長崎県平戸市生月町博物館「島の館」

生月の歴史 №11「巾着網から遠洋まき網へ」

巾着網から遠洋まき網へ

 

1.「まき網」という並行世界

  「白月」という言葉を初めて知ったのは、大学生の頃、平戸地方の民俗調査に取り組んだ頃だった。それは満月の前後、月が煌々と夜を照らす日を指す方言だが、白月の期間に対しては単なる自然現象では無い特別なニュアンスがある事に気付いたのは、昭和60年(1985)の夏、出身校の福岡の高校の郷土研究部が度島の調査を行うのにOBとして付いていった時だった。滞在中の部員の宿舎に浦の公会堂を世話していただいたが、区長さんから「明日から白月だから騒がしくなるが」と心配そうに言われるのを聞いた。今もそうだが、度島からは大勢の青壮年が生月島などの遠洋まき網漁船に乗り組んでいて、なかには漁労長という船団の最高責任者を務める方も居られた。まき網の操業では夜間、水中灯の光に寄った魚群を一網打尽にするので闇夜が望ましいが、満月の前後は魚の付きが悪く漁が休みとなるので、乗組員は島に帰って休息を取るのである。

  実際白月になるととんでもない状態になった。十代の若い乗組員達が、女子高校生がたくさん来ていると聞いて大勢見学に来たのである。顧問は大事を取って高校生達を夜間外出禁止にしていたが、大勢の若者が公会堂の窓にへばりついて中を覗く始末。たまりかねて私が出て行って「怖がってるから止めてくれ」と頼むと、大人しく解散してくれた。大事にならずほっと胸をなで下ろしたのだが、一方で島というのは本来このように若者の力が溢れる世界なのかも知れないと思った。当時調査をしていた島々は例外なく過疎化で若者が居なくなった世界で、私の調査でも古老から昔栄えていた頃の話を伺うのが常だったからだ。

  その後平成5年(1993)には、縁あって西日本有数の遠洋まき網漁業の根拠地である生月島で働く事になったが、働き始めの頃の白月はやはり騒がしい期間だった。夜になるとまき網船の乗組員が、当時は島内に沢山あった飲み屋に繰り出し宴会をしていたので、役場の人からは「白月にはあまり飲みに行かない方がいい」と言われていた。実際、かくれキリシタン行事の調査に出掛けた帰り道、酔っ払った乗組員が運転する車にぶつけられた事もある。昔は朝になると酔っぱらいが道端によく転がっていたという。北松管内の市町村で徴収される酒税が一番多かったのが生月町というのも自慢話だったが、あの騒がしい夜も今や想い出になってしまった事に寂しさを覚える。

 かくれキリシタンの行事の調査の際にも、まき網に従事した方々(まき網の乗組員は今も男性だけである)には、自分が見知っている島の世界とは別の世界があるように感じる事があった。信仰の役職者の多くはまき網の元乗組員で、そういう方々に行事や信仰の事を伺っても「信仰の事は陸に上がってから関わったのでよく分からん」と言われる事が多かったが、雑談でまき網の話になると、皆楽しそうに北海道出漁の頃の思い出などを語ってくれた。それを聞きながら、この方々にとってまき網の仕事は良い物語装置だったのだと感じた。

  遠洋まき網漁業は、ひと月のうちの満月前後の一週間以外は洋上にあって漁に従事する厳しい労働環境の仕事である。漁場が遠方の海域にあり、根拠地の生月島と漁場の往復に何日もかかるとすれば、それも仕方無い所がある。最近のまき網船や操業には最先端の電子機器など多くの機械が導入され、船内の居住環境も大幅に改善され、快適に日常生活を営む事ができる。そして何よりも大量の漁獲を上げるまき網の仕事は、地方生活者に取っては破格の賃金を得る事ができたが、特に大漁をした際に支払われる多額の歩合金は大きな魅力だった。昭和40年代に北海道・東北出漁が盛んに行われていた頃、乗組員は当時の金額で500万円を超える年収を得ていたとされるが、この額は大都会の大卒会社員の給料を遙かに越えた額だった。そのためこの時代には、島の中学を卒業した生徒の中でも優秀な者がまき網船に乗り、成績が悪い者が役場の職員になったという話を聞いた。生月島では給料や操業に必要な資材、乗組員の生活費などまき網からの様々なお金の環流があったが故に、昭和30年代以降、長崎県下の多くの離島で進行した過疎化を免れ、平成初頭まで一万人前後の人口を維持したが、現在は急速に過疎化が進行しており、人口は五千人台まで減少している。

  遠洋まき網漁業は、関係者に取っては多額の収入が得られる経済装置であるのと同時に、労働自体が物語装置でもあり、労働によって生じた物語の共有によって乗組員は強固な共同体を構成していて、私が目撃した宴会の風景などもその一端だと捉えられる。生月島には、かつて同様に強力な経済装置と物語装置の面を有した古式捕鯨業が存在したが、両者は統率の取れた集団漁業である点、多額の資本が動く点、政治と巧みに付き合った点、流通を漁業者側が掌握しようとした点など多くの共通点が存在し、古式捕鯨業のノウハウが島民に共有された事で、まき網の起源である和船巾着網の経営も円滑に進められたのではないかと思うところもある。そして重要な点として、両者ともそれが行われた当時の経済・生産システムにリンクして重要な役割を果たした産業という事が言える。古式捕鯨業は海禁体制化の江戸期の日本社会の食料生産に必要な鯨油(農薬)、鯨骨(肥料)、鯨肉(食料)等を大量に供給したが、巾着網・まき網もまた近代日本の資本主義経済に必要な食料、肥料の重要な供給源であり、特に第二次大戦終結時の食糧難の解消には大きく貢献している。地域社会においても、古式捕鯨業は当時の島民のメンタリティーや社会のあり方に大きな影響を与えているが、それは巾着網・まき網も同じで、現在の生月島の暮らしも明治末期から続く巾着網・まき網の強大な経済力の余波によって成り立っている側面がある。それは島民の大きく立派な住宅、立派な墓、現在高齢者となっている元乗組員の船員保険からの収入、まき網産業を基盤に県政や国政に大きな足跡を残した金子家の政治力、漁業船員福祉会館などの公共施設や巨大な港湾施設、さらにはまき網漁業が盛大な頃、乗組員である親が教育費を出して高等教育を受けさせた当時の子供達の今の暮らし(収入が安定した仕事に就けている事は、相対的に生月島の実家の負担を軽減させる)や、元乗組員のおじいちゃんが孫に贈るお小遣いやプレゼントまで様々な例があげられる。

