長崎県平戸市生月町博物館「島の館」

生月学講座No240:壱岐要塞の一部だった生月島(2)

   生月島北部・御崎地区に存在する壱岐要塞の施設はミンチマの生月砲台だけではありません。北端のたかりの丘の北側斜面には穹窖(坑道を掘って砲を収容し、入口には砲身を突き出す小さな穴を付けた厚いコンクリートの防壁を設けた施設)が二カ所設けられていて、一カ所は戦後に埋められましたが、一カ所は現在も残っています。この穹窖には昭和20年(1945)に海軍から提供された14㌢カノン砲2門が配備されています。同砲は大正時代に建造された戦艦の副砲や軽巡洋艦の主砲として搭載された50口径三年式14センチ砲ですが、平射砲という仰角が小さい対艦専用砲でした。

 本土決戦が現実を帯びてきた昭和20年になると、壱岐要塞も、壱岐水道を通過する軍艦を攻撃する「点」の存在から、砲台がある地区を「面」として防衛する構想に変化しています。「壱岐要塞司令部の沿革」によると、昭和20年(1945)6月以降、壱岐要塞の各砲台地区には要塞歩兵中隊が配備されています。これは各砲台がアメリカ軍の地上部隊の攻撃にさらされる事を想定した配備ですが、それは太平洋戦域で日本軍が敗退し、日本本土へのアメリカ軍の上陸が現実的な脅威となってきたからでした。

 御崎地区には古老の聞き取りから1~2個中隊(300人)程度が配備された事が確認できますが、この部隊の兵員は配備後直ちに、御崎地区の施設を守るための陣地作りに着手しています。島民もその作業に動員された事を古老の方のお話で伺っていましたが、なかには「御崎の地下にトンネルを掘った」という話がありました。伺った当時は防空壕の事だろうと思っていましたが、近年、田中まきこさんを代表とする生月探索隊の皆さんの調査によって、御崎地区内には複数の坑道(トンネル)が存在する事が分かってきました。

  御崎浦の北側にある字北ノ平の丘(標高約100㍍)では、東西に伸びる頂上尾根を跨ぐように南北に伸びた4本の坑道(トンネル)が確認され、そのうち2本は南北方向に貫通していて、両側に出入口がありました。またこれらの坑道は中で分岐していて、その先には未完成のものも含め複数の出入口が存在していました。これらの坑道の用途については、聞き取りで北ノ平に兵舎が設けられていた事が確認できる事から、兵員が直ちに逃げ込む事ができる待避壕や、戦闘開始時に戦闘を指揮する司令所だった可能性もありますが、主な用途は、陸上を進出する敵を阻止するための坑道陣地だと思われます。

 御崎地区は海に面した北・西・東三方は断崖や急斜面になっているため、陸続きの南側に防御陣地を設ければ防衛する事が可能です。北ノ平の丘は生月島の中で東西の間隔が最も狭い御崎浦~オロンクチ間の谷の北側にあるため、ここに陣地を設ければ生月島の南部に上陸した陸上部隊が御崎に侵攻するのを阻止できました。陣地はかつては地表に塹壕という溝を掘って作られていましたが、砲爆撃の影響を完全には避けられませんでした。坑道陣地では、敵に面した出入口から機関銃や小銃で射撃して敵の前進を阻止し、砲爆撃は坑道内でやり過ごす事ができました。こうした坑道陣地を用いた防衛戦は、昭和17年後半から太平洋戦域で相次いだ、無謀な突撃による兵力の無駄な消耗を避けるため採られるようになった戦法で、ペリリュー島、硫黄島、沖縄の戦いで威力を発揮しています。御崎地区でも、同じ様に坑道を用いた防衛戦が計画されていた可能性があるのです。

 




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