長崎県平戸市生月町博物館「島の館」

生月学講座No.236:着物姿の聖母の位置付け

生月学講座:着物姿の聖母の位置付け

 

 生月島のかくれキリシタン信仰で祀られるお掛け絵に描かれているのは、聖母子や聖人、キリストなど、カトリックで聖なる存在とされる方々の姿です。それが分かるのは、ヨーロッパに存在するキリスト教にちなんだ聖画(宗教画)では、この存在はこの物語のこうした場面には、姿勢や持ち物(アトリビュート)、周囲の風景をこう描く、という決まりがあるからです。16~17世紀の日本で制作されたと思われる聖画も、かくれキリシタン信仰のお掛け絵も、概ねその決まりに従って描かれている事が確認できます。

 他方、お掛け絵に描かれた存在の顔立ちや髪型、衣装については、瓜実顔、髷を結う、着物など日本人の要素です。しかし16~17世紀にヨーロッパから聖画を持ち込まれた聖画は当然の事ですがヨーロッパ人の容貌や服装をしており、セミナリヨの画学舎で1590年代以降制作された聖画についても同じである事が、大阪府茨木市内のかくれキリシタンの家から発見された「ザビエル像」「マリア十五玄義図」等から確認出来ます。

 美術史では、16~17世紀の日本人による洋風画には、セミナリヨで洋風表現を学んだ第一世代の作品があり、その後も彼らに学んだ人達が作品を残していますが、次第に洋風表現は稚拙となり、最終的には民俗芸術的なかくれキリシタンのお掛け絵になったが、その理由は、信仰形態の維持が困難で幾多の変形が不可避だったため像形が変化したのだと説明されてきました。しかし日本風の様相を押しなべて退化の要素とするのには疑問があります。歴史的な視野で見ると、16世紀にヨーロッパで描かれた聖母を描いた絵も、所詮、紀元前後にユダヤ地方に存在したとされる対象を、16世紀のヨーロッパの衣装や風景で表現したものに過ぎず、日本で制作された髷に着物姿の聖母のお掛け絵の位置付けと何ら違いはありません。例えてみるとそれは、1990年代の日本人がワンレン・ボディコン姿の聖母を描いたようなものです。こんにち日本をはじめとする各国の多くのキリスト教徒が、こうした今日的な表現を採らず、過去の、とりわけヨーロッパ人の姿に固執した聖画を尊重しているのは、歴史的に見ると奇異な現象だと言えます。

 16世紀にヨーロッパで描かれた聖母の聖画が、当時のヨーロッパの衣装や風景で描かれたのは、そうする事で、聖母が当時の一般信者に身近で同時代的な存在だと認識される事を意図したからだと思います。同様に16~17世紀の日本で制作された聖母のお掛け絵が、髷に着物姿の女性の姿で描かれたのは、聖母を日本人信者にとって身近な存在にする意図があったのでしょう。これについては、当時布教にあたったイエズス会をはじめとする宣教師達の、キリスト教を日本人に根付かせようとした熱意の賜だと思いますし、結果的に生月島のかくれキリシタン信者は、長い禁教時代の間、お掛け絵を自分達の大切な存在として守ってきたのです。

 それに比べると近現代の日本人は、キリスト教をヨーロッパの伝統的な文化要素とみなす意識があまりにも強いが故に、16世紀頃のヨーロッパの装いの聖母を「正統」「純粋」なものと見做した上で、髷に着物姿の聖母像をそこから変容して崩れた姿だと認識してしまうように思うのですが、「日本人のキリスト教」を考えていくためには、その呪縛から一旦解き放たれる必要があるようにも思います。




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