長崎県平戸市生月町博物館「島の館」

生月島の歴史 No.10生月島の積石工

生月島の積石工

 

1.生月島の石積文化

  生月島は基層に平戸層の砂岩、上層に玄武岩があり、海岸にはそれらの岩石からなる崖や転石が多く見られる。また地面にも地滑りなどで発生した大小多くの石があり、石の確保は容易である。

 生月島で最も古い積石構造物は山田にある富永古墳などの石室である。また江戸時代初期のガスパル様や井上氏墓地などの墓では、野石を50㌢程積んだ基壇を設けている。農村地域には現在も田畑の石垣や石塁が多く見られる他、昭和30年代以前の農家は、家の背後や側面に垂直に立った野石の石垣・石塁を設け、上に屋根をかけていた。

 生月島の海岸には、水ノ浦、元浦、浜沖、松本、黒瀬海岸などに石積波戸が存在した。黒瀬海岸にある正田波戸は台風で破損したが、モッコで担ぐ大きさの海岸の転石を使って築かれていて、江戸時代に築造されたと思われる。また松本には現在も石積波戸が残るが、昭和20年代に起重機を使って10㌧規模の石を積んだものである。他に壱部港や舘浦港、定置網の納屋があった場所にも石積波戸が存在した事が資料や古写真で確認されている。また御崎浦にはかつて石積突堤や護岸を設けた鯨組の納屋場が存在した事が、捕鯨図説『勇魚取絵詞』その他の資料から確認できる。

 生月島では角が取れた海岸の転石を使った特殊な石積技術が発達し、この技術を有した積石工集団が島内の元触集落小場地区、山田集落正田地区に存在した。この積石工集団の活動は江戸時代から確認でき、平戸藩内のみならず他藩領まで出掛けて波戸や塩田・干拓地の築堤工事を行っている。江戸時代の生月島の波戸なども彼らの手によるものと思われるが、注目すべきは元触や山田はかくれキリシタン信仰を継承してきた集落であり、彼らは島にひっそりと暮らして信仰を続けた訳では無く、自らの技術を活かして遠方まで働きに出ていた事が分かる。

 さらに彼らは大正末期頃から始まる動力船の係留に必要な広大な静水面を設けるための大規模な築堤工事にも関係し、優れた技術を買われて玄界灘から五島灘にかけての各地で波戸工事に従事している。その後昭和30年代になると彼らは石積からコンクリートへの技術転換を果たし、近代的な港湾建設会社へと発展し、こんにちも生月島の重要な基幹産業の一つとなっている。

 

2.江戸~明治時代の石積工事

(1)発着水面確保のための波戸

  生月島の沿岸は、比較的出入りが少ない単調な海岸線が多い上、西岸の殆どと東岸の北部は玄武岩の断崖が続く、船の係留に不適な地形である。東岸南部の舘浦付近は砂浜で和船の引き上げが可能で(昔は「舘の浜」と称した)、東岸中部の浜沖から壱部浦を経て黒瀬に至る海岸には大小の転石からなる磯浜が断続的に存在し、和船の引き上げが可能な場所も存在する。江戸時代の「生月島絵図」には壱部浦の所に「荒磯船繋ぎなし」、舘浦の所に「遠浅船繋わるし」と記載されている。しかし生月島では東側の緩斜面を利用した稲作が可能で、東側にある生月湾は豊かな漁場で様々な漁業を展開でき、多くの人口を養うことが可能だった。そのため漁船や便船を発着させる事で外部との交通の拠点となる港を設ける必要があった。

 港の形態は、そこで運用する船の性質によって変化する。例えば陸上への引き上げが容易な原始の刳船、古代~中世の準構造船、近世以降の小型の和船などは砂浜や磯浜を利用でき、風波が無い時にはそのまま氾水できるが、多少海が荒れた時には氾水時だけ風波が当たらない静水面の確保が必要となる。一方、古代の遣唐使船、中世日本に渡航したジャンク、中世後期の大型和船(準構造船・構造船)、近代のスクリュー付き動力船などは、通常、海に係留した状態で停泊するため、一定の水深を有した静水面が必要となる。そのため近世以前には、深い湾入や川の河口などが停泊地に利用されている。

 静水面を確保するために人工的に築かれた国内最初の構造物は、平清盛が承安3年(1173)に兵庫・大輪田泊に建設された経が島である。経が島は石積ではなく、石を大量に投棄して作った捨石構造物だが、刳船や準構造船を浜から海に下ろしたり、海から浜に引き上げたりする時や、船から荷物や人を上げ下ろしする時に必要な、波の影響が小さい静水面を確保する事ができた。のちに鎌倉時代、鎌倉・由比ヶ浜に築造された和賀江島も同様の効果を持つ捨石構造物である。

