生月島の歴史12:生月島と第二次世界大戦
- 2023/03/07 10:52
- カテゴリー:生月島の歴史
生月島と第二次世界大戦
1.生月島(生月町)の戦争遺構の調査と情報公開
筆者が生月島内に多くの戦争遺構が残る事を知ったのは、平成5年(1993)に採用されて以降、聞き取りや行事の調査で古老の方から話を伺う中でだった。その頃多くの島民から、御崎や長瀬鼻に昔、軍の施設があった事を伺っていたが、平成8年に刊行された『生月町史』には軍施設については全くと言っていいほど触れられていない。筆者が戦争遺構について最初に纏まった報告を行ったのは長瀬鼻にあった海軍の防備衛所についてで、山田在住の牧山祐子さんと、牧山さんから紹介を受けて同衛所に勤務した経験があ
る八木寅芳氏から伺った話に基づいたレポートを、『潮騒』第22号(平成15年、2003)に掲載させていただいた。また戦争体験者の聞き取りの内容は平成12年(2000)以降『広報いきつき』に8回程掲載し、令和2年度の館報『島の館だより』では、平戸市内の戦争体験と戦争遺構の特集を行った中で、御崎地区の砲台施設や長瀬崎防備衛所についても取り上げた。
令和3年以降になると、島内在住の田中まきこ氏、西澤安廣氏、小野数勝氏、町田治康氏、伊藤清壽氏、松本浩氏らの生月戦争遺構探索会が島内の戦争遺構の現地調査に取り組まれ、多くの成果を挙げてきたが、なかでも特に重要な成果が、北之平丘陵に残る地下壕遺構の性格を明らかにされた事だった。島の館の学芸員である筆者は、業務の一環として地域情報の調査にあたってきたが、一番望ましいのは、住民自体が地域の事象に関心を持ち、自らの調査で事象の情報を収集し、価値を理解し、保存・活用を考えていく事で、そうした活動を様々な形で支援する事が博物館の重要な役割だと考えている(勿論、調査時の危険回避には充分配慮されている事が前提である)。「生月島の歴史」の連載は今回で終わりだが、最後に島民の方々による調査の成果を報告できるのは、何よりの喜びである事を申し添えておきたい。
2.御崎地区の壱岐要塞関連施設
(1)壱岐要塞の概要
朝鮮海峡は、古来より大陸と日本列島を結ぶ道(航路)として重要な役割を果たしてきた。明治維新を経て成立した大日本帝国が朝鮮半島を経由して大陸への進出を進めていく過程で、朝鮮海峡の重要性はさらに高まったが、敵の艦隊によって朝鮮海峡が封鎖され、大陸と日本列島の交通が遮断される事になると、大陸に進出した陸軍の補給線は切断され、敗北を喫する危険があった。実際に日露戦争では、ウラジオストクを拠点とするロシアの巡洋艦艦隊が実施した通商破壊戦によって、大陸に向かう陸兵を輸送していた常陸丸が撃沈されている(明治37年6月)。
「壱岐要塞築城史」によると、大正8年(1919)陸軍で裁可された「要塞整理要領」には「朝鮮海峡要塞系ノ設立ヲ責策セラレ、本土及大陸間ノ交通維持ノ為、該交通線ヲ要塞火砲ノ連続セル火制下ニ在ラシムル如クスルコトナリ。在来ノ鎮海湾及対馬要塞ノ防備ヲ拡張スルノ外、新ニ壱岐要塞ヲ設置シ、是等三要塞ヲ要塞系司令官ノ統一指揮ノ下ニ置キ、以テ一要塞系タラシムルコトナリシ。」とあり、朝鮮海峡を鎮海湾、対馬、壱岐の三要塞の火砲で防衛する構想に基づき、新たに壱岐要塞が設置されている。またこの構想に基づく朝鮮海峡要塞系の任務として次の三つが挙げられている「一,対馬要塞及鎮海湾要塞ト相俟チテ本土、朝鮮間ニ於ケル我ガ交通ヲ掩護ス。一,壱岐海峡ニ於ケル敵艦ノ交通ヲ途絶シ、且対馬要塞ト相俟チテ対馬海峡東水道ニ於ケル敵艦ノ航通ヲ妨害ス。三,敵海軍ノ攻撃ニ対シ伊万里湾ヲ掩護ス」。上記任務を達成するための壱岐要塞の兵備として、壱岐の勝本、壱岐属島の大島、東松浦諸島の馬渡島、加唐島、北松浦諸島の鷹島、的山大島に、砲塔35㌢カノン砲3基6門、七年式30㌢榴弾砲16門、28㌢榴弾砲4門の配備が計画されている。これらの兵備から、広い海峡を制圧する長射程・精度を有した大口径カノン砲の実用化が、朝鮮海峡要塞系の戦略思想の根底にある事が分かる。
その後の再検討で大正12年(1923)に裁可された「要塞再整理要領」では、前述の砲台予定地のうち壱岐勝本、大島、加唐島の設置計画が廃される一方、壱岐の黒崎・神宮山・名烏島、糸島沖の小呂島が追加され、配備砲も砲塔41㌢カノン砲3基6門、七年式30㌢榴弾砲4門、七年式15㌢カノン砲4門、砲塔30㌢カノン砲1基2門、砲塔30㌢カノン砲1基2門に変更され、先の計画より増強された大口径カノン砲による射程の伸張と打撃力の向上が図られている。なお配備砲のうち砲塔型には海軍の戦艦搭載主砲の転用を予定し、的山大島砲台に設置される砲塔30㌢カノン砲1基2門には、廃艦となる前弩級戦艦「鹿島」の主砲が採用されている。壱岐要塞の施設は大正12年(1923)10月の的山大島砲台の建設で整備工事が始まり、大正15年(1926)にはそれらの砲台を指揮するため壱岐要塞という部隊編成が設けられ、壱岐要塞司令部が開設されている。ただこうした要塞部隊の設置については、戦略上の問題以外に、おりから進行していた大正軍縮で師団等の部隊の統廃合が進んでいた事との関係(廃止師団の将校のポスト確保など)も考慮すべきである。
