生月の歴史 No.8生月島の漁業(捕鯨と鰯網以外)
- 2022/12/02 09:58
- カテゴリー:生月島の歴史
生月島の漁業(捕鯨と鰯網以外)
1.漁業が行われる環境
生月島の周囲にひろがる海は、広義に捉えると東シナ海もしくは対馬海峡の一部という事になる。島の東の海は、西側に生月島、南側に平戸島北岸、東側に的山大島、度島、平戸島の白岳半島、古江半島が連なり、北側は、生月島北端の大バエと、的山大島西端の馬ノ頭鼻の間が7㌔程開いて東シナ海に接続している。このように生月島東側の海域は、北に開いた奥行8㌔、幅5㌔程の袋状で「生月湾」と呼ぶのが相応しい地形で、水深も湾口部(北)で70㍍、最奥部(南)も岸から500㍍離れると20㍍ある。しかしU字に並んだ陸地の間にも3つの海峡があり、東側には的山大島-度島間に袴瀬戸(約2.5㌔、水深約60㍍)、度島-平戸島白岳半島間に田ノ浦瀬戸(約2.5㌔、水深約40㍍)があり、湾南西部の生月島南端の潮見崎と平戸島呼崎の間には辰ノ瀬戸(約0.7㌔、水深16㍍)がある。
東側の二海峡生月湾に流れ込む潮流は生月島の東岸に突き当たり、岸に沿って北と南に流れるが、その潮流に乗って鯨、鮪、鰯などが回遊してくる。また初秋に来遊するアゴ(飛魚)は、北風に吹き寄せられて湾口から入り、南の湾底に密集した所を捕獲される。このように潮流と風の両方で海洋生物が集まりやすい生月湾は、多様で豊富な海洋生物が捕獲されてきた豊穣の海である。
生月島の西側の海域は、五島列島北端の宇久島より北にある東シナ海に直接面しているため、海岸から見るとどこまでも広がる海の印象がある。近年は沖合で蛸壷漁などが行われている他、曳縄や夜間の烏賊釣なども行われるが、魚が集まる瀬なども少なく、目立つ漁場の印象は無い。一方沿岸は瀬に集まる魚を対象とした一本釣り、建網、潜水漁などの漁場となっている。
2.漁業の成立
生月島では旧石器時代から人が暮らしていた事が確認できるが、漁が行われるようになるのは縄文時代以降と思われる。しかし今のところ、中世以前に漁が行われていた事を証拠付ける史資料は確認できていない。
戦国時代後期には生月島は永禄元年(1558)同8年(1565)の一斉改宗でキリシタン信者の島となったが、当時の宣教師が残した書簡の中に、僅かに漁に関係した記録が出てくる。1561年にアルメイダ修道士が堺目の教会を訪ねた際の記事には、次のような記述がある。
「我らは教会に入ったが、はなはだ荘厳でよく整っていた。人が多くいたので、ポルトガル人らと私が聖堂に入り、説教を行ない、彼らはその習慣を実行した。すなわち、それは米と多数の魚の料理で我らを饗応することであったが、この後、私は別れを告げ、その際に彼らは大いに悲しみを表した。」〔1561アルメイダ〕
アルメイダに饗された料理の中に多くの魚があったとある事から、キリシタンの島民が何らかの方法で魚を得ていた事が推測される。次に紹介するのは慶長14年(1609)に処刑された西玄可に関する記録である。
「その一人は井上右馬允という人であって、ガスパルが住んでおり少々奥に位置しているために兵士や、土地を耕す農民から成った山田という村を支配するようになり、もう一人は近藤喜三と称し、海に面しているためおおむね漁師や商人の住んでいる館ノ浜という村を支配していた。」〔1609イエズス会殉教報告〕
この記事では、山田には兵士(足軽などの下級武士か)や農民が住み、館の浜には漁師や商人が住むとある。この二集落のコントラストは江戸時代の平戸藩内における在方、浦方集落の違いを示しているが、この中で館の浜(舘浦)には漁師が住むとあり、この記述が生月島(の浦集落)に漁師が居た事を示す確かな記録の最古の事例となる。しかし当然の事だが、この記述を以て、その頃に漁師が出現した事にはならない。
その後の17世紀には、生月島民の漁業に関する直接的な記事は存在しない。僅かに、他所の突組が出漁してきたという捕鯨に関する記事が少しある程度である。漁業についての情報が多く確認できるようになるのには18世紀を待たねばならないが、17世紀に浦方集落(ウラ)で行われた漁業は、捕鯨を除くと、従来からの、港町の平戸や浦の周辺にある在方集落(イナカ)に魚を供給し、金銭や農作物を入手する程度の規模だった事が考えられる。
18世紀に入ると、潜水漁(カツギ)で捕獲した鮑を長崎に中国向け俵物として出す事や、鮪大敷網、網掛突取捕鯨が始まる。特に後二者は、漁獲物から生産した製品を遠方の消費地に販売する事で多額の収益が見込まれる半面、多数の人数と船を必要とし、漁や加工のための大規模な施設を有するため、多額の支出を必要とした。これらの漁業が成立した事によって、ウラが行う大規模漁業に、周囲のイナカが食料、資材、労働力を供給する事で利益が循環するブロック経済が確立している。
明治前期段階の生月島の漁業について、明治16年(1883)の『北松浦郡村誌』に掲載された生月村(漁船55艘)、山田村(同42艘)の海産物に関するデータを見ると、生月村では鯨15頭、鮪3万斤、鯛4千斤、鰤5千斤、シイラ1万5千斤、鯣(スルメ)1万5千斤、鱶鰭150斤、鮑2千7百斤、甘海苔・和布葉7千斤、石花菜1千斤、山田村では鮪1千尾、鯛4千斤、鰤4千5百斤、シイラ1万7千斤、鯣4千斤、鱶鰭50斤、干鮑1千2百斤、海参(ナマコ)50斤、海老1千百斤、布海苔8百斤、和布葉2千斤、石花菜4百斤が生産されている。これらの海産物から行われている漁法を推測すると、鯨は網掛突取法、鮪は大敷網、鰤は大敷網と刺網、延縄、一本釣、鯛や烏賊(スルメ)は一本釣、シイラは一艘船引網、鱶は延縄や一本釣、海老は刺網、鮑は潜水漁(カツギ)、甘海苔、和布葉、石花菜は磯の採集で取られたと考えられ、総じて明治前期の生月島では、網掛突取捕鯨、敷網、刺網(建網)、船引網、延縄、一本釣、潜水漁、磯の採集などの漁業が行われていた事が想定される。注目されるのは鰯に関する網漁が存在しない事で、この事は明治末期以降の生月島で鰯巾着網や鰯刺網が盛んになる事を考えると奇異に思える。可能性としては、捕鯨や鮪定置網が行われていた頃は、労働構造もそれらを軸に組み立てられていたため他の漁が成立する人員的余力や技能が無かった事や、捕鯨や鮪定置網を成り立たせるために鰯網漁を制約していた可能性が考えられるか、それらを確認出来る史料は見つかっていない。