  近世以降に専ら設けられるようになる静水面確保のための構造物が波戸である。波戸は海に長く突き出た形で築かれる壁状の構造物で、当初は石を積んで作られたが、捨石で海中に築いた土台の上に、内側に石を詰めながら表面を石垣で覆って築かれており、いわば捨石構造物の発展系である。海面から立ち上がる積石部分には風や高波の影響を避ける効果があるが、当初の波戸は、陸上の船を氾水させて海に出す際や、海上の船が着岸する際に、船が横波を受けて転覆する事が無いようにするのが主な目的だった。

  江戸時代、生月島に築かれた波戸は、集落や漁場の関係で東岸に集中しているが、南北に伸びた生月島では東岸に乗船場を設ける限りは、冬期の強大な北西風の影響を免れる事ができた。波戸は、概ね岸から南東~南に向けて斜めに伸ばしているが、その形態には、北~北東風の風波を遮る効果が期待されたのである。

①一本波戸

 記録に残る生月島の波戸で最も古いのは、司馬江漢が天明8年(1788)12月から翌1月にかけて島に滞在した際の見聞を記した『西遊旅譚』「生月島之図」に描かれた壱部浦の本波戸で、同図には益冨家の前に海に突き出た本波戸と、浜に着けた2艘の船が描かれている。天保3年(1832)に刊行された捕鯨図説『勇魚取絵詞』の「生月一部浦益冨宅組出図」にも、益冨家前の広場の右(北)側から南東に出た後、南に湾曲した本波戸が描かれている。大正7年(1918)刊行の『生月村郷土誌』には「本波止、生月郵便局前の波止にして初め益富家の捕鯨の全盛期に築くところ也。東北側より七十余間西南側より十五間の築出をなし、其の中に約六百坪の水を抱けども 入波強くために宮田波止に劣るところあり」とある。昭和23年(1948)撮影の航空写真(USA M827-102)でも、南東に出た後南に鈎状に曲がった本波戸が確認出来る。本波戸が設けられた海岸は、もともと南北に伸びた単調な海岸で、波戸は益冨家からの船の出入りのためにそこに設ける必然性があったと思われるが、そのために波戸を鍵状に曲がった形状にして内側に静かな水面を作る必要があったと考えられる。

  一本波戸は御崎の元浦、壱部の浜沖、里浜の合掌庵、山田の黒瀬海岸にも存在した。元浦には江戸時代中頃(18世紀前期)に開かれた元浦大敷(定置網)の納屋が置かれていて、波戸は大敷網の操業と違わない時期に設けられた可能性もあるが、現在の波戸は『生月町史』によると、昭和7年(1932)に入江の北岸に大敷納屋が建つ敷地が造成され、その東端から南に向けて延びた積石突堤が築造されたとされる。元浦の波戸は、南下する海岸線が西に折れる地点を基点にして南に真っ直ぐ伸び、西側に静水面を作っている。元浦のスタイルは、屈曲する海岸線を利用し、海岸線の延長上に波戸を構築する事で海岸線との間に静水面を確保する形だった。

 浜沖の波戸は、壱部・浜沖海岸の北側に鈍角に突き出た小さな岬の南側に、南に伸びた小さな波戸を設けてある。波戸の部分の海岸は南西に伸び、波戸との間に三角形の小規模な静水面が確保されている。

 里浜の合掌庵(現里浜遊園地付近)付近はもともと南に伸びる海岸線が西に屈曲し再び南に向かっていたが、その西に曲がる地点を基点に南に伸びた小さな波戸が存在した事が、昭和23年(1948)撮影の航空写真(USA M827-102)で確認でき、波戸の西側に四角の小さな静水面が確保されている。

  山田北東の黒瀬海岸にあった正田波戸は平成19年(2007)の台風で崩壊・消滅したが、波戸は南北に伸びた海岸から東に突き出した後、直ぐに南東に伸びていた。崩壊以前に調査を行った西和夫氏によると、波戸は長さ38㍍余り、幅6㍍余り、根元付近の高さは4㍍余りで、数度の改修は経ていたものの、天端に残る舫石の間隔の単位から江戸時代の築造と推定された。使用した石もモッコで担げる重さと大きさで、動力起重機の導入以前に築かれたのは間違いない。なおこの波戸は正和地区の積石工達が仕事に使うダンベ船などを引き上げていた場所だという。