 今に生きる我々は、こうしたあり方を当たり前のものと思ってきた所があるが、それは永続的なものでなく、今もその過程にあるように縮小する運命にある。だが今がそうした時代であるからこそ、改めてこんにちのまき網漁業が時代毎の先人達のどのような努力によって作り上げられてきたのかを、理解しておく必要があるのではないかと思うのである。

 

2.江戸~明治中期の鰯網

 遠洋まき網漁業は今日の生月島の経済を支える最大の基幹産業である。この漁で用いる網と漁法は巾着網と呼ばれるが、巾着網は明治時代に小中羽鰯を捕獲するために導入されている。生月島は江戸中期から明治中期にかけて西海漁場内でも優良な捕鯨漁場だったが、それが影響したのか、明治中期までの生月島では鰯網漁は行われていないか、行われたとしても統計に上がらない程小規模なものだった。明治16年(1883)『北松浦郡村誌』に掲載された生月村、山田村の海産物に関する統計を見ても、鰯は全く登場しない。しかし江戸時代には西海を含む日本各地で鰯漁は盛んに行われている。後述するように江戸時代のおもな鰯の利用法は、小中羽鰯をそのまま干して作る干鰯だが、北海道で取れる鰊から作る〆粕とともに、綿花や菜種、煙草などの商品作物を育てる際の金肥(金で買う肥料)として重要な役割を果たした。海外貿易を制限した江戸時代の日本では、食料や生活物資は国内で自給せねばならず、栄養ベースを含めたそれらの持続的な自給体制の確立は国家存続の絶対条件だった。当時の国内の農業がその機能を維持し得た理由の一つには、海からの栄養源(肥料)の供給があった。

 日本列島の沿岸で取れる鰯には真鰯(方言名ヒラゴ)、片口鰯(エタリ又はタレ)、潤目鰯等があるが、平戸地域の沿岸で主に捕獲されたのは真鰯である。日本近海における真鰯の産卵場は3ヶ所程あるが、九州系群は五島灘から天草・甑列島あたりを産卵場にしている。真鰯は1~4月にかけて(中心は2月末~3月なかば)水温15~17度の温水域で産卵する。以前は5~6歳で産卵していたが、資源が減少気味であるせいか近年は2歳から産卵するという。

 4~5月、生まれたての小鰯は餌の多い沿岸部を回遊し、成長につれ次第に沖合に移動する。根獅子での聞き取りでは、鰯は成長とともにチリメン(3㎝以下)→シラス(5㎝程)→セグロ(6㎝程)→小羽(10㎝程)→中羽(20㎝程)→大羽(30㎝程)と名前を変える。梅雨明け頃は小羽鰯、晩夏には中羽鰯になり、秋以降になると北上して日本海に向かう。それまでは片口鰯や潤目鰯も混じって群れを形成する事が多いが、真鰯・潤目鰯が多いと片口鰯が少なく、片口鰯が多いと真鰯・潤目鰯が少ないという。1歳になると沿岸には近寄らず日本海の沖合や沿海州側にいるが、2歳になると種類毎の群れを形成し、日本海西部から九州北部へと南下して産卵場を目指す。この時の成魚を大羽鰯と呼ぶが、生月島においては1月中~下旬にかけて島の前目(東海域)に到来する卵を持つものをセキ鰯、その後2~3月にかけて島の後目(西海域)で取れる産卵後のものを彼岸鰯、さらにその後3~4月にかけて五島沖で取れるものを春大羽と言い、特に脂がのったセキ鰯は重要な漁獲対象だった。

 鰯はその成長の段階毎に様々な漁が行われるが、大まかに、春先のチリメンから梅雨前のセグロまでを対象とする小鰯漁と、梅雨明けから秋にかけての小羽~中羽鰯を対象とする小中羽鰯漁、冬から春にかけての大羽鰯を対象とする大羽鰯漁の三つに分けられる。

 明治29年(1896)発行の『(長崎県)漁業誌』の鰯網の項には、当時行われていた鰯網漁として八田網、縫切網、高網、地(船)曳網、片手地(船)曳網、小鰯網、小鰯地(船)曳網等の名を確認できるが、これらは江戸時代から行われてきた漁法と思われる。次に当時の代表的な鰯網漁の内容を紹介する。

 

①地引網

 岸近くに来た小中羽鰯の群れを、沖側を取り巻くように網を入れ、網の両端の綱を陸上に引き上げて引っ張り、鰯群を捕らえた中央の袋網を陸に引き上げる漁である。網を引く際引っかからないように、海底に岩が無い砂浜で行われる場合が多く、江戸時代には千葉県の外海(太平洋)側にある九十九里浜が鰯地引網の漁場として栄えた。しかし西海では磯海岸が多いため鰯地引網が行われた場所は少なく、生月島でも確認されていないが、平戸島北部の白浜では、元平戸藩士で酒醸造業を営む篠崎家や金子家が地引網の網元を行ったとされる(『年輪』)。

 

②八田網(八駄網)

  八田網は、江戸時代から明治30年代にかけて、西海における最大規模の鰯網漁で、夏~秋期の小中羽鰯漁に用いられている。『五島列島漁業図解』(明治15年)によると、八田網の船団は網船2艘(各15~16人乗)、口船2艘(各10人乗)、灯船1艘(6人乗)で構成され、夜、灯船が火を焚いて鰯を集め、2艘の網船が鰯群の手前で両側に分かれながら四角の網をまず縦に下げ入れ、網底両端の綱を持った2艘の口船が鰯群の向こう側に進んだ後、綱を引き上げて、鰯群をハンカチで掬う要領で取った。平戸地方でも明治35年(1902)頃には平戸村内で4統の八反(田)網が経営されている他(『長崎県鰯網漁業大観』中34p)、大正7年(1918)には志々伎村に1統が存在し(『志々伎村郷土誌』)、生月島でも明治35年(1902)に黒島や薄香の漁業者が八駄網で入漁したのが生月島における鰯漁の始まりとされている(「平戸地方の漁村と漁村問題」)。しかし和船巾着網の導入後は行われなくなっている。

 

③縫切網(ニキリアミ)