大正7年(1918)の『生月村郷土誌』の水産業の項には次の記述がある。
「本村ハ、古来捕鯨ト鮪漁トヲ以テ其ノ名普ク世ニ著シシガ、今ハ是等ノ漁獲殆ド全ク廃減シテ、往事ヲ偲ブ漁場ヤ為ニ栄ヘシ就業者ノ跡ヲ止めムルアルノミ。
然レドモ、四囲繞ラスニ海ヲ以テシ、近海漁族ノ棲息スルモノ夥シク、海藻ノ繁茂著シ。
現時ノ如ク鰛漁ノ未ダ盛大ヲ極メザリシ十数年前迄ハ、漁民ノ多クハ夏秋冬ノ烏賊漁ニ服シ、少数ノ長縄漁ニ従フモノアリシノミ。然ルニ現今ニ至リテハ鰛揚繰網、並ニ刺網ノ発達ニ伴ヒ、漁民ノ多クハ之ニ従事シ、尚本村漁民ノミニテハ不足ヲ告ゲ、他所ヨリ雇入レ居ルモノ四百有餘名ノ多キニ達シ、古ノ如キ烏賊漁ハ老人子供ノ従事スルノミニ止マレリ。復近年春季ノ閑暇ヲ利用シ朝鮮ニ出漁シテ鯖巾着、石首魚打瀬ニ従フモノ年々多キヲ加ヘ、古来ノ地先漁業ハ遂ニ遠海漁業ニ趨キツツアリ。」
この記述の内容からは、従来の捕鯨と鮪大敷網を軸とする構造から、小中羽鰯や大羽鰯を捕る鰯漁を軸にした構造に転換した事が窺えるが、それに伴い人手不足も生じていた事が分かる。また韓海に出漁する漁民が多く出た事も、不足に拍車をかけたと思われる。
『生月村郷土誌』にある大正6年(1917)度の漁獲高(貫)と売上高(円)を次に示す。
真鰯背黒1,770,724貫(212,487円)、鰹7,500貫(5,550円)、鮪4,500貫(5,625円)、鯖1,000貫(100円)、鰤30,320貫(38,500円)、鱶2,000貫(1,600円)、鯛・黒鯛1,310貫(1,305円)、鰺2,500貫(375円)、?1,000貫(500円)、?8,000貫(3,200円)、飛魚32,000貫(16,000円)、秋刀魚4,000貫(1,400円)、その他魚類(5,560円)、鮑5,500貫(6,600円)、その他貝類(50円)、一番イカ26,000貫(13,000円)、二番イカ6,571貫(2,300円)、蝦496貫(595円)、アマノリ6,865貫(34,000円)、フノリ3,133貫(1,600円)、ワカメ4,000貫(800円)、カジメ193,334貫(2,940円)、その他藻類(5,630円)。総生産額339,624円
これを見る限り、多様な魚を捕獲している事が分かるが、やはり鰯の漁獲高と売上高(約2/3)の多さが目立つ。それに次ぐものとしてアマノリ、飛魚、イカなどがあるが、アマノリは磯での採集、飛魚や?(シイラ)は船引網で漁獲され、鱶、鯛・黒鯛、鰺、鰹などは一本釣りや延縄で捕獲されたと思われる。
3.潜水漁の振興
潜水漁は縄文、弥生時代以来の歴史を持つが、平戸地域で近世にこの漁を行ったのは生月島の壱部浦と舘浦、平戸島の幸ノ浦などだった。潜水漁は海底や水中にいる魚介類を(オコシガネなどの道具を用いて)手で取ったりヤスで突いたりして取るシンプルな漁だが、長く深く潜るためには鍛錬が必要な上、ガラスを用いた探水具(水中眼鏡など)が導入される明治以前には、見えにくい裸眼で海底を探さなければならず、相当の熟練を要した。そのため潜水漁を行う海士(アマ、アマシ)は、古くからその漁を行ってきた特定の集落の者に限られた。
古代~中世には、海士が取った鮑から熨斗を作ったり、鮑の中からまれに取れる真珠が重要な潜水漁の漁獲だったが、18世紀に入る頃には、鮑を茹でて乾燥させた干鮑が長崎経由で中国に輸出される俵物として重視されたため、沿岸諸藩は海士・海女の領内操業に便宜を図ったり、他領の海士・海女の入漁を許している。生月島でも18世紀初頭頃、益冨家が鮑の仲買を行っていた事が「先祖書」(益冨家文書2546)の「畳造作を以て世を渡申候、右ニ付、家号を畳屋と申候、其後生月之黒木村ニ移り鮑座を初メ候由」という記事に見える。集荷した鮑の行き先だが、長崎の商人・春善治郎から畳屋又左衛門に宛てた「書状」(益冨家文書1920)には、畳屋から春に送った鮑が届いた事や、その鮑が(清国向けの)唐船に売買される事、同じ平戸領である小値賀島の鮑の買い入れにも畳屋の仲介を頼みたい事、鯣の買い付けもお願いしたい事などが記されている。この記述から鮑は、いわゆる輸出海産物(俵物)として清国に渡った事が分かるが、その場合、鮑を一度茹でてから乾燥させた干鮑にして出荷したと思われる。この輸出用干鮑の需要によって近世中期から近代にかけての潜水漁は堅調な漁業として推移しているが、加えて海士は冬春期の鯨組での働き(ハザシ)もあり、経済的には恵まれた業態となっており、天保5年(1834)に制作された『平戸咄』にも、「蚫ハ生属嶌ノ鯨ツキ猟師-是ヲハザシト云-水底ニクグリ-クヽル事ヲカツグト云-是ヲ取ル。螺モ同シ。」とある。
大正7年(1918)の『生月村郷土誌』の水産業の記述にある、大正6年度の鮑の生産高は5,500貫(6,600円)である。同記述にある生月島の沿岸地先の漁業権は、生月漁業組合と舘浦漁業組合に分割されているが、その他に生月漁業組合は、大島村と度島の全地先、平戸島の魚目崎より鼻ヅラ迄の海岸地先に潜水入漁の権利を有し、舘浦漁業組合は伊万里湾の青島と黒島の属島・幸ノ小島の地先、星鹿半島の血崎から中ノ崎迄、平戸島中野村の中野川から白崎迄の海岸地先の潜水入漁の権利を有している。それらの入漁については一日当たり一定の入漁料を支払う必要があった。
昭和の初め頃の潜水漁(カツギ)の様子を、壱部浦に住む尾崎常男氏の聞き書きに基づいて紹介する。当時は壱部浦で高等小学校を卒業したワッカモンはトモネリの加勢をしながらカツギの訓練を始めたという。当時の壱部浦の海士(アマシ・男性の潜水漁師)は、生月島の北半分の磯の他に、的山大島や度島、二神島まで出漁する事もあった。漁期は旧暦の5月の節句頃を始まりとして盆の13日までが一漁期で、その後、盆過ぎから西風が冷たくなる10月中ばまでの一漁期をアッキャ(秋貝)と言った。