 舘浦北部、比売神社の下にあった宮ノ下波戸は、山口県下関市豊浦町の川島神社に残る明治11年(1878)奉納の生月島舘前網組の絵馬に描かれている。同図には、入江北側の納屋の前から沖に延びた一本の波戸が確認出来るが、受け波戸は確認できない。大正7年(1918)刊行の『生月村郷土誌』に「納屋場の波止、五十二間築出、東及び北の風浪を防ぐ」とあるのもこの波戸の事と思われる。町田八郎氏が描いた大波戸整備以前の舘浦の風景を俯瞰的に描いた油絵にも、宮ノ下には斜めに突き出た一本波戸が描かれている。その後の大波戸築造後の古写真(昭和初期)や昭和23年(1948)撮影の航空写真(USA M827-101)には、比売神社の下にある河口の北側で海岸が突出し、その先端から南に伸びた波戸と、南側にある大波戸の基部から東北東に伸びた受け波戸が確認できる。両方の波戸の間の開口部は狭く、内側にはある程度の広さの静水面が存在し、小型和船の船溜まりに用いられていた事が古写真から確認できる。この受け波戸については明治11年の絵馬に描かれていない事から、後述する新しい港湾思想(停泊水面確保)に基づいて大正時代以降に設けられたものと思われる。

 また舘浦中部、現在の舘浦漁協の北側にあった屋敷の波戸についても、前述の町田氏の油絵には斜めに伸びた波戸が確認できるが、他に形状が分かる図や写真は今のところ確認出来ない。大正7年(1918)刊行の『生月村郷土誌』には「役所の前波止、海中に築出こと四十三間東及び北の風浪を防ぐ」とあり、一本波戸である可能性が高い。波戸南側の静水面に面した陸上には集落内まで広がった船引場という広場があり、荒天時に和船を収容する場となっていた。

 このように一本波戸は基本的に海岸の角部を利用して設けられているが、壱部浦の本波戸のように直線に近い海岸線に設ける場合には、途中を内側に湾曲させて静水面を確保している。

 なお元触の積石工は、江戸時代後期に山口県下関市の響灘に面した安岡の海岸に波戸を築造している。安岡では現在もその後の埋め立てで地中に埋められた石積波戸の天場のみ確認できるが、港付近に残る龍神碑には、文政6年(1823)の年号とともに「生月 石工 甚蔵」と刻まれているのが確認できる。この碑文から生月島出身の石工・甚蔵がこの年、安岡での波戸の修築にあたった事が分かるが、生月島里浜の住吉神社にある花崗岩製の狛犬には、文政7年(1824)の奉納年とともに願主として「里村 甚蔵」の名が刻まれている。この人物と前述した安岡港龍神碑の甚蔵は同一人物で、年代から推測すると、住吉神社の狛犬の奉献は安岡の工事の完成を記念したものと考えられる。昭和22年(1947)撮影の航空写真(USA M120-10)を見ると、以前の安岡の海岸は砂浜で、西側にある南西に突き出た岬(村崎ノ鼻)によって北や北西の風波は遮られるものの、西や南西からの風波に弱い事が分かる。写真では浜の北端となる岬の付け根付近に南東に向けて突き出た波戸が確認でき、波戸と浜に挟まれた海面が船の発着に使われたと思われる。

 なお『やすおか史誌』によると、下関市蓋井島の突堤も文政5年(1822)に甚蔵が築造し、龍神の碑にその名が記されているという。昭和23年(1948)撮影の航空写真(USA M741-A-48)を見ると、蓋井島南岸にある集落前で、北東に向かう海岸が短く北西に向きを変え、再び北東に向かっているが、その北西に変わる角を基点に北東方向に真っ直ぐ波戸が伸び、さらにその先端から南東に湾曲した波戸が伸びているが、最初の北東に真っすぐ伸びた部分が、あるいは甚蔵が作った突堤かも知れない。

  五島中通島立串の「東の波戸」も、明治時代頃に生月島石工の神田小三郎が築造し、その際当地の漁業資本家・柴田家の前面と裏に石垣を築いた事が「柴田家系図属要」に記されている。

 このように生月積石工は江戸時代、他藩・他地域まで出向いて工事を行っているが、それは彼らが海岸石を用いた高い積石技術を持っていたからに他ならない。

 