その後昭和8年(1933)の「要塞整理要領」制定後には朝鮮半島要塞系の砲台の目的に変化がある事が、「壱岐要塞築城史」の記述から窺える。「朝鮮半島要塞系ノ要塞ニ在リテハ砲台ガ敵主力艦ト交戦スルノ機会ハ極メテ希有ナルベシトノ判断ニ基キ、爾来大口径砲台ノ構築ハ之ヲ行ハザルコトトナリ、専ラ敵ノ軽艦特ニ潜水艦ノ制圧ノ為十五糎加農砲台ノミヲ構築セラレタリ」。つまり大口径砲を備えた砲台による敵戦艦との砲戦から、射程距離は短くなるが、より速射性に優れた15㌢カノン砲を用いた敵の軽艦艇、特に(浮上)潜水艦の攻撃に目的が移った事が分かる。この場合の仮想敵は日本海に潜水艦隊を擁していたソ連だった。
昭和11年(1936)裁可の「要塞再修正計画要領」に基づく細項計画による壱岐要塞の兵備は、壱岐黒崎(砲塔45口径40㌢カノン砲1基2門)、小呂島(四五年式15㌢カノン砲4門)、的山大島(砲塔45口径30㌢カノン砲1基2門)、名烏島(四五年式15㌢カノン砲4門)、渡良大島(四五年式15㌢カノン砲4門)で、ここに生月島(九六式15㌢カノン砲2門)が新たに加わっている。先の「壱岐要塞築城史」の記述から考えると、生月砲台は渡良大島砲台とともに壱岐水道に接近する軽艦艇、特に潜水艦の制圧を期して配備された事が推測できる。
さらに昭和16年(1941)7月には、おりから満州で対ソ戦を想定して行われていた関東軍特別大演習に関連して、朝鮮海峡の安全確保の名目で、壱岐要塞重砲兵連隊の臨時編成(動員)が下令されているが、この部隊は既存の砲台運用部隊を集成して連隊編成にしたものだった。同連隊は2個大隊、7個中隊(当初、のちに8個中隊)編成だが、そのうちの第7中隊が生月砲台の配属部隊である。終戦時の第7中隊の中隊長は渡辺軍平中尉、中隊所属の兵員は将校4、下士官兵150の計154名だった。
「壱岐要塞築城史」に掲載された「壱岐要塞生月砲台建設要領書」(昭和12年)には、次のような記述がある。「一 任務 壱岐海峡及生月島西方海面ニ於ケル敵艦船ノ航通ヲ妨害シ我海上航通ヲ掩護ス。二 位置 生月島北部。三 築城要領 1 砲台ノ首線ハ概ネ真方位零度トシ射撃区域ハ首線ノ左右ヲ成ルヘク広ク直接照準シ得ル如ク設備ス。2 観測所ハ砲台附近トシ九六式測遠機ニ依ル射撃設備ヲ具備セシメ射撃指揮特ニ其視界ヲ成ルヘク大ナラシムルヲ主眼トシテ築設ス。3 砲座ハ九七(ママ)式十五加二門ヲ築設ス。4 電燈所ハ砲台東北側高地ニ設ク。5 所要ニ応シ火砲ノ移動性ヲ発揮シ得ル如ク設備ス。」
生月砲台は生月島北部の御崎地区ミンチマに置かれ、砲台に付属する電燈(探照灯)、電探、発電所、兵舎、陣地なども配置・整備されている。また大戦末期には御崎地区北端に大碆鼻砲台が追加されている。
御崎地区は壱岐水道に面し、全体に台地状で標高もあり、三方を海に囲まれた海岸線の殆どが断崖で防御に優れているなど、砲台設置に適した地形的特徴を有していた。昭和20年に入ると、日本本土に連合国軍地上部隊の侵攻を想定した本土決戦準備が進められていくが、壱岐要塞も昭和20年2月6日に要塞歩兵第1~第6大隊、5月23日に第7~第9大隊が壱岐要塞司令官の令下に入り、4月8日付大命第一、二九七号で壱岐要塞守備隊の編成が下令され、4月21日の大命第一、三一五号で要塞歩兵を含む壱岐要塞所管部隊は九州北西沿岸の防衛を担う第五六軍の戦闘序列に編入されている。なお「壱岐要塞司令部の沿革」所載年表によると、要塞守備隊の配属は昭和20年6月とされている(第三次兵備における編成と思われる)。要塞歩兵一個大隊の兵員は826名だが、詳細な編成は不明で、師団所属歩兵大隊の編成を参考にすると、大隊本部と兵員130名程度の4個歩兵中隊と機関銃中隊、歩兵砲小隊からなるが、後期には歩兵中隊が190名程度に増強されている一方で、末期の根こそぎ動員では機関銃や砲はおろか小銃にも事欠いているため、実際の編成を想定する事は難しい(『壱岐要塞築城史』付「昭和八年修正計画壱岐要塞兵備表」には三八式野砲12、三八式速射山砲17、機関銃40挺が計上されているが、これらは要塞歩兵大隊編入以前の数量と思われる)。壱岐要塞のうち的山大島と生月島を管轄する南地区隊には要塞歩兵第2大隊が配置され、生月島には大隊兵力のうち歩兵1~2個中隊程度(130~380名程度)と補助部隊が配属されたと想定される。
(2)御崎施設の壱岐要塞関連施設
①生月砲台
生月砲台は生月島北部の御崎地区の西岸沿いにある標高109㍍の丘陵上(小字名ミンチマ)に設けられている。『壱岐要塞築城史』の「要塞整理費支辨工事一覧表」によると、砲台施設の工事は昭和12年(1937)7月6日に開始され、昭和13年(1938)12月12日に竣工している。また同砲台のための探照灯を運用する生月電燈所は北端の大バエ鼻の頂上(標高約83㍍)に設置されているが、同施設の工事は昭和12年(1937)6月19日に始まり、昭和13年(1938)11月30日に竣工している。
