長崎県平戸市生月町博物館「島の館」

生月の歴史 No.9生月島の農業

生月島の農業

 

1.在方集落の生業の概要

(1)土地利用

  生月島では近世以降、漁業が経済の根幹をなす中で、農業を基幹とする在方集落(イナカ)は、漁業を主体とする浦方集落(ウラ)の漁業組織に資材や労力を提供し、漁業と間接的な関係を持つ事で経済生活を成り立たせていた事は既に漁業の回で述べた。この経済構造の中では農業は漁業の補完的役割程度のものと思われがちだが、実際には在方集落があったからこそ漁業の振興が可能だったと言える。このような浦と在の密接さを示す事例としてコヤシトリ関係がある。屎尿を汲み取る専門業者が登場する以前、浦の家は在の特定の農家と糞尿を汲んで貰う関係を結んでいて、その農家の人をコヤシトリさんと呼んで最も近い親戚と同じ扱いをしていた。浦の家で正月にシャーギ(幸木)や注連縄などを飾る時にはコヤシトリさんにお願いして(雇って)作って貰った。コヤシトリさんは糞尿を貰った礼に米や麦、野菜を届けたり、亥の子などの祝いの時には浦の糞尿を汲む家の者を招待したりした。浦の家でも魚などを届けたり、祝いの時にはコヤシトリさんを呼んだりしていた。他に肴などを捌いた残滓や、水産製品の製造時に出る廃液なども農家に引き取られたが、浦方の家にとっては処分に困る廃棄物を在方の方で肥料として有効利用する事で、両方に利がある関係を構築していたのである。

  『生月島の自然』によると生月島の原生植生は元々ホルトノキ、スダジイ、タブノキ、ヤブツバキなどからなる暖地性照葉樹林だった。在方集落に住民が増え、森が開拓されたり薪として利用される中で原生林は伐採され、二次林であるクロマツ林が拡大する。クロマツの幹(材木)は家の梁や柱材に利用された他、松葉は船タデやカマドの焚き始めに用い、落枝や割木は薪に用いられた。また葉付の枝は正月の門松や仏壇のシバに用いられるなど信仰にも利用されるなど、極めて汎用性が高い樹種だった。またスダジイは伐採後に側面から新たな幹が伸び、回復を待って薪材として繰り返し伐採された。ヤブツバキは良い木炭の原料になった他、実(カタシ)は油の原料として利用・販売された。

 『生月村郷土誌』には、在方集落の土地利用について次のように記されている。「本村は山急にして且つ土地の割合に住民多く従って開墾し盡されたりと云ふべし、現今にて牧畜のため存する原野薪雑木林等を開墾する時は多少有らんも水源涵養等事情により開墾の余地少なし」。これによると大正時代の生月村(島)は開墾され尽くされ、水資源の制約もあってこれ以上の開墾余地は無い状態だった事が分かる。昭和20年代の航空写真を見ても、緩斜面のみならず台地上や山地の斜面地も悉く田畑や放牧地に利用されていて、森林は一割にも満たない印象である。

 生月島の在方集落には北から御崎、壱部、堺目、元触、山田があるが、最北の御崎は江戸時代前~中期に存在した平戸藩の御料馬牧場が文政9年(1826)に廃止され、その跡に壱部、堺目、元触から入植した結果、成立した集落である。残る4集落は、南北に走る背梁山地の東側に広がる緩斜面地に、屋敷と耕地が散在する散村形態で展開している。その地域では元々、一次地滑りによる山地の崩落でできた台地と、そこから海岸に下る丘陵の上部が屋敷地や畑地に利用され、丘陵間を下る小河川によって形成された谷の底に水田が設けられている。小河川の源流は地滑りで形成された地形傾斜変換部に点在する湧水で、家々の生活用水に利用された他、江戸~明治時代には湧水付近に中小の溜池を設けて稲作に必要な水を確保していた。また島の南部には島内最長(約3㌔)の神ノ川が流れ、背梁山地の西側に深い谷を刻んでいるが、その谷底や河口にも水田が存在した。その他、山田の農協支所の北側や、長瀬崎の南側などに太古は湾入だったと思われる湿原的小平地があり、島の西側にも崖の崩落によってできた窪地に湿地が数カ所形成されているが、そうした場所も水田に利用されてきた。

  しかし水田に適した緩斜面を最も広く提供しているのが、二次地滑りによって形成された海岸に向けて開いた馬蹄形の窪地である。地滑りとは山地や丘陵を構成する岩石や土砂が斜面に沿ってゆっくりと滑り落ちる現象だが、生月島では水を通しにくい平戸層の上を地下水が流れ、上の玄武岩層が動いて起こる一次地滑りと、それによって出来た礫まじりの崩積土が自重で再び動く二次地滑りが起きている。地滑りには災害のイメージがあるが、生月島では二次地滑りによって壱部のうこの川が流れる広い谷や、堺目の永光寺裏、元触と山田の境界の松本に広い緩斜面が形成され、水田地帯として利用されている。

 松本地滑りでは滑落崖が馬蹄形に巡り、頂部の滑落崖から海岸までが600㍍、滑落を起こしている部分の幅が400㍍と大規模で、内側の崩積土上の緩斜面は島内屈指の水田地帯となっている。ここは大豪雨の際に断続的に地すべりを繰り返しており、記録に残るだけでも明治13年(1880)8月、明治22年(1889)6月、明治41年(1908)6月、大正3年(1914)7月に大規模な地滑りがあり、辛うじて租税の免除は受けたものの収穫は無く、復旧も自力で行わなければならなかった。昭和10年(1935)7月1日の大地滑りでは、大部分植付を完了した水田約20町歩に亀裂と断層が走り、その秋は収穫皆無となった。この状況に被災地区民は松本耕地整理組合を設立して農林省に助成を仰いだ結果、昭和11年3月3日までに耕地や水路、農道の復旧工事を完了している。さらに昭和13年(1938)からは排水井の掘削など地滑り防止の基礎事業が始まるが、昭和42年(1967)7月4~10日の集中豪雨で松本地区全域に再び大規模な地滑りが発生し、その被害総額は2憶数千万円に及んだ。この災害を契機として滑落崖の崩壊防止や崖頂部の崩壊防止工事が行われ、今日に至っている。

  なお江戸時代、平戸藩は農民が耕作する田畑を一定期間で交代させる地割制を採っており、生月島においても実施されていたと思われる。同制度は寛文2年(1662)から実施され元禄・享保期に整備されたとされるが、そのため江戸時代の農民間の貧富差は小さかったと思われる。

 明治17年(1884)の「長崎県北松浦郡村誌」によると、当時生月島の北中部を占めた生月村管内では田が56町2畝6歩半(改正反別)75町8反1歩、畑は87町3反3畝15歩(改正反別)225町4反6畝6歩、南部の山田村管内の田は45町4反6畝8歩(改正反別)68町5反22歩、畑は50町1畝19歩(改正反別)175町1反6畝12歩とある。また大正8年(1919)の『生月村郷土誌』によると、この時期の島内の田地は1592反7畝19歩、畑地は4397反6畝17歩とある。同書には「米の栽培面積狭く且つ水源少なきを以て本島住民の需要を満すあたわず」とあり、水田の面積が水の供給に制約されていた事が窺える。

  しかし大正~昭和初期に島内で大型溜池の築造が盛んに行われた事で、水田に供給する水量が確保されるとともに、一次地滑りで形成された台地や丘陵上、そこから谷地に下る斜面上にある畑地が水田に転換されたが、そうして出来た田は「ハタケビラキの田」と呼ばれた。特にこれまで背梁山地に隔てられて充分に利用されてこなかった南部の神ノ川に二つの大型溜池が設けられ、そこから山地を越えて引かれた水路で東側まで水が引かれた事によって、山田集落域では多くの水田が拓かれている。こんにちでも島内を巡ると、傾斜地に段々と石垣を築いて造った棚田の風景を各所で目にする。棚田の風景はよく日本の原風景と賞賛される向きがあるが、生月島の棚田の多くは、大正から昭和初期にかけて大型溜池が築かれた結果、それまで段々畑や山林だった土地を転換して造られたものが殆どである。

 聞き取りで確認できる昭和初期頃の生月の農家の経営形態は、水田で稲と裸麦を作り、畑で裸麦と薩摩芋もしくは大豆の作付けを行う極めてオーソドックスな形の農業経営と、子牛の販売、杜氏(酒作り)・積石工や大敷網子・鰯の製造加工など現金収入を得る出稼ぎ・副業の組み合わせでなっていた。なお浦方2集落は漁業を専らとするが、壱部浦は耕作地が皆無なのに対し、舘浦の家々は若干の畑地を南側の早崎半島の丘陵地に有していた。但し食料を自給できる程の規模では無かった。

  なお昭和初期には、浦のアミヌシ(巾着網やまき網、定置網の経営者)や在方の豊農によって農地の購入が行われ、農民間でも土地所有に差が生じていたが、面積が少ない農家でも、積石工、酒造の出稼ぎや戦後盛んになるまき網への就労で所得を向上させる機会があった。