②ハの字波戸

  生月島の波戸には本波戸とともにハの字になるように短い受け波戸を設けたものがあり、壱部浦の宮田、元触の松本波戸などがこの形態である。二本のうち船の発着地の北側にある東南~南向きに伸びた波戸は、一本波戸同様、冬季に生月湾口から吹く北~北東からの風波を遮る効果が期待できた。一方、発着地の南側にある北東向きに伸びた短い波戸は、南~東南からの風波を避ける事から、二本の波戸で海岸に到達する波を全体的に止めて、発着地をより静かな水面にする効果が期待できた。その意味でハの字波戸は一本波戸の進化系と捉えられるが、一本波戸が多く築かれたような海岸線の屈曲部ではなく、直線に近い海岸に設けられている点にも留意する必要がある。つまり自然地形による風波からの掩護が少ない場所で、受け波戸の効果が期待された事が考えられる。

  ハの字波戸で古い記録が残るのは元触の松本波戸である。松本の沖には享保年間に鮪大敷網(定置網)が設置されていて、波戸の陸側には平成初頭まで定置網の納屋が設けられていたが、定置網の開設に伴い定置網の船を発着させるための波戸が設けられた可能性がある。天明8年(1788)12月8日に松本の鮪大敷網の漁を見学した司馬江漢は、『日本風景図』(仮)という油彩画を描いているが、この絵は松本から沖を眺めた風景を左右反転させて描いたと思われる。この絵の近景には陸上の納屋と思しき建物とともに、左右から伸びる石積波戸が描かれ、右側(南側)の波戸の上には鮪見楼がある。現在右側の波戸は確認出来ないが、古老の聞き取りでも松本には北側の現在残る本波戸とともに、南側にも短い受け波戸があったとされ、両方の波戸ともモッコで担げる程度の石が用いられていたという。昭和23年(1948)撮影の航空写真(USA M827-101)では、南東に伸びた本波戸とともに、東南東に突き出たごく短い受け波戸が確認できるが、両方の間は広く開いているため、南からの波風は完全には防ぎ切れないように思える。なお本波戸は戦後のルース台風で崩壊しているが、小場の住民によって再建されており、その際には起重機が用いられたため、現在残る波戸には10㌧を越える大石で築かれている。受け波戸の方は道路や海岸護岸の下に埋まっているものと思われる。なお現在の波戸は元触集落小場地区の住民が管理しているが、この形が戦後の再建以前からかは分からない。

 宮田波戸は壱部浦南部、現在の宮田公園の海際にあり、昭和23年(1948)撮影の航空写真(USA M827-102)では南東に突出する長い本波戸と、東に出た後、北東に伸びた細く短い受け波戸が確認でき、サイズが異なる受け波戸は後から作られた可能性がある。大正7年(1918)刊行の『生月村郷土誌』には「宮田の波止、半島状に南に向って海中に築出すること六十三間 西方對岸の民家の埋築地と相對して水面約八百五十坪の海水を擁して多数の漁船を安全に抱く」とある。宮田公園の造成以前には船溜まりと船を引き揚げる斜面(ゾラシ)が残っていた。

 

(2)鯨組関係施設

①御崎浦鯨組納屋場の護岸

 西海漁場の鯨組が、捕獲した鯨の解体・加工に用いた施設が鯨組納屋場である。西海漁場の鯨組納屋場では、大納屋などの加工施設が陸上に建ち並び、海岸を鯨捌場として鯨の解体が行われているが、18世紀の網組の納屋場では、建物がある平地と捌場である渚の間に高低差があり、そこに石垣による護岸が設けられている。こうした納屋場に伴う護岸は、安永2年(1773)の『小児の弄鯨一件の巻』に描かれた小川島納屋場の図でも確認できる。

 生月島では享保10年(1725)に畳屋(のちの益冨)又左衛門等が舘浦宮ノ下で捕鯨を始め、享保14年(1729)に根拠地を島の北部の御崎浦に移しており、御崎浦にはこの時に納屋場が設けられたと思われる。司馬江漢が天明8年(1788)12月から翌年1月にかけて生月島を滞在した際の見聞を図と文章で記した『西遊旅譚』(『画図西遊譚』)の「鯨切解図」には、渚の鯨捌場を弓なりに囲むように延びる護岸が描かれている。天保3年(1832)に刊行された捕鯨図説『勇魚取絵詞』の「生月御崎納屋全図」「生月御崎納屋場背美鯨漕寄図」「生月御崎納屋場背美鯨切解図」などでは納屋場を俯瞰して描いているが、鯨捌場の渚を挟むように、先が尖った三角形(北側)と内側に湾曲した(南側)2本の幅が広い石積の波戸状護岸が設けられ、その間の鯨捌場の岸側にも石垣が設けられ、鯨捌場を弓なりに石垣が囲む形になっている。なお加工を行う納屋の建物群の前の石垣には渚に降りる2本の階段が設けられ、解体した鯨の肉などを納屋に運び込むのに用いられている。