『日本陸軍の火砲 要塞砲』によると、生月砲台に配備された九六式15㌢カノン砲(2門)は、昭和に入って最大射程が約25㌔に延伸した列強の同口径カノン砲に対抗し、より遠距離からの砲戦で優位に立つため昭和11年(1936)に製作された。射程は26㌔を誇り、発射による砲身内の摩耗に対し内管のみを交換できるようにした新式砲である。また同砲の砲床は埋設式でなく、地表に直接砲床設備を組み立て駐鋤を打ち込んで固定する形のため、砲の設置が比較的容易だった。野戦用の長距離砲としての運用が可能な同砲が要塞砲として配置された経緯については、昭和8年(1933)裁可の「要塞修正計画要領」で、要塞砲は状況に応じて他の作戦に転用容易な火砲を採用するという方針が採られたためである(この方針から、海岸砲台の砲と砲兵が野戦軍の砲兵部隊の補完的役割を担っていた事が窺える)。
同砲は当初は露天に配置された。ミンチマの丘の頂上には造成された広い平地があり、そこに2門の砲を並べて配置していたが、露天に置かれた九六式15㌢カノン砲は全周射撃が可能だった。同平地ではその際に使用されたコンクリートの擁壁を持つ八角形と七角形の浅い縦穴(幅2㍍程)が確認されているが、用途は分かっていない。
砲が配備された平地の南東側には、鉄筋コンクリート製の観測所の建物が良好な状態で残る。上部にある円形の部屋には周囲を見渡せる横長の観測窓が設けられ、天井には八八式海岸射撃具の潜望鏡を出すための穴と、観測の基準となる場所の方向を示した墨線が残るが、生月戦争遺構探索会会長・田中まきこさんの教示によると、ここには改修された八八式主測遠機を用いた九六式海岸観測具が設置されていたという。観測所の下部には砲側弾薬庫に用いたと思われる部屋などが残る。
昭和20年に入ると、生月砲台の2門のカノン砲は航空攻撃を避けるため、地中に設けた穹窖(斜面や断崖に横穴を掘って砲を収容し、入口にコンクリート製の防護壁を設け、砲身を突き出す開口部を作った構造物)に移設・収容されている。ミンチマの平地の北側にある斜面には、北に開いた形でV字形に谷を造成した場所が2カ所あり、その最奥部に穹窖の跡がある。現在は穹窖の内部は破壊されているが、カノン砲を収容した空間があったと思われる。穹窖に収めた砲は開けた露天と異なり射角が限定される(北側30度程度)ため、攻撃能力は大きく制約される事になる。また昨年(令和4年)生月戦争遺構探索会が東穹窖の東側で全長30㍍を超える素堀りの坑道を確認している。トンネルの奥は崩落しているため確認できないが、穹窖奥の砲が配置された空間と繋がる連絡通路と思われる。
砲台東側には砲兵の木造兵舎が設けられていたが、聞き取りでは砲台敷地の周囲には鉄条網が巡らされていて、地元の人は入れなかったという。近年、堺目の松山家のマヤを解体した時、ジブク石(土台石)に「陸軍省」と刻まれた石柱が用いられているのが確認されているが、それは生月砲台周辺の陸軍用地の境界石だと思われる。
生月砲台の砲が夜間、敵の艦艇を確認するために用いた探照灯は「生月電燈所」という名称で、島北端の大バエ鼻の頂上(標高約83㍍)に設置されていた。探照灯は不使用時には、岩を掘り込んでコンクリートで作られた箱形の部屋に収容したが、その施設が現在、大バエ灯台の基部に残り、そこから探照灯を引き出す際に用いたコンクリートの通路も残る。同遺構の用途については田中まきこさんが、福岡県の大島に同様の形状の遺構が残っている事を確認して明らかになった。
②大碆鼻砲台
昭和20年5月21日の陸西作命第136号により、壱岐要塞の配備火砲の一部(野砲など)が北九州沿岸の防備用に転用される事となり(実際には砲の転出は実行されなかった)、その代替に海軍から14㌢カノン砲6門が提供されているが、そのうちの2門が生月島北端の標高83㍍の大碆鼻(タカリ)の北側斜面に配備されている。同砲は一門ずつコンクリート製穹窖に収容・配備され、昭和20年代の航空写真ではV字型の穹窖前の窪地が確認できる。東側の穹窖は戦後埋め立てられたが、西側の穹窖は現在も残っている。
この砲は大正時代に建造された戦艦の副砲や軽巡洋艦の主砲に用いられた50口径三年式14センチ砲と思われるが、平射砲といって仰角が小さい対艦(水雷艇・駆逐艦)専用砲だったので、艦艇に対する航空攻撃への対処が重要となった第二次大戦では、撤去されて高角砲に換装されたりしたため、撤去した砲が再利用されたと思われる。
佐世保海軍警備隊による昭和20年8月31日付『還納目録』にも、大碆鼻には14㌢カノン砲2門が配備された記録があり、同史料内の「軍港正面地区兵器の爆発物集集積位置」の略図からは、2基の砲台とともに爆発物格納所(弾庫)、兵舎があったことが確認できる。弾庫と兵舎は大バエ鼻の丘の南斜面の麓にあったと考えられている。