  縫切網には、箕のような形の本網(身網)の裾の両側に、荒手網という袖網が付く。二艘の網船が鰯群の両側に回り込みながら網を入れて一気に広げ、向こう側で出会うと網を引き上げた。八田網同様、夏から秋にかけての小中羽鰯漁で用いたが、網が簡便で取り扱い易いため、和船巾着網が導入された後も、和船巾着網をやる程の資金が無かったり、漁獲量や潮の流れなどの条件が悪い漁場で用いられている。生月島では『長崎県鰯網漁業大観』の昭和24年(1949)当時に(申請中も含め)登録された縫切網漁船は壱部浦22隻(中25-26p)舘浦22隻(中11-12p)ある。縫切網は昭和40年代頃まで行われているが、その頃には遠洋まき網を引退した者による「隠居仕事」の観が強かったという。

  川内で戦後直ぐに行われていた縫切網では、一統は網船2艘(各7人乗り)、灯船2艘(各1~2人乗り)、曳船2艘(チヤッカエンジン搭載、各1人乗り)からなるが、曳船は積船を兼ねており、灯船は和船で灯火用のバッテリーを積み、漁の采配も灯船で行った。概ね地先で操業したが、潮時が良い時には平戸瀬戸を抜けて的山大島沖まで出ることもあったという。

 

④船引網(注:網名称の「引」は定点に投じた網をその場で引きあげる形態に用い、「曳」)は網を曳航する形態に用いるのが語義的に相応しいと考える)

  船引網は地引網同様、鰯群を半円形に囲んで投網した網を引き上げるが、船上に上げる形を取る。そのため海岸からの距離や海底の状況の影響を受けにくく、沖合でも操業できた。船引網には1艘の船で投網して上げる一艘船引網と、二艘で行う二艘船引網がある。なお地引(曳)網と記されたり聞き取りで語られる網も、内容を確認すると船上に上げる船引網である場合が多く注意が必要である。

 根獅子の二艘船引漁の一統は、網船2艘(全長6尋)、口船2艘(四尋伝馬)からなり20人程が乗り込んだ。春から初夏にかけての夕暮れ時に湾内に入ってくるシラスの群を魚群の輝きや色で確認し、群れを取り巻くように沖から岸側に向かって両側に網を下ろした。そして口船で網の袖側に仕切網を張って群れの逃走を防いでおき、カグラサンで巻いて網を船上に上げた。

 

⑤刺網

 『漁業史』で高網と記されている網は、内容を読むと旧暦9月から翌3月の漁とあるため、大羽鰯を対象とした刺網と思われる。刺網は、縦に張った網の網目に泳いできた魚が刺さって捕獲する漁法だが、網目に掛かった魚を抜く手間から比較的大型の魚が対象となるため、同網で取る鰯は冬場に回遊してくる大羽鰯に限られる。生月島では大羽鰯刺網漁は大正時代に盛んに行われているので、漁の内容はそちらで紹介する。

 

3、明治後期の鰯漁

(1)和船巾着網の導入

 巾着網は、魚群の周囲を取り巻くように投網した後、網の底を通っている綱を引いて網底を巾着のように締めて袋状にして魚群を閉じ込め、網を上げて魚を取る、極めて効率が高い網漁である。日本には明治時代にアメリカから伝来し、長崎県では明治31年(1898)に試行したとされる。一方、千葉県の千本松喜助は明治21年(1888)巾着網を鰯漁に適した形に改良した改良揚繰網(和船巾着網)を考案して各地への普及に努めている。和船巾着網は夏から秋の夜間、灯火で小中羽鰯を集めて行われるが、網の形態も表層の魚を取る巾着網と異なり、より深く網を入れる形になっている。

 『舘浦漁業協同組合八十五年史』によると、生月島では舘浦で明治38年(1905)頃に峯寛次郎が千本松氏の指導を受けて和船巾着網を導入したとされるが、操業の不慣れや漁具の不調で成果は上がらず。その後壱部浦で大川鉄蔵が行って好成績を収めたとされ(43-45p)、「平戸諸島の漁業と漁村問題」によると大川鉄蔵は明治41年(1908)に和船巾着網を導入したとされる(187p)。なお初期の櫓漕ぎの和船で行われていた和船巾着網の事を「櫓巾着」と呼ぶが、この段階では櫓や帆が移動手段のため、操業海域はおのずと地先海域に限定された。 

 和船巾着網の船団は網船2艘(十尋ダンベイ、櫓漕ぎ)、灯船2~3艘(五尋テンマ、櫓漕ぎ)、口船2艘(六尋テントウ、櫓漕ぎ)で構成される。灯船は灯火で鰯を集める役目の船、網船は集まった鰯群を両側から取り巻くように網を張り引き上げる役目の船で、和船巾着網のように2艘の船で両側から回り込んで網を張る形態を「両手(双手)回し」と言った。口船は網船を補助したり漁獲を運搬する役目を担った。灯火は当初力ーバイトを用いたガスランプだったが、大正初めには灯油を用いたコーカツランプに代わっている。

  明治41年(1908)には舘浦の和船巾着網は13統に達している(『長崎県鰯網漁業大観』中19p)。

 

4.大正時代の鰯漁

 大正7年(1918)の『生月村郷土誌』の水産業の項には次の記述がある。

「本村ハ、古来捕鯨ト鮪漁トヲ以テ其ノ名普ク世ニ著シシガ、今ハ是等ノ漁獲殆ド全ク廃減シテ、往事ヲ偲ブ漁場ヤ為ニ栄ヘシ就業者ノ跡ヲ止めムルアルノミ。

 然レドモ、四囲繞ラスニ海ヲ以テシ、近海漁族ノ棲息スルモノ夥シク、海藻ノ繁茂著シ。

 現時ノ如ク鰛漁ノ未ダ盛大ヲ極メザリシ十数年前迄ハ、漁民ノ多クハ夏秋冬ノ烏賊漁ニ服シ、少数ノ長縄漁ニ従フモノアリシノミ。然ルニ現今ニ至リテハ鰛揚繰網、並ニ刺網ノ発達ニ伴ヒ、漁民ノ多クハ之ニ従事シ、尚本村漁民ノミニテハ不足ヲ告ゲ、他所ヨリ雇入レ居ルモノ四百有餘名ノ多キニ達シ、古ノ如キ烏賊漁ハ老人子供ノ従事スルノミニ止マレリ。復近年春季ノ閑暇ヲ利用シ朝鮮ニ出漁シテ鯖巾着、石首魚打瀬ニ従フモノ年々多キヲ加ヘ、古来ノ地先漁業ハ遂ニ遠海漁業ニ趨キツツアリ。」