昭和初期の壱部浦には5~6艘のアマ船(テントブネを用いた)がいた。各船に6~7人の海士が乗り込んで朝の8時頃に出港し、夕方6時くらいまで漁をした。昔は現在のようなウエットスーツは無く、カエマワシという褌をつけただけの裸体だった。水中眼鏡も、昔は、縁を真鍮や洋銀で作ってガラスを填めたイッポウガンだった。潜り方には、10尋(約18㍍)まで潜る普通の素潜りの他、分銅を使って15尋(約27㍍)以上まで一気に潜るドンブリカツギという方法があった。ドンブリカツギをする場合には、分銅や潜り手を引っ張り上げる人手が必要なため、海士の半分は船に残って引き役を務め、時折潜り手と交代した。
トモネリは、海士が潜りながら徐々に前進していくのに合わせ、櫓を漕いで船を進めていくが、時には「息をつめる」といい、海士が海中で息を使い果たし水を飲んで意識不明になって上がってくる場合もあるので、注意を怠れなかった。
漁を始めてから休憩のために船に上がるまでをヒトシオといい、暑い時は2時間程、寒い時は1時間半程で、暑い時期は1日4~5シオだった。長く潜っていると体が冷えるため、休憩には船上のイロリに火を焚き、太陽熱と火で半時間ほど体を暖めた。また麦飯をガガ(お櫃)一杯に詰め、12時、3時と夕方帰る頃の3度も食べて力をつけた。昔は1日9貫(約34㌔)も鮑を取る海士がいたという。
尾崎氏の船が大島にトマリカツギ(他の漁場に宿泊して漁をする)に行った時、これまで知られていなかった漁場を見つけた。そこには鮑が岩に二重に重なってびっしりと付いていて、思わず「おーばんげなみごとなもん」と言った程だった。そこでしっかりと山アテ(景色の重なり具合で海上の位置を知る)をして位置を覚え、他の船をうまくまきながら4日間、大漁を続けたが、最後には他の漁師に見つかってしまったという。
戦後にはゴム製の水中眼鏡やウエットスーツが導入された他、昭和30年代以降は小型漁船も動力化して移動の労力が軽減された。一方で、戦後になると各地の住民が潜水漁を行うようになり、壱部浦などの旧来の海士漁民は締め出されてしまい、現在では漁場は生月島の周辺に限られている。
4.アゴ漁
長崎県水産試験場によると、長崎の近海に回遊し漁獲の対象となっている飛魚は、ホソトビウオ(マルトビ)、ツクシトビウオ(カクトビ)、ホソアオトビの三種類である。ホソトビウオとツクシトビウオは、5月から7月にかけて成魚が九州から山陰にかけての砂地の海底がある所にやってくる。その頃の成魚が定置網などによく掛かる。最初雄が岸近くに、雌が沖にいるが、雌が岸近くに寄ってきて産卵が行われる。産卵を終えた成魚は死に絶えると考えられている(年魚)。誕生した稚魚は、2~3カ月程たつうちに20㌢程にも成長し、岸近くに寄ってくる。ちょうど9月時分のアゴ漁で取れているのはこの幼魚である。10月になると幼魚は南に下るが、何処まで行くのかは分からない。翌年春に再び帰ってくる。なおオスとメスは一見では見分けがつかない。ホソアオトビは、成魚が南の流れ藻に産卵し、海流に乗って流れてきて孵化するのだけが異なり、後は前二者と同じ過程を辿る。従って長崎近海には成魚は姿を現さない。飛魚は胸鰭を広げて滑空するように飛ぶ。海面上2メートル位までを100~300㍍ほど飛ぶとされる。
北西九州の飛魚の呼称であるアゴの語源は不明だが、1603~04年頃長崎で編纂されたとされる『日葡辞書』に、飛魚は「アゴ」という名称で紹介されている。平戸におけるアゴの古い出典として、松浦静山の側室・蓮乗院の日記の享和3年(1803)の項に干しあご、翌年には焼きあごが江戸藩邸に届いたとの記載があるという(久家孝史氏教示)。さらに天保5年(1834)に記された『平戸咄』には、次のような記述がある。
「八月ハ北風ノ吹日ニ、小船ニ網ヲ仕込テ、平戸ノ瀬戸ニテ、アゴト云魚ートモ魚ノ如クシテ小サシーヲ取ル。年ニ寄テ猟不猟アリ。此魚焼テ干シ付、勝魚節ノ替リニ用ユ。又生魚ヲ擦テ蒲鉾ニスル時ハ、至テ旨シ。魚デンニモヨシ。只炙テ喰ヘハ不旨、生ヲ塩ニシテ干タルヲ丸干ト云、風味ヨロシー焼テタタキヒシキテ食ー。焼テ干タルヲヒボカシト云。此魚猟アル末ニ至テ、飛(ヒ)魚金山ナト云魚トルル事アリ。此頃ニ至テ、アゴ猟ヤムーアゴトレサルニアラズ、ヒ魚トルニ利多ケレハー」
この記述から、平戸瀬戸で8月の北風が吹く頃にアゴ網が始まる事。出汁用の焼きアゴ、蒲鉾、丸干(塩アゴ)、ヒボカシなどが製され、丸干は今と同じように身を叩いてほぐして食べている事が分かる。なおアゴ漁の後にシイラ漁が始まるが、それはシイラの方が値が張るからと説明している所は面白い。
しかし生月島では、明治16年(1883)の『北松浦郡村誌』の産物にも飛魚は登場しない。飛魚が確認出来るのは『生月村郷土誌』にある大正5~6年度の漁獲量からである(5年度32,000貫16,000円、6年度32,000貫16,000円)。大正期からアゴの漁獲が確認されるのにも鰯網同様の理由が考えられる。
現在では、生月湾周辺は平戸地域のアゴ漁の主要な漁場となっている。平成28年(2016)にはアゴ出汁がブームとなった事でアゴの価格が高騰し、通常トロ箱1杯が3,000円でも良い価格なのに1万5千円以上に上がり「アゴバブル」と呼ばれた。その後は価格は落ち着いている。
(1)アゴ手漕船二艘引網漁
昭和初期、飛魚生月島舘浦に住む柴田市平氏(大正5年生まれ)は、15歳から20までの間、毎年8月の終わりから10月にかけて、アゴ二艘引網に従事している。当時はテント船を櫓をおして行う船引網で、魚群の周囲をなかば囲むように船から網を下ろしていき、その後、両端の網綱から順次引き上げていって魚群を網ですくった。