  昭和30~40年代に、生月島では、農家のオヤカタ(長男)など成年男子の遠洋まき網や港湾建設業など、周年長期雇用形態の仕事への就労が進んだ事から、各家の経済活動における農業のポテンシャルが相対的に低下する。加えて農業機械の導入による使役牛の廃止は、蕃殖和牛の生産への切り替えを促進したが、飼育する牛の頭数自体は減少し、放牧地の利用が減少する。加えて従来は畑で自家消費用の麦や甘藷を多く栽培していたが、前記雇用労働の促進によって、給料で米を買う事が容易になったため、家周囲の比較的利用しやすい畑など有利な場所を除いて畑の耕作放棄が進む。こうした状況が森林回帰を促進させ、昭和60年代の航空写真からは、斜面地の耕地や放牧地の森林化が進んでいる状況を確認出来る。

 さらに平成以降になると、不漁と国の減船政策によって遠洋まき網船団の廃業が増える一方、国による港湾建設補助事業の縮小等で島内の雇用が減少し、加えて若者による不人気業種の雇用離れが進んだ事などによって、生月島でも県内他地域同様の過疎化が急激に進行する。これによって農業経営も縮小の一途を辿り、水田の耕作放棄も進んでいる。

 

(2)生産物

   明治17年(1884)の「長崎県北松浦郡村誌」には、島北部の生月村の産物として、米596石、麦680石、大豆300石、小麦8石、蕎麦22石1斗、実綿800斤、菜種64石、牛児756頭が、南部の山田村の産物として、米570石、麦500石、大豆67石5斗、蕎麦50石、甘藷44万斤、粟3石2斗、実綿370斤、牛児260頭が計上されている。この内容からも生月島の農業は米、麦、大豆、甘藷など主食になる作物の栽培が中心である事が分かるが、他に野菜や果物など顕著な作物がある訳ではなかった。

 大正8年(1919)の『生月村郷土誌』にも「米の栽培面積狭く且つ水源少なきを以て本島住民の需要を満すあたわず。概して栽培法も改良せられず、品質優良ならず。又収量も少なし。麦、及大豆は本村農産物中頗る重要なるものにして土壌も該作物に適し多くの収量を得、数百俵の大豆と数百俵の麦の移出を見る。蔬菜の栽培は、盛ならず、自家用野菜すら充分ならざる如により一部浦、館浦には多くの移入を見、且つ非常なる不自由をしのびつヽあり、果樹としては(在来種)の桃を見るのみ他は論ずるに足ものなし、果樹及蔬菜共に當局者は奨励しつヽあるべしされど一般農民の慣例により栽培の氣運に至らず。」とある。この記述からも「郡村誌」の記述内容と同じ傾向が窺えるが、それとともに技術革新や新品種の導入など農業振興にはそれ程熱心でない状況も窺える。

  元触で聞いた話では、稲は戦後までは晩稲が主で、終戦で復員してきた時も10月に刈り取っていたというが、一方で早稲も以前から栽培されていた。粳と餅を植え、粳も同時に2~3品種は作っていた。よそから評判の品種が入ってくると、試しにある程度作り、その結果で翌年から量を増やした。またその年の天候、特に雨の振り方を予測して早稲を入れる事もあったが、特にハタケビラキの田は干上がりやすいので早稲をよく作ったという。

 

(3)農業の概要

  元触で聞き取った内容を紹介する。

①米

〇選別:種籾にはトウミで風選し手前に落ちる重いものを選った。それをさらに塩水選(海から海水を汲み、種籾を漬けて沈んだものを選る)で選別した。そうして得た種籾をシュウジドウラ(種子俵)というツト状の藁俵に入れ、カワやタナイケ(種籾を漬ける池)に1週間~10日程漬けて発芽させた。なおタナイケは使う前にカワザラエをしていた。寒いのでなかなか芽は出なかったが、白い芽が出かかると引き上げた。一度引き上げて日に当てると芽の出が良くなると言う。今は自分の家で漬けるが、風呂の残り湯に漬けることもしている。

  田の面積を表すのに「一升蒔き田」などと言ったが、大体1反が7升蒔きと言われていた。ただ植え方でも苗の量は変わるので、老人の勘で苗代の準備をし、足りない場合は余ったところから貰うこともよくあった。

〇苗代田:苗代田にはデミズ(湧水)が確保できる田を用い、堤がかりの田(耕地整理で畑を田に変えたもの)は水の確保が不安なので使わなかった。一枚の田の中でも出水口は水が冷たいので避けた。全部を苗代に使う必要が無い場合、ナカジキリをして出水の反対側半分だけ使い、残りは水を溜めて温ませたりした。また小さい田の場合、出水から田の端伝いに溝を切って水を回しながら暖めることもあった。

〇耕起:苗代の田起こしは最初、旧暦1月頃、稲株を鋤き起こしてそのままにしておき、霜がおりて溶けて土がボヤッとするのを利用して柔らかくした。それを「霜に練らせる」という。

  旧暦3月にはまず田に水を入れ、アラタカキといって鋤で鋤き・マガで掻いた。次にまたナカシロといって鋤いてから掻いた。そして蒔く前にはウエシロといってもう一度鋤いて掻いた。本田の耕起も同じ要領だが、ツツミガカリ(溜池の用水に依存)の田はナカシロを2回して水漏れが無いように仕上げた。もしナカシロをしてないと水番が来て漏水が有るかもしれないと怒られた。ただ2回のナカシロのうち1回はただ鋤く程度で良かった。最後にシログワ(シロバ)で表面を均した。またナカシロの後にヨセアゼといい、田の端の泥を水から少し出る程度に寄せておく。そして少し乾かして固めておいてから鍬で畔塗りをした。まず横面を塗り上面を塗った。またアラタカキの前ないし後には人糞尿を撒いておいた。

〇籾撒き:麦刈りより前に苗代の籾蒔きをした。カラマキといい水を流して面を露出させてから蒔く場合と、水を張ったまま蒔く場合があった。あまり苗代を乾かしすぎると籾が乾燥するし、水がありすぎると風で寄ってしまうこともあったから注意した。また複数品種を蒔く時には、ナカジキリに板を立てたり畔を作ったりした。苗代の虫取りは組合で出て行い、メイチュウとそれが植え付けた卵を取った。

〇田植え:苗を植えて30日で田植えをした。手伝いにはユイ(相互に助け合う)によるカセイとヤトイ(賃金を払う)があった。早く植えたら虫が出ると言われ、田植えの日にちが決まっていたが、ヤトイが多い家では他家がカセイを受けて田植を終わってから人手を確保するので後植えになってしまった。

〇サナボリ:田植えが終えるとサナボリといって、カセイした人をお客として呼んで御馳走した(後述)。

〇除草:除草は3回程行った。一番草は草の芽が出た頃に行い、タマゼといって田の中を手でかき混ぜて雑草の芽や根を切った。二番草は旧盆頃に行った。二、三番は草を取って回ったが、少々草が生えていてもそのままにしていた。

 後には草取り機を用いた。最初は草履形の鉄輪に柄が付き、鉄輪の底に爪が付いているものだった。その後田押し車(ヒトツグルマ)が導入された。しかしヒトツグルマは足跡に落ち込んだら登らなかったので、改良型のフタツグルマ(前後に車を付けたもの)が流行ってきた。一番草で縦方向に押したなら、二番草は横方向に押した。

〇防虫:防虫に田に2~3度油を撒いた。虫の出方を見ながら適宜撒いた。油にはシビ(鮪)の油を使い、大敷網で取れた鮪を貰って大釜でセジッて掬い溜めた。また何の油か分からないが店屋でもそれ用の油が売っていた。油差しは最初は竹筒で、底に穴が空いていて、小竹を差して出る量を調節したが、後にはブリキの油差しが流行ってきた。油を差し、足で蹴って散らすとともに、稲をゆらして虫を落とした。コムシという小さな白い虫が水面に落ちて真っ白になっていた。

〇稲刈り:稲刈りは旧暦10月頃、親戚に手伝って貰うくらいで雇いはしない。根元から鎌で刈り、その場で2~3日干して、ジョウボシ(良く乾燥)したらニュウに積んで囲った。

〇稲扱ぎ:正月頃まで暇を見つけて田で稲を扱いだ。昔は千歯で、その後森田式回転千歯が導入された。初期の森田式は覆いが無く、扱いだ籾が散らばってしまう欠点があった。そのため最初は蚊帳を吊って機械を覆いその中でやったが、そのうち前方だけネコブクなどで囲いを作るだけで済むことがわかった。籾は藤葛で目を編んだタカオロシという篩で振るい、長い藁塵を取った。その後トウミに掛けて、シラッポと実の入った籾を分けて俵に入れた。藁はそのまま田にコズミ、時々牛に食わせる分を持って帰った。