 この記述によると、生月島では古来(明治前期以前)は捕鯨と鮪大敷網が中心だったが、捕鯨が止まった十数年前(明治三十年代中期)には烏賊釣と長縄(延縄)の小漁師漁だけに縮小している事が分かる。それに対し近年は小中羽鰯の揚繰網(和船巾着網)と大羽鰯の刺網が盛んになっているが、そのため従来の漁民だけでは人手不足となり400人もの乗組員を他所から雇い入れている他、刺網と和船巾着網の漁間期となる春には、韓海に出掛けて鯖巾着網やシログチ(イシモチ)の打瀬網漁に従事する漁民も多く出ている事が確認でき、当時の生月漁民が夏~秋の小中羽鰯和船巾着網漁、冬~春の大羽鰯刺網漁、春の韓海漁の出稼ぎや小漁師漁を組み合わせて暮らしを成り立たせていた事を窺わせる。

 『生月村郷土誌』にある大正5年(1916)度の水産製造物の一覧で鰯関係の漁獲高(貫)・売上高(円)を見ると、田作12,800貫(23,040円)、真鰯58,000貫(29,000円)、煮干鰯116,955円(81,869円)、同背黒煮干鰯800貫(640円)、鰯〆粕219,753貫(101,526円)、干鰯181,000貫(69,500円)、鰯油1,800貫(720円)などがある。これらの製品を検証すると、田作は鰯の稚魚の素干し、真鰯は食用になる鮮魚の鰯、煮干鰯は小中羽鰯を煮た後干して作るイリコ、干鰯は小中羽鰯をそのまま干して作る肥料、鰯油は大羽鰯を煮たものを絞って抽出した油、〆粕は大羽鰯の鰯油を絞った後の粕で肥料に用いたものである。これらの鰯製造物の価格総額は306,455円にのぼるが、それは大正5年度の生月島の水産製造物の総額(380,315円)の8割に上る。次に鰯製品中の各製品の生産額の割合は、田作7.5%、真鰯9.5%、煮干鰯26.7%、同背黒煮干鰯0.3%、鰯〆粕33.1%、干鰯22.7%、鰯油0.2%で、夏~秋の小中羽鰯と冬~春の大羽鰯の生産額が拮抗している事が分かる他、従来の干鰯生産も依然として大きな割合(2割)を占めている事が分かる。

 

(1)大羽鰯刺網

 刺網は水中に壁状に張った網の目に刺さったり絡んだりした魚を取る漁法だが、大羽鰯の刺網は海の表層を浮き流す流し刺網である。『舘浦漁業協同組合八十五年史』によると、大羽鰯刺網は明治20年頃に石川県から導入されたとされるが(41p)、『生月村郷土誌』にある生月村内の大正5年度・6年度の鰯刺網はいずれも69(隻)とあり盛況である事が分かる。生月島の大羽鰯刺網は手漕ぎ船の時代から遠方に出漁していたとされるが、刺網船には10人程が乗り込み、10月頃に山口県北部の仙崎に進出し、その後蓋井島、カジメ大島(筑前大島)、生月島、宇久島・小値賀島と南下する大羽鰯の群れを追って漁をしている。

 このように遠方出漁を行う刺網船はいち早く動力化されている。『生月村郷土誌』に掲載された動力を有する漁船(20㌧または200石未満)は、大正5年度は0だが大正6年度には3隻が上がっており、これらは刺網に用いられた漁船である可能性がある。柴田市平氏の回想によると、昭和初期の生月島の刺網船は25~30馬力の焼玉機関を搭載し、阿波船型、出雲船型の船形をしていたという。なお刺網で捕獲した大羽鰯は、一部は鮮魚として仲買業者が直接買い付けて運搬船で市場に出荷したが、残りは魚油を製造した後、締滓という肥料として出荷している。『生月村郷土誌』の水産製造物の締滓の項を見ると、大正5年度に219,753貫、101,526円の収入、大正6年度に219,753貫、123,720円の収入が上がっている。

 

(2)動力船曳航型和船巾着網

  大正時代の生月島では小中羽鰯を対象とする和船巾着網が次第に発展し、『生月村郷土誌』によると、揚繰網(和船巾着網)は大正5年度には23統、大正6年度には25統が上がっている。

 大正7~8年頃になると網船その他を動力船が曳航して漁場に赴くようになり、操業海域は拡大している。例えば幸の浦の動力船曳航型和船巾着網船団は的山大島の北側海域まで出漁する事もあり、佐賀県東松浦郡の各漁港の動力船曳航型和船巾着網船団も、盛漁期には平戸海域に進出して操業しているが、曳船にはいち早く焼玉機関を搭載して動力化していた大羽鰯の刺網船を多く雇っている。船団は網船、灯船、口船(各2艘)に動力曳船を2隻加え、各曳舟が網船、灯船、口船を各1艘ずつ曳航する形が取られている。

 

(3)鰯加工業の成立と発展

 鰯の加工業は、明治後期頃、大羽鰯を煮て油を絞り、油と肥料用の締滓を製造する事から始まったと思われるが、大正時代には新たに、小中羽鰯を煮た後干して出汁などに用いる煮干しを製造する技術が導入されている。

 『生月町史』には、舘浦では大正2年(1913)1月に漁獲物の共同販売を始め、三重県から技術員を招き、鰯の煮干製造を導入した他、共同販売を契機に製品全部の検査制を確立し、品質のよい製品を供出するよう呼びかけ、販路開拓に資したとされる(146p)また『長崎県鰯網漁業大観』には、伊勢富田の加藤金六が近藤平重を頼って来島し、鰯等の加工製造を始めたのが舘浦煮干加工業の始まりとしている(中19p)。従来のドボシ(土干し)した干鰯が肥料として取引されたのに比べ、食品である煮干しは高く取り引きされたため、相対的に鰯の魚価も上昇しているが、加えて多くの漁戸が漁業者と製造業者を兼ねたため、漁が不漁の場合でも製造業での収入が見込めるなど、加工業は従事者の経済力の向上に資する所が大きかった。『生月村郷土誌』の水産製造物の煮干鰯の項には、大正5年度に116,955貫、81,869円の収入、大正6年度に117,755貫、82,509円の収入が上がっている。鰯漁の利益に加え、夏~秋は煮干し、冬~春は締滓の製造と加工業も周年で操業されるようになった結果、大正時代には街路に当時高級品だった羊葵の包み紙が沢山転がる、いわゆる「羊蘂青年」という言葉を生み出す程の好景気が現出している。