③電探(レーダー)
大バエの下の駐車場から南に登った斜面の西側崖際(「カヒチ」という小字に属する)には円柱状のコンクリートの擁壁を持つ縦穴遺構が残っているが、電探(レーダー)が設置された施設の跡である可能性があり、そこから38㍍東に離れた場所にある頑丈なコンクリートに覆われた部屋状の遺構は、レーダーの操作や情報確認を行う操作室か発電機室の可能性がある。
レーダーは第二次大戦に入って実用化された、電波の反射を確認して船や飛行機を探知する機器で、イギリス、アメリカ、ドイツでは高性能の機器が登場して実戦に投入されていたが、日本は技術的に遅れ、戦争後期になってようやくある程度の性能の機器が配備されるようになっている。
御崎地区には生月島電探見張所が置かれており、前述の遺構はこの施設に関するものと思われる。昭和20年11月17日付「生月島電探見張所(残置兵器)」によると、同施設には仮称三式二号電波探信儀1基、電波探知機改三1基、テーエム式軽便無線電信機1台が配置されている。探信機は電波を発信して反射する電波を確認する機器(いわゆるレーダー)、探知機は敵の艦船や航空機が発進する電波を受信してその接近を確認する機器である。電探(レーダー)の目的には艦船の探知と航空機の探知があるが、御崎の電探は対艦用で、生月砲台・大バエ鼻砲台の目標を確認するための施設だと思われる。
④北之平のトンネル地下壕陣地
北之平は御崎の南にある標高約100㍍の丘で、南側には御崎浦とオロンクチを結んで島を東西に横断する谷がある。北之平の丘に多数の地下壕がある事は以前から地元の人に知られていて、戦後、御崎浦から御崎分校に通う児童は通学時、穴の入口が怖かったという話や、御崎の人が子供の頃、中に入って遊んだ話などが残る。但しこれらの穴の用途は不明で、防空壕だと考えられていた。だが令和4年、生月戦争遺構探索会が壕の調査を行うなかで、これらが長い坑道状の地下壕である事が分かり、令和4年12月現在、4本の坑道地下壕を確認している。これら地下壕の構築について記した資料は確認できていないが、後述するように地上戦を想定した陣地の遺構と思われる。同遺構の建設時期については、要塞守備隊の配置が昭和20年6月なので、構築はそれ以降に進められたと考えられるが、現在確認されている坑道地下壕4本のうち2本は丘を貫通していない事から、地下壕陣地は未完成の状態で終戦を迎えて放棄されたと思われる。
昭和20年(1945)6月以降、壱岐要塞歩兵第2大隊の1~2個中隊が御崎地区に配属されているが、「壱岐要塞司令部の沿革」の要塞歩兵大隊の増強に伴う第二指導要領の⑥には、敵の上陸行動に対しては砲台火砲及び水際部隊をもってその上陸を極力阻止するとともに、状況によって主力を転用して水際決戦を企図する、同⑦には、敵が万一上陸するに至れば拠点を死守し活発な遊撃戦を展開するとともに状況により主力をもって決戦を求めこれを撃滅する、とある。それらから壱岐要塞の目的には、従来の壱岐水道の敵艦船攻撃に、要塞地帯に上陸してきた敵地上兵力の撃滅が加わり、以後の要塞部隊は面的防御への対応を余儀なくされた事が分かる。
南北10㌔の生月島は、西海岸の多くが断崖で、東海岸も北部の御崎から壱部北部にかけては概ね断崖や急斜面だが、壱部中部(浜沖)から舘浦にかけての6㌔程は砂浜や磯浜が続く上陸可能な海岸だった。御崎地区を防衛しながら東岸中南部の6㌔の海岸を防衛する事は歩兵1~2個中隊程度の小兵力では不可能で、南部の海岸に配置できる数の砲は無い上、御崎地区の砲も穹窖に収容されて北方向の射角に限定されているため、南部に阻止砲撃を行う事もできなかった。
そのため要塞守備隊は生月島中南部を防備の外に置き、砲台や関係施設があって地形的にも防衛が容易な御崎地区に守備範囲を限定したものと思われる。御崎地区の北・西・東側はいくつかの湾入を除くと断崖で少人数での守備が可能だが、島の中南部に接続する南側からは、中南部に上陸した敵陸上兵力が陸伝いに進入する恐れがあった。その行動を阻止するため、東西の海岸間が最も狭い御崎浦-オロンクチ間の谷に北面した北之平の丘に、坑道地下壕を主体とする野戦陣地を設けた事が考えられる。同丘は尾根線が北西~南東方向に延びた標高約100~60㍍の丘陵で、両端は断崖で海に面しているため迂回出来ず、南斜面は牧野として利用されていたため遮蔽物が無く、防御陣地を設けるのに理想的な位置と形状を有していた。しかし草地のため塹壕主体の陣地を設けても航空機から直ぐに発見され、爆弾、ロケット砲、機銃による攻撃を受ける恐れがあり、また両側の海からも軍艦の砲撃を受ける恐れが大きいため、地下壕陣地が導入されたと思われる。
