長崎県平戸市生月町博物館「島の館」

生月学講座:大バエの探照灯

 (令和6年)3月3日には、生月地区まちづくり運営協議会が御崎地区のまち歩きを行う予定です。今回はテーマを戦争遺構巡りとし、近年平戸市内の戦争遺構を熱心に調査されている田中まきこさんに御案内いただく予定で、ミンチマの陸軍砲台と北ノ平の地下壕陣地を回り、最後に大バエ鼻の海軍砲台と探照灯遺構を見学します。

 このうち探照灯遺構で残っているのは、現在、大バエの灯台の土台部分になっているコンクリートの部屋状の構造物です。南側に大きな扉(入口)があり内部が部屋になっていますが、そこが探照灯の格納庫でした。また入口の前から灯台西側にかけてはコンクリート敷きの道がめぐっていますが、この道は車輪が付いた探照灯を移動させるための通路で、北側の海が見通せる平地に探照灯を据えて、海上を照らすようになっていました。

 この灯台下の構造物は、これまで大バエ鼻の北斜面にあった平射砲台や、大バエ鼻上にあったとされる対空機銃などの弾薬庫だとされ、灯台を管理する海上保安庁が設置した看板には「灯台はそのときの弾薬庫を使用し・」と記されています。そのため令和6年2月2日付け西日本新聞の大バエ灯台を紹介した記事にも、「灯台は、旧日本陸軍要塞の弾薬庫を土台に建造された」と書かれていました。しかし「生月砲台建設要領書」という史料には「電燈所ハ砲台東北側高地ニ設ク」とあり、ミンチマに置かれた生月砲台から大バエ鼻は北東にあたる上、周囲の海面を広く照射できる地形の利を供えている他、筑前大島に設置された陸軍砲台に付属する探照灯格納庫の構造物が大バエ鼻にある構造物と全く同じ形態をしている事などから、弾薬庫説は誤りである事は明らかです。

 探照灯は、2本の炭素棒を電極にして通電し、発生した炭素蒸気が白熱して生じた強い光を反射鏡で集めて照射する事で、夜間に対象を目視できるようにする照明装置です。アーク灯の原理は1808年に発明され、アーク灯を用いた探照灯の軍事目的の利用は19世紀後半に始まっており、戦争では、①陸の戦場を照らし、攻撃する敵の陣地や部隊を見えるようにする。②海上の敵の軍艦を照射して確認し、味方の軍艦や陸上砲台の砲などで攻撃する。③上空に飛来した敵の航空機を照射し、高射砲・機銃や戦闘機で攻撃する。などの目的に用いられていますが、強力な光で敵の目を眩ませ、戦闘能力を低下させる事も行われました。①の例では1945年4月にソ連軍がベルリンを攻撃する最終戦を行った際に大量の探照灯を前線に投入しており、②の例では1904年に旅順要塞に籠もるロシア軍が軍港に接近する日本艦隊の夜間接近を監視するために港口に探照灯を配置しており、③の例では第二次大戦期に敵の空襲を受けたイギリス、ドイツ、日本などで、軍施設や工業地帯、都市を防衛するために多数の探照灯(日本では対空用は「照空灯」と呼ばれた)が配備されています。大バエ鼻の探照灯の用途は②の対艦用で、ミンチマの生月砲台にあった2門の九六式十五㌢カノン砲と連動して夜間、生月近海に来襲した敵の艦艇を探照灯で照射し、目視可能となった艦艇を砲撃で撃破する事が想定されていました。

 『壱岐要塞築城史』によると、大バエ鼻の探照灯施設は「生月電燈所」と呼ばれ、アーク灯と反射鏡を収めた円筒の直径が150㌢ある探照灯が一基配置されていました。なお探照灯の発光には電気が必要で、発電機を設置した発電施設が付近にあったと思われますが、大バエ鼻の南側斜面にあったと推定されています。 (中園成生)




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