 製造施設としては、個人による小型露天鰯釜を用いた製造施設が設けられており、『生月村郷土誌』には「鰯製造所数十棟アリテ屋上ノコンクリート屋根、道路ノ両側、海岸ニ近キ所ノ田畑等寸地ト雖モ其工場ニ使用セラル」とある。また大正~昭和初期には舘浦潮見地区に製造納屋が設けられ、納屋の従業員として平戸島の下方(中南部)からも大勢働きに来ていて、女性の中には生月で縁付く人もいた。昭和20年代の舘浦には、埋立地に小型露天鰯釜が250~60基あった他、工場形態の納屋の加工業者が42名、従業員が341名存在していたとされる(『長崎県鰯網漁業大観』中20p)。

 

5、昭和初期~20年代

(1)まき網漁業の萌芽-第一次片手回し形態

 長崎県における動力船による巾着網(動力揚繰網=まき網)の操業の始まりは、大正11年(1922)の県水産試験場の長洋丸からとされるが(「長崎近代漁業発達史」)、平戸地方では大正5年(1916)に田助の永山佐平次が片手動力揚繰網の操業を始めたとされる。生月島では壱部浦の井元米吉が県費補助を受けて大正14年(1925)7月に動力網船.長生丸(13㌧、焼玉30馬力)を就役させ、11月に五島灘での大羽鰯漁を、翌年1月に生月湾での大羽鰯の漁を行って成功を収めている。その成功を受けて昭和3年(1928)にはまき網船団が3統、昭和7~8年頃には同19統まで増加したが、その後日中戦争の影響を受けて昭和14年(1939)には半数に減っている(『長崎県鰯網漁業大観』中5-6p)。長生丸の成功後、平戸地方では生月島の壱部浦と舘浦以外に、度島、幸ノ浦、薄香、川内、前津吉などで網船動力化(まき網)の動きが起きるが、生月島以外では鉄船化・大型化に拍車がかかった昭和30年代迄に止まっている。

 前章でも紹介した冬場の大羽鰯漁では、1月中~下旬にかけて生月島の前目に到来するセキ鰯、その後2~3月にかけて島の後目で取れる彼岸鰯、さらにその後3~4月にかけて五島沖で取れる春大羽を対象としたが、従来刺網で捕獲されていたセキ鰯や彼岸鰯は灯火には短い反応をするだけなので、従来の和船巾着網の櫓漕ぎのペースによる遅い投網では捕獲出来なかった。そのため巾着網による大羽鰯の捕獲には、素早く投網するための網船の動力化が絶対条件だった。また刺網では捕獲する大羽鰯の量が少なかったのに対し、巾着網では一度に大漁の大羽鰯を捕獲できる事も、巾着網の動力化を進める動機となった。一方昭和初期には、従来巾着網で捕獲されてきた夏~秋期の小中羽鰯については、既存の和船巾着網の操業を維持するために動力揚繰網(まき網)での捕獲が禁止されている(後年になると小中羽鰯などを主対象とした小型まき網(小巾着)が登場する)。

 網船の動力化のためには常時停泊出来る港が不可欠だったが、生月島はその点では不利な環境で、舘浦は浅い湾入の砂浜、壱部浦に至っては僅かな湾入すらない状態だった。そのため舘浦では大正9年(1920)に大波止の建設に着手し、大正15年 (1926)第1期工事(本波戸)が完成し、昭和6年(1931)には第2期工事(受波戸)が完成した事で、動力船の常時停泊な静水面を確保している。また壱部浦でも昭和6年以降に北防波堤が整備されているが、このような停泊地の確保がその後の旋網漁業発展の礎となっている。

 当初の動力揚繰網(まき網)は網船1艘で網を建て回す「片手回し」の形態で、その船団は動力網船1隻(20トン、焼玉30馬力)、灯船2艘(五尋テンマ、櫓漕ぎ)、デッコ母船1艘(十尋ダンベイ、櫓漕ぎ)で編成されていたが、網船は他の無動力船を漁場まで曳航していく曳船の役目も果たしている。デッコ母船には従来の和船巾着網の網船を用い、動力網船が網を建て回す際の基点となり、また漁獲の積載・運搬にも用いたが、漁獲が多い冬の大羽鰯漁では、さらに替えの母船を曳航する事もあったという。この段階では、船団は1日の漁を終えると漁場近くの根拠地に帰港して、漁獲を水揚げしている。

 船団編成だけを見ると、従来の(両手回しの)和船巾着網船団の網船を1隻動力化しただけだとも言えるが、動力を利用した揚網装置や電気集魚灯も導入されており、作業の効率化も図られている事が分かる。

 『長崎県鰯網漁業大観』にある昭和24年(1949)の鰯関係船団数は、動力揚繰網(まき網)が舘浦13統・壱部浦13統、無動力揚繰網(和船巾着網)が舘浦3統・壱部浦4統、動力縫切網が生月全体で3統、無動力縫切網が舘浦10統・壱部浦6統とある(73p)。ちなみに同書(中7-8p)(中23-24p)に掲載された昭和24年当時の舘浦・生月(壱部浦)両漁船団所属のまき網船団と経営者を以下に列記する。

〔舘浦〕

○第三・第五海鳳丸(金子岩三) ○第七・第八海鳳丸(金子岩三)

○第七・第八白鴎丸(松本徳重) ○第五・第八大栄丸(本川英吉)

○第十二・第十三大栄丸170馬力(塚本一雄) ○第五・第六丸ヨ大福丸(眞邊助一)

○第十二・第十三福吉丸152馬力(寺田詳吉) ○第五・第六喜代丸(伊藤新八)  

○第五・第六大洋丸(西澤與一) ○第五・第六丸小大福丸(大福小十郎) 

○第二・第三共栄丸(近藤弥三郎) 

○第一・第二昇栄丸(西岡庄一) ○第一・第二神生丸(濱本實)