野戦陣地はヨーロッパでは16世紀頃から、兵員が砲撃や銃撃から身体を隠せるよう、地上に溝を掘った塹壕が用いられるようになり、特に第一次大戦の西部戦線は塹壕戦の様相を呈したが、第二次大戦でも塹壕はドイツ軍の東部戦線を始め各戦場で用いられている。しかし航空機による空襲と、艦砲による集中砲火を多用するアメリカ軍に対しては、地上に暴露した塹壕は早期に効力を減じ、夜襲突撃による反撃を余儀なくされた日本軍は、多くの兵器や兵員を失い無力化を余儀なくされていた。そのため大戦後期の日本軍は、兵員や火器を地下壕に収容して砲爆撃の効果を減少させ、敵の地上兵力が前進してきた頃合いで地下壕の入口から銃砲撃を加えて敵兵力を漸減させる持久戦法に切り換えている。この戦法を始めて多用したのが昭和19年9月に始まるペリリュー島の防衛戦で、兵や兵器の数で劣る日本軍はアメリカ軍の最精鋭・第一海兵師団に大損害を与えている。その後の硫黄島や沖縄の戦闘でも(自然の洞窟を含む)地下壕は多用され、大きな成果を上げている。北之平の地下壕陣地もこれらの地域と同じ戦術思想によって構築されたものと考えられ、南西斜面側の入口から機関銃・擲弾筒などで御崎浦~オロンクチの谷地に進出してきた敵軍を攻撃して進撃を阻止し、坑道を使って北東側斜面側から弾薬の補給や兵員の交替などを行う計画だったと思われる。
坑道地下壕は生月戦争遺構探索会の確認順にA、B、C、Dという仮称が付けられたが、北西~南東方向に延びた北之平の丘の中腹に壕の入口があり、北東側斜面に設けた入口は西からD-A-B-Cの順に並んでいる。そのうちD壕とC壕は尾根を越えて北東から南西斜面に抜けているが、A壕とB壕は北東斜面に入口があるだけの行き止まりとなっている。各壕の内部の状況については、田中まきこさんの「生月島における戦争遺構」に従って紹介するが、各壕の名称は分かりやすいように西からⅠ~Ⅳの番号を付けている。なお4本の壕は北之平丘陵の中央部に並んでいるが、丘陵最高点がある西側や、東側では現在のところ壕が確認されていない。これらの部分でも今後、壕が確認される可能性があるが、東側では道路建設で破壊されたり、終戦を迎え計画された壕の建設が中断された可能性もある。
【坑道Ⅰ群(D)】4壕の中で最も西にある壕で、主坑道は北之平の丘の頂部を南南西方向に貫通している。主坑道の高さは2㍍以上、幅は1~2㍍程と大人でもゆっくり歩ける規模で、北東斜面側入口から南西斜面口まで真っ直ぐ72㍍延びる。北東側入口から直ぐの所に東北東向き坑道が分岐する点①がある。入口から23㍍地点に西南西向きに短い坑道(部屋空間)が分岐する点②、31㍍地点に東向きに短い坑道(部屋空間)が分岐する点③がある。主坑道は③付近までは水平だが、③から先は上りになり、途中には円形に形作られた窪みに水が溜まった場所がある。主坑道の南西側入口の前面は土塁状の中にあり外部から確認することは難しい。入口は竪穴状で、石で階段を作っていたか、石積みで封鎖されていた(現況はそれが崩れている)可能性がある。分岐点①から延びた東北東向き坑道は、10㍍ほど進んだところで土砂で埋められている。
地下壕Ⅰは他の3壕にはない特徴がある。北東側入口付近や地下壕内部の部屋空間への入口の壁の片側のみ2本並行に掘られた溝の跡が確認できる。溝の高さは下から70~80㌢、溝と溝の間は50㌢ほど、溝そのものの幅は15㌢ほどである。また通路足元には丸太のようなものを差していたような穴があるが、その穴は通路の左右対称には掘られていない。特に急傾斜となった通路部分に多く確認できたので手すりを設置していた可能性もある。また地下壕Dには直径2㌢ほどの丸い穴が横壁の床から160㌢付近に確認できたが、間隔は不規則で高さもまちまちであり、この穴も通路の左右対称には掘られていない。地下壕Ⅰにいくつあるかは数えていないが、同じような穴は地下壕Ⅲに2つだけあった。地下壕Ⅲの穴の高さは床から80㌢ほどでしゃがんだときの目の高さにある。
【坑道Ⅱ群(A)】東北側入口から南南西に伸びた主坑道は高さ130㌢程、幅1㍍程、32㍍進んで行き止まりとなっている(掘削途中で中断した印象がある)。入口前は塹壕状で外側から坑道内部は見えない。主坑道入口から17㍍地点に西向き坑道が分岐する点①があり、西向き坑道は床が階段状になって上昇し、先端は大石により閉じられている。また分岐点①1の直ぐ南に東向き坑道が分岐する点②があるが、東向き坑道は直ぐ行き止まりになっている(掘削中断か)。
【坑道Ⅲ群(B)】北東斜面に入口が東西2カ所あり、主坑道の入口は東入口である。同入口は前面が塹壕状で外側から坑道内部は見えない。主坑道は東入口から南南西に延び、高さは170㌢ほどで幅は1㍍ほど、24㍍進んだ所で行き止まりとなっている。入口から直ぐの所に北西向き坑道が分岐する点①がある。西入口は石の隙間から潜入する形で、一見入口には見えない。西入口から南南西に延びる坑道を9㍍ほど進むと、①から分岐した北西向き坑道に突き当たる(分岐点②)。北西向き坑道の①-②間の距離は約22㍍。②から先の北西向き坑道は7~8㍍先で土砂が積もって行き止まりになっている。