 鯨捌場を囲む石垣には、納屋の建物群を建てる地盤を整える役割と、鯨捌場との間に高低差を設けて、その上に轆轤という人力ウインチを設置する目的があったと思われる。西海漁場では轆轤を鯨体の引き上げだけでなく解体にも用いたが、轆轤の力を効果的に及ぼすため、轆轤を高所に据え、ロープがどこかに当たった摩擦で力が減殺する事が無いようにしていたのである。

 

②古賀江網干場

 御崎浦に隣接する古賀江は、昔、御崎浦に拠った益冨組が鯨網を干すのに用いた場所で、

現在も、海浜公園の敷地中央に石敷の遺構が保存されている。苧製の鯨網はこまめに干さないと腐る恐れがあり、他の鯨組では物干し竿のようなものに掛けたりしたが、古賀江では石敷きに広げて乾かす方法が採られていた。60㎝ほどの大きさの多角形の平石を多数敷き詰め、網を広げて干せるようにしていたが、敷石には近くの塩俵周辺で採取した柱状節理の玄武岩が用いられた。文化5年(1808)刊の『鯨史稿』の「生月島御崎浦漁場図」には、地表に網を広げて干している網干場の光景が描かれているが、石敷きの網干し遺構が確認されているのは古賀江だけである。

 

(3)塩田、干拓地の堤防

①大手原塩田

 生月積石工の活動が確認できる最も古い記録は、佐々町吉永文書の史料に残る次の記述である。

「一 土肥長六百間銀高拾貫目ニて石垣築立、生月忠助請負/一 同土ノ手銀高八貫六百四拾目ニて両御普請組ニ被仰付、左之通/御請書/一 大度大手原潟地御築立ニ付、土肥土之分私共方ヨリ積出之通、日雇召仕、御築立被仰付奉畏候、則積前銀高八貫六百四拾目ニて誠請為仕御築立可申上候、右御請書如/斯御座候 以上/卯十二月十五日  吉永斧左衛門/馬場崎右衛門/石田与兵衛」

 この史料によると、寛政7年(1795)佐世保市早岐の大手原(ハウステンボスの北)に塩田を作る際、600間(1080㍍)の堤防の石垣の築造を生月の忠助という者が銀10貫目で請け負ったとしている。

 

②深江土肥ノ浦新田・永坂白岩潟新田

 『鹿町町郷土誌』によると、江迎湾の南岸を干拓して造られた深江土肥ノ浦新田は文化3年(1806)から同6年にかけて工事が行われたが、それに石山頓平という生月の石工が参加し、特に難しい潮止め工事(最後に堤防を締め切る)を苦労して成し遂げたとされる。同新田の工事は堤防の長さ1800間(3240㍍)、新規耕地50町(約50㌶)という大規模なものだった。水門のところにある新田開築百五十年記念碑には、次のように記されている。

「鹿町、江迎両川を併せ呑む波静かな江迎湾、ここはその昔より深く入りこんだ遠浅の入江であった。古い記録によれば平戸藩第三十五代の藩主観中公は地方産業の振興、藩財政の確立の一策として遠浅の干拓を計画し、所謂「潟さし」などによる実地測量を行ない、工事に着手したのが、潟土も凍てつく文化三年旧十一月、今に頓平の投築きと伝えられる名石工、石山頓平等の労報いられ、三年の歳月を経て同六年十一月、最も難事とする潮留めに成功、ここに本町の穀倉と称された深江潟新田五十町歩とこれを抱く堤防千八百間を完成した。今を遡る百五十一年のことである。(後略)」  

 伝説によると頓平は、潮止めの難工事に際して失敗を重ねたが、通常なら成功を期して人柱を立てるところを、通りかかった犬を捕らえて代わりとし、無事工事を完成させたとされる。また生月島に残る伝説では、石山トンペイは平戸城の石垣を築く際に活躍し、工事の最後に空いた所に石を投げ込むと、うそのように見事に填ったとされ、これを俗に「トンペイの投げ築き(なげづき)」といい、その功で殿様から褒美の着物を拝領したという。生月島の伝説では石山トンペイは城の石垣を築く積石工になっており、そうだとすると穴太衆のような城の石垣石工が生月島の磯の転石を使った積石工の起源となるが、そこは単純に肯首できない。投げつきの話は、どちらかというと適所に石を落としていく海の築堤工事の方が相応しいシチュエーションなので、本来は鹿町などでの海の工事に由来した話だと思われる。