〔壱部浦〕

○第三・第五明生丸馬力(江口多重郎) ○第一・第二明生丸(江口多重郎)

○第一・第二泰生丸(井元米吉) ○第三・第五長生丸(井元茂樹)

○第七・第八長生丸(松本治作) ○第一・第二蛭子丸(森壽太郎)

○第十六・第十七住吉丸(徳末慶太郎)

 

(2)まき網両手回し形態への移行

 昭和初期以降、周年操業を成り立たせるために、鰯以外に鯵・鯖などの魚種も漁獲対象に加えるようになっていくが、壱部浦の船団では昭和7年(1932)以降、秋の鯵・鯖の浮遊魚群を昼間に捕獲するため、素早く網を建て回せるように、動力網船を2隻にした「両手回し」の形態が取られるようになる(『長崎県鰯網漁業大観』中6p)。昭和10年代の両手回し船団の編成は、網船2隻(20~30㌧、焼玉50~60馬力)、灯船2艘(五尋テンマ、櫓漕ぎ)、中取り船2隻(19㌧、焼玉)からなる。灯船は相変わらず網船に曳航されて漁場に向かうが、中取り船は動力による航行能力を持ち、自力で最寄りの港まで順次、漁獲を運搬できるようになっている。

 

(3)対馬東沖の寒鯖漁

  冬場の漁の中心だった生月近海のセキ鰯漁は昭和14年頃の大漁をピークに下降線を辿り、昭和17~8年には全く取れなくなっている。そのため冬期の漁を他に求める必要が生じていたが、そうした中で、昭和19年末から翌20年頭にかけて○ヨ大福丸が対馬に進出して冬の寒鯖漁を行ったのは、戦後の対馬東沖寒鯖操業への呼び水となった。

  対馬の東岸沖には既に昭和8~9年頃から、舘浦のまき網数船団が、盆過ぎから10~11月にかけて鯵や鯖を対象にした夜焚き漁に出漁していた。当時○ヨ大福丸船団で網船の船長をしていた柴田市平氏の話では、○ヨ船団が秋の漁で対馬に行っていた時、対馬の一重の問屋・梅野氏から、対馬では冬場によく肥えた寒鯖がたくさん居るという話を聞き、冬期の対馬出漁を企図している。

 昭和19年(1944)1月、第5第6大福丸の二隻の網船を中心とする○ヨ船団は対馬に出漁し、最初に対馬上島東岸の佐賀、志多賀、志越付近で操業している。当時寒鯖は岸近くに湧いており、それを昼張りの漁で取ろうとしたが、浅すぎて網を底に引っかける破網が頻発する。そのため漁場を黒島の瀬に移し、瀬の上で、水深分になるように網丈を2/3程にたぐった上、足縄にカマスを付けて網の沈む速度を落とすなど工夫して、見事、寒鯖の群れの捕獲に成功する。

 昭和20年になると多くの船が軍に徴用され、終戦時に地元に残る船団は2統だけとなったが、終戦後徴用を解除された船でいち早くまき網船団は再建され、昭和20年代には12月から2月にかけての対馬近海の寒鯖出漁で大きな成功を収める。当初の鯖漁では昼間の浮上魚群を対象としていたが、昭和25年(1950)に昼間の浮上群が全くいなくなり、漁が出来ない状態になる。その時効力を発揮したのが当時導入され始めた電探(ソナー)である。この導入は生月では○ヨ大福丸が最初とされるが、これによって夜間の電探操業による漁が可能となっている。

 電探の導入によって船団編成も変化し、昭和20年代後半には網船2隻(30㌧、焼玉80馬力)、灯船2隻(7㌧、焼玉)、中取り船1隻(40㌧、焼玉80馬力)、電探船1隻(中取り船を兼ねる、19㌧、焼玉80馬力)となり、船団全船が動力化した事で機動力が大幅に増している。この段階では、中取り船が漁場から対馬の港まで漁獲を運び、港で待つ問屋の仲買人が運搬船に乗せ換えて市場に運んでいる。

  対馬の寒鯖漁では対馬東岸の一重、佐賀、比田勝が各地から集まったまき網船団の根拠地として栄えている。当時の一重港の写真を見ると、湾内を連なって係留されたまき網船が埋め尽くしている。一重では船団毎に宿を取り風呂などの世話を受けたが、白月には各船団の乗組員が飲み歩くのでよく喧嘩が起き「ツキヨマ(白月)毎に人が死ぬ」と言われる程だったという。また問屋から鯖の売り上げ代金を貰う時にはブリキの一斗缶に札束を入れ、モッコとカマスで担いで運んだという。博多の市場で競りに掛けられた寒鯖は、トラックに乗せられて八木山峠を越え、当時炭鉱が沢山あった筑豊にも運ばれている。

 

(4)李ライン問題

  そのような豊漁のなか、昭和27年(1952)1月には韓国の李承晩大統領が韓国領海の隣接水域までを一方的に主権下に置く海洋宣言を行った事が、対馬西岸から済州島にかけての海域で操業するまき網を含む日本漁船に深刻な影響を与えている。同宣言で設定された韓国の主権が及ぶとされた海域の境界線である李承晩ラインより韓国側で操業する日本漁船の多数が韓国警備艇に拿捕され、拿捕された会社は漁船の没収や乗組員の抑留によって甚大な損害を蒙っている。まき網漁業者の団体である日本遠洋旋網漁業協会は日本政府に問題解決を求める陳情を行い、日本政府も外交部門を通して抗議を行ったが、韓国側に変化は無く、国の漁船保護の取り組みも不充分だったため、ついに昭和34年(1959)8月20日に協会はまき網船の操業を守る自衛船2隻を出漁させている。自衛船の役割は、李ライン付近に進出して韓国警備船の出港をレーダーで警戒し、出港が分かると操業するまき網船に報せ、警備艇到着までに操業を切り上げさせ、ライン外に退避させる事だった。民間自衛船の実現を主導したのは、舘浦のまき網経営会社・金子商店の経営に当たる傍ら衆議院議員となっていた金子岩三氏だったが、同船の活動は日本政府にも大きな影響を与え、日本漁船の警備強化の取り組みを国が措置する事と引き換えに、9月10日自衛船の任務は解除されている。

