長崎県平戸市生月町博物館「島の館」

生月学講座No239:壱岐要塞の一部だった生月島(1)

   第二次大戦中、生月島北部の御崎地区に陸軍の砲台が存在した事は以前も紹介しましたが、この砲台を含めた生月島の戦争遺構については近年、田中まきこさんが主催する生月探索隊の方々が詳しく調査されていて、新たな遺構も確認されるなど大きな成果をあげています。今回はそうした調査で得られた知見なども参考にしながら、御崎地区の戦争遺構について紹介したいと思います。

   砲台を中心とした御崎地区の戦争遺構は、日本陸軍の「壱岐要塞」という部隊に属した施設の遺構です。大正時代、日本が進出を続ける大陸と日本の間の連絡路である朝鮮海峡を防衛するために、大口径のカノン砲で海峡を制圧する構想が具体化され、海峡南側の壱岐水道を制圧するため、的山大島(30㌢砲2門からなる1基)と壱岐(40㌢砲2門からなる1基)に廃止する戦艦から取り外した砲が砲塔ごと設置されています。大正15年(1926)にはそれらの砲台を指揮する壱岐要塞という部隊編成が設けられ、要塞司令部が開設されます。当初の大口径カノン砲台は敵の戦艦や巡洋艦と交戦する事を目的としていましたが、昭和8年(1933)「要塞整理要領」の制定の前後で要塞の目的が変化し、当時仮想敵国だったソビエト連邦(現在のロシアなと)の潜水艦が日本海を抜けて朝鮮海峡や太平洋なとで活動するのを阻止するため、口径は小さいが短い間隔で射撃できる15㌢カノン砲を配備する事となり、その場所の一つになったのが御崎のミンチマにある西海岸に面した丘でした。「生月砲台」と呼ばれたこの砲台は昭和12年(1937)7月6日に工事が始まり、昭和13年(1938)12月12日に竣工し、96式15㌢カノン砲という当時最新式の砲が2門配置されています。同砲は大島砲台の砲(艦砲)と異なり、陸軍部隊が広い土地で敵の部隊と交戦する野戦の際、戦線後方から砲撃して歩兵の攻撃を援護したり敵の砲を撃破するのに用いる野戦重砲でした。そのため当初は丘の上に広い平坦地を造成して砲を配置していました。また砲の南東にはコンクリート製の観測所が造られ、砲撃の際はここから砲の照準を指示したり着弾を観測しました。しかし第二次大戦の末期になると、日本本土にもアメリカの飛行機が来襲するようになり、空襲で丘の上に露天配置した砲が破壊される危険が出てきました。そのため昭和20年(1945)には、丘の北側斜面に穹窖(坑道を掘って砲を収容し、入口には砲身を突き出す小さな穴を付けた厚いコンクリートの防壁を設けた施設)を2カ所設けて砲を収容しています。穹窖内の砲は爆撃の被害を受けにくくはなりましたが、射撃できるのは穹窖前の斜面を末広がりに切り開いた範囲(45度程度)に制限されました。しかしそうして守った砲も実際の戦いに使われる事はないまま昭和20年8月15日の終戦を迎え、翌年島に来たアメリカ軍によって破壊処分されています。

 ミンチマの丘の上には、当初砲を配置した平坦地や観測所の建物が残り、北側斜面には2カ所の穹窖跡が残る他、丘の周囲には砲台に関連する兵舎や発電所などの施設の跡が残っています。また島の北端にあるタカリと呼ばれる丘の頂上には、ミンチマの砲が砲撃する対象を夜間照らし出すための探照灯が配備されていました。ここには探照灯を格納するコンクリート製の施設が灯台の基部に残る他、探照灯を引き出す際のコンクリートの通路も確認できます。




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