長崎県平戸市生月町博物館「島の館」

生月学講座No242:ジャンガラと須古踊り

生月学講座:ジャンガラと須古踊り

 

 コロナの影響が一段落した今年(2023年)の盆には、平戸市内の盆行事の多くが復活しましたが、なかには廃止(度島の盆ごうれい)や中止(津吉のジャンガラ)された行事や、短縮(大島的山の須古踊りが15日のみ)された行事もありました。変化の直接の原因はコロナウイルスによる行事の中断にあるのですが、以前から人口減少など様々な変化が近年地域で進んでいて、コロナの中断はきっかけに過ぎないとも言えます。

 今年は私(中園)は平戸島の大志々伎と根獅子のジャンガラを、中村学芸員は大島の的山と(東)神浦の須古踊りを調査しましたが、他に元伊万里市歴民館長の荒谷さんが平戸島各地のジャンガラを調査されています。彼は北部九州から山口にかけての民俗芸能行事を数多く調査されていて、今年、平戸市内で開かれる須古踊りフォーラム(10/11)や平戸市民大学の講演(12/9)は彼の最新の研究成果が聞ける良い機会ですが、その際の注目点に須古踊り・ジャンガラの成立時期の問題があります。

 以前私は本連載で、的山の本山神社に残る延享2年(1745)の文書に「的山踊始メ其後ニ神野浦(神浦)在浦おどり申候只今ニ至」という記述がある事から、須古踊りが遅くとも18世紀中頃には踊られていた事が確認でき、須古踊りが旧籠手田・一部領に、ジャンガラがそれ以外に多く分布する事から、ジャンガラは16~17世紀初頭頃、キリシタン信仰が定着した地域以外に伝播し、須古踊りは禁教体制が定着した18世紀以降に伝播した可能性を指摘していました。しかし今回、荒谷さんも注目してきた平戸島南部の大志々伎のジャンガラ行事で、ジャンガラの踊り子が扇子などを持って須古踊りを踊る事や、踊りの際歌われる3曲のうちの1曲「めでたきごー」は、舘浦の須古踊りで歌われる「目出度き」と同じである事などを確認できました。

  志自岐神社の行事について記した寛文2年(1662)作成(嘉永3年・1850写本)『志自岐七社御祭禮帳』には、盆行事(宝楽)の記述があります。それによると(旧暦)7月14日には精進屋でジャンガラ(以下「ジ」)1庭・須古踊り1庭、狂言2段、鳥居前でジ2庭半・須古3庭・狂言(見合)、中休み後に須古1庭半・狂言(見合)・ジ1庭半、墓所でジ1庭、下向の際に鳥居前で須古1庭・杖狂言・ジ1庭が行われ、15日にはジャンガラだけが精進屋で15庭、墓所で1庭、西福寺で1庭、浦の木下の恵美須前で1庭、船付場で1庭、(小田の)八幡宮に向け神主屋敷から1庭、神光寺で1庭、庄屋宅で1庭行われ、16日には精進屋で須古15庭・杖狂言見合、西福寺に須古1庭、浦の木下の恵美須前で須古1庭、船着場で須古1庭・杖狂言見合、神主屋敷で須古1庭・杖1振り・狂言1段で神光寺と庄屋宅も同様とあり、全部が済んだ夕方に精進屋で行う「笠破り」で各芸能を1庭行ったとあります。この記述から当時はジャンガラと須古踊りが同時に行われ、14日にはジャンガラ・須古踊り・狂言が、15日はジャンガラのみ、16日には須古踊りと狂言・杖が行われていた事が分かります。また当時は大志々伎村以外に宮方村と志々伎浦が関与していたとあり、須古踊りと狂言はそれらの村が関与した可能性もありますが、今のようにジャンガラの踊り子が須古踊りも踊っていた可能性も否定できません。この記述内容の時期については、記述で宝暦期の状況も紹介されている事から、写しが作成された時期(嘉永3年頃)迄の状況と考えられますが、ジャンガラの地域にも須古踊りが存在する事実は、かつて二つの芸能が並存していた事を示しています。  (中園成生)




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