 深江土肥ノ浦新田の近傍にある永坂白岩潟新田についても、『深江潟新田地御築立覚帖』には「永坂白岩潟新田、頓平つきあげ、文化九壬申五月廿三日潮富」という記述があるとされ、石山頓平が江迎側の干拓工事にも関与したことが分かる。

  石山トンペイの子孫は現在も元触集落小場地区に在住されていて、小場垣内に属するかくれキリシタン信者である。

 

3.大正~昭和20年代の石積工事

(1)波戸

①港湾思想の転換

  生月島では明治以降も、突堤や護岸は島の積石工の手によって海岸の転石で築造されている。大正7年(1918)刊行の『生月村郷土誌』には当時の生月島の積石工業についての記述がある。

「本島民は自己の所有を耕耘するのみにては 諸税其の地の費用を支出し進んでは貯蓄をなす等の余裕少なければ 他地方に出稼の男女頗る多し。就中農家の副業として石工を営み自然石の取扱いは其の得意とするところにして 諸所の築港工事 波止の築造に出稼をなして 一年中約半箇年は不在がちの有様なれば 留守居の婦人が田畑の耕耘等まで引受くるもの少なからず。本島農業の比較的不振なる一面 之に起因するにあらざるか」 

 この記述から大正当時の生月島では農家の副業として積石工の出稼ぎが盛んに行われ、1年の半分はよそに出て働く程だった事や、そのため農業自体の振興には関心が薄かった事が記されている。なお同書中の「河海と人文との関係」には次のような記述がある。 

「由来本島は本邦稀有の良好なる漁場にして 享保年間以後此地を賑はせる益富家の捕鯨業を初として一時鮪の大敷漁あり又鰤の大敷ありき 近年は鰯場繰網三十余條の多きに達し其の漁獲高も亦甚だ多し

 然れども海岸線の出入りなく従って漁船の避難所なく 而も外洋より来る波浪荒きを以て自然波止築造の要を生じ 館浦及び一部浦に数個所の大なる波止を設け以て漁船の避難荷物の積み下ろし旅客の上下に便せり。(中略)

 漸く世の文運の発展に順ひ本島の水産業の発達も極目盛大となり 従来の波止にては満足されず ために館浦にては一大築港の要を認識し 其の計画愈愈歩を進めつつある模様ふれば その実現も遠からざるべし」  

  このように天然の湾入に乏しい生月島では、壱部浦や舘浦に数本の突堤が設けられ、係留された漁船の安全を確保している事が分かるが、風波が強い時には船の安全を完全には防ぎ切れなかった事が読みとれる。聞き取りでも、昔は台風の襲来が予想されると、船を陸揚げして船引場や集落内の街路に引き入れて守ったとされる。手間はさておき手漕ぎの和船ならその方法で守られようが、スクリュー付き動力を搭載した大型船の場合、多数の船を到着の度に揚陸するのは不可能である。

 前述文の末にもある舘浦の築港はそうした漁船の動力化・大型化を進める上で不可避の計画だったが、この計画では波戸の役割が、従来の船の発着を容易ならしめる静水面の確保から、常時船を係留できる広い水面の確保に移行している。

  既に述べたように、舘浦宮ノ下波戸や壱部浦宮田の波戸における受け波戸の築造は、こうした思想の転換期に整備された事が考えられるが、こうした新しい港湾思想(停泊水面確保)によって建設されたのが舘浦の新波戸である。

 

②舘浦新波戸の工事

  大正15年(1926)生月島で当時最大級の築堤事業、舘浦新波戸の工事が行われているが、第1期の突堤長は120間(約240㍍)という当時としては並外れて巨大なものだった。

 生月島では大正15年(1926)壱部浦の井元米吉によって巾着網船の動力まき網化が図られ、舘浦や壱部浦で相次いで動力まき網船団が興るが、それにより巾着網による冬場の大羽鰯や鰺、鯖などの捕獲が可能となり、周年操業が図られるようになる。しかし動力化した網船は船底にスクリューが突出した上、エンジン重量が加わり、従来の和船のように頻繁に浜に引き上げる事は困難であり、通常は海中に係留しておかねばならなかった。そのためには広い静水面が必要で、深い湾入が無い根拠地では大型の波戸の築造による港湾整備が必要となったのである。