〇籾摺り:以前は人力で回すトウスでやっていたが、その後、供出米は回ってくる業者に依頼するようになり、自家消費分はその都度精米所に頼んだ。

〇貯蔵:種籾も普通の籾も一緒に俵にしてニワの壁際、落とし柱と玄関の間の半間幅ほどの間に積み上げていた。供出に出した残りは、家で一年間食う分や漁師に小売りした。5俵を並べて積み、上に木棒を2本渡して上に5俵積み、4段積んだ。俵には籾で5斗が入った。

〇収穫祝い:籾を俵にして積み上がった所でニワアゲといい、近い親類を呼んでお祝いをした。旧暦10月亥の日にはイノコをした。新米で小豆御飯を炊き、オカミサマ(各神棚)にあげた。親戚を呼んで御馳走を食べる家もあった(後述)。

②麦

 元触は田が多く麦はわりかし少なかった。壱部は麦が多かった。麦はおもに裸麦で、他に団子や麹を作るため小麦を作った。

〇耕起:稲を刈り取った後の田を、まず牛を使い鋤起こして、固まった土の塊をクレシャギで割った。遅くにはクレキリマガという馬鍬が導入された。これは軽いので石を上に載せて重しにして引いた。麦蒔きの前にもう一度鋤いてクレシャギをした。

〇麦撒き:旧暦の年前か、どうかしたら年を越えてから麦蒔きになる。牛に曳かせた鋤で溝を作り、そこに麦を蒔き、堆肥を入れていった。その後、人が鋤を曳いて麦を蒔いた上にウネタテをした。田畑が多い家は牛を使う所もあったが、牛は折角蒔いた麦をフミタクルから駄目だという。さんざん鋤いて柔らかくなっているから人で鋤いてもそれほどきつく無かったという。畝幅は八寸程度で狭かった。畝は立てやすいように田の長い方向に立てていく。ただ傾斜している畑に立てる時は、畑の形を勘案しながらもなるべく等高線方向に近く立て、土が流れないようにした。

  旧暦の年明けごろに芽が出るが、その頃、堆肥のまだべとっとしたのを畝間に敷いた。一つ越しに敷いていき、敷いた上から敷かなかった畝間の土を掘って掛けていった。

〇肥料:麦の元肥に使う堆肥は牛の糞と牛の敷き藁をウシマヤの端に集めて積んで発酵させたもので、時間を置いて何度も良く練りあげた。そうして粘りけの無くコロコロになったら出来上がりで、それを麦の畝に入れた。追い肥の堆肥には人糞を用いた。

 人糞は自宅だけで間に合わず、浦の漁師の家のを貰ってイナイ上げていた。人糞は人が天秤棒の両端にコヤシオケを付けて運んだり、牛の両側にかるわせて運んだが、牛のコヤシオケは人のより長い。運ぶ時は桶の口には藁をつけて蓋をして跳ねが飛ぶのを防いだ。コヤシのお礼に米や麦、野菜を届けた。舘浦の対岸の春日では昭和40年頃まで、舘浦の昔から肥やしを取らせて貰っている家の人糞を汲み取り、春日の棚田の肥料として利用した。糞尿を汲み取り、天秤棒で担いで船に載せ、春日の海岸に設けた家毎のコンクリート製の槽に一旦貯め、海藻を入れて撹拌した後、水田に運んで施した。

 鰯の煮汁も追い肥に使った。地元農家からはウラの鰯製造の手伝いに出ていたので、製造の際に出る煮汁をコヤシタゴに汲んでいのうて帰り、田の端に据え付けた大桶に溜めた。直ぐ掛けるのは良くないので暫く寝かし、使用する時も水で薄めて畝にかけた。人糞と混ぜて使う事もあった。春日では、魚の臓物など台所の生ゴミも別に取って置いて貰い、定期的に集めて持ち帰っていた。また以前取れていた大羽鰯は製造して油を取っていたが、その〆粕も麦の肥料として出荷した。

  稲の害虫であるコムシ(ウンカ)の退治には、江戸時代は鯨油が広く使われましたが、春日では、舘浦の漁師からフカの肝で作った油(フカ油)を米と交換して入手し、水田の水面に撒きながら足で蹴って広げ、この水を稲株に掛けて虫を殺しました。

  藻も冬の寒い時分に海岸に寄ったものを肥料に用いた。夏はあまり岸に寄らないし使い手もなかった。特にアラシたあげく(嵐の後)には良く上がったが、たくさん打ち上がっていたのでわざわざ船で藻を切りにいくことはなかった。北風の吹いた日には朝早く海岸に降りて藻の漂着を確かめたが、日の出までは藻を引くことは出来ないことになっていた。夜明けにそこに居る人で区分けをして藻を分け、それを汐の当たらない場所に広げてカラカラにした。それを切って括り人がイナッたりや牛にカルワセたりして田畑に運び、麦の畝間に敷いて肥料にした。(糞が堆肥となる)牛も2頭程度なら追い肥を作るには足らなかったので、藻は積極的に利用されていた。なお春日では舘浦と協定を結び、春日の者が舘浦西南側のトボス付近の海藻を船から刈るのを許す代わりに、舘浦の漁師が春日の地先でカツギ(潜水漁)やカシ網をするのを許していた。

〇麦踏・除草:麦踏みは生月島ではされなかった。他の地方でやられていることは知っていたが、踏んだら折れるので「そがんことしたらでくるものか(駄目だ)」と思っていたという。また適宜除草をしていた。旧暦3月半ば、畑の麦がある程度伸びた頃に、麦の畝間に大豆を蒔いた。

〇麦刈り:旧暦4月に入って麦刈りを行った。間作の大豆を傷めないように鎌で元から刈っていった。そのまま畝に束ねて置き1日半干し、テガエシでひっくり返しまた1日半干した。

〇麦扱ぎ:麦は千歯を田畑に持ち出して扱いだ。面積が広かったり他の仕事があり一度に扱ぐ事が出来ない人は、ひとまず穂の付いたままで囲った(ニュウをつくった)。その際には一番上の屋根の麦はサカブキといって穂を下にして置き、雨水が滴り落ちるようにした。そうして暇が出来たら扱いだ。畑で間作に大豆を作らず芋を植える予定の所はムッカラ(麦藁)をそのまま広げて干した。そうでなければ畑の隅っこにニュウを構えて保存した。ムッカラは家の屋根葺きに使用する他、風呂沸かしの燃料にした。

  麦はカマスに入れて持って帰り、ホカにイナマキを広げ、乾燥が足りないのはその上に広げてそのまま干した。それをブリで叩いて殻を落とし、トウミで風選して貯蔵した。のちには扱ぐのに森田式の回転千歯を使ったが、殻まで取れてしまうのでブリで叩く必要もなくなった。麦は俵に入れて貯蔵した。

③甘藷

 麦刈りが終わってから畑にイモサシをした。11月頃に収穫。アダの間の下のイモガマに貯蔵した。アダの板の間を剥いで入れ、普通使う分はアダの上がり口の下から取り出した。また切った芋を茹でて干したカンコロも保存食として作った。

④大豆

 旧暦3月半ば、畑の麦がある程度伸びた頃に、麦の畝間に大豆を蒔いた。サシという竹筒の先に鉄の刃が付いた短い棒を用意し、畝間を刺し、出来た穴に大豆3~4粒を入れていった。サシの手元側には大豆が入れてある。大豆は麦刈りの時分に芽が出てくる。旧暦7月の盆頃に収穫していた(昼に収穫し、夜に盆の灯籠トボシにいっていた)。扱ぐのは竹を割ったものに挟んで行ったが、後には森田式の回転脱穀機を使うようになった。

 

(4)農業にちなんだ行事(神道、仏教、民間習俗)

①サナボリ

 訛った形としてサノボリ、サナブリという言い方をするが、イナカ(在)では田を全部植えてしまった後、サナブリ祝いという宴会を行った。

 壱部では親戚同士で加勢し合って田植えを行うが、自分の家の田の田植えを行う時には午前3時頃から起きて昼御飯として団子、塩鯖、お握りなどを作り、ノートコ(苗床)から苗を取って6時頃出かけた。皆で並んで手植えをし、昼には田で加勢人もあわせて食事を取った。加勢し合う分の田植えも含めて何日かかかった。そのうち自家の田の田植えが終わった夜には、加勢人も招いてサナボリ祝いの宴会を行った。なおサナボリ祝いの際には、きれいな苗を括ったものを荒神様の棚に供えた。

  山田では実行組合毎に、田植えが終わった時を見計らってサナボリ祝いをした。宿は実行組合長の家で行った。

 また「お荒神様、サナボリしました。豊作して下さい」と言って苗を2㌢程束ねて荒神棚に供え、苗は年の暮れの大掃除の時に下げて焼いた。

②池祭

 山田では田植えが終わった時分に池祭が行われる。朝、関係者が水番の家に集まって準備し、神主と一緒に落木場池・山頭池・御酒壷池の順に回る。3つの池には畔や堤上にガワッパ様(実際には河童除けの猿の石像)を祀った石祠があるが、この近くに竹の棚を作って供物を供える。棚の中央に刺した竹には神名(岡象波売大神)を書いた紙旗をつけ、藁ツトを巻いて御幣を刺した。また棚の足元には男竹を切って作った筒を12本(閏年は13本)まとめてつけ、酒を入れる。棚の上には団子12重ね(閏年は13)、オゴク3盛り、塩3盛り、塩アゴ2本を載せる。また団子は祠の前にも三重ね供える。また別に水番が「ガッパさん。団子あがりまっせ」と言いながら団子を水に放り入れる。その後、神主の祝詞があり、宿に帰ってナオライとなる。