【坑道Ⅳ群(C)】4壕の中で最も東に位置し、北之平の丘の頂部を貫通して北東、南西両斜面に5カ所の入口がある。坑道の高さは180㌢ほど、幅は1~3㍍と場所によって差がある。主坑道は北東斜面西口から南南東に約62㍍直進して南西斜面中央口に達しており、北東斜面西入口の前面は塹壕状のため外から坑道内は見えない。そこから主坑道を少し行った所に東向き坑道の分岐点①があるが、①までの主坑道幅は3㍍程ある。北西(西)口から主坑道を38㍍進んだ分岐点②で東向き坑道が分岐する。②から主坑道を23㍍程進むと南西(中央)口に出るが、出口直前に西向き坑道が分岐する点③がある。南西(中央)口の前面両脇は盛土され外部から坑道内は見えない。
分岐点①から東向き坑道を進むと北東斜面東入口に至る。同口の前面は塹壕状で外側から坑道内は見えない。分岐点②から東向き坑道を進むと直ぐに分岐点④がある。④から右に延びる坑道は階段を上り、38㍍ほど先で穴から這い上がる感じで北東斜面東入口に到る。④から左に分かれた坑道は66㍍ほど進んだ所で、石積みで塞がれている。
御崎の防御施設の整備には生月島民が動員されたが、昭和20年7月31日には敵機の機銃掃射を受けて死者も出ている。
(3)戦後処理
壱岐要塞に属する諸砲台は、実戦で砲撃を行う事はないまま終戦を迎えている。『生月町沿革誌』によると、昭和20年(1945)10月3日に中尉に指揮されたアメリカ軍兵士10名が生月島を訪れているが、これは御崎砲台などの現地視察と破壊に向けた下見が任務だったと思われる。その後11月15日には通訳1名を伴ったアメリカ兵33名が再び来島し、御崎や長瀬に残っていた軍事施設を破壊する作業を行っている。アメリカ軍はLST(上陸戦専用の輸送船)に乗って壱部浦の沖に現れ、宮田の波止付近に水陸両用車に乗ったまま上陸した。波止の地面にはイナマキを敷いてアゴが干してあったが、水陸両用車はそれに気づかず踏みつぶして上陸している。彼らはまず里浜にあった生月町役場に行き、通訳を交えて打ち合わせをしたが、役場職員で従軍経験があった豊永政一氏と西澤辰治氏が案内役として軍事施設に同行している。御崎ではミンチマにあった砲台に爆薬を仕掛けて爆破し、大砲は破壊されたが、コンクリートの施設は殆ど壊れなかったという。
3.海軍長瀬崎防備衛所
防備衛所の主任務は敵の潜水艦を探知する事にあった。対馬海峡は日本と大陸間の兵員物資の補給路である上、日本海や東シナ海への進入路でもあり、敵潜水艦の活動が想定される海域だった。そのため海峡沿岸各所には多くの防備衛所が設けられ、生月島周辺では生月島の長瀬鼻の他、平戸島南端の高島、的山大島の大根坂、馬渡島などに置かれていた。壱部浦の山浦福義氏は昭和17年4月に海軍に志願後、佐世保の海軍機雷学校に入校し、潜水艦などを探知する水中測的兵(水測兵)としての訓練を受けているが、昭和19年1月に佐世保防備隊に配属後、暫く佐賀県馬渡島の防備衛所で勤務している。山浦氏によると、同地の水中聴音機は施設から海底の三方向に扇状に長く電線を伸ばしていて、線上を潜水艦が通過すると機器が反応して潜水艦の存在を察知し、別の線にも反応が出る事で、潜水艦の方向と速度を確認出来たという。
生月島の長瀬鼻に置かれた防備衛所の正式名称は「長瀬崎防備衛所」で、潜水艦を探知して佐世保に通報することを任務としていたが、地元の人は「長瀬の海軍さん」と呼んでいた。
昭和20年11月17日付「長瀬崎防備衛所」によると、同衛所の用地は12,000平方㍍で、施設には○聴音所(木造平屋180平方㍍)○発電機室(木造平屋20.5平方㍍)○油庫(木造平屋6平方㍍)○喞筒室(木造平屋16平方㍍)○兵舎(木造平屋300平方㍍)などがある。衛所に勤務されていた八木寅芳氏からの聞き取りによると、防備衛所は長瀬崎の丘の上にあり、見張り所、掩耐壕を兼ねた電信室、兵舎、機関場(発電機室)、砲座(山頂にあった)が草地に点在していて、武装は砲座に13㍉単装機銃が1挺、騎銃が5挺、大正時代の古い手榴弾が10個程度という貧弱なものだった。また終戦近くになると佐世保から槍先が送ってきたので、こっちで木を切って柄を付けたという。砲座は丘の頂上にあり、壕を掘った周囲に土手を作り、中にコンクリートで台座を設け、高角機銃を据え付けていた。普段兵員はここには居らず、偽装網などもかかっていなかった。この砲が発砲した事は無く、後述する空襲の際も応戦しなかった。
見張り所は周囲を土手に囲まれていた。一階が板張りの部屋になっていて、「水測兵器」という潜水艦のエンジン音を探知する機械が3台据えてあった。ここから眼下の海に鋼線が延び、海中を宇久島に向かって延びており、探知用のアンテナになっていた。水測兵が機械の前に座り、交代で一日中潜水艦の音を探っていた。一階には下士官の寝室が2つ作られていた。また中には上の見張り台に上る梯子があり、見張り台からは普段1名が監視していて、望遠鏡が備え付けられていた。