 舘浦では昭和6年(1931)に新波戸に相対する位置に受け波戸(長さ80間)も完成し、ハの字型に設けられた2本の波戸の間に、多くの動力船の停泊が可能な広い静水面を確保する事ができるようになり、それがその後のまき網漁業の発展の基盤となった。舘浦の新波戸と受け波戸の構想は先行する時代のハの字波戸の伝統を受け継ぐものだが、それを停泊可能な静水面の確保という新たな目的に応じてスケールアップしたのである。

 舘浦ではその後の港湾整備で、新波戸と受け波戸の外側に新たに防波堤を設け、舘浦湾全体を港域に取り込む事で、大型化したまき網船を多数係留できる静水面を確保している。

 

③水の浦波戸の築造

 御崎集落の東岸、鞍馬鼻の南側にある水の浦は、生月島では数少ない奥行きのある湾入であるが、現在も入江の口を塞ぐように北側と南側から積石波戸が延びている。この波戸は『生月町史』によると昭和7年(1932)に整備されており、昭和23年(1948)撮影の航空写真(USA M827-104)にも2本の波戸が確認できる。この波戸は江戸時代のハの字波戸と形状的には類似するが、湾口を閉ざすように伸ばして湾内に広い静水域を確保する構想のもとで設けられている点で、従来のハの字波戸とは異なる思想(停泊水面確保)で作られている事が見て取れる。

 聞き取りでは水の浦にはかつて定置網の納屋があったとされ、定置網漁に従事する船の係留のために設けられた可能性もあるが、波戸が設けられた昭和初期には定置網船はまだ動力化されておらず、広い静水面は必要としない点は気になる。大バエ付近で操業する漁船の荒天避泊地として整備された可能性や、御崎地区に設けられていた壱岐要塞揮下の砲台や関連施設の補給のための港の機能も併せて整備された可能性もあるが、現時点では不明である。

 

④壱部浦北防波堤の築堤

  壱部浦では大正末年に動力まき網への転換が見られており、まき網本船を係留するための広い静水面の確保は必須の課題だった。北防波堤は昭和初期には整備されていたと思われ、昭和23年(1948)撮影の航空写真(USA M827-102)には、名残崎の突端から北側の海岸線の方向を延長した南東に波戸を伸ばし、途中で南向きに湾曲させている。波戸の部分の海岸は南西に伸びているので、南に開けた吊鐘型の広い静水面が確保されている。この北防波堤は従来の一本波戸の形態を拡大応用して広い静水面を確保しているが、その湾曲した形状は、かつて益冨家の前に存在した本波戸の形状に酷似しているのが興味深い。

  なお壱部浦ではその後、北防波堤の先端から二本の島防波堤を伸ばす事によって、大型化したまき網船を係留できる広い静水面を確保している。

 

⑤島外での波戸築造

  舘浦の新波戸は、当時の生月積石工が高い技術を持っていた事を示す何よりの商品見本になったと思われる。例えば佐賀県東松浦半島西岸にある駄竹港(唐津市肥前町)では、北西の波浪を遮る突堤の建設が議題に上った時、動力船に乗って生月島の舘浦・壱部浦両港を視察し、波戸築造決定後は生月の積石工業者(生月組)に工事を依頼し、昭和6年(1931)に長さ80㍍の突堤を完成させている。昭和22年(1947)撮影の航空写真(USA M271-84)を見ると、西側に開けた大きな湾に面した駄竹集落の前にある入江の口に北側から突堤を設けており、湾に吹き込む北西や西の風波を避けて静水面を確保するための築堤である事が分かる。

 なお佐賀県唐津市鎮西町に本社がある大潮建設の社史にはこの駄竹の突堤工事が紹介されているが、同社の起源は生月島の久保組とされる。なお築造時の生月積石工の仕事振りについては「結据精励、工事進捗は速く」と言い表されているが、肥前町の古老の回想では、特に婦人が組になってモッコで石をいない「ダッキ、ダッキ」と威勢よくかけ声を掛けながら運んでいた様子が印象に残っており、肥前町にはその様子から「生月ダッキ」という言葉も残っているという。