 元触では夏の土用の入りの日に池祭がある。水番が午前中、各池に竹の棚を立て(コーソコ池では立てない)、昼食後の午後から神主を伴って永田池・上堤池・コーソコ池・渋柿池・ヨークロ池の順にお祭りするが、永田池の河童が大将なので必ずここが一番でないといけないという。棚は概ねユビ(井樋)の付近に立て、四方の笹竹にそれぞれ神名(水波能売神・水分神・鳴雷神・久比奢持神)を書いた紙旗を下げ、注連縄を回す。棚の中心には先端に藁を束ねたボンデンを立てる。また団子(小麦粉を練り蒸したもの)12個、シトギ(米の粉を練った生団子)12個、生米2カ所、オゴク4盛り、スルメ等の供物を棚に供える。また棚の周囲には竹筒24本(12組)を下げる。団子やシトギ、竹カッポの数は閏年には1個(1組)増える。コーソコ池では池端に直接供物を置く。また、池の中にも水番が酒・スルメ・団子を投じる。また池に祠が祀られている場合、そこにも酒・スルメ・団子・オゴクを供える。神主が祝詞をあげ、帰ってから集会所でナオライとなる。

 堺目では土用の入りの日の翌日に池祭がある。平田池・金石田池・永田池・有田池・幸四郎池の順にお祭りするが、棚を作るのは有田池だけで、他はユビ(井樋)の近辺に供物を供え、団子4個、シトギ4重ね、オゴク4盛り、スルメ3切れと、酒は供物の上にそそぐ形で供える。有田池では棚に供えるが、その形式は元触の池祭と同じである。池の中には水番が酒・スルメ・団子を投じる。有田池には祠があるので、ここにもシトギ、団子、オゴク、スルメ、酒(かける形)を供える。また幸四郎池では隣接する殉教地・幸四郎様にも(森の外側から)同様の供物を供える(但し神事はない)。神主が祝詞をあげ、終わると集会所でナオライとなる。

 壱部では土用の入りの翌々日に池祭がある。午前中に準備をして、午後神主を伴って一号池・古池・二号池・榎田池の順に回って祭る。古池を除いて池の端には水神様の祠が祀ってあり、行事の前に祠の上に竹棚を作る(古池は井樋の上に作る)。棚の形状は元触・堺目と同じ。供物は団子(多数)、シトギ4重ね、オゴク4盛りの他、酒の入った竹筒を12組24本ずつ(計96本)つける。これは閏年には13組ずつに増える。また祠にはオゴク1盛り、イリコ3ないし5匹、酒(盃1杯)を供える。池には団子を多数投じる。各地点で神主が祝詞を上げる。最後の榎田池では、水番が方倉様の方向に向かって酒を注いで祈る。これは河童の神様である方倉様に対してのカケオガミだという。

③虫祈祷

 元触・堺目・壱部・御崎では虫祈疇を行っている。昔は各集落毎に藁でサネモリ様の人形をこしらえた。立派なチョンコ(男性器)にトウキビの髭で作った毛をつけた。足は曲げ、刀を差し、傘を被せた。人形の魂入れは永光寺で行った。行事では田の中の決められたルートを人形を担いで回り、鉦を打ち鳴らした。そのため鉦の音から行事の事は「トンギャン」と呼ばれた。昼食の後は「大まわり」といって後目の田を回った。最後は人形を海に流したが、そうすると不思議に虫が居なくなり、海の上にびっしりと虫が落ちていた。しかし人形の風体が警察にやかましく言われて作られなくなった。現在は紙のお札旗を下げた笹竹を各所に立て、そのうちの一本を海に流している。

④亥の子

 旧暦10月の最初の亥の日には亥の子を行うが、二番三番の亥の日にする場合もあるが、一番を派手にして、二番は御前様と先祖様にお届けするだけの場合もある。また「とりとやいのこ(冬至十夜亥の子)」と言う言い方もあった。種籾を供えるが、昔はシュジドウラを用い、今は籾袋で代用している。昔は品種毎に分けていたという。

 山田のМ家では、座敷の縁に向いた場所に種籾を飾り、日月の重ね餅、コワイ(おこわ)・盃酒を供え、柳の枝を削った箸を添えた。コワイは枡に盛るが、元触では一番亥の祭は二升枡、二番亥の祭は一升枡を用いた(元触では三番亥は行わないという)。また供える場所には他に、座敷の床の間に向けて(壱部D家)、アダノマの縁に向けて(山田I家)、ニワの臼の上に箕を乗せて(元触O家)などさまざまな形がある。供物は枡に入れたオコワと小皿に盛ったナマスが基本だが、元触と壱部では小皿の2カ所にナマスを盛る。元触ではこの日先祖様(仏壇)にオラショを上げる家もあった。

 また昔は浦の人に「亥の子にのぼっておいで」と声をかけて招待し、御馳走をしていた。特にコヤシをもらう家の者は必ず招いていた。この日には豆腐を作っていた。また餅をついて親戚に配った。

 

(5)かくれキリシタンの農業関連行事

  生月島では永禄元年(1558)8年(1565)に一斉改宗が行われ、キリシタン信仰が席巻する。その後慶長4年(1599)に禁教を迎え、仏教や神道が再導入されるが、キリシタン信仰はそれらを並存させる形で存続し、さらに宣教師との接触が絶える事によって、一般信者レベルで行われたキリシタンの信仰内容は、かくれキリシタン信仰として継承されている。かくれキリシタン信仰では多くの農業関連行事が行われたが、それらはキリシタン信仰で行われていたものと考えられる。

①ハッタイ様

 山田で行われた集落規模(三触寄り)の行事で、4月12日の朝、神ノ川の河口にあるハッタイ様の祠の前で、山田かくれキリシタンの御爺役、親父役と山田区長、農協支所長が寄り、神主が神事を挙行した。午後はかくれの役職者のみが宿に集まってオラショを唱え、行事の終わりには水に関する場所などに供物を入れたツトを納めた。

 伝説では、ハツというキリシタンの娘が神ノ川の中流で田植え時分に増水した川に流され、河口に流れ着いた死体を葬ったとされ、この祭日には雨が降ると云われる。この伝説と似た話が有明海の沖の島にも伝わっていて、お島という娘が干魃に苦しむ人々のため、雨を降らせるために海に身を投じた結果雨が降り、お島の死体が流れ着いた小島に祀られたとされる。さらに中国の『史記』には、女性の巫者が中国の川の神「河伯」に、その妻となる娘を川に投じる行事を行っていたという話があり、伝説の起源が中国にある事を窺わせる。

 ハッタイ様の行事は、中世に行われていた娘の犠牲伝説を伴う水の祭祀を、キリシタン信仰が引き継いだものと考えられる。

②風止めの願立て・願成就

 山田では、初夏と秋に御爺役と親父役が中江ノ島に渡ってお水を採取する「風止めの願立て」「風止めの願成就」行事を行っていた。この行事は田植え頃に行う稲の受粉や結実を妨げる風を避ける祈願と、秋の収穫後、風の害を避けられた事を感謝する願成就の行事であり、集落内の御爺役、親父役が集合して行う三触寄りの行事である。

 朝8時ごろ、農協支所の会議室に集合し、チャーターした大敷網の船で中江ノ島に渡る。一同は行きがけの船の中で半座のオラショを唱える。島には船着き場がないので、途中で櫓漕ぎの伝馬船に乗り換えて上陸する。祭場である断崖の裂け目の前に着くと、蝋燭を立てて供物を供え、水がしみ出しそうな岩の裂け目に茅の茎の一方を刺し、もう一方を一升瓶の口に入れて、お水を受けるようにする。準備が済むと一同は石浜の上に正座し、本座の形でオラショを唱える。唱え終わるとオゴク(御飯)やスルメをいただき、瓶にたまったお水を回収して戻る。

 舘浦に戻ると二手に分かれ、旋網会社の事務所や社長宅にとった宿に上り、一座のオラショを唱える。唱え終わると、殉教地の千人塚と、比売神社下の恵比須様に供物を上げ、宿に戻って昼食をいただく。

 午後には合流して、御爺役、親父役らの中から決めた宿に移る。座敷の中央に蝋燭を立て、そのまわりに車座に座って一座のオラショを唱える。その後の宴席では、御前様の唄、サンジュワン様の唄、ダンジク様の唄が唄われ、続けてお唄いが唄われる。

  中江ノ島はかくれキリシタン信者から「サンジュワン様」と呼ばれていたが、聖水との関係からサンジュワンは洗礼者ヨハネの事を指す。中世ヨーロッパではヨルダン川で採取された聖水は風を止める力があると考えられていたが、洗礼者ヨハネもキリシタンによって風の神様としても信心されていた事が考えられる。

