坂本氏は的山の山見で生月島出身の石橋氏と一緒に仕事をした。山見の大将は生月島出身の大崎五太夫氏で御崎(鞍馬)にいた。捕鯨船は昼間は鞍馬の沖に待機し、山見は鯨を確認すると湿った松葉を燃やして狼煙を上げて船に合図した。夜は船は大島の的山港に停泊し、乗組員は船で寝泊まりしていた。
昭和12年の出漁では鯨の捕獲もあったようで、壱部浦の森佐平氏は、捕鯨船から大音響とともに砲が発射され、鯨に命中した瞬間ぐらりと船が揺れたのを見たという。また坂本氏の回想では、昭和12年3月頃のある朝、的山の山見にいて、大きな座頭鯨の夫婦連れが壱岐の島の下側(的山大島の北西)を泳いでいるのを見た。その時には捕鯨船がちょうどいなかったので、的山の郵便局から呼子に8時半頃に電報を打ち、すぐに捕鯨船を送るように手配した。坂本氏はその後山見に戻って鯨を監視したが、2頭の鯨は行ったり来たりしながら、潮を吹いたり尾っぽを上げたりとまるで遊んでいるようだったという。午後2時半頃にやっと「曙」と「漣」という2隻の捕鯨船が来て、漣は的山大島の北側を、曙は南側を回り込んだので、坂本氏は山見の下からボートで漣に乗り移り鯨を追跡し、砲撃したものの、砲手が素人で撃ち損じ、用心深くなった鯨は逃げてしまい、日没になって追跡も中止された。乗組員も「よか鯨だった」と話すほど立派な、50尺程もある座頭鯨だったという。実際に鯨が取れた時には呼子に曳航して解体したが、御崎の人の話では、鯨が取れた時は鯨肉を貰うこともあったという。
7.定置網捕鯨
最近でも生月島の定置網に時折鯨が入る事があるが、こうした事例は「混獲」と呼ばれている。定置網に入る鯨は本来の対象では無いという解釈に拠る用語だが、戦国時代以降、富山湾周辺や西海、三陸沿岸で発達した大規模定置網では、鮪や鰤を取る網に鯨が入る事は往々にしてあるため、鯨が入った場合に備えて「格子」と呼ばれる網底に敷き込んで鯨を揚げるための網地が太く目が大きい網が準備されていた。こうした他の魚種と共に鯨も取る形態の捕鯨は「兼業捕鯨」と定義付けられる。なお五島魚目浦の柴田甚蔵は文化9年(1812)に、鮪網に比べて網目を広く綱を太くし、竹を束ねた浮きも多くして、本網の奥行き200㍍以上という巨大な鯨専門の大敷網を登場させており、こちらは「専業捕鯨」に位置付けられるが、同様の鯨大敷網は明治時代に唐津の神集島などで行われている。
今西照子さんの話では、父親の松浦佐平は下関の一丸会社から派遣されて生月の事業所長をしており、大正9年頃まで御崎の大きな事務所に勤務し、家族もそこで暮らしていたという。一度、大きな抹香鯨が取れ、大勢の従業員が包丁で鯨を解体したが、今西さんはトオトオミという頭の所のいちばん美味しいと言われていた肉でを切って貰った記憶があるという。一丸会社は定置網の経営を行っていたようなので、この鯨は定置網で捕獲したものだと思われる。
堺目の藤村秀雄氏の話によると、昭和17年(1942)頃、加勢川大敷(落網)に10㍍を越える鯨が入った時には、箱網の中の鯨に対して泳いでロープを回し、浜崎勇蔵氏が鼻切りを行い、6隻の櫓漕ぎ船で網をたぐり上げてから捕獲し、加勢川納屋の前で解体したという。