 生月島や各地の聞き書きで確認できた、昭和初期頃に生月積石工が手がけた突堤の所在地を次に紹介する。

〔福岡県内〕波津、地島、大島、志賀島、玄海島、唐泊、西ノ浦、野北、芥屋

〔佐賀県内〕神集島、小川島、加唐島、馬渡島、波戸、駄竹

〔長崎県内〕生月島水の浦、元浦、壱部浦、舘浦、度島本村、田平生向、五島灘平島、江島

 

⑥昭和初期の石積突堤工事の様子

 かくれキリシタン信者でもある元触の山口春一氏(大正12年生れ)は、聞き取りによると学校卒業後、元触にあった本石組に入り、東は福岡県大島付近から西は五島列島にいたる沿岸各地で築堤工事に従事している。

  海浜の転石を用いた当時の築堤工事は、まず現場付近の海岸や海中から必要な石を採取する事から始まる。昭和初期には動力クレーンを備えた起重機船が導入されており、10㌧を越える石も使われるようになっていた。しかし、石にワイヤーを掛けるのは素潜りで行わねばならず(後には潜水器を用いた)、掛け方にもドウクビリ、イチハチ、タルガケなど様々な方法があり、上手く掛けるためには熟練がいった。

 引き上げた石はダンベ船に載せ曳船で引っ張って築堤現場に運ぶ。現場では最初、海中に石を沢山捨て込んで基礎を作るが、その際にはダルマカヤシと言って、ダンベ船の片側に小振りな石を梃子を使って少しずつ寄せていき、船を大きく傾けて落とし込んだ。

  基礎が出来るといよいよ波戸を築いていく。石積みではハグチ棟梁という役が指揮を取り、最初に石垣の一段目である根石を据えてから、決まった角度で一段一段積んでいく。積み方にも「ヤノハ築き」「こま揃え」等の方法があったが、石の間の隙間(目)が縦に連続する事や、四つの石が田の字型に並ぶ「四つ目」、一つの石を八つの石で囲む形になる「八つ目」などは、壊れやすいので避けられた。波戸の内部には大小の形の悪い石を置いて「中詰め」とし、外側の石垣の石は、下にシリガイという小降りの石を置いて良い角度に揃えたり、後ろに「押さえ石」を置いてずれないようにした。海側と陸側の石垣を順次積んでいき、「犬走り」と呼ばれる人の通り道や、テンバと呼ばれる上面を作って完成した。

 

(2)農業・屋敷関係

 佐賀県玄海町の座川内集落でも、昔、生月島の積石工が立派な棚田の石垣を築いたが、やはり生月の人は大変働き者だったと記憶されている。

  生月積石工が屋敷に関する石垣を請け負った例もあり、田平町の鮎川家住宅(昭和14年建設)に残る切石積みの豪奢な石垣は、生月島の積石工の作であるという。

 また生月島では畑地の水田化を進めるため、大正3年(1914)の山頭池の築造を皮切りに、大型溜池の築造が次々に進められていくが、こうした溜池築造工事の請け負いを他の地域でも行った生月の業者も居たという。但しこの事については未だ確証が得られていない。

 

4.昭和30年代以降

 戦後、生月島の港湾建設業は石積からコンクリートへの転換を果たしていく。元触の故・門田元氏(大正15年生れ)によると、門田建設の起源は祖父の克蔵氏が大正6年(1917)に土木請負業の免許を得たことから始まっている。大戦末期にはダンベ船や起重機船が軍に徴用されるが、戦後、元氏は建設業の免許を取って会社を再興し、福岡、佐賀から五島にかけての玄界灘・五島灘の沿岸で専ら港湾建設に従事している。戦後には船上から空気を送り込みながら作業する潜水夫を雇うようになり、水中の作業効率が向上する。昭和30年代、門田建設はいち早く鉄製の起重機船を導入するが、故障すると簡単に修理できないと言っていた同業者も、使い勝手の良さを知って導入するようになった。また昭和30年代を区切りに、港湾建設も石積みからコンクリートに変わっていくが、その過程でも、ミキサー船や、水中の型枠に直かにコンクリートを流し込む技術をいち早く導入している。

  このように石積からコンクリートへの転換を果たした生月島の港湾建設業は、生月島や現平戸市域以外にも、佐世保市、長崎市、五島列島、対馬などで港湾建設、護岸工事、魚礁など様々な海洋土木の事業に関与していく。現在も大石建設、門田建設、ダイコウ建設、松石建設、元吉建設などの会社が従事し、生月島の産業の一翼を担っている。

 




長崎県平戸市生月町博物館「島の館」

〒859-5706 長崎県平戸市生月町南免4289番地1
TEL:0950-53-3000 FAX:0950-53-3032