③作のサービャー除け

  壱部の「六ヶ所寄り」行事は4月に行われた、壱部の御爺役と六カ所の津元(組)の親父役、各津元の役中の代表が寄って行う集落規模の行事である。行事では決められた宿に各津元の御神体が集められて祀られ、いくつかの目的のためにオラショが唱えられる一方、屋外では野立(野祓い)が行われた。オラショを唱える目的の一つに「作のサービャー」を除ける事があり、2人1組のゴショウ人がお屋敷様への祈りと作のサービャー除けの祈りを行った。2人はエレンジャ祓いのため六巻の形でのオラショを唱えた後、一通りの形のオラショ(唄オラショ無し)を1座唱えて中休みを取り、その後一通りのオラショ(唄オラショ無し)を2座唱えた。

 キリシタン時代の天草について記したフロイスの1596年度年報には、夫の無信心のため畑に虫害が発生するが、信心深い妻が教会で、祈祷の務めを果たす約束をして聖母に祈願すると畑の虫は死に絶えたという話が出てくる。この事からオラショを唱える形の虫除けの祈祷は、キリシタン信仰まで遡る事が分かる。

 

2.農業用水の確保

(1)大正以前の水事情

  水田の稲の栽培を拡大するためには何より水の確保が重要だったが、既に触れてきたように生月島内には小規模な河川しかなく、水の供給源が流下する川水の採り入れや湧水の利用、雨水の活用程度の段階には運営できる水田面積は限られていた。川水を有効に利用するためには、大きな堤を作って水を貯め、稲作で必要とされる時期に集中的に配水する必要があった。明治17年(1884)の「長崎県北松浦郡村誌」には当時の溜池の記述があり、それによると生月村には上堤溜池(堤長30間)、金石田溜池(堤長6間)、丸田溜池(堤長10間)、下ノ溜池(堤長15間)、幸四郎溜池(堤長10間)、榎田溜池(堤長5間)、加場溜池(堤長5間)、山田村には吉永溜池(堤長20間)、犬場溜池(堤長17間)、渋柿溜池(堤長38間)などが確認できる。このように明治前期の生月島には堤長が50㍍を越えるような中規模溜池は2つしかなく、多くは小規模な溜池だった。

 

(2)大型溜池の築造

 生月島で貯水量1万㌧を越え、時に10万㌧にも達するような大規模な溜池の築造が始まったのは大正3年(1914)の有田池(堺目、54,200㌧)、山頭池(山田、93,000㌧)を最初とし、大正8年(1919)の生月第一号池(壱部、145,500㌧)、上堤池(元触、32,000㌧)、大正13年(1924)の幸四郎池(堺目、36,400㌧)、大正15年(1926)の落木場池(山田、193,900㌧)、昭和初期の平田池(堺目、34,400㌧)、昭和3年(1928)の榎田池(壱部、30,000㌧)、昭和6年(1931)の渋柿池(元触、41,000㌧)、昭和8年(1933)の二号池(壱部、94,000㌧)、昭和9年(1934)の永田池(元触、39,200㌧)、昭和16年(1941)のヨクロー池(元触、32,900㌧)が上げられる(『生月町史ほか』)。但しこの中には幸四郎溜池や榎田溜池のように従来あった小規模溜池をスケールアップしたものもあった。こうした溜池の整備と共に畑から水田への転換も行われ、水田面積は大幅に増大した。以前からの湧水等を利用する田はキュウタ(旧田)、溜池の水を利用して新たに造成された田はシンタ(新田)と呼ばれた。

 大正3年(1914)生月島で最初に築造された山頭池(貯水量93,000㌧)についての山田の古老の話では、横山作彌氏が青年会の仲間達と夜、縄ないなどの作業をしている時、何とか米を増産して、今よりも多く御飯を食べたり、よそに売って利益にできないかとみんなで話していた。その時「溜池ば掘ったらよかろう」という意見が出て「それがよか」という事になり、寄り合いを開いて地区の人々の賛同を得、銀行から資金を借りて工事にかかったとされる。

 工事は山田の人達が力を合わせ、鍬や鶴嘴などを使って手作業で進めていった。特に水をせき止める大堤防の築造は難しく、失敗もしたが、よそに研修に行ったり、県の技師から指導を受けて何とか完成にこぎ着けた。その結果多くの水田が開かれたが、使える水に限りがあったので、要望に応じてさらに多くの水田を開くべく「第二工事」と呼ばれる落木場池の工事に着手した。この時には土を運ぶトロッコも導入され、山田から神ノ川に抜ける峠にあたる岳ん出の辻にも、水路を通すためと交通の便を良くするために、ダイナマイトを使って切り通しが掘られた。山田公民館脇に残る記念碑によると、山頭池や落木場池などの築造によって山田集落側の丘陵上や神ノ川河谷の斜面に40町もの水田が開かれたとされる(畑を田にしたものもあったと思われる)。苦労した池が完成した時の完成式は大変盛大だったという。

 こうした山田の動きに共鳴して壱部でも、川口與三郎氏や村川其平氏が中心となり、農工銀行からの借入金の返済の滞りや、第一次大戦の影響による労力不足などの困難を乗り越え、大正8年(1919)に貯水量145,500㌧の一号溜池を完成させたが、その顛末は壱部公民館脇の記念碑に記されている。

 

(3)土地改良区と水番

 大型溜池の建設とその後の管理のため、土地改良区(土地改良組合)という組織が設立された。生月島内には壱部地区を中心とした生月土地改良区、堺目・元触地区を中心とした生月中央土地改良区、山田地区を中心にした山田土地改良区がある。組織としては各改良区毎に理事長と数人の理事が決められているが、実際に稲作の期間に水の管理を行うのは水番(給水係)という非常勤の役職である。水番は1つないし2つの溜池を管轄し、そこから流下する水路の水を管理する。稲作の期間中は各田に水が行き渡っているかを監視し、降雨などで水が余っている時には流下を止める。古い溜池の場合、堤の内側には縦樋という石等で出来た管があり、堤の底で堤の外側の水路まで貫いている横樋と繋がっている。縦樋にはユビといい一定間隔で穴が空いていて、木の栓を打ち込んでいるが、これを順次上から抜いていくと水が落ちていく仕組みになっている。現在の大型溜池はバルブ式に改められている。水番は、シロカキの時期に最初にユビを開け(ユビヌキと言う)、稲が成長して水が要らなくなるイケドメまでの間(今日の早稲では、おおむね4月末から8月中旬のまでの110日程度)一日幾ら(平成6年頃でおよそ一日5,500~6,000円)で土地改良区から雇われる。年毎に雇われるが、なり手が無いこともあり、再任を重ねて10年余りになる人もいる。また水番は溜池に関する行事にも関わっていて、それゆえ河童と親しい間柄にあると認識されている。

 

3.牛

(1)生属牧

 生月島には古代から朝廷の牧が置かれたが、牛ではなく馬の牧だった。「延喜式」兵部省諸国馬牛牧条には肥前国六牧の一つに「生属馬牧」の名が見える。所在地は生月島域とする説があるが、特に島の北部の御崎は古くは牧という地名で呼ばれている事から有力な候補地である。「肥前国風士紀」松浦郡値嘉郷条にも値嘉島(広域をさす)は牛・馬に富むとあり、平安末期には当地も宇野御厨のうちで牛車の牛を貢進していたと想定されている。なお宇治川の戦で先陣をきって活躍した名馬・池月が牧で生まれ育ったという伝説もあり、生月という名前が池月から来たという説もあるが、それについては平安時代初期に編纂された『続日本後記』に「生属」の記述があるので信憑性に乏しい。「生月人文発達史」にある地元の伝説には「生月の牧の地は上古より馬牧場であった。西部絶壁の所に名馬草と称する草がある。容易に食するを得ざるも之を食したる馬は名馬となる。彼の池月も此草を喰ひ又鯨島に泳ぎ渡り同所の牧草を喰いし為め名馬となり頼朝の所望に依り献したのである云々」とある。恐らくは一部、加藤、山田三氏が鼎立した中世や、籠手田氏、一部氏が支配したキリシタン時代にも、こうした独立領主勢力の存在に伴って軍馬の牧が存在したと思われる。さらに「生月人文発達史」によると、藩政時代にも御崎の原野は御料馬牧場となっていたが、文政9年(1826)には獅子村春日の牧場に集約され御崎の馬牧は廃止されたとされ、その後島内の壱部、堺目、元触集落から移住・入植が行われて御崎集落が成立している。

 

(2)生月島における牛の歴史

  生月島では、かつて牛が田畑の耕作や荷物の運搬に用いる使役牛として重要な役割を果たしていた。明治17年(1884)の「長崎県北松浦郡村誌」には、生月村に牡牛113頭、牝牛367頭の計480頭、山田村に牡牛37頭、牝牛128頭の計165頭の記載がある。また同資料の物産に上がっている子牛の頭数も生月村で756頭、山田村で260頭に上るが、子牛の生産は当時の農家の貴重な収入だった。大正7年(1918)の『生月村郷土誌』には、島内の牧畜業について次のような記述がある。

