長崎県平戸市生月町博物館「島の館」

生月学講座№233タイから来た壺

生月学講座:タイから来た壺

 

  平成14年(2002)3月、山田集落日草のかくれキリシタン信仰の組(垣内)で、親父役の交代に伴い信仰具を新たな親父役の家に移す「おなわり」という行事を調査していた時、移動する品物の中に2つの壺があるのに気付きました。それらの壺は特に中に何か入れている訳でも無く、空のまま運ばれていたので、不思議に思って組の方に伺うと、壺には「禁教時代、信仰具を納めて山中に埋めて隠した時に使った」という伝承がある事を知りました。一方の壺には、肩の部分に四つの穴開き突起(耳)があり、紐を通して口を塞ぐ布などを縛れるようになっていました。陶磁器に詳しくない私は二つとも江戸時代以降の国産陶器だろうと思いましたが、伝承の方には興味があり、拙著(『かくれキリシタンの起源』)の中で壺を写真で紹介しました。

 その後令和3年(2021)に、拙著を読まれた長崎県世界遺産課(当時)の川口洋平さんから、この壺を調べたいという相談を受けました。理由を伺うと、この壺と似た穴開き突起などの特徴を持つ壺や破片が、長崎県下の小値賀島の山見沖海底遺跡や大村市の三城城下跡、佐世保市の針尾城跡、熊本県下の宇土城跡、大阪府堺市の堺環濠都市遺跡など、いずれも南蛮貿易やキリシタンと関係が深い場所から見つかっている他、16世紀末から17世紀初頭に太平洋や大西洋で沈んだスペインやオランダの船からも見つかっている事を知りました。もともとこれらの壺は16~17世紀にタイのメナムノイ窯で焼かれたものだそうで、川口さんが実際に日草に伝わった壺を見たところ、日草の壺もタイのメナムノイ窯産四耳壺である事が分かりました。こうした壺は、液体や粉状の固形物を納める貿易用の容器として用いられたようで、例えば堺市出土の壺には火薬の原料の一つである硫黄が入っていました。

  日草のタイ由来の壺が伝来した経緯としては、①1540年代~1630年代頃まで平戸で行われた中国人海商の貿易活動、②1550~64年にかけて平戸で行われたポルトガル人の貿易活動、③1609~1641年にかけて平戸で行われたオランダ東インド会社の貿易活動などが考えられ、特に②はキリシタンとの関係から見ても魅力的な可能性です。しかしここでもう一つの可能性を提示してみようと思います。

  1565年9月23日付ジョアン・フェルナンデス修道士の書簡には、「シナへの航路における最初の港は、この平戸から約三十里の所にあって五島と称するが、本年、シャムより多数の船が同港に到着し、これにより四~五名のポルトガル人が渡来した。」という記述があります。このシャムとは現在のタイの事ですが、船は中国船(ジャンク)だと考えられます。さらに1566年10月20日付アルメイダ修道士の書簡には「この地(五島)は日本でもっとも平和な所であったが、平戸の国から盗賊が来て当国の或る島を襲い、多数の人を殺傷して所有物を奪い、27人を捕らえて連れ去った。」「平戸の領主は(中略)直ちに二百艘からなる大艦隊を用意した。我らは彼らがドン・アントニオ(籠手田安経)を司令官とし、多数の鉄砲と大砲を装備して来襲するとの知らせに接した。」という記述があります。籠手田安経は山田の領主ですが、家来の山田の侍が敵地の五島に渡り、シャムから来た荷物を壺ごと奪って持ち帰った可能性も、無いとは言えないのです。




長崎県平戸市生月町博物館「島の館」

〒859-5706 長崎県平戸市生月町南免4289番地1
TEL:0950-53-3000 FAX:0950-53-3032