長崎県平戸市生月町博物館「島の館」

生月学講座:稲作の物語的解釈

 以前サナブリ(祝い)という田植え後の宴会を指す言葉から、「サ」とは稲の事を指す事についてお話ししました。今回はそこから拡大して、原始・古代から稲作が物語(神話)的にどのように理解されてきたのかについて考えてみたいと思います。

 サナブリとは田植え、つまりサ(稲)をなぶる行為だという事を説明しましたが、この表現の背景にはどのような認識が存在するのでしょうか。なぶられたサはその後、茎を太く、葉を増やしながらどんどん長くなり、やがて花をつけ、それが籾になります。受粉した籾の中には白い液が溜まっていき、やがてそれが固まって米になります。盆の時期に平戸島や的山大島で行われるジャンガラでは、鞨鼓という太鼓を腰に付け、花笠を被った男性の踊り子が、「ホーミーデ、ホーナーゴ」と歌いながら跳ねるように踊りますが、その歌詞は「穂実出」「穂長う」、すなわち稲の穂が出て、それが長くなって沢山籾を付ける事を願う歌詞となっています。ジャンガラの起源の一つは田楽という稲作に伴う中世芸能なので、稲の穂が出てもっと長くなれと祈願しているのですが、かりにサ(稲)が男性(男性器)に類観されていたと考えると、サをナブルと表現したり、長くなれと祈願される事や、サをナブル者が乙女(サオトメ)である事も納得がいきます。カミナリが稲妻(稲と妻)と表されるのも、その激しさが性交を想像させ、稲が白い汁を出す契機になると考えられた事が想像されます。

 田平の里田原遺跡にある弥生時代の水田遺構からは、勃起した男性器を象った木根が出土しています。従来、漠然と豊饒の儀礼の痕跡と解釈されてきましたが、弥生時代からサを男性器と類観する意識があったとすれば、木根は、サが成長して男性器のように太く強くそそり立ち、白い液を沢山作って貯めるように祈願して立てた事が考えられます。

 古代において稲作は女性が主に担っていたとされる背景には、サを受け入れてなぶり、白い液を出させ、米に育むのは女の役割と認識されていた事があると思われます。『万葉集』の時代にも、実態としては男性が稲作労働を担っていたと思われますが、歌の世界での決まり事として、稲作に関わるのは女だという認識があった事が考えられます。

  このような意識に立つと、サを植える田の捉え方も自ずと定まります。田はサを受けて米を生み出す子宮(女性)に他ならず、サナブリとはサと田のまぐわいという事になり、将来の出産を期して祝う出来事にもなります。田の水口をミトと呼ぶのは、『古事記』にイザナミ・イザナギの性交を「美戸乃万久安比(みとのまぐわい)」を記している事を考えると、子宮の入口である女性器(ミホト)を意識して名付けられたと考えられます(三浦佑之『古代研究』)。

  稲の豊穣を祈願する神を措定する場合、サ(稲)から類観すると男神となり、田やサオトメから類観すると女神となり、生み出すという点に注目すると男女神になりますが、そうした認識が個々の稲作儀礼や田の神信仰に反映された事が考えられます。例えば能登のアエノコト神事は農閑期に家を田(女)に置き換え、そこにサ(稲=男)を迎える形で稲作を象徴的に再現する(男女の交わり)儀礼である事が考えられ、大嘗祭は、天皇がサ(稲=男)を象徴的に体現する存在となって行われる行事である事が考えられるのです。

                                 (中園成生)




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