長崎県平戸市生月町博物館「島の館」

生月学講座:大村の尾羽毛細工

 

  今年(令和5年)10月21日、大村市で近世大村藩領の漁業についてお話しする機会があり、その際に大村市の学芸員・山下和秀さんから、明治から大正時代にかけて大村の町では鯨の尾鰭の部分の身である尾羽毛(オバケ)を加工した尾羽毛細工が作られ、特産品となっていた事を伺いました。

 『鯨肉調味方』によると、尾羽毛の表面には黒皮が付き、その内側に白皮が付いているが、こうした皮の部分を塩漬けにしたものを薄く切ったり糸造りにして、湯がいて水で洗ったものを、吸物に入れたり、ぬたで食べる刺身にして食べたそうです。また、塩漬けの尾羽毛を半日ほど水煮して柔らかくしてから水洗いしたものを酒で煮染めて、砂糖や葛餡をかけて食べるのが美味だとしています。

 大村市の川内彩歌さんが書かれた企画展『西海の恵み』図録の文章によると、内国勧業博覧会の第4回(明治28年・1895)で大村の永田富太郎が「尾羽毛鯨」で受賞、水産博覧会の第2回(明治30年・1897)で大村町のゑびす社が「細工鯨尾羽毛」で受賞、また内国勧業博覧会の第5回(明治36年・1903)で「細工尾羽毛」で受賞した岸添熊蔵(平戸村在住)や「尾羽毛瓶詰」で受賞した山口竹三(長崎市在住)も大村に居を移しています(山下和秀氏の指摘による)。これらの事から明治後期には大村の尾羽毛加工品が外向けの特産品となっていた事が分かりますが、それ以前から尾羽毛が大村の周辺で食べられていた事が推測されます。

 以前この連載で、大村湾沿岸の彼杵が鯨肉の集散地だった事を紹介しました。江戸時代から明治中期にかけて、大村湾は外海にある五島、五島灘、平戸諸島、壱岐などの捕鯨漁場から船で鯨肉を運搬する航路として利用され、湾口の早岐、湾北東岸の彼杵の他、湾南東岸で諫早領(佐賀藩支藩)にある津水などが鯨の集散地となっていた事が確認できます。そして大村湾東岸にあり大村藩の城下町で多くの住民を有した大村も、鯨肉の集散地だった事が、尾羽毛加工品の存在から推測できるのです。

 ただ明治30年頃になると、五島や生月島で鯨組が廃業したため、大村湾岸で従来の舟運による鯨肉の入手は困難になります。しかし明治31年(1898)に鉄道(現在の大村線)が開通した事で、近代捕鯨(ノルウェー式砲殺法)で捕獲されて下関や若松に陸揚げされた鯨肉が流通するようになり、彼杵も集散地としての機能を継続していきます。大村の尾羽毛細工も、明治36年の第5回内国勧業博覧会で受賞者を出している事から、原料の入手経路を鉄道を使った近代捕鯨業の鯨肉に切り替えた事が想定されます。

 それに加え、鉄道を製品の出荷にも利用するようになった事が考えられますが、それには遠方への流通でも鮮度が保てる容器の改良が必須です。『西海の恵み』によると、明治30年に開催された第2回水産博覧会や第9回九州沖縄八県連合共進会の頃は出品した製品の鮮度が保てず、数日毎に刻んだ鯨肉を取り換えていたそうですが、後には瓶詰や缶詰で販売するようになります。尾羽毛細工は明治30年代から大正時代にかけての旅行案内などに、大村の特産品・土産物として紹介される程になりますが、その後各地に尾羽毛の加工場ができたためか、昭和初期には衰退しています。(中園成生)




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