長崎県平戸市生月町博物館「島の館」

生月学講座:堺目かくれ信仰組織の解散

(令和6年)3月31日、生月島堺目集落のかくれキリシタンの津元に相当する組が、最後の行事を行い解散しました。行事は、かくれキリシタンの聖地である焼山に隣接して建てられている御堂で行われ、男性の信者が六巻の形でオラショを唱えた後、酒と肴(蒲鉾とゆがき烏賊)、弁当をいただき、その後お札引きを行ってから、組の参加者9名と、以前かくれ信仰組織の調査をされていた星野さん達も入って記念撮影をして行事を終わりました。今後、信仰具は島の館に寄贈され、老朽化した御堂は解体される予定です。

  堺目集落のかくれキリシタンには元々、上宿、中宿、下宿の3つの津元(組)が存在し、それぞれにオトッツァマ(御番主)が居て、組の御神体である御前様は家の納戸に祀られていました。津元の行事の時には津元に所属する小組の役中がオトッツァマの家に集まって行事を執り行いました。古野清人氏の「生月のキリシタン部落」によると、昭和30年頃には上宿に35軒、中宿32軒、下宿45軒が属していました。

  しかし既に昭和18年頃には上宿が焼山の中に御堂を建てて御前様を祀り、行事を行うようになっていました。さらに昭和50年代に信者の中から3組の神様を合祀して焼山に祀る話が出、信者の合意により昭和58年(1983)に現在の御堂が建てられ、そこで3組合同で行事を行い、下宿のオトッツァマの鳥山さんが合同の親父役を務めるようになりました。平成7年(1995)には3組の枠組を上下2組(計22軒)に改め、それぞれから役中を2人出し、小組も廃止しておしかえ行事も御堂で行うようになっています。

  堺目のかくれキリシタン信仰の元となるキリシタン信仰は、籠手田領で一斉改宗が行われた永禄元年(1558)に普及しました。1561年にはアルメイダ修道士が籠手田領の中心地だった山田から一里離れた籠手田領の村を訪ね、教会を建て、平戸に停泊していたポルトガル船から供給された画像や掛布、装飾品で飾っていますが、この村が山田との距離から考えて堺目だと思われます。1566年9月15日付のフェルナンデス修道士の書簡には「我らの道中のことに話を戻せば、我らは生月から堺目と称するドン・アントニオ(籠手田安経)の土地に赴いたが、同じことを行なって二日間滞在したに過ぎなかった。我らはここから一部と称するドン・ジョアン(一部勘解由)の町に向かい、その地の重立った人々が司祭と同行した。ここに九日、乃至十日滞在して、悔悛や聖体について説教し、我らを追って来た生月や堺目のキリシタンも含めて告白を聴いた。」とあります。

  現代の生月島の津元・垣内の起源となる組はキリシタン信仰の信心会(コンフラリア)で、キリシタン領主の籠手田氏・一部氏が生月島を退去した慶長4年(1599)頃、破却される教会に代わって信仰を担うべく組織されたと推測されます。堺目の上宿、中宿、下宿もこうして出来た組ですが、3組でかつて祀っていた聖母子の聖画(上宿)、十字架(中宿)、無原罪の聖母のブラケット(下宿)は、1561年に完成した堺目教会の聖具が、1599年頃に起きた教会の破却の前に3組に分与された可能性があります。

 1558年に始まった堺目のキリシタン信仰は、禁教時代以降も神仏並存の構造の中でかくれキリシタン信仰として継続され、こんにちまで継承されてきたのですが、この春(2024年)466年の歴史を終える事になったのです。(中園成生)




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