 昭和26年から30年にかけては、漁場が対馬近海から西の東シナ海に向かって徐々に拡大していったが、その過程で沖合での連続操業を容易にするため、網船も60㌧型に大型化し、鮮魚に対応できる自前の運搬船を所有する形態へと変わっていく。特に一会社が数船団を経営する場合には、多数の運搬船を投入できるので、より遠方への出漁が可能だったが、一船団のみを所有する会社の船団は、近場の対馬近海から見島にかけての海域で専ら操業している。なお昭和29年(1954)の「まき網漁業許可名簿」によると、当時壱部浦で9統、舘浦で13統の計22統があったとされる。

 

6.昭和30~60年代-遠洋まき網漁業の確立-

(1)片手回し形態への回帰と遠洋化

 昭和30年代に入ると、まき網の漁場は済州島南沖の東シナ海まで拡大したが、その過程で高い波浪の中でも安定した操業を行い、長期間の航海・操業にも対応するために網船などの大型化、鉄船化、ディーゼル機関の搭載などが進行し、網船の大型化に伴い再び片手回しの形態を取るようになる。また従来の操業では漁獲物を一旦漁場近くの根拠地に運び、そこから問屋が雇船した運搬船に積んで消費地の市場に運んだが、まき網の漁場が根拠地から遠く離れた海域になった事から、漁場から直接、消費地の市場に運べるよう、まき網船団が自前の運搬船を持つようになる。これによってまき網漁業は最終的に遠洋漁業形態への移行を完了する。

 昭和30年代なかばの遠洋片手回しまき網船団の標準的な編成は、網船1隻(80㌧、ディーゼル300馬力)、灯船2隻(12㌧、ディーゼル90馬力)、電探灯船1隻(12㌧、ディーゼル90馬力)、運搬船2隻(100㌧、ディーゼル80馬力)からなる。灯船は網を張り回す時の基点としても使われるようになり、また電探が灯船にも搭載されるようになる。船の鉄船化については、昭和20年代に既に運搬船に木鉄混合型(竜骨等は鉄、外板は木)があったが、網船では昭和31年(1956)建造の第五大福丸が(80㌧型)が最初の木鉄混合型本船であり、昭和32年頃建造の白鳳丸が最初の鉄船型本船である。

 「東海」という地名は、日本側で言う所の東シナ海を指す中国側(中華人民共和国・中華民国)の呼称である。そのため東海漁場というと漠然と東シナ海全域を指す場合もあるが、後述する昭和31年の操業についての『舘浦漁業協同組合八十五年史』の文書に、五島から女島を通り南下し、南西に転針したという記述や493区という記述がある事から、沖縄本島の北西300㌔付近の周辺海域と思われるが、元源福丸乗組員の小野数勝氏によると昭和50年代には尖閣列島付近の漁場を東海と呼んでいたそうで、概ね沖縄の北西から西沖にかけて広がる海域を指すようである。その付近は中国大陸沿岸から伸びた大陸棚の縁辺部にあたるが、大陸の沿岸水から流れ出た冷水塊と暖かい対馬暖流が接触して潮目が出来る場所であり、豊富にプランクトンが発生する好漁場だった。しかしこのような海域では顕著な表層と深層で異なる潮の流れ(二重潮)が発生するため、まき網の操業には不利だとも言われ、また大洋の真ん中で海象も厳しく当時の80㌧型網船では操業困難とも考えられていた。そのため昭和31年(1956)10月には金子商店が当時としては巨船の第81源福丸を試験操業船として出漁させて東海漁場の開拓に挑んでいる。第一次出漁では厳しい海象で漁が出来なかったが11月の第二次出漁では漁獲を得、翌32年8月までの操業期間で有望な鯖・鰺漁場との感触を得ている。この試験操業の経験を活かし、昭和33年(1958)からは80㌧型網船も出漁するようになり、多くの漁獲を得て、当時不振にあえいでいたまき網漁業の回復に貢献している。また東海操業に有利なように、昭和36年以降の本船は90㌧型に、灯船は30~35㌧に、運搬船は150~200㌧と大型化・鋼船化している。一方で、不振に対応したまき網船団の自主減船も始まり、減船に際しては日本遠洋旋網漁業協同組合が減船船団から操業許可証を買い取っている。この自主減船で昭和38年(1963)に舘浦の第十八福吉丸、昭和44年(1969)に壱部浦の第十八蛭子丸、舘浦の第三十三大吉丸、第五大洋丸、第十八大福丸、第十五大洋丸、昭和46年(1971)に舘浦の第五大福丸、第八大福丸、昭和47年(1972)に舘浦の第八白鴎丸が減船している。『生月島の研究』によると、昭和40年(1965)には舘浦18統、壱部浦7統の計25統の遠洋まき網船団が存在した。

 

(2)北海道・東北出漁

 昭和30年代末頃から、生月島の遠洋まき網船団は北海道や東北の漁場に出漁して大きな成果を上げている。最初に北海道に出漁したのは壱部浦の明寶丸船団で、当初北海道の西沖で操業したが、その後道東漁場に移動して鯖を大量に捕獲しており、その後同漁場には舘浦の源福丸も2船団(のちに3船団)を派遣している。道東漁場には他の所からも出漁して24船団が操業している。道東漁場は根拠地とした釧路から近かったが、日に何度も網を入れるので、複数船団を持つ会社が運搬船を融通し合えて有利だった。そのため単独船団だった明寶丸も後の方では茨城、鳥取、新潟のまき網船団と共同操業して運搬船を融通し合うようしている。道東漁場の操業は7月頃に始まり、11月には三陸沖に移動して根拠地も八戸に移している。さらに12月になると拠点を千葉県の銚子に移し、年末には生月島に帰ってきた。道東でのまき網操業が盛んだった昭和50年代には、他船団に先駆けて良い場所に網を入れるため速力が出る船形が好まれたが、そうした船は安定性を欠く所もあり、のちに海難事故を引き起こした船も出ている。この時期網船(本船)も大型化し、昭和42年(1967)以降は111㌧型に、49年(1974)以降は116㌧型に、57年(1982)以降は135㌧型になっている。なお『生月島の研究』によると、生月島の遠洋まき網船団は昭和47年(1972)には16統だったが、昭和54年(1979)には17統、昭和61年(1986)には18統に増加している。

 