毎朝、アゴ網に雇われた子供達が、乗組員の家を巡って起こして回る。2艘のテント船に船頭、オモテ役、その他のワッキャシと呼ばれる者など15名程が乗り込み、4丁櫓を漕いで出港する。子供達は、船が出ると、スラという船を載せてすべらせて上げ下げする台を、引き上げる。
漁場は、平戸島と生月島の間の辰ノ瀬戸から舘浦の前の海にかけてだが、風向きによって瀬戸に集まったり平戸島側に吹き寄せられるため、船頭の采配でアゴがいちばん密集している海面を目指す。なお村川要一氏の話では、ハエん風が吹いた時には前目(生月島の東沖)にはアゴは全然居なかったが、アゴ網のアミシ(経営者)が「この風ならミズタリの沖に居る」といい、遠くまで漕がなゃと思いながらミズタリ(平戸島北岸の地名)の沖に行くと、果たしてたくさんのアゴが集まっていて、網を入れると満船する程取れたという。
アゴが密集している海面に着くと、2艘の船が両方に分かれてアゴの群れを囲むように網を下ろし、反対側で合流すると、綱をたぐって船上に引き上げる。そうすると網の中心にあるミトと呼ばれる袋網に、アゴが入ってくる。網を張り終わると、各船から一人が海に入り、泳ぎながらアゴをミト網の方に追い立てるが、船の上からも、オモテ役が石を投げたり、ヤナザオと呼ばれる、先に白いトベラの木の板や白布を付けた竿で水面を叩いてアゴをミト網の方に追い立てる。一網で多い時は一斗入り検知枡で7~8杯も取れる事もあり、取れたアゴはテントブネのスイタの下に入れたが、当時は氷がなく、あまり長い間置くと白くなる(弱る)ので、適度に港に戻って水揚げした。夕暮れまでに20~30回も網を入れるため、櫓漕ぎも含め大変な重労働だった。追い込む際に投げ込む石を拾って集めるのは子供達の役目だったが、アゴ網船が帰港する前に、予めスラを波打ち際まで下ろしておくのも子供達の役目だった。
取れたアゴは、給料としてその都度分配されたが、乗組員1人あて1人前が渡されるのとは別に、網を出しているアミシには10人前、船の所有者には1人前(2艘で2人前)の権利があり、子供達にはまとめて1人前が渡され、乗組員の中で泳いでアゴを追い込む役の者には1合前(0.1人前)が追加される。それらを足した合計で、取れたアゴを割って分配した。アゴは各家で加工するが、大きなものは塩に漬けて干した塩アゴにし、小さなものは七輪で焼いて干した焼きアゴにした。
なお大正2年(1913)に刊行された『日本水産製品史』によると、丸乾飛魚(塩アゴ)が肥前、筑前、因幡、伯耆、能登で、開乾飛魚(背開き)が九州、伯耆、関西、安房、伊豆七島などで作られ、焼乾魚(焼アゴ)は九州地方で作られているという。
アゴ網でヒウオ(シイラ)が取れた時は、それを肴にアミシの家で乗組員が晩に一杯飲むのが好例だったが、その時ハラベという腹身の切り身を2~3切れ、お稲荷さんにお参りして供えるのは子供達の役目だった。その時には「突(ち)いたり引いたり朝出がけ、中魚金山(ちゅういおかなやま)混ざり、船一艘突きもん十(と)んばかり、サイ四五ん枚(みゃー)、浦中一番の大漁をさしておくれまっせ、○○網、明日からぼっくりぼっくり」と唱えた。
(2)アゴ動力船二艘引網漁
昭和30年代後半には、チャッカエンジンを載せたテント船二艘で行う引網でアゴを取った。漁を体験した舘浦の小野数勝氏の聞き取りから当時の漁を紹介する。
二艘には各7~8名程が乗船していたように記憶している。邪魔になる櫓は搭載しておらず、エンジンで航行した(小野さんはエンジンを扱う係だった)。アゴが集まる海域に着くと、二艘の間にロープを渡してもやいながら走り、「レッコ」の合図が出ると網を搭載した方の本船がアゴがいる海面を囲むように綱と網を下ろしていった。網に繋がる綱の端は片船に渡しており、片船を基点にして本船が網を張り回す形だった。綱には白いタオルのような布が付けてあり、海中でヒラヒラしてアゴが網が無い方から逃げるのを防いだ。網を張り回した本船が片船の所に帰ってくると、両方の船で網を引き上げた。網の中央の所にアゴを集めて上げるようになっていたが、その部分が袋になっている訳ではなかった。網を上げる時にはアバに2人、アシ(底)に1人、ナカ(間の網)に2人が付いた。また舳先には海面を叩いてアゴを追い立てる役の年輩者が1人いた。取れたアゴはサブタの中に入れ、それが一杯になるまで、もしくは夕方になるまで漁をした。網を上げ終わると、片船から本船に網を戻すのに骨が折れた。
台風の後、舘浦港を出て直ぐの所で網を入れ、アゴが満船する程取れた事がある。台風の風で潮見崎の手前にアゴが吹き寄せられて密集していたからだと思われた。
(3)アゴ動力船二艘曳網漁
かつてのアゴ漁は人手が要ったため、遠洋旋網が盛んになってくると人手の確保が困難になった。そのため動力船が導入されるようになったが、当初は、前述したようにチャッカーエンジン搭載の動力船2隻を用いたの二艘船引網の形態で行われた(つまり網漁法は同じで櫓走を動力に転換したのみ)が、昭和40年代頃から動力船1隻で袋状の網を曳いて走る一艘船曳網の形が出始め、程なく、今日と同じ動力船2隻で網を曳いて走る二艘船曳網の形態に変わった。これだと人員は4名で足りるようになった(現在は2名)。
現在、生月島で行われているアゴ漁は、二艘船曳網と定置網である。二艘船曳網は、袋網に付いた袖網の両端から延びた綱を船に付け、網を曳航して走る事で前方にいる魚を袋網に取り込み、定期的に袋網を上げて魚を取る漁である。漁期の間、朝は6時出港、夕方は5時までに帰港という取り決めで、一回に2時間までを目途に曳き、引き上げたアゴは氷を入れて身がヤケるのを防ぐ。2時間という時間もあまり長く曳くとアゴが傷むからで、沢山入った場合はもっと早く上げるという。良い日には一ケ統で一日の漁でトロバコ300箱ほど上げる事もある。ちなみに一箱は11キロ程、250尾程が入る。アゴはサイズを揃えて出すが、そうすると値が上がるという。
北風が吹かないとアゴがうまく集まらないが、アゴが集まっていても、アゴギタの乾燥した風が吹かず、湿気を帯びた風だと、せっかく製造したアゴが上手く乾かず、良い製品に仕上がらない。今は乾燥機も用いるようになっている。アゴは生食ではなく塩アゴや焼アゴに加工される。
