生月学講座:14世紀末の危機(1)
- 2024/01/04 14:08
- カテゴリー:生月学講座
生月島は現在「危機」の時代にあると思います。平成初頭には9千人程度いた人口が、30年後の令和5年には約4千6百人と半分になってしまいました。大きな原因は漁業や港湾工事業の不振などの経済の悪化で、それに起因する人口減少で人材不足や消費経済の縮小が起きています。生月島は以前にも何度が危機の時代がありました。明治の終わりには約二百年間基幹産業だった古式捕鯨業が不振に陥いる経済危機がありましたが、鰯和船巾着網の導入で回復を遂げました。また江戸時代初頭にはキリシタン禁教による社会不安が起きますが、島民は仏教や神道を並存させながらキリシタン信仰を継続するかくれキリシタン化を図る事で、徳川幕府の政策との共存に成功しました。さらに近年の研究で、生月島では14~15世紀にも危機の時代があった可能性が見えてきました。
生月島を含む平戸島周辺は9世紀以降、日本の博多と中国の寧波(にんぽう)という港を結ぶ航路「大洋路」の中継地としての役割を果たしています。承和6年(839)に最後の遣唐使が生属(月)島に帰朝して後、日中間の交易の主体は中国商人の船(ジャンク)に移行しますが、ジャンク商船は毎年、数隻から十数隻往来したので、貿易や交流は遣唐使時代よりも拡大しています。大洋路の活性化に伴って、九州西岸沿岸を結ぶ準構造船の航路(九州西岸航路)も活性化したと考えられますが、この二つの航路が交わる場所が平戸でした。平戸島周辺では平戸、薄香湾、的山湾、宮ノ浦湾などが大洋路のジャンクの寄港地でしたが、生月島も寄港地だった可能性があります。島の南端にあるトボスという地名は「唐坊州」つまり中国人の居住地を示す「唐坊」に由来する可能性があり、辰ノ瀬戸に面した潮見神社には七郎権現が祭られていますが、七郎神は中世中国で信仰された航海神「招宝七郎」に起源がある事や、辰ノ瀬戸と向かい合った場所に特徴的な山容を見せている安満岳に、日宋貿易が盛んな12世紀頃に寺院が建立され、山頂には寧波付近で採れる梅園石で作られた石塔(薩摩塔)が奉納されている事などもその根拠です。航路筋の辰ノ瀬戸に面し清水補給が可能な舘浦が寄港地として利用され、それに関連して中国人居留地や信仰施設があった事が考えられるのですが、壱部浦も寄港地だった可能性があります。壱部番岳山頂に保延2年(1136)の銘がある経筒が埋納されていますが、港が見通せる壱部番岳山頂に航海守護の目的で経塚を造った可能性があります。
しかし1368年に中国で建国した明は、建国から1404年にかけて5度にわたって出した海禁令で民間貿易を全面禁止し、国の公式使節のみに往来を許し、その際に貿易を行う朝貢(勘合)貿易体制に移行させます。この形態では十年以上間隔を開けた往来になるので、貿易量は大きく落ち込み、使節船の寄港地も平戸や的山などに限られる事になります。その一方で明は、同時期に国家が成立してきた琉球に毎年朝貢を許可し、いわば朝貢システムの「抜け道」として必要な輸入品を入手できるようにします。琉球経由の輸出入品の一部は九州西岸航路を経由して日本本土とやりとりしているので、同航路の中継地でもあった平戸はやはり貿易利潤を保持しますが、大洋路側の多くの寄港地は衰退を余儀なくされます。そのためこれらの寄港地を領した宇久島、平戸中南部、生月島の勢力が、勘合貿易体制移行後も繁栄を維持した平戸の制圧を期して起こしたのが、永享6年(1434)の永享合戦だったと考えられるのです。 (中園成生)