長崎県平戸市生月町博物館「島の館」

生月学講座No235 「暦とかくれキリシタン信仰」

生月学講座:暦とかくれキリシタン信仰

 

  現在私達が使っている暦(カレンダー)は、太陽の周回(365日余り)を基準とした太陽暦(グレゴリオ暦・新暦)です。これは1582年にローマ法王グレゴリウス13世が制定した暦を基本にしていて、日本では明治6年(1873)に正式に導入されました。それ以前の日本では、月齢を基準とするひと月(28日ないし29日)を太陽の周回による一年と組み合わせた太陰太陽暦(旧暦)を用いていましたが、月齢の12カ月は354日にしかならないため、時折「閏月」というダブリ月を設けて調整していました。特に漁業は、満月の夜は漁火による集魚が難しいとか、潮汐や潮流も月齢による強弱があるなど、月と関係が深いため、生月島では戦後頃まで様々な行事が旧暦で行われています。

  グレゴリオ暦の制定にローマ法王が関わっているのは、カトリック教会で行われる様々な祝祭日が、基本的に太陽暦に従って設定されているためです。1582年以前は紀元前45年にローマで制定されたユリウス暦という太陽暦が使われていました。日本に最初にキリスト教(カトリック)が伝わったのは1549年で、平戸で布教が始まったのは1550年なので、当初のキリシタン信仰ではユリウス暦を用い、途中からグレゴリオ暦に切り替わったと思われますが、いずれにせよキリシタン達は教会の行事を太陽暦に従って行っていたと考えられます。その証拠に当時の宣教師の報告には、例えば「我らは日本の年の末日、すなわち(我らの年の)1月23日に生月に戻り・」のように、両方の暦日の表記をする例もよく見られます。

  キリシタン信仰で太陽暦が使われていたとすると、禁教以降のかくれキリシタン信仰では、どのように祝祭日を確認していたのでしょうか。というのも幕府も各藩も太陰太陽暦を用いていたため、その月日を用いると太陽暦の祝祭日とはずれるからです。

 生月島のかくれ信仰の行事の日取りは、一週間(一様)を基準とし、ドメーゴと呼ばれる日曜に多くの行事が行われています。日取りを決める基準日は、春の行事では「立春」が用いられ、立春に近い水曜を「悲しみの入り」、その46日後(日曜にあたる)を「上がり(復活祭)」とし、その間を「悲しみの期間」(四旬節)としました。なお上がりの一様前を「花(枝の主日)」、上がりの(当日も含めて)40日後が「四十日目様」で、さらに(当日を含めて)10日後が「十日目様」、さらに(当日を含めて)3日後を「三日目様」としました。

 一方、秋の行事の基準日には「冬至」が用いられ、冬至の前の日曜が「御誕生」(クリスマス)、その八様前が「御弔い」、さらにその八様前が「ジビリア様」とされました。日取りの基準となっている立春や冬至は、「二十四節気」といい、冬至から次の冬至までを一太陽年とし、それを二十四等分した日にそれぞれ命名されたもので、現在は角度(15度)で等分にしていますが、江戸時代以前には日数で等分していました。かくれ信者は節季を基準日とする事で、太陽暦で立てられた祝日とのずれを小さくしようとしたのかも知れません。なお他に、正月元旦の「正月祝い」「節句」のように、キリシタン時代に日本の旧暦に基づいて設けられた祝日(御守りの聖母の祝日)もあり、「田祈祷」のように、農作業の進捗に合わせて行う行事もありました。

 




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