塩アゴは、アゴに塩をつけた後、干して作るが、塩をつける事を「シオをたてる」といい、塩の中にアゴを入れるタテジオと、アゴの中に塩を振るフリジオがある。
焼アゴは、生もしくは冷凍のアゴを焼いて干した出汁用の加工品で、近年はアゴ出汁がブームのため人気がある。焼く時には長方形の炉を使い、炭火を熾し、串に刺したアゴを並べていく。刺すアゴの数は炉の幅に合わせる。最初に腹の方を火に向けてじっくり焼き、その後背側にひっくり返して暫く焼く。並べるときには前の列の頭に尾を被せるようにして、炉の開口部を覆うようにして焼いている。焼アゴは、塩アゴより乾燥が必要なために長く干すという。
5.定置網
(1)箕状本網形態の定置網の発生と伝播
定置網は、水中に固定的に網を張り回して閉鎖空間を作り、一部に開口部を設け、そこから入った魚介類を捕獲する漁である。日本列島における大規模定置網の始まりは、能登から越中にまたがる富山湾周辺地域で、小境卓治氏の研究では15世紀末頃まで遡る可能性があるとされ、確実なものとしては慶長19年(1614)に加賀藩が網の運上銀を受け取った史料が存在する。同海域で行われていた台(臺)網について、天明5年(1785)「鰤臺網」図(東京水産大学羽原文庫蔵)を見ると、箕の形の身網(本網)の片方の脇に、岸から長く伸びた垣網(道網)が付く形で、本網の奥辺に並行して丸太を束ねた大きなダイ(台)と呼ばれる浮きが付いている(横ダイ式)。なおダイと同様の丸太を束ねた浮きが本網の左右の端と道網の末端に付き、それ以外の網には桐の木で作ったアバ(キリアバ)が付く。江戸時代後期の「氷見浦秋網網場図」を見ると、沖に向かって、岸向きに網口を向けた(網前後の軸線が岸と直交方向の)身網が最大10も連続して直列し、その間に垣網が張られて長大な壁のようになっている。岸沿いに回遊してくる鰤や鮪を垣網でせき止め、垣網伝いに沖に向かう魚群を身網に誘導して捕るので身網の口は岸側に向いているが、その場合の横ダイ(海岸と並行)は、沿岸流の抵抗が小さくなる点で合理性がある。
この富山湾周辺地域の台網の技術は日本海を西に伝播している。明治初期の島根半島の漁法を紹介した「漁業慣行」の掲載図には、岸から垂直方向に伸びた狩(垣)網の先端に、網口を岸側に向けた(網の軸線が海岸と直交方向の)横ダイ式の箕形本網が付く、台網と同様の形態の網が確認出来るが、この網は「大敷網」と呼ばれていた事が明治期の史料で確認できる(「明治前期の漁場慣行」)。さらに西の山口県も、明治15年(1882)「水産慣例原稿」に掲載された北浦各所の「大敷網」の図を見ると、岸から長く延びた道網の先に、やはり網口を岸側に向けた横ダイ式の箕形本網が付いたものが多く、越ケ浜漁協の「漁業権漁場図」に描かれた網にも、岸から垂直方向に延びた道網の先に三角形の箕形本網が付き、網口は海岸を向いている(網の軸線が海岸と直交方向)。このように島根半島と山口県では、明治初期以降の史料ではあるが、富山湾周辺地域の台網と同じ構成の網が存在し、それを「大敷網」と呼んでいる事が分かる。この呼称については、『山口県豊浦郡水産史』に掲載された元禄5年(1692)「吉見浦正吉浦今度網場出入申に付て取扱仕候次第之事」に、「大敷網と申網、中の崎と申所へ自今以後正吉浦より敷申共」という記述が確認出来るが、「大敷網という網は」という書き方をしている所から、この文書が作成された時期に新たに認識された名称である事が窺える。この事から大敷網と呼ばれる網は、17世紀末期頃に長州に伝播した事が考えられる。
(2)九州系大敷網の展開
さらに西に向かった九州肥前地方で大規模定置網が行われた事を示す初期の史料のいくつかは益冨家文書の中にある。『先祖書』(No1956)には、享保10年(1725)に益富家が捕鯨を始めるきっかけとなった出来事として、先祖の又左衛門が生月島の東沖にある中江ノ島の付近を航行していた時に、海中から「異形之者」が出現し、その異形之者が先祖の畳屋又左衛門に「身を立んと思ハヾ先ツ鰤網をせよ」と告げ、それを守った又左衛門の子孫は「遺言之通鰤網致させ候処、外之網師より不思儀ニ大漁相続き、次第ニ家富み栄へ申候」とある。前記は史料の性格上、かなり後世になって記された二次史料だが、「覚」(益冨家文書1930-3)では、山口屋茂左衛門と墨屋五左衛門が、享保7年(1722)暮れから始まる「敷網」(定置網)の操業で、漁獲物の販売益から経費を引いた利益のうち1割5分を、田中長大夫と畳屋亦左衛門に渡す事を証した記述がある。田中家は舘浦の浦年寄格の家とされ(『生月史稿』)、田中家と畳屋(益冨)家は享保10年(1925)の捕鯨操業当初に鯨組(突組)の共同経営を行っているが、彼らがまず鮪敷網の経営に出資して利銀の獲得を図り、それを元手に加えた形で鯨組の経営を始めた事が考えられる。本文書では享保7年より鮪(大)敷網を経営したのは平戸の山口屋茂左衛門と舘浦の墨屋五左衛門としているが、あいにく漁場名は記載されていない。生月島東岸の松本は、現在も沖合に定置網(落網)が設置されているが、ここには享保11年(1726)に平戸町の山口屋によって建立された海難者の供養碑と思われる石碑が残る。この山口屋は先の史料で享保7年から鮪敷網を経営した山口屋茂左衛門の事と思われる事から、享保7年に開始の漁場は松本と思われる。供養碑には瀬戸内海産と思われる花崗岩が使われていて、建立時期の鮪敷網の操業の成功が窺われる。なお享保9年(1724)5月朔日の「覚」(益冨家文書1930-2)では、松本鮪網の浦口銭を畳屋又左衛門と田中長太夫が支払っているので、松本の定置網の経営は両者に移ったと思われ、「外之網師より不思儀ニ大漁相続き」という「先祖書」の記述との符号が感じられる。
畳屋(益冨)家は、突組操業開始後の享保12年(1727)に生月島北部の元浦の鮪網代を開発し、請浦を平戸藩に申請しており、捕鯨開始後にも鯨組の従業員におかずの魚を供給する名目で鮪定置網の経営を続けている。