(3)まき網によるマグロ漁

  なお『舘浦漁業協同組合八十五年史』によると、昭和56年(1981)6月には対馬沖でクロマグロがまき網船によって初めて捕獲されている。源福丸に乗船してマグロ漁に従事した経験を持つ小野数勝さんの話によると、白月で舘浦に入港中、鮪の情報が入ったので急遽出港して、沖ノ島付近で大漁したというが、その際には既存のアジ漁用の網を用いている。他の船団では網を上げていった時、マグロが網に突っ込んで破る事故が起きたので、揚網にも時間が掛かり網の修繕も大変だったが、源福丸では小野さんが網の中で泳いでマグロの群れを真ん中の方に寄せて網に近づけなかったので、上手く網を上げられたという。この年の夏には朝鮮海峡から日本海西部にかけての海域で24社・26統のまき網船団が70回操業して41,846本(5,408㌧)39億円の漁獲を上げている。その際にはチャーターしたセスナ機による探索も行われたが、翌漁期にはマグロ用の丈夫な網を準備し、源福丸では翌年、三陸でマグロ漁の経験を持つ人を雇ってマストの見張台で魚見を行い、漁もあったという。なお小野さんの話では、壱岐の近くでは一カ所にマグロが集まって海面を跳ねたり群れたりまるでゾーグレしている(遊んでいる)ような光景を見た事があるという。マグロ達は夢中で周囲に注意もしていない様子だったので一網打尽にしたというが、マグロが繁殖活動を行っていた可能性がある。こんにちでも隠岐や境港沖の日本海などでマグロの操業が行われている。

 

(4)松浦水産基地の開業

 昭和54年(1979)には松浦水産基地が開業する。同基地は伊万里湾に面した松浦市調川にあり、水揚岸壁と製氷・冷凍・冷蔵施設を有し、漁獲物を売買する西日本魚市を併設しているが、こうした施設の整備で、漁業者側が遠洋まき網の漁獲物を水揚げして市場で売買する流通システムを確立している。西日本魚市は出資金の9割のを日本遠洋旋網組合が持つ生産者主体の魚市場で、漁業者側が卸売部門を掌握する形が取られているが、市場の魚価が低迷する時には冷凍倉庫で保管し魚価の回復を待つ事ができた。また松浦市周辺にはまき網の漁獲物を利用した水産加工業も発展している他、松浦市ではまき網で取れた鰺を特産品にするなどの取り組みが行われている。

 

7.平成以降

(1)厳しさを増す東シナ海漁場

  平成に入ると東シナ海漁場では中国漁船の進出が盛んになり、漁業資源の減少も深刻化し、日本漁船の操業は厳しくなる。日中間の漁業協定はまた両国間に正式な外交関係が無かった昭和30年(1955)に民間漁業協定として締結されているが、当時の中国はようやく国共間の内戦が終結して共産党が勝利し、中華人民共和国が建国(1949年)されて間もない頃で、中国側には海洋で漁業を展開する船も技術も無い時代で、協定の中心は中国近海に進出する以西底引網や延縄などに従事する日本漁船の安全な操業を認めて貰う性格が強かった。遠洋まき網漁業が東シナ海の東側(東海)に進出してくるのは昭和40年代以降の事で、遠洋まき網漁業が日中民間漁業協定に参画するのは昭和45年(1970)の事だった。その際の協定では協議区毎の入漁船団数(期間)、灯船の隻数、灯火の能力、網目の大きさ、魚種毎の捕獲魚の体長制限などを取り決めた。昭和47年(1972)には日中間で国交が回復したが、平成に入る頃になると中国漁船の大型化、高性能化も進み、東シナ海に出漁する中国漁船団は年々増大を続けていく。

  そうしたなか日本政府は、廃業する船団には乗組員の退職金等にも宛てられる報奨金を用意するなどして、まき網船団の減船政策を進めており、生月島のまき網会社の中からもそれに応じて、船団の廃止や会社自体の廃業を進める所が出ている。生月島の遠洋まき網

船団数は、昭和62年(1987)63年(1988)には17統(壱部4、舘浦13)だったが、平成元年(1989)~4年(1992)は16統(壱部4、舘浦12)、平成5年(1993)6年(1994)は14統(壱部4、舘浦10)、平成7年(1995)8年(1996)は13統(壱部4、舘浦9)、平成9年(1997)10年(1998)は11統(壱部3、舘浦8)となっている。さらに平成12年(2000)には10統(壱部2、舘浦8)、平成13年(2001)には9統(壱部1、舘浦8)となり、平成14年(2002)には残った壱部浦の船団も廃業し、舘浦の6船団だけとなり今日に至っている。

 平成10年当時の船団編成を第二十三祐生丸船団で見ると、網船1隻(135㌧、ディーゼル640馬力)、灯船2隻(85㌧同380馬力と、69㌧同500馬力)、運搬船2隻(216㌧同640馬力と、355㌧同780馬力)で構成されている。

 

(2)効率化の模索

 平成20年代に入ると網船は、安定操業とゆとりのある居住性を実現した199㌧型に転換していくが、それと同時に船団の省経済化に繋がる船数の減少が進められている(この実行は新船建造への補助事業「もうかる漁業創設支援事業」の条件となっている)。その際焦点になったのは片手回し操業の際に網の基点を持つ役割を果たしていた灯船の減船で、灯船に代わって基点を持つ小型の作業船を本船、運搬船、灯船に搭載する形が取られている。平成23年(2011)の第八十一大栄丸(網船)を皮切りに、平成26年(2014)には第十一源福丸(網船・作業船搭載)、平成28年(2016)には第八源福丸(網船・作業船搭載)が就航、平成29年(2017)には第八十二大栄丸(網船)、第十八喜代丸(網船)と第八十一喜代丸(運搬船・作業船搭載)が就航、令和元年(2019)には第三十一源福丸(網船)、令和2年(2020)には第三十六源福丸(灯船・作業船搭載)が就航し、生月島の網船199㌧型化を伴う新しい船団編成は完了している。その結果編成は網船(199㌧型)1隻、灯船(85㌧・185㌧)1隻、運搬船(200~300㌧台)1~2隻で構成され、複数船団を擁する会社では運搬船を統一運用している。またこれらの新船では乗組員の居住環境も格段に改善されている。

しかし減船が一段落した平成20年代以降は新規乗組員の雇用が厳しさを増しており、平成25年(2013)7月以降、インドネシアからの研修生を受け入れる事で操業の継続が図られている現状もある。

 




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