長崎県平戸市生月町博物館「島の館」

生月学講座:家船と海士

  今年(令和5年)の10月21日、大村市で近世大村藩領の漁業について講演をする機会があったので、大村藩領の漁業について『郷村記』の記述などを用いて調べてみましたが、その中で西彼杵半島沿岸では同半島西岸(外海)の北部にある瀬戸浦、嘉喜浦、崎戸浦を拠点とする家船(イエフネ・エブネ)が盛んに操業していた事を知りました。

 家船とは、家族が船を住まいとしながら漁などを行う形態を取る漁民の事です。大村藩に残る『家船由来書』によると、大村純伊が敵によって本拠地の大村を追われた際、家船衆が純伊を東松浦半島の沖の加唐島に逃がして事無きを得た事があり、家船衆はその功績によって大村藩内での漁の自由を許可されていました。この話から中世には家船衆が西海各地の海を広く移動して活動していた事が分かりますが、藩の領域が固定化した江戸時代には、基本的には藩の領域内で漁を行っていたようです。以前、外海中部の出津浜で聞き取り調査をした時、ここにも昭和25~6年まで外海南部の家船の根拠地・神の島(瀬戸の枝村)から家船が来て魚などを鉾で突き、漁獲を地元の人の薩摩芋や麦と交換していた事を伺いました。平戸藩領にも平戸島北部の幸ノ浦を拠点とする家船衆がいて、生月島の舘浦には昭和30年代頃まで寄港していたそうで、テンマのような小型の木造和船に夫婦と赤ん坊のような小さな子供が乗り、現在の漁港ビルの前や、比売神社の下にあった宮の下の船溜まりなどに2~3艘が停泊していたそうです。寝泊まりは船の前方の天幕を張った下でされていましたが、風呂は舘浦の知り合いの世話になっていて、戸田商店や農協のところの井戸で生活に必要な水を汲んでいたという事です。家船が舘浦に来るのは冬で、ナマコを船上から鉾で突いていて、家船のカアチャンは取れたナマコをオカで売って回っていたそうです。このように近現代の舘浦や外海では、家船衆は漁で取った魚介類を停泊地周辺の陸で農作物を交換したり売ったりして暮らしを立てていた事が分かりますが、江戸時代には家船衆は、ナマコやアワビを取る重要な漁民と認識されていました。当時、煎海鼠や干し鮑は、中国への輸出海産物「俵物」として盛んに輸出されていたからです。

 一方で大村藩領では「海士」「海女」など、陸上に家を持ち定着生活を営みながら潜水漁(スム)を行う漁民の集団は確認できません。平戸藩領には壱岐の小崎、生月島の壱部浦、小値賀島の笛吹などに定住した海士の集落があり、潜水漁(カツギ)でアワビを採取していました。このように平戸藩領には家船衆と海士という二パターンの潜水漁民が存在しましたが、海士の方は潜水漁のシーズン以外の冬から春にかけて、鯨組に雇われて、ハザシという鯨に手形切りを行ったりする重要かつ高収入になる仕事に就いていました。平戸藩領では壱岐の前目・勝本、的山大島の神浦、生月島の御崎、平戸島の前津吉、小値賀島の笛吹など各地で鯨組が操業していたため、海士の仕事先には事欠きませんでした。

 まだ仮説の段階ですが、平戸藩領では江戸時代前中期、各地の家船衆の多くが潜水漁とともに鯨組のハザシの仕事に継続的に従事するようになった事で、家を建てる経済力を得た上、仕事上も年中船住まいをしている必要が無くなったため定住するようになった事が考えられます。一方大村藩領では、鯨組の仕事のウエイトは平戸藩領ほど大きくならず、ナマコやアワビの捕獲や沿岸住民との漁獲の交換が生業の中でウエイトを占め続けたため、家船の形態に留まった事が考えられるのです。(中園成生)




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