これら享保年間の定置網については、残念ながら図や形状が分かるような記述は存在しない。肥前地方の鮪定置網の形状が分かる図で古いものとしては、安永2年(1773)頃に制作された『肥前国産物図考』の、佐賀県東松浦半島東岸の屋形石にあった鮪定置網を描いた図がある。本図に描かれた定置網の箕形の本網の形状は、富山湾周辺や島根半島、山口県で認められる台網型と同じだが、その配置のあり方は大きく異なる。本網の軸線は海岸と並行方向で、網口は海岸と並行方向に向いているため、台網や山陰系大敷網の本網とは向きが90度振れている。一方で本網の奥の浮きは富山湾周辺の台網と同じくダイ(「たい(台)と云浮けなり」)と呼ばれていて、ダイの向きは本網の口と並行方向に付けられているのは台網型の本網と同じ(横ダイ式)だが、本網の向き自体が90度振れているため、ダイは海岸線と直交する向きになり沿岸流の障害になる。そのためこの形態の網は、潮行きがそれ程強くない海域に敷かれた事が推測される。そして台網型と異なるもう一つの特徴は、岸から延びた長大な垣網が無い代わりに、網口の両端から斜め前方に(ハの字形に)短く延びた袖網が存在する点である。このように本網の軸が海岸と並行方向(口も海岸と並行方向に開く)で、箕形本網の両端にハの字に開いた袖網を持つ形態の定置網を九州系大敷網と呼びたい。
18世紀末期の鮪定置網の史料としては、司馬江漢が天明8年(1788)から翌年にかけて生月島に滞在した際に、生月島松本の鮪網の漁を見学した内容を紹介した『西遊旅譚』や『西遊日記』の絵や記述がある。以下は『西遊日記』の記述である。
「(一二月)八日、曇、此嶋の西の方松本と云処鮪アルよし、朝より(益冨)又之助(縣)新四良同道して行クに、鮪二百四十二疋と云、大漁の時ハ千も取レるよし。さて其鮪ハ山ゝの腰を群て回る者故、山の腰に網をしき張ル。其ハ幕の如くにして底なし。亦鮪見楼を建て、鮪来ル時ハ旗を出して之を知らせる。口網の舟之を見て網の口をしめる、網底なしと雖、鮪下をくゝりて逃る事なし、爰ニ於て舟四方ヨリあつまりかこんで、一方より麻綱の網と布かへ舟六艘ニてかこむ。時に鮪誠に小魚を掌にすくゐたる如し、夫を鳶口の様なるかぎにて引揚る。海血の波立ツ、誠ニめつらしき見物なり。」
『西遊旅譚』に掲載された風景図を見ると、鮪網に附属して鮪見楼という鮪が網に入ったのを確認する井楼の図が紹介されているが、「生月島之図」を見ると○琵琶岳より右(北)に楼と網(浜沖網代か)○琵琶岳の下に楼と網(加瀬川網代か)○一部浦の左(南)端に楼と網(正前網代か)があり、「孩子岳」図には○孩子岳の下に楼と網(正前網代か)、「鯨を囲図」○三(御)崎浦の左に楼と網が2カ所(浜沖網代と鳥瀬網代か)○鞍馬鼻の南に楼と網(元浦)があるのが確認でき、生月島東岸には北部だけで6カ所の鮪網が稼働している事が分かる。
『西遊旅譚』に掲載された生月島松本の鮪網の図では、奥が細まった三角形の平面プランの箕形本網の軸線は海岸と並行方向で、網口も並行方向(南向き)に開いている。本網の網側奥行は300尋(約540㍍)、網口幅は180尋(約320㍍)という非現実的な寸法だが、この図には袖網が明示されていないので、120尋(216㍍)が本網の(網側測定の)奥行、180尋(324㍍)が袖網の長さで、網口の180尋は左右の袖網端間の距離だと思われる。なお本網網奥背後には二本の浮き(ダイ)が網口と直交方向(網の軸線方向)に付く(縦ダイ式)。なお江戸時代と思われる「生月松本漁場図」でも、海岸と平行方向に軸を持つ箕形本網とその両端から延びた袖網、二本の縦ダイを有している点は、『西遊旅譚』の図と一致している。このように松本の鮪網は、前掲の屋形石の鮪網と、本網の形状(箕形)は同じだがダイの向きは変化している。本網が海岸と並行に敷かれる場合、松本の縦ダイ式の方が沿岸流の障害にならず、潮流が強めの場所でも対応出来た事が考えられる。
山口県下関市豊浦町の川島神社に奉納された絵馬「大敷網図」には、明治11年(1878)に生月島舘浦の前網漁場に設置された定置網が描かれている。図中には岸と並行方向に軸線を持つ箕形本網と、その両端から延びた袖網、本網の奥付近にある浮き井楼が描かれている。奉納地からは旧豊浦郡の者が生月島に出漁していた事が考えられるが、絵の網の形態は山陰系大敷網(=富山湾周辺系台網)ではなく九州系大敷網である。
なお明治31年(1898)の「北松浦郡中野村字白石鮪網代取調書」(『長崎県事務簿』)に掲載された、平戸島西岸の生月湾に面した白石漁場の鮪網は、基本的には九州系大敷網(縦ダイ式)だが、本網の沖側の袖網の先にさらに袖網と口網が付き(片側面は岸から袖網が延びる)、二重に口網が設けられる形に改良されている。
(3)九州系大敷網の成立過程の推測
明治34年(1901)の『水産調査報告』第11巻第1冊に掲載された「大敷網」の名称で紹介された図の網は、五島福江島三井楽村赤瀬の網とされる。一本縦ダイ式の箕形本網と、本網の網脇と網端から「袖網」と「道網」と書かれた垣網が斜め外側に延びている点は九州系大敷網の基本形をなしている。別に本網の両端から内網という垣網が延び、本網口と内網端に二重の振上網(口張網)を持つ点は、前述の白石の網(九州系大敷網)に若干似ている。
こんにち生月島沿岸で行われている定置網の漁法は落網だが、通称は「大敷網」と呼ばれている。これは以前用いられていた漁法名が同系統の漁の通称として残ったものだが、大敷網の名称は前述したように明治時代まで平戸周辺では用いられず、単に「鮪網」と呼ばれている例が多い(但し前掲した享保7年暮れから生月島で行われた網は「敷網」と記されている)。「大敷網」の名称は、明治時代に九州方面に進出した山口県の定置網関係者が後発的に持ち込んだか、明治の水産文献から採用された可能性があるが、山口県下の大敷網(山陰系大敷網)の形態は基本的には台網型である点に留意する必要がある。