「本村ノ牧畜業トシテハ、特設セラレルモノナシ。過グル往昔ハ御崎ノ原野ニ牧場ヲ設ケ、馬ノ養牧ヲナシタルコトモアリテ、名馬池月号ヲ産出シタルコトサヘアリト云フ。現今ハ馬ヲ飼養スルモノ一人モナク、只使役用ノタメ牛ノミヲ各農家ニ一頭乃至四五頭ヲ飼フ位ナリ。自然牧場トシテ御崎、上場、山頭、赤木畑(南免)等ノ適切ナル共有地アルモ、只農閑之期ニ放牧シ置クノミニテ、牧場トスルニ足ラズ。併シ近年産牛馬組合等組織セラレ、且ツ其筋ノ指導奨励等ニヨリ、各自飼牛ノ大切ト利益トヲ感ジ、飼養法硝々向上シツヽアルハ喜ブベキ現象ナリ。品種ノ改良モ漸次普及セラレ、近キ将来ニ於テ丹波牛、朝鮮雑種等ノ良種ニ改良実現セラルベシ。」

  これを読むと大正期には、農家に牛は最低1頭、多い場合は4~5頭の使役牛がいて、農閑期には島内各所にある共有地の牧野に放牧していた事が分かる。また牛糞も肥料として活用されていた。

  昭和30年代頃から牛は使役に用いられなくなり、繁殖和牛の飼育による肥育牛用子牛の生産に移行していく。当初は使役牛の設備(マヤ)や飼育経験を使った小数飼育の形態だったが、平成に入ると使役牛の頃の飼育スタイルである少頭飼育は次第に減少し、専用の牛舎で数十頭を飼育する多頭飼育に変わっていっている。平成元年度には263戸で854頭が飼育されていたが、平成7年度には184戸で628頭の飼育となり、この期間だけでも戸数が2/3に減少している事が分かる(『生月町史』)。

 

(3)牛に関する聞き取り

 元触の牛に関する聞き書きを紹介する。使役牛の頃には農家1軒で1~2頭雌牛(ウノ)を飼っていたが、耕地が広い家では3頭以上飼う所もあった。雌牛は繁殖して子牛が収入になったし農作業でも扱いやすかったからだ。昔は子牛が出来て3~4カ月育てると売った。長く育てると情が移って迷ったりするのが面倒だからである。しかし戦前にはそれでは早すぎるという事で6カ月以上飼うようになった。

 使役牛の頃には三月市・五月市など、年間3回程、農家が育てた子牛を売る牛市が立った。場所は里浜の家畜市場(里浜墓地の海岸側)で、バクリュウが買いに来ていた。売れた子牛は一旦自宅に連れ帰り、後日壱部桟橋から積み出された。山田方面からの積み出しが多い時には舘浦から積み出す事もあった。子牛は田平港に揚げられた。

 里浜家畜市場は昭和50年(1975)に廃止されて平戸口家畜市場に統合され、運搬方法もトラックに乗せてフェリーで運ぶようになった。さらに生月大橋が開通した平成3年(1991)以降はトラックで直接運ばれるようになっている。

  雄(コッテ)は性格が荒く使いにくかったのであまり使われなかった。戦後直ぐの頃には雄の子牛は500円にしかならず、鶏よりも安いこともあった。また繁殖用の種牛(雄)を各部落1頭飼っていた。誰かに飼育を委託し、種付け料を払って交尾させた。

  牛を飼うウシマヤは屋敷地の中にあり、三方を石垣で巡らし、その上に藁屋根を載せていた。牧野には共有(触持ち)と個人持ちがあった(後述)。

  田植え上がりの牛は放牧地に放して芽立った草を食べさせた。元触・堺目・壱部は朝に放牧地に出して夕方に家に連れて帰った。帰る時には幸四郎池で水を飲ませて帰ったが、暑い時には牛が自分から水に入っていった。一方、山田は山頭に放しっぱなしにしていた。山頭には水を飲ませる場所もあった。秋になって草も枯れると牛達は勝手に放牧地を出てあちこちさ迷う様になる。他の集落に降りて草を食っていると、その集落の者に見つかりその場に繋がれ、場合によっては金を請求されたりした。それで秋になると家に連れて帰っていた。また秋の稲の収穫と麦蒔き後から春の田起こしが始まる頃までは後目(島の西側)にある個人持ちの原野に昼間は放していた。これらの原野は冬に食べさせる草を刈るための場所で、刈り取った後の残り草を食べさせた。家に居るとモーモーうるさいので連れ出していたという。昭和50年代になるとこうした原野への放牧が無くなり、原野も荒廃している。

  家で食べさせるハミは稲藁や枯草である。これに醤油を絞った粕や、売り物にならない小さい薩摩芋を混ぜて煮て作った「牛の味噌」を混ぜた。農耕に使う時期は麦をほとびかせて食べさせたり、農協から買った堅く固めた豆粕を削って食べさせた。

  牛の蹄はだいたいほっといたが、時たま削蹄していた。また田植前に部落でまとめて削蹄することもあった。牛の病気を診る牛医者がいた。また牛の病が流行った時は、自分の部落に入ってこないように部落の境目数カ所に、道をせきるように注連を張った。注連はお寺の和尚さんに貰ってきた。なおこの儀礼は人間の病が流行した時にもやっていた。

 

(4)生月島内の牧野

  御崎集落の農家はミンチマや鞍馬、たかりを放牧地(牧野)として用いた。壱部は五ケ触(元触・堺目・御崎と壱部の森・岳崎)持ちである拝野の他、方倉やオロンクチに共同所有の牧野があった。堺目は五カ触持ちである拝野や、二カ触(元触・堺目)持ちの番岳や上場、ハンジロを、元触は五カ触持ちの拝野や二カ触持ちの番岳や上場、山頭(放牧地を通った先に土地を持つ元触の人の場合)を、山田は山頭、赤木畑、桜越、ヤサンベ、潮見などを放牧地に用いた。上場の牧草地は元々緩やかな管理が行われていたが、終戦になって触で管理するようになった。部落で牛を持っていると誰でも使用する権利があったが、戦後食料不足で放牧地に畑を開いたりした事でややこしくなり、今は各放牧地が合併して牧野組合を結成している。放牧地の管理はそこに牛を放つ権利を持った者で構成した牧野組合が行った。牧野組合は放牧地の管理に必要なお金を加入者から徴収し、人手を出して初春に野焼きを行って若い牧草を生やし、旧3月3日の節句に薊掘りをした。なお分家は牧野組合の構成員になれなかった。

 放牧地の周りには石垣が巡らしてあり、牛が山に迷い込んだり、崖から落ちるのを防いだ。放牧地の他に個人所有の採草地があったが、春から初夏にかけてはここに牛を放ち、それ以降は放牧地に移して草をのばし、秋に刈り取って冬場の餌にした。

 放牧を行っている期間には、朝、牛を放牧地に追っていって、夕方に放牧地から家に追って戻した。牛を追っていくのは学校に行く前の子供の仕事で、夏休み、冬休みには、各地区で中学生がリーダーとなり小学校高学年までの子供達が弁当持参で放牧地に牛を追っていき、夕方に連れ帰っていたが、夏休みには牛そっちのけで仲間と最寄りの海などで遊び、牛が迷子になってよく親に叱られたという。

 集落から放牧地まで牛を追っていく道が牛道で、昔の道は三尺幅程度で、斜面は石段になっていた。道の途中には水場が設けられていた。

 

(5)牛にまつわる信仰

①牛神様

  山田集落の高所にある保食神社は、保食大神を祭神として祀るが、通称「牛神様」と呼ばれ、御神体は石とされている。

 明治8年(1875)の『神社明細調帳』には、山田村雑社として保食神社があり、祭神は保食神で神体は石とされ、寶拝殿は奥行2間半幅9尺、祭日は11月初丑となっている。これらの既述は今日の保食神社の状況と同じだが、『神社明細調帳』には別に牛神社の記載もある。これについては祭神の既述はなく、添付されている牛神社の見取図は現在の保食神社の地勢に似ており、図の寶拝殿のサイズも保食神社と同じである事から、1つの神社を2つに紹介したものと思われる。大正7年(1918)刊の『生月村郷土誌』には、牛神祭という項で次のような記述がある。

「大字山田鯛ノ鼻ニ牛神アリ、神体ハ大小二個ノ石体ナリ。該神ノ祭ハ例年旧正月十一日ニシテ、此ノ島ノ農家ハ勿論平戸下方面ヨリノ参詣者多シ。此ノ日山田一部ノ両在トモ各戸酒肴ヲ構ヘテ客ヲ待ツ。