電信室は見張り所の東側近傍にあり、掩耐壕を兼ねており、屋根はコンクリートを厚さ25㌢程の蒲鉾形に作ったもので、入口は曲げてあって爆風を防ぐようになっていた。中は四畳半ほどの広さで、短波テーエム式の無線機が据えてあり、電信兵として八木氏が一人居て、畳が一畳敷かれ寝泊まりできるようになっていた。無線は日常連絡の他、水測装置で確認した潜水艦情報を佐世保の基地に知らせる役目があったが、発電器の燃料がなかったため専ら受信のみで、終戦近くには敵機が通過したことも連絡できなくなっていた。無線機のアンテナは二本の棒の間に50㍍程の電線を延ばしていた。
兵舎は見張り所から南側の斜面にあり、長方形の建物の中央が兵員の居住部分で、一方の端に指揮官(有村大尉)と2名の士官の部屋が、もう一方の端に台所や風呂があった。また中央に土足で歩く通路が貫通していた。兵員の居住空間は板張りで、ハンモックを吊って寝た。指揮官や士官の部屋には机とベッドがあった。兵舎の傍らには自給用の野菜畑があった。
発電器が据えられた小屋を「機関場」と言い、兵舎の東側にあり、片側が発電機が据わった部屋で、片側に兵隊2人が寝る程度の部屋があった。発電器は見張り所、電信室、兵舎などに電気を送っていたが、燃料が少ないため使用は限られていた。
地元の聞き取りによると、防備衛所を作る際には、地元の人も作業の手伝いに行ったとされ、5年生以上の小学生達も磯の石を運び上げて手伝ったという。舘浦から長瀬に行く道は牛が通れる位の踏み分け道だったが、基地の兵隊さんが毎日行き来するのではっきりと道になっていた。基地の入口には板塀があり、入口には難しい漢字と最後の方に「立ち入りを禁ず」という言葉があったようだという。
兵員については「長瀬崎海軍防備衛所将兵名」によると、衛所長である有村金蔵大尉の他、2名の少尉、兵曹長1名、上曹5名、二機曹1名、水兵長3名、機兵長1名、上水5名、上飛1名、一水8名、一機1名の計29名で構成されていたが、八木氏の話では、有村金蔵大尉は年輩の方で、長瀬にいるとき還暦祝いをした覚えがあるという。兵員には30代の応召者や20歳前後の者もいる他、老齢者や15~6歳の志願兵も多くいたという。また佐世保防備隊から人員が来ていたが、半年かそこら居て南方の前線に行く人が多かったという。子供の頃、山田から衛所によく遊びに行っていた牧山さんの話では、兵隊達が武器を持っている姿は見なかったといい、兵隊達は買い出しに出ている人は除いて交代で見張りをしていたが、非番の人は洗濯や畑仕事をしていたという。水は、南側の海岸際の平坦地に井戸があり、そこからパイプが延びて汲み上げていた。薪は近傍の林で枯れ枝を採集した。米は佐世保の基地から船で運んできて、長瀬鼻の下に船を付けて揚げた。その際には糖分の補給になる朝鮮飴もよく一緒に届いた。その他の食料は毎朝舘浦に出かけて調達した。下士官と兵が一人づつ、歩いて山を越えて舘浦に行ったが、行きは手ぶらなので15分ほどで駆けていった。舘浦に降りる手前で牧山さんの実家に寄って、母親に修理する作業服を預けていった。牧山さんの母のキクノさんは、長瀬の海軍さんの服の修理を無償で引き受けていた。防備衛所は舘浦の石橋さんに魚その他の調達を頼んでいた(御用商人)」。かし網で取れた魚などを石橋さんに調達して貰い、豆腐や野菜などもお願いする事もあった。衛所への帰りは魚などを入れたテボを天秤棒で担いで帰るので1時間程かかったが、途中で牧山さんの家に寄り、キクノさんが繕った作業服を持ち帰ったという。また闇で取れた魚介類などを売りに来る人も居て、それを買って帰ることもあったという。八木氏の話では、防備衛所の勤務は食うに困らなかったので有り難かったという。炊事は当初当番制だったが、後には根獅子の松口さんという老齢の応召兵が受け持った。生まれてこの方根獅子を離れたことがなかった人で、見張りに立たせてもいつも根獅子の方ばかり望遠鏡で覗いていて見張りにならなかったからだという。
4.防空監視所
太平洋戦争が始まった昭和16年、番岳の北隣りに敵機を警戒するための防空監視哨が置かれている。豊永政一氏の話では、地元の21名が三交代で監視任務に就き、直径・深さ共に3㍍程の穴の中に入って敵機の近づく音を確認していた。敵機が来ると電話で平戸警察所に知らせ、地元では半鐘を鳴らして警戒する事になっていたという。この施設は、中国大陸方面から飛来する敵機を警戒するために設けられたと思われる。
5.飛行機の不時着と空襲
(1)飛行機の不時着
昭和19年(1944)4月6日、当時朝鮮半島にあった鎮海航空隊所属の二人乗りの軍用機が、舘浦の潮見崎の鉄塔に引っかかって墜落し、乗員2名が死亡している。
昭和20年(1945)6月8日、艦上戦闘機が黒瀬に墜落して炎上し、パイロットも死亡している。現場では機銃弾が暴発していて、救助に向かった人も近寄れなかったという。
森佐平氏の話では、終戦近くにも水上機が不時着水したが、この時は一週間ほどで修理を終えて飛び立っていったという。
(2)昭和20年7月31日の空襲