明治32年(1899)の『第二回水産博覧会審査報告』にある、長崎県南松浦郡岐宿村の西村団右衛門の大敷網の解説には、大敷網には雑魚を主対象とした小型の湯玉敷と、鮪を対象とした大型の五島敷があり、五島敷にはさらに大型だが強い潮流の所には向かず、明治後期には用いられなくなった小値賀敷と、明和4年(1767)に先祖の団左衛門が発明した鯨や大群の鮪を取るのに適した正山敷があり、その構造は湯玉敷と小値賀敷の中間だとしている。この記述をこれまで紹介してきた史料の内容と付き合わせてみると、湯玉敷は富山湾沿岸から伝播した台網型の定置網(垣網、横ダイ式箕形本網の軸は海岸と直交方向)、小値賀敷は強い潮流に向かないとある事から、安永期の唐津屋形石で確認されているような横ダイ式の九州系大敷網(袖網、箕形本網の軸は海岸と並行方向)で、正山敷は、天明期の生月島で確認できるような縦ダイ式の九州系大敷網(袖網、箕形本網の軸は海岸と並行方向)である事が想定される。また前述の『水産調査報告』には、五島敷には本網の奥のイオドリに袋が無く、湯玉式には袋があるとある。
『第二回水産博覧会審査報告』には、大敷網系統の定置網は慶長年間の山口県湯玉を発祥とし、18世紀に九州方面などに伝播したとあるが、実際には山口県の網は富山湾沿岸の台網と同様、垣網(道網)があり、箕形本網の軸も海岸と直交したタイプである(それを「大敷網」と呼んでいた)。それに対し肥前方面の定置網は、袖網を有し、箕形本網の軸は海岸と並行方向に向くなど、本網の形態(箕形)以外は大きく異なっている。この事を考えると、長州(山口県)が台網系統の定置網技術の九州方面への伝播の中継地として一定の貢献をした事には異論が無いが、九州系大敷網の発祥地とする迄の存在意義は認めがたい。恐らくは、長州方面から伝わった箕形本網(横ダイ式)に、18世紀初頭頃の時期に肥前方面のいずれかの漁場で、向きを90度振った上で、垣網に代わって袖網を付けて操業するようになった事が考えられる。しかしただ本網を90度振っただけではダイが潮流の抵抗となって潮流が強い海域では不便を来したので、18世紀後期までに、ダイの向きを90度振って海岸と並行方向にした縦ダイ型の本網が用いられるようになり、その後明治時代になってそれらの網を「大敷網」と呼ぶようになった事が考えられる。
(4)明治末~昭和初期の定置網の変遷
「平戸諸島の漁村と漁村問題」によると、生月島では中倉満次郎が経営する会社が日高式鰤大敷網を敷設し、鞍馬と鳥瀬の漁場では一網2~3万尾を上げたとされる。日高式鰤大敷網は富山湾の台網のような長大な垣網(道網)の先に、苧製の大きな本網を、前後軸を海岸と並行方向になるように取り付けたものだが、丹後や富山湾に導入された同網は、漁獲量を飛躍的に向上させる成績を上げている。明治42年(1911)3月20日付の「(仮)定置漁業免許状書換申請書」(益冨家文書2079-6-3)によると同時期、中倉万次郎から益冨要一郎に定置漁場の免許が譲られたようである。なお同日付の「(仮)漁業関係書類〔定置漁業権ニ付譲渡ニ関スル登録申請〕」(益冨家文書2024-3-3)からは、中倉万次郎が平戸漁業会社の社長である事が分かる。
「平戸諸島の漁村と漁村問題」によると、鮪大敷網は明治44~45年(1911~12)頃には衰微したとされるが、その頃から下関市の一丸会社(日本遠洋漁業株式会社)が鰤の大謀網を鞍馬・鳥瀬両漁場に開設したとある。大謀網は、長大な垣網の先に箱状の本網に小さな口を持つ形態の定置網である。大敷網では魚群が入った時、直ちに大きな口網を上げて揚網するため多数の網子を常時待機させておく必要があったが、大謀網では魚群が入った時に、とりあえず小さな開口部を閉じる小さな口網を上げるための少人数の網子を常時待機させておくだけで良く、揚網はその後人数を集めた時点で行えば良くなった。
明治42年(1911)7月20日付の「決議録」(益冨家文書2032-6-6)によると、定置漁業権当組合持分を山口県の山田桃作に貸し付ける件について生月漁業組合臨時総会が開かれていて、この頃に一丸会社が入漁してきた可能性がある。ちなみに益冨家文書の中には明治から大正時代にかけての「(仮)一丸組鰤漁関係書類」(益冨家文書2023)がある。江戸~大正期の定置網に関する史料が益冨家文書の中には多数含まれており、現在福岡市総合図書館で進められている同文書のマイクロフィルム等での公開が進めば、より詳細な定置網の多角的な研究の進捗が期待される。
大正7年(1918)の『生月村郷土誌』の水産業の記述にある当時の生月島の定置漁業権を見ると、鮪大敷網の漁場が壱部免烏ノ糞(経営者:牧山徳太郎)、同本(元)浦(益冨要一郎)、山田前網(近藤猶吉)、山田加勢川(舘浦漁業組合)、山田影向松(同)、生月松本(生月漁業組合)、生月里ノ浜(同)、生月正前(同)、里免小守(生月漁業組合)に設定され、鰤大敷網の漁場が生月鳥瀬(平戸漁業組合0.5、生月漁業組合0.3、益冨0.07、丸田0.13)に設定されている。
佐賀県神集島住吉神社に建立された「岩本三吉翁顕彰碑」の碑文によると、大正末期には神集島の岩本三吉が生月島の四漁場(正前、松本、影向松、前網)、平戸島の二漁場の経営を行ったとされる。同氏は他に佐賀県内の神集島、屋形石、加唐島にも定置網を経営する大網主だった。同神社の玉垣にある奉納者名には生月島の四漁場の関係者が名を連ねている。
「平戸諸島の漁村と漁村問題」によると、 生月島では昭和3~4年(1928~29)頃から大羽鰯大敷網が盛んになり、その後落網(片側一重落網)が導入されている。落網は、垣網の先端に運動場という垣網に囲まれた空間を設け、その潮流の下流側に箱網を付け、箱網に入る部分に「落とし」と呼ばれる漏斗状の網を設けた、現在も大規模定置網の主要な漁法である。落としから箱網に入った魚は箱網の壁に沿って泳ぐため、突き出した落としの口から逆行する事が無く、網口を閉鎖する作業が不要となり、毎日決まった時間に揚網すれば良くなっている。しかし昭和16年(1941)頃には大羽鰯が不漁に向かい、大羽鰯大敷網も不振になる。一方、昭和14年(1939)頃からは鮪の豊漁が始まり、一時期は県下最大の鮪漁場になったとされるが、そのため鮪が入りやすい大謀網に一旦戻す漁場も現れたと言われる。なお航空写真を見ると、昭和20年代には生月島沿岸の定置網は全て片側一重落網になっている。