 口碑ニ曰ク、昔農夫三吉ト云フモノ「スキノカミ」ニ草刈ニ行キ草ヲ牛ニ負ハセタルニ、片荷ノ為鞍ノ覆ル模様アリシヨリ、路傍ノ石ヲ取リテ軽キ方ノ荷ニ加ヘテ荷ヲ相平均セシメタリ。帰宅ノ後牛小屋ノ前ニソノ石ヲ取リ捨テ置キ、翌朝見レバ住宅ノ戸口ニアリ。何心ナク庭ノ隅ニ取リ片ツケ置ケバ又翌日モ前ノ如ク戸口ニアリ。斯クスルコト数回ニ及ビシカバ家人モ不思議ノ事ニ思ヒ、事ノ次第ヲ神官ニ告ゲテ神宅ヲ請ヒシニ、件ノ石ハ牛ノ病ヲ治シ牛ヲ保護スルノ霊ノコモルル由知レタバ村人祀リテ牛神トナセリト。

 其後此ノ石ハ年々大サヲ増シタリト傳ヘ、現在見ル所ハ高サ三尺根周リ六尺位ニシテ八人ニテ漸ク荷フベシ。別ニコノ石ノ子ト称スルモノアリ。明治ノ初頃度島ノ者数名此ノ石ヲ盗ミ取リテ我ガ里ノ神ニセント企テ、夜中ヒソカニ船ニ運ビ載セ、度島ニ向ヒ船ヲ漕クコト終夜朝ニ至ル。夜明ケテ見レバ、船ハ元ノ位置(山見岬附近)ニアリ。右ノ人々霊験ノ現ナルニ恐レ石ヲ元ノ地ニ返シ罪ヲ謝シテ去レリト云フ。」

 ちなみに三吉が石を拾ったとされる鋤の神という場所は、かくれキリシタン信者が雨乞い行事をしていた場所でもあった。

 保食神社(牛神様)の大祭は、霜月(11月)の最初の丑の日で、比売神社神主による神事がある。山田で牛を飼っている家は、地区毎に数軒で組を作っていて、その日は組毎にお参りに来る。各自で供物を重箱に入れ、ビール瓶に酒を入れて参拝するのが昔からの習わしで、重箱に入れたオゴク(御飯)や膾を神前に供えた後、先の人が供えてお祓いが済んだ供物を詰めて帰り、牛に食べさせた。また刺身に藁縄の輪を通したものも供えた。参拝の際にいただいたお札はウシマヤ(牛小屋)などに貼り(一頭につき一枚を貼る)、参拝後は、組毎に決めた宿に集まって宴会をする。なお昔は、この日は牛にも休みを取らせたという。

 年を越した正月11日には「牛の正月」が行われ、神事や、供物を供えて持ち帰ったり、お札を貼るなどは同じだが、各個人で参拝する形で、昔は牛を曳いて参拝する人もあったという。大祭や牛の正月には、現在も、他集落から畜産農家の参拝があるが、昔は的山大島や度島、平戸の南部あたりからも多くの参拝者が来ていたそうで、山田の人が、よそから参拝に来た知人を接待する風習もあったという。

  なお牛神様については、かくれキリシタンに関連する形の別の伝承もある。明治13年(1880)に一家で改宗した川本仙五郎家の墓誌には、仙五郎の曾祖父にあたる幸二郎は、禁教に対抗して御神体を屋敷内の竹薮に埋め、その上に大石を据え、朝夕に人目を忍びつつオラショを唱えていたが、それに倣い、他の村人達も信仰するようになったが、それがいつしか牛神様として崇敬されるようになったという。また牛神様は、生月と下方(平戸島中南部)のかくれ(潜伏)キリシタンの秘密の集会所になっていたという伝承もある。伝説の確認はにわかには出来ないが、確かに山田のかくれキリシタン信者が多く保食神社の氏子になっていて、日草の垣内(組)の中には、年末の「終い寄り」行事と元旦の「初寄り」行事の時、男性が御前様の前でオラショを唱える間、婦人達が牛神様を詣る習慣を持つ所もあった。壱部にも牛神様が祀られている場所がある。

②牛供養

  牛供養は山田の天台宗・明法院が山田地区の牛墓を回って祈祷を行う行事である。8月の丑の日が祭日だが、盆に近い場合は少しずらす。山田区長と班長(3名)が集まり、まず明法院で護摩祈祷をし、その後、山田、日草、正和に各一カ所ある牛供養塔などを回る。牛供養塔は山田と日草は一般の墓地の中にあるが、日草はその近傍に昔、牛を埋葬していたという。正和は修善寺という寺院跡の下にある三界萬霊塔の所で行っている。供養をする場所には予め竹の棚を立て、四方に緑・黄・赤・白・紫に彩色された紙の旗を下げる。棚の上にはオゴク(御飯)、煎餅、砂糖菓子などを供え、供養塔の上や前にはミズノコ(米・小豆・カボチャの賽の目切りを混ぜたもの)、酒、水を供え、花筒に花をさす。

③かくれキリシタンの牛に関する行事

 「野立ち」という儀礼が壱部、堺目、元触、山田など在方各集落で行われていた。この儀礼は牛を野山に追い出した時、悪霊が危害を及ぼさないように、道沿いや野原の決められた場所を、オラショを唱えながらお水やオテンペンシャで祓い、紙や竹で作ったオマブリをその場所に納めるものである。

 壱部の各津元では、1月の早い時期の日曜に行う「まや追い出し」で牛の無事を御前様に祈願して野立ちを行い、12月のできるだけ遅い日曜に行う「まや追い込み」で、牛の無事が成就した事を御前様に報告感謝した。「まや追い出し」では役中が津元に参集した後、和紙を剣先十字型に切ってオマブリを作り、ロッカンのオラショを唱える間にオマブリにお水をうって魂入れをした。その後オマブリを小竹の筒に詰め、炒った大豆と一緒に袋に入れ、2名の役中が野を回った。祓う場所に来るとオテンペンシャで祓いサンジョワン様のお水で清めた後、オマブリを入れた小竹の筒と炒った大豆を納めた。なお「まや追い出し」と「まや追い込み」の時には津元に属する各家もオマブリを持ち帰り、牛にもオマブリを食べさせた。また4月に壱部の六ヶ所の津元が合同で行う「六ヶ所寄り」の際にも野立ちを行っていた。

 堺目では、1月6日の午前中、山野を祓う「野立ち」を行い、午後、集落周辺を主に祓う「大構え」を行ったが、後者は集落に悪い病気などが侵入しないように行われる行事である。野立ちでは朝、親父役と御爺役、役中が御堂に参集し、サンジュワン様(お水瓶)、オテンペンシャ、和紙を剣先十字型に切ったオマブリを各自が持ち、3人1組で2組に分かれて回る。定められた場所(牛道沿いの場所)に着くと、オテンペンシャとお水を持った者がオラショ「キリアメマリア」を唱えながら祓い、オマブリを岩の隙間などに入れた。野立ちの最後には大田の頭(ムタンカシラ)という場所で合流し、そこの祠にセシ(スルメ)を供え、蝋燭を灯し、六巻のオラショを唱えた。御堂に戻って昼食を取った後、2組に分かれて大構えの祓う場所を回るが、儀礼の内容は野立ちと同じで、最後は合流して野田の坂から海の方に向いて六巻のオラショを唱えた。これを「祓い飛ばし」と言った。

 元触の野立ちは、昔から春の彼岸入りの10日前頃の日曜に行われていた。午後3時頃、御爺役と役中が津元に集まる。津元で一座の御恩礼(オラショ)を唱え、それが終わると役中の2人が99個の団子とセーシ(鯣)4つを盆に入れ、風呂敷で包んだ。親父役と御爺役に各々役中が2人付き、それぞれのコースを回った。その間、津元に残った2人の役中は御恩礼を上げ続けた。野立ちに出た親父役と御爺役は御水瓶を懐に入れ、塩の包みを袂に入れ、素足に藁草履を履いて、池の堤や三叉路などの決められた祓う場所を回った。なお近年は回る地点に十字を刻んだ石の標注が立てられている。各々の場所では塩を撒いてお水をうち、オラショを唱えながら、紙を折って四角にしたオマブリを納めた。道中、親父役(御爺役)は他人と口を聞いてはならず、どうしても話さなければならない時は、付き添いの役中が代わって話した。最後の地点で残った塩などを納めてから津元に戻った。戻ると直ちに椀に入れ砂糖をかけた焼餅にお茶をかけたものを食べた。その後一同で酒肴をいただいた。

  山田では、旧日草3垣内で野立ちが行われていた。前もって小竹を縦に割って麻紐で縛って十字型にした特殊なオマブリを作っておき、正月4日にミナミ(島の西側)とマエメ(集落近辺)を分担して回り、オマブリを納めた。特にミナミは、牛の放牧場であるサクラゴエと、そこにいたる牛道の途中が納め所となっていた。

 

5.酒作りの出稼ぎ

 生月島の在方集落の住民(農民)は農閑期に出稼ぎを盛んに行っていた。大正8年(1919)の『生月村郷土誌』には「其の使用状況に至りては知るを得ざるも女の一パーセント約百七十人は奉公其の他へ出で男約一五パーセント二百五十人は酒屋醤油屋 其の他へ出で又は、石材土木共同受負其ノ他にして年半分又は類数年間は出向ものあり」とある。石材土木共同受負(積石工)については別途紹介するが、特に築堤など海岸護岸の技術に秀でており、それが元となり現在も海岸護岸を得意とする建設会社数社があり、島の経済を支える一翼となっている。