聞き取りによると7月31日の朝、生月島上空を米軍の小型双発機の大編隊が通過したが、その編隊が攻撃を終えて帰る際、数機が急降下して機銃を掃射し、爆弾を落としたとされる。永益宗孝氏の御教示によると、昭和20年7月31日、九州南部上陸作戦の準備攻撃として本州と九州間の交通を遮断するため、関門鉄道トンネルの爆撃命令が出されている。(『米軍の写真偵察と日本空襲』)。この空襲では下関側のトンネル入口と橋梁を破壊するため、第7航空軍の2群団と第5航空群の1群団所属のB24重爆撃機が沖縄の飛行場を発進したが、下関上空の天候不良のため投弾できず帰投している。しかし爆撃機の護衛と関門地区の高射砲陣地の急降下爆撃を任務として発進したP51ムスタング戦闘機は各個攻撃を指示されており、生月島の空襲はこの攻撃の一環だった可能性がある(但しP51は単発戦闘機のため、聞き取りの双発の証言とは食い違う)。永益氏が確認した第35戦闘機群団所属第39戦闘機戦隊のレポートによると、同戦隊の所属機は平戸付近で爆撃や機銃掃射を行っているとある。ちなみに平戸瀬戸や田平では7月27日に銃爆撃が行われた記録があるが、31日の記録は無い。
爆弾は壱部の村川末義氏の家に落ち、戸外で竹仕事をしていた末義氏と、家内で寝ていた末義氏の母親のなつさん、水汲みの手伝いをしていた末義氏の娘の博子さん(7歳)の3人が一瞬にして命を落としている。当時生月国民小学校で義勇隊の訓練を指導していた大岡留一氏はいち早く現場にかけつけたが、末義氏は鎌を握ったまま亡くなっていたという。なお村川家にはかくれ信仰の聖母子のお掛け絵が祀られていたが、末義氏の死亡でお掛け絵に関する由緒が途絶えた可能性がある。また同日、御崎で壕を造る仕事をしていた田崎ナカさんも機銃掃射で命を落としており、壱部の空襲と同じ攻撃によるものと思われる。
(3)昭和20年8月13日の空襲
長瀬崎防備衛所にいた八木氏の話では、昭和20年8月12日には敵艦載機などの空襲が各地で激しくなってきたので、長瀬崎の衛所でも施設を木の枝などで偽装した方が良いと言うことになり、周辺の林で木を切って、砲座や見張り所をはじめ建物の上に乗せて隠していた。これが悪かったのではないかと思うのは、それまでは草地に点在する民家のように見えていたのが、なまじ隠したため軍事施設だと分かってしまった可能性があるという。
7月13日朝方には、北に向かって敵機の編隊が飛んでいくのを確認していた。そして11時頃には編隊が今度は南に向かって帰っていくのが見えたが、そのうちの一機が突然御崎の方(北)から機銃を撃ちながら急降下して突っ込んできた。飛行機は戦闘機で、鼻面が尖った単発機で「ベル」と呼ばれる種類だった(注:ベルという名称からはP-39「エアロコブラ」戦闘機が想定されるが、当機の活動は戦争前半期が中心で、恐らくは当時沖縄に配備され本土にも飛来してきていたP-51「ムスタング」戦闘機と思われる)。それで慌てて見張り所から出て待避壕(電信室)に入ろうとしたが、敵機のスピードがあまりにも速く、見張り台に居た者は、座って梯子に足を掛けた状態の時に敵機が来て、他の者も見張り所を出ることは出来なかった。ただ一人、見張り所を出て待避壕に向かった正崎上等水兵(以下「上水」と略す)も、途中で敵機が来たため、草原に突っ伏した。敵機は何度か反転して機銃を撃ってきたが、有村大尉は、反撃をすることで余計に攻撃される事を考え、砲座の機銃の応射を禁じている。
敵機が去ると皆立ち上がったが、正崎上水は突っ伏したまま動かなかった。外傷は見えなかったが、抱き起こすと口から血がどっと出た。よく見ると口の所と背中に傷があった。その状況から、顔を上げたところで弾丸が当たり、体内を縦貫して背中から出たと思われた。医者を呼びに舘浦に使いが出ている。
牧山さんの話では、8月13日の11時頃、舘浦では空襲警報が解除され、住民達は防空壕から出てきた。牧山さんも家に帰りかけたが、金比羅山の方向からタンタンタンという音が聞こえてきて「長瀬が空襲を受けている」と思い、防空頭巾を被ってそっちの方向に歩き始めた。しかし山田小学校の現在の正門あたりまで来たところで、長瀬から来た兵隊さんに会った。兵隊さんは「不発弾などもあって危ないから行くな」と言って制止した。兵隊さんは牧山さんの家まで行き、母親に「どこかに外科医の方は居ませんか」と尋ねた。当時舘浦には渡瀬さんという年寄りの内科医しかいなかったが、そこには田中先生という若い先生も勤務していた。それで兵隊さんは田中先生を連れて長瀬に戻った。そうして夕方になる頃、再び兵隊さんが家にやってきて「お花と団子を作ってくれませんか」と言った。これを聞いて母親が「誰が亡くなったのですか」と聞くと、「正崎さんです」と答えた。正崎さんは22歳位の人で信号兵をされていて、山田小学校に手旗信号を教えに来た事もあった。
牧山さんが聞いた話では、前日に五島の方で、日本の艦船を攻撃中だったアメリカ軍機が高角砲で撃墜されたそうで、その仕返しに襲ってきたのだという噂が立ったという。