(5)波戸漁民の雇用
波戸は佐賀県北西部の東松浦半島先端部にある漁村集落である。生月島の定置網について聞き取りを行っていた時、戦後暫くの間まで、波戸から大勢の人が定置網に働きに来ていた事を知った。以前『鎮西町史』の水産の項の執筆を依頼された時、波戸集落で生月島の定置網で働いた樋口盛雄氏(大正11年生)山口重美氏(昭和12年生)から話を伺う機会があった。樋口氏は20年前後にわたって加瀬川、正前、影向松、白石の漁場で働き、副専長や会計も務められたという。
波戸の人々がいつ頃から生月島に来るようになったかは不明だが、昔から仲間を組んで西海各地に出向き、定置網を請け負っていたとされる。昭和30年頃には生月島関係の大敷漁場全体で波戸の人が60人は居たとされるが、神集島や湊からも若干の人が来ていたという。波戸にも定置網はあったが、興味深い事にそこには五島方面などから働きに来ていたそうで、波戸の人は定置網の本場である生月島に行く方が良いと思っていたとされる。
毎年、盆前から前細工(準備)にかかり、竹を束ねた浮き、網、綱、重りなどを整えた。盆は波戸で過ごし、17日頃に生月島から来た迎えの船に乗って出発したが、その際は波戸のお宮の前の海で大漁と無事を祈願して3回船を回した。生月島の納屋に着くと、太鼓や芸者も呼んで盛大に「納屋入り」の宴会をした。翌日から網入れなどで忙しく働き、準備が出来ると操業を始めた。正月も、ハツタビと言うこの年から参加した若者だけは波戸に帰ったが、他の人は休まず、台風以外は毎日働き、4~5月にキリアゲ(漁期休み)を迎えると宴会をして、波戸に戻ると田植えなどを片づけた。
波戸の人達は納屋に寝泊まりしていた。5時に起床して「朝もち」(朝の操業)をしたが、その前後に朝飯を取った。朝もちを終え、海上で漁獲を運搬船に乗せて出荷してしまうと、陸に戻って一休みし、昼飯を食べた後3~4時頃から「夕持ち」(夕方の操業)にかかり、7時過ぎに晩飯を食べて風呂に入った後は、遊びに行ったり、就寝するのが日課だった。大変なのは秋アゴ(飛魚)の時期で、シイラが網に入るとアゴを追い散らすため、船を沖に留めて頻繁に網を上げなければならず大変だったという。
樋口氏が会計を持っていたある正月に、つけ売りした魚の代金を回収して回っていると、どの家でもお茶の中に餅を入れたものを出して接待してくれたが、波戸にはそのような食習慣がないため、しまいには食傷してしまって難儀したという。また波戸の人はガメ(海亀)を好んで食べたが、ある時網に入ったので早速首を切ろうとしていると、涙を流す様子を見て網主の白石さんが「逃がせよー」と言った。それで樋口氏が、逃がすから御神酒を1升出すよう白石さんに言い、生月島の習慣通り亀に飲ませて「祈大漁満足」の木札を付けて放した。しかし樋口氏は亀の習性を知っていて、再び網に入ったのを見ると、今度はさっさと引き上げ解体して煮てしまい、さっき貰った酒を飲みながら食べてしまったという。
生月島は楽しかったそうだが、キリアゲで波戸に帰る時はやはり嬉しく、アガリフネという帰りの船が波戸に着くと、奥さん達が浜で握り飯を作って迎えてくれた。一年近く離れていたので、成長した我が子を見分けられなかったこともあったという。
(6)両側箱落網の成立過程
生月島東岸南部、舘浦の北にある影向松漁場は、現在、運動場の両側に箱網を設けた両側一重落網の形態だが、このような形態の落網は珍しいとされる。航空写真を確認すると昭和45年(1970)の同網は下(南)側に一重の箱網を設けた落網だが、興味深い事に影向松定置の南に近接して若干小さな規模の両側一重落網があるのが確認できる(KU706Y-C16-8)。この網がある網代は前掲した絵馬「大敷網図」で紹介された前網漁場である。その後の昭和50年(1975)の写真では、影向松の網は無くなり前網(両側箱)のみが確認でき(KU752X-C23-1)、昭和60年(1985)の写真では、前網の場所は舘浦港の外防波堤工事にかかって網は存在せず、影向松漁場に両側一重落網が復活している(KU852X-C29-8)。なお昭和50年に撮影された別の写真では島中部の加瀬川漁場も両側一重落網の形態である事が確認できるが(KU752X-C23-4)、同時期の元浦、正前、松本は片側二重落網である。加瀬川では平成2年(1994)の写真までは、両側箱で北に二重、南に一重の落としを持つ落網が確認できるが、平成9年の写真では片側二重落としの形になっている。また松本漁場の落網も近年、両側一重落網に変更して、シイラの漁獲量を増大させている。潮下側に加えて上側にも箱網を設けた理由は、表層にいて風の影響を受ける飛魚やシイラを取るのに有効だからと思われるが、表層のアゴやシイラの捕獲には湾の南側の定置網の方が有利だったようだ。
令和4年(2022)現在、生月島東岸には、北より元浦、浜沖、加瀬川、正前、松本、影向松の六ヶ所の大規模定置網が存在する。元浦、浜沖、加瀬川、正前漁場は生月町壱部浦大敷組合、松本漁場は生月漁業協同組合、影向松漁場は舘浦漁業協同組合の経営である。なお生月漁協は平成15年(2003)より生月島西岸北部の塩俵沖に定置網を操業させているが、その漁法は片箱網中層付・片中層網という、中層に上にも網を張った小型の箱網(中層網)を設けたものだった。しかし島の西側海域は予想以上に風波が強く網が被害を受けたため放棄され、代わりに松本が両側一重落網に変更した経緯がある。また舘浦漁協は長らく舘浦対岸の白石漁場の落網を経営していたが、平成25年(2013)に撤退している。