 戦後になるとまき網に乗り組むイナカの人の数が増え、昭和30年代にはウラ同様好景気に沸き、家の建て替えや農業の機械化が進んだ。まき網も港湾建設業も常雇いで雇用や収入が安定しているが、出稼ぎの形態の酒造りは非常勤の形態だったため、次第に減少している。

 生月島は長崎県内では小値賀島と並び、酒造りに従事する職人を多く出してきた土地である。農家の男は11月の初め、稲刈りが終わると造り酒屋に働きに出て、3月末頃まで酒造りに従事し、帰ってから麦の収穫と苗代仕事をした。行き先は福岡や佐賀、県内の造り酒屋で、最初、新参の蔵男として入り、徐々に仕事を覚えて認められ、最後には酒造りの責任者である杜氏になった。

  堺目の松山鮎蔵氏の場合、終戦後、福岡県宇美の萬代酒造に勤めたのを皮切りに、東彼杵の「恵美福」佐賀の「天吹」甘木の「雪の里」早岐の「春凪」福岡の「富の寿」など各地の造り酒屋に勤め、最後に対馬の白嶽酒造で長く杜氏を勤めた。松山氏は佐賀県の酒造試験場で技術研修を受けたこともあり、各地の造り酒屋から請われて酒造りの指導をしていたという。この例のように戦後、生月島の杜氏や蔵男達は、各地の造り酒屋で優れた技量を発揮し、美味い酒をつくり出していた。そのため生月出身の職人は、他地域の職人よりも高い給料を貰っていたという。またその期待に応えるべく職人達は生月酒造杜氏組合(時期によって名前が異なる)という団体を作り、研修会を開催したり、上部団体である九州連合会が開催する研究会に参加して研鑽を積んでいた。

 加場安吉郎氏によると、酒造りに行き始めた昭和13年頃、生月島には酒造りの責任者である杜氏が7~8人程おり、彼らの引きで早ければ小学校を卒業すると、酒屋に蔵男(蔵子)として入った。11月初め、稲刈りが終わる頃に蔵入りとなるが、酒蔵に出かける前には願立てといい、杜氏が一緒に行く蔵男を自宅に寄せ、一同で氏神様に詣って酒がきちんと出来るよう祈願した後、杜氏の家で宴会をした。出かける時は作業着や藁草履とともに、行事用の一張羅の着物も柳行李に入れた。

  酒蔵に着き、一同で入り込み(造り始め、甑起こしとも言う)の行事を終えると、いよいよ酒造りが始まる。半仕舞いで造る比較的小さな規模の酒蔵では杜氏を含め7~8人の規模だが、大きな酒屋では蔵も複数あり20人以上の人が働いていたため、小値賀島や肥前町(佐賀県)、柳川などから来た蔵人と一緒に働いた。

  まず精米した米をよく洗い、水に浸して吸わせる。精米は米の表面に多い糠を削る作業で専門の人が行い、普通の酒は3割程度だが、品評会に出す吟醸酒の場合6割以上削る。水を吸わせるのも秒単位の微妙な作業で、その後米を蒸した。

 蒸した米を用い、米の澱粉をブドウ糖に変える働きをする麹と、糖分からアルコールを造る酵母を増殖させた酒母(もと)を作るが、温度や湿度の管理に大変注意する。そして酒母に蒸米、麹、水を初添え、中添え、留添えの三段で仕込み、出来た「もろみ」で糖化と発酵を同時に行っていく。充分にアルコール分が出たところで、もろみを酒袋に入れて絞り、液体の酒と固体の酒粕に分離するが、酒の方は一週間ほどそのままにして、滓引といって固形分を沈殿して取り除く。そのあとろ過し、いくつかの樽で出来た酒を混ぜ合わせ、火入れという65度程での低温殺菌を行い、熟成させて出荷した。

  酒蔵では毎日の起床は早朝3時だったが、昔は泡番といい12時まで起きて発酵中のもろみから湧き出る泡を取り除く役が3日に1度回ってくるのが辛かったという。しかも泡番をしていて居眠りすると、泡が仕込み桶から溢れてそこら中泡だらけになり、掃除が大変だったという。また三度の食事は賄いさんが作り、御飯を腹一杯食べられるのもこの仕事の魅力だったという。

 酒造期は火入れの作業が終わる3月末頃に終わる。池田光次氏や松山鮎蔵氏の話では、生月島の人が多く働いていた佐賀の天吹酒造の造り仕舞い(甑倒し)の行事では、太鼓を叩いて堺目のヨイヤサ(祝い唄)を唄い、小売店や取引先の他に地元の町長にも来て貰って盛大に宴会をした。生月島に帰ってくると一同で氏神様にお参りして願成就を感謝し、杜氏の家で宴会をした。それが終わると麦刈りや苗代仕事が待っていた。

  生月島には最盛期には120人もの酒造りの職人がいたが、雇用条件の問題などもあってか次第に減少し、今では僅か数人となってしまっている。

 

6.薪

  冒頭に述べたように生月島では昭和30年代頃まで、島内の土地の多くは田畑や放牧地に利用され、森林は1割に満たない状況だった。そのため石炭や石油、電気などがエネルギーとして利用される以前、タキモン(薪)が炊事や風呂焚き、水産製品の製造に用いられていた時代には、島内だけで必要な薪を自給出来ない状況だった。この状況は江戸時代まで遡ると思われ、鯨油の製造の際に大量の薪を必要とした益冨組では、御崎の納屋場だけで1漁期(冬~春)に150万斤もの薪が消費されていたが(『勇魚取絵詞』)、明治4年(1871)「薪買入帳」(益冨家文書643)では、御崎浦の大納屋が根獅子村や獅子村の者から大量の薪を買い入れている事実が確認できる。

 しかし生月島のイナカ(在方)ではタキモンや家建ての材木は各家の持ち山で自給できたようで、枯枝やタキツケ(火を起こす時に使う燃料)に使う松葉も持ち山で採取していた。なお大正7年(1918)の『生月村郷土誌』には、島内での薪の状況とともに「山のクチアケ」という習慣について紹介している。

「本島は概して森林少く、木材は固より薪に乏しく、山田(※舘浦の事か)一部の両浦の薪炭は全部平戸島より移入するものにして、わけて一部浦の住民はたきつけにさへ不自由を感ずること常なり。されば漁ある時は、安価又は無代価にて在部の者に魚を供給し、一年に数回、一部在方の山に入りて、たきつけを取るてふ交換的遺風あり。

  冬季に入り、松葉の多く落つる頃、在方にては、自家用の松葉を採集して後、在方一同話合の上、期日を定め、山の解放をなし、之を浦に通知す。通知あれば浦人はその日の未明より起きて山に入り、成可多くの松葉を集め来りて、一年中のたきつけとして保存するなり、此の日即ち山の口開きと云ふ。」

 この記述から、ウラ(浦方)では薪の供給を島外に仰いでいたが、定期的に魚を贈る事で、島内の在方の山に年数回薪取りに入る許しを貰ったり、冬場に日を決めてタキツケ用の松葉を取らせて貰う習慣(山の口開け)があった事が分かる。

  昭和初期の舘浦では、薪は家用だけでなく、まき網船の炊事用に大量に必要とされたが、夏から秋にかけての期間、シモカタ(平戸島西岸の北は主師から南は猪渡谷にかけての地域)からテント船で運ばれてきていた。舘浦で薪や炭を一手に商っていた黒田家(屋号キドンヤ)では、当初はカケギという長さ1.5㍍程の丸太の形で納入されていたとされる。カケギは委託販売で、浜で計量して単価を掛けて販売代金を出すと、8%を口銭としてキドンヤに納めた。売り手(下方の人)は代金を受け取ると、キドンヤの板の間で一杯やって帰るのが常だった。カケギを購入した家ではタキモンワリさんを雇い、4~8等分、長さ30㌢程のサイズに割って貰っていた。その後昭和30年代には、売り手方で割って束ねたタバギが持ち込まれるようになり、キドンヤがそれを購入・販売する形になっている。

  舘浦と指呼の距離にある春日も、背後には安満岳が聳えていて雑木には事欠かなかったため、薪を大量に切り出して舘浦に出荷していた。夏に伐採して現地に置いて乾燥させたものを、人がオイ(ショイコ)で背負って海岸まで下ろし、四尋船に積んで舘浦に運び、キドンヤ(黒田家)に委託して販売して貰っていた。

  但し昭和初期には、ニキリ(縫切)網やまき網で取った鰯の製造(イリコ、魚油、絞滓)には石炭が使われるようになっていた。昭和初期の舘浦では石炭もキドンヤが取り扱い、江迎の麓炭坑から機帆船で運ばれた石炭が各製造納屋に配